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119話 橙真と咲の休日の開始

 翌日。


 俺――橙真はベッドからゆっくりと身体を起こした。


「……よし」


 昨日より、さらに身体が軽い。


 まだ完全に回復したわけじゃない。


 けれど、もう一日中ベッドの上で過ごす必要はなさそうだった。


 ベッドから足を下ろす。


 床に足が触れた。


「……久しぶりだな」


 たった数日しか経っていない。


 それなのに、自分の足で立つことが妙に懐かしく感じた。


 俺は壁に手をつきながら、ゆっくり立ち上がる。


 足元に、ほとんど不安はなかった。


 そのまま、花江さんが用意してくれた服へ着替える。


 鏡を見る。


 白い髪。

 灰色の模様。


 やっぱり、元には戻っていない。


「……まあ、仕方ないか」


 そう呟いて、鏡から目を逸らした。


 右耳には何も刺さっていない。


 少しだけ寂しいような気もする。


 けれど、今はそれを考えないことにした。


 扉を開け、廊下に出る。


 久しぶりに歩く廊下は、いつもと変わらない。


 それなのに、自分の身体が自由に動くことが少し嬉しかった。


 少し歩いたところで――。


「あ」


 見ると、蒼太が廊下の向こうから歩いてくる。


「橙真」

「蒼太」


 蒼太は俺の姿を見ると、少し驚いたように目を見開いた。


「もう出てきたのか?」

「まあ、昨日よりだいぶ楽になったから」

「そうか」


 蒼太は俺の身体を上から下まで確認する。


 そして、ニヤッと笑った。


「……やっぱり、行く気になったのか?」

「何が?」

「昨日の話だよ」

「ああ……」


 俺は少しだけ間を置いた。


「いや、そんなわけ……」

「じゃあ、行かないのか?」

「いや、行くけど」

「どっちだよ」


 蒼太が笑う。


「お前、昨日はずっと『二人で出かけろ』って言われて困ってただろ」

「……まあな」

「でも結局、行くのか」

「咲が行きたいって言ってたからな」

「へぇ?」


 蒼太が意味ありげな顔をする。


「なんだ、その顔」

「いや、別に?」

「絶対なんか考えてるだろ」

「いやいや、何も考えてないぜ」


 蒼太が笑いながら手を振った。


 そのとき、廊下の向こうから碧羽の声がした。


「蒼太、橙真をからかわないの」

「いや、別にからかってないって」

「いや、どう見てもからかってたよ」


 碧羽が苦笑する。


「おはよう、橙真」

「おはよう」

「身体は?」

「動くくらいなら大丈夫」

「それならよかった」


 碧羽が安心したように微笑む。


 すると、廊下の向こうから足音が近づいてきた。


「橙真先輩! もう出てきたんですか?」

「ああ」

「無理してませんよね?」

「してないって」


 咲は俺の顔をじっと確認する。


「本当ですか?」

「本当だって」

「……なら、よかったです」


 咲がほっとしたように笑った。


「今日、行けそうですね」

「ああ、うん」


 昨日の約束を思い出す。


「じゃあ、行こうか」

「はい!」

「それじゃあ、俺たちは特訓に戻るわ」


 蒼太がそう言って、碧羽を見る。


「うん」


 碧羽も頷いた。


「二人とも、楽しんできてね」

「ああ」

「はい!」


 俺と咲が答える。


「じゃあ、行ってこい」


 蒼太が手を上げる。


「無理はしないでね、橙真」


 碧羽が優しく笑った。


「分かってる」


 俺も笑って返す。


 二人はそのまま訓練室のほうへ歩いていった。


 俺たちは廊下を歩き始めた。


***


 医療室を出ると、いつもの廊下に見慣れた壁が並んでいる。


 何度も通った場所なのに、今日は少し違って見えた。


 エレベーターに乗る。


 扉が閉まり、ゆっくりと下へ降りていく。


「……なんか緊張するな」

「どうしてですか?」

「外に出るのが久しぶりだからかな……」

「そんなにですか?」

「うん」


 咲が小さく笑った。


「じゃあ、今日はいっぱい歩きましょう」

「いきなり厳しいな」

「大丈夫です。私がちゃんと見てますから」

「それなら安心だな」


 エレベーターが止まる。


 扉が開いた。


 防災対策課の入口が見える。


 職員たちが行き交っている。


 俺たちはそのまま入口へ向かった。


 俺と咲は、反対側の出口へ向かう。


 そして――。


 自動ドアが開く。


***


 外の空気が、頬を撫でた。


 少し冷たく感じた。


 でも、気持ちよかった。


「……外だ」


 思わず呟く。


 空が見える。


 道路を走る車。

 歩道を歩く人。


 遠くから聞こえる街の音。


 どれも、当たり前の景色だった。


 けれど、今の俺にはそれが新鮮に感じた。


 数日前まで、俺はこの街を怪物や天使から守るために走り回っていた。


 今はただ、咲と一緒に歩いている。


 それだけのことが、妙に嬉しかった。


「橙真先輩」


 隣から咲の声がする。


「ん?」

「嬉しそうですね」

「……そうかな」

「はい。わかりやすいですよ」

「そっか」

「はい」


 咲は笑っている。


「私も、ちょっと嬉しいです」

「なんで?」

「橙真先輩が、ちゃんと外に出られたからです」

「……そっか」


 俺も笑った。


「じゃあ、行こう」

「はい!」


 二人で歩き出す。


 防災対策課から離れていく。


 振り返ると、いつもなら戦いや結果報告のために出入りしていた建物が見えた。


 今日は違う。


 今日は――ただ遊びに行くだけの日だ。


「それで、どこに行くんだ?」

「着くまでは秘密です」

「まだ秘密なのか」

「はい」


 咲は楽しそうに笑った。


「でも、きっと気に入ってくれると思います」

「そこまで言われると気になるな」

「楽しみにしていてください」


 俺は空を見上げた。


 雲ひとつない。


 こんなに穏やかな空を見るのは、久しぶりだった。


 今日は何も起こらない。


 そんな気がしていた。


 俺たちは、街の中へ歩いていった。

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