第六十一作戦:来客者『伏見鳥太郎』
会議室に重苦しい沈黙が広がる中、それを破ったのはアンカーだった。
彼女は尻尾を器用に手で弄りながら、落ち着いた声で話し始めた。
「伏見鳥太郎…って、確か鳥子はんの一人息子やろ? あぁ、そういやそんな名前の男居ったなぁ……ただ、うちは一度も会ったことないんやけどな。」
言いながら、アンカーは周りの怪人たちにも答えを促すように視線を巡らせた。
「アタシも会ったことないわね。」
エルは腕を組み、考え込むような表情で言った。
「…ボ、ボクも…。そもそもアジトに来たこと…ないと思うけど……。」
控えめに手を上げ呟くアール。
「ピエラちゃんも知らないのだ~。もぐもぐ♪」
ピエラは首をかしげながらチキンナゲットをひとつつまむ。
「我ハ来タバカリ故、知ラヌ。」
鋭い瞳を光らせながら、ラルデュナが静かに付け加えた。
アンカーの問いに、全員が順に答える。しかし、その中でひとりだけ、沈黙を保っている者がいた。
それはパンドラだった。
彼女は無言でテーブルに視線を落とし、じっとしたまま微動だにしない。
「ン?…ドウシタ…パンドラ。腹痛カ? トイレハ早メニ行ッテオケ。」
ラルデュナが冗談交じりに言ったが、パンドラは顔を上げることなく、低い声で呟いた。
「違うわよ……鳥太郎……様ね……久しぶりよ……ほんと……。」
その声には感情がこもっているようでありながら、どこか深い歪みが潜んでいた。
眉間に皺を寄せた彼女の様子に、場の空気が再び凍りつく。名前を口にするその表情には、名前すら言いたくない、そう思わせるほどの強い嫌悪が漂っていた。
「何や…? パンドラ、知っとるんかいな?」
アンカーはニヤつきながら小指を立て、まるで何かを悟ったように言った。
「まさか、これかいな? 隅に置けんなぁ♪」
その茶化すような態度に、周囲が微かにざわめく。しかし、パンドラはアンカーの顔を一瞥するだけで表情を変えなかった。その目は冷たく冴え渡り、まるで針のような鋭さを帯びている。
「アンカー…やめてくれないかしら……そんなんじゃないわ。」
冷めた声とともに、パンドラの視線がアンカーを射抜く。その瞬間、アンカーの顔から笑みが消え、背中に冷や汗がじっとりと滲む。
「あ、悪かったな……ごめんって…」
珍しく縮こまるアンカーを横目に、パンドラは再び静かにテーブルへ目を落とす。
「…ね、ねぇ…パンドラの反応…蝶々の親父とよっぽどのことがあったんじゃないの…?」
「…う、うん。…ちょっと…気になるよね…」
「…とにかく、明日来る。それだけだ。」
蝶々が口を開き、場を締めくくるように一言でまとめた。
「明日と明後日はサーカス公演を中止とする。…解散。」
言葉を淡々と告げると、蝶々は一度も振り返ることなく席を立ち、そのまま会議室を後にした。
残された幹部たちはそれぞれ複雑な表情を浮かべながらも、重い沈黙に包まれたまま散会していった。
―――
現首領の父親が来るということで、幹部たちは一堂に会議室に集められていた。
「……」
その場でひときわ硬い表情を浮かべているのはパンドラだった。まるで感情を押し殺すかのように、その目は鋭い。
やがて、アジトの扉がゆっくりと開かれ、足音が響く。その中央には、スーツ姿の男性が立っていた。
伏見鳥太郎――蝶々の実の父親であり、不死鳥の羽を創設した伝説の怪人フェニックス型であるマダム・フェニックスの一人息子だ。
蝶々と同じ黒髪を持ち、高めの身長。40代とは思えない若々しさがあるが、その印象はというと――
「…ん? 何や…思っとったんと違うなぁ。」
アンカーは目を細めながら呟いた。
「我…期待外レダ。」
あわよくば手合わせしたいと思っていたラルデュナも持っていた鎌を下ろし、肩をすくめた。
屈強な体格で堂々としたオーラを放つ男性だと想像していた幹部たちだったが、鳥太郎の雰囲気はあまりにも「普通」だったのだ。
「…本当にこいつ、フェニックス型の怪人?」
エルが首を傾げると、アールも呟く。
「…ぜ、全然…見えない…」
食事中のピエラはいつものごとく特に興味を示すこともなくもぐもぐと口を動かしている。
「……」
パンドラだけは黙り込んだままだ。その目線は扉をくぐった鳥太郎に釘付けだ。
鳥太郎は一歩前へ進み、真剣な表情で蝶々をじっと見つめる。
「久しぶりだな。」
年相応の低い声が響き、幹部たちは思わず背筋を伸ばした。声にはそれなりの威厳が感じられたのだ――その瞬間までは。
「蝶々ちゃ~ん♥」
途端に鳥太郎はにやけた顔を浮かべ、両腕を広げて蝶々に抱きついた。
「父さん……その呼び方やめろと言っただろ。」
小さくため息をつきながら、蝶々は冷静に制止を試みるが、鳥太郎はお構いなしに抱きついたままだ。
「いいじゃないか~♥ 可愛い娘には可愛い呼び方をしてあげないと~♥ 本当に久しぶりだなぁ。どうして家に帰ってこないんだい♥ パパ寂しかったよぉ♥」
「……分かったから、離れろ。しつこいっ!」
蝶々は鳥太郎を振りほどこうとするが、さすが純血フェニックス型の怪人、力が強すぎて全く離れない。
「蝶々ちゃん、またそんな堅苦しいスーツ着ちゃって…パパ心配だなぁ~♥」
その様子を遠目に見ている幹部たち。
「良くも悪くも親子の会話やなぁ。」
アンカーが尻尾を弄りながら呟くと、ラルデュナも重々しく頷く。
「是。主蝶々ト父ハ仲睦マジク見エル。」
「もぐもぐ。蝶々様の新しい顔が見れて、ピエラちゃん幸せなのだ~♪」
幹部たちがそれぞれの反応を示す中、一人、パンドラだけがじっと無言で立っていた。だが次の瞬間――
「……」
無表情のまま、パンドラはゆっくりと立ち上がり、鳥太郎と蝶々の元へ歩み始めた。
「……あ、あれ、パ、パンドラ……」
エルが息を呑む。
「つ、ついに動いたわね……!」
アールはドキドキしながらその様子を見守る。
部屋全体が徐々に緊張感に包まれていく中、パンドラの硬い表情だけが、鳥太郎と蝶々の間に一段と不穏な空気を漂わせていた。
「おう……?やるんかいな……?」
アンカーが椅子にもたれかかりながら、目を細めてパンドラを見つめる。
「血ガ滾ルナ……」
ラルデュナは興奮を抑えきれず、握った鎌の柄をぎゅっと握り直した。
「い、いったい……パンドラと蝶父の間に何があったの……?」
エルは不安げな表情で呟く。隣でアールは小さな声で怯えるように答えた。
「ち、血がみれる……かな……ワクワク……」
いつもの調子で頬張っていたピエラも、もぐもぐしながら光景を興味深そうに眺めている。
その中、パンドラはゆっくりと足を止め、静かに口を開いた。
「ごほんごほん……鳥太郎……様?なぜ、こちらへいらっしゃったのでしょうか……?蝶々様も明らかに嫌がっていらっしゃいますし、そろそろお離れくださいませんこと?」
柔らかながら冷徹な言葉。パンドラは一見微笑を浮かべていたが、その目は凍り付くほど冷たく鋭かった。
「……パンドラ、か。父親が大好きな娘に会いに来た……それがそんなに悪いことかい?それに……離れる?僕たちは『親子』だよ。親子がくっついていることに、何か問題でもあるかな?」
鳥太郎は蝶々を抱きしめたまま、パンドラに視線を向ける。その声音は柔らかいものの、その奥には皮肉がたっぷり含まれている。
「蝶々様にお会いになる目的は果たされたでしょう?ならばもう、お引き取りくださいませ……。たしか、鳥太郎様は“人間社会の底辺社畜”だとか伺っておりますが?早々にお仕事にお戻りになった方がよろしいのではなくて?」
パンドラはさらに言葉に棘を忍ばせる。しかし鳥太郎はそれを一笑に付した。
「ふぅ……君は相変わらず、人間社会の常識に疎いようだね。今は『有給休暇』というものがあってね、人間界で働く者はちゃんと休めるんだよ。」
「ふん……怪人のくせに人間社会に溶け込むとは……怪人の風上にも置けませんわね。あなたが本当に鳥子様のご子息だなんて信じがたいですね……!」
挑発を含む言葉を投げつけるパンドラ。その表情は微動だにしない。
「ああ、確かに僕は母さんの息子さ。そして蝶々ちゃんの親でもある。だけど……君はなんだい?母さんを崇拝していたはずの君が、今や蝶々ちゃんに媚びへつらってその隣に居座っている。そんな君が僕の娘に近づくなんて、まったく……汚らわしいったらないね。」
「まあ、当然でしょう。蝶々様はわたくしたち『不死鳥の羽』の首領。その参謀たるわたくしが蝶々様の傍らにいるのは、ごく当然の理かと存じますが?」
穏やかな口調の中に熱を含むパンドラの言葉。鳥太郎と正面から睨み合い、二人の視線の間で火花が散る。
蝶々を抱いたまま一歩も引かない鳥太郎と、凛と立ちはだかるパンドラ。周囲の幹部たちが息を呑みながらその場を見守る中、二人の激しい応酬は終わることを知らないかのようだった。
「バッチバチやな……」
アンカーが椅子に腰かけたまま、目を細めて場を眺める。
「我、ワクワクスルゾ」
鎌を手に持ちながらラルデュナが興奮した口調で呟く。
「ちょっと……私たちは少し離れた方が良さそうね……」
「……う、うん……」
エルとアールは二人揃って小声で同意する。
「……あの間にマシュマロを置いたら……焼きマシュマロができそうなのだ♪」
ピエラが至ってのんびりした様子で食べ物を口に運びながら言う。しかし、続く展開にピエラですら動きを止めた。
――静かだが鋭く、威厳のある声がその場に響いたのだ。
「いい加減にしろ……父さん、パンドラ。」
場の空気を凍りつかせると同時に収めた声の主。それは蝶々自身だった。この場で二人を止められる唯一の存在。
「父さん……一旦離れてくれ。」
その一言に、鳥太郎は少し肩を落としたものの、素直に腕を離した。
「うぅ……分かったよ……蝶々ちゃん……」
パンドラも一歩引き、姿勢を正す。
「も、申し訳ありません……蝶々様。」
一触即発だった場が、蝶々の言葉を受けてどうにか収束していく。空気が多少和らぐのを確認し、彼女は短く息をついた。
「……なぜ、二人がそこまで犬猿の仲になったんだ……初対面のはずだろう……?」
蝶々の質問に、鳥太郎がやや困ったような表情で応じた。
「え……それは違うよ、蝶々ちゃん。」
「ええ。蝶々様、実は彼とはすでに知り合っておりまして……約二ヶ月ほど前からのお付き合いですわ。あ、もちろん男女の仲として付き合ってるわけではございません」
驚いた表情で蝶々が言葉を詰まらせる中、鳥太郎が続ける。
「そうそう、蝶々ちゃん繋がりで出会ってね。最初は、ほら……『蝶々ちゃんが大好き』って共通点がある者同士、仲良くなれたんだよ。」
「ええ、初めの頃は非常に意気投合いたしましたわ。蝶々様のお父上と伺って、尊敬の念を込めて親しくさせていただきましたもの……それどころか、蝶々様の過去のお写真や現在のお写真を交換するまでに。」
「ああ……懐かしいね。僕たち、蝶々ちゃんの素敵な写真を見せ合ったりしてねぇ……あの頃は楽しかったなぁ。」
静まり返った部屋で繰り広げられる二人の発言を聞きながら、蝶々は眉間を押さえ、重いため息を漏らした。
「……私の写真を勝手に交換していた件については……一旦、目を瞑ることにしよう。」
この一言に幹部たちの肩が揺れる。笑いを堪えているのは明らかだった。
「……それで。その二ヶ月の間に一体何があった?理由を話せ。」
蝶々が詰め寄ると、会議室の空気は再び緊張を帯びる。
「つ、ついに……原因が分かるわよ……」
「……きっと……す、壮絶な理由が……あ、あったんだと……思う……」
エルとアールはそれぞれ期待と怯えが入り交じった様子で会話を交わす。そして、再び沈黙が室内を支配した。果たして彼らの間には何があったのか……それを語る時が近づいていた。
「それはね。彼女が蝶々ちゃんに似合う服のセンスがないからだよ!」
「それはですね。この方が蝶々様に似合う服のセンスがないからですわ!」
「………はぁ……?」
思わず素っ頓狂な声を上げる蝶々。会議室にいた幹部たちも困惑した顔を浮かべている。だが、問題の二人――鳥太郎とパンドラ――は構わず声を荒らげ、それぞれの主張を展開し始めた。
「蝶々様には全身黒を基調としたゴシックロリータが似合うと、わたくしは断言しました。それにこの方、何とケチをつけたのです!」
「当然だろっ!僕の蝶々ちゃんがゴシックロリータ?そんなもの、ふざけるんじゃないよ!蝶々ちゃんに似合うのは、白とピンクのフワフワした甘ロリータに決まってるじゃないか!」
「センスがないのはあなたですわ!クールで高貴な蝶々様には黒いゴスロリ。それ一択です!いい加減分かりなさい!」
「違うね!可愛い蝶々ちゃんには、断然、甘ロリなんだよ!君こそなぜそれがわからないんだ!?」
「何度も言わせてもらいますが、蝶々様の高貴なダークさを際立たせるには、甘ロリなど邪道そのものですわ!王道こそが正義!」
「邪道で何が悪いんだい!人間界にはね……『ギャップ萌え』という概念があるんだよ!黒い服も確かに可愛い。それは認める。蝶々ちゃんならなおさらだ。だが!だがしかし!普段と違う甘ロリ姿の蝶々ちゃん!それは至高!まさに神なんだ!脳みそ単純な君には分からないかもしれないけどね!」
「わ、わたくしが単純ですってぇ!?子離れもできないダメ親父に言われたくありませんわ!むしろ、蝶々様とわたくしの愛の邪魔をするのはやめていただけますこと!」
「あ、あ、愛だと!?僕の娘を君みたいな下水のようなスライムに渡すわけないだろう!」
バチバチと火花が散るような口論は一向に収まらない。言い争う二人の姿を前に、他の幹部たちは呆れ果てていた。
「はぁぁぁ……お前たち、解散だ。もう部屋に戻れ。」
蝶々が重々しくため息をつきながら命じる。
「是。本当二クダラナイ話ダッタ……」
ラルデュナは頭を脇に抱えると踝を返した。
「ほんまや……うちも蝶々はんの服について考えたことはあるけど、ここまで険悪になるなんて信じられへん……アホらし。戻って昼寝や昼寝…」
「もぐもぐ……」
食事を続けているピエラの租借音が妙にのんびりとして、無意味に深く聞こえる。
「あー……これがあれね、『夫婦喧嘩は猫も食わない』ってやつじゃない?しょうもなすぎでしょ……」
「……違う、『夫婦喧嘩は犬も食わない』だよ……。でも、あんなことで喧嘩できるなんて、ある意味ですごいよね……」
エルとアールも半ば感心しながら廊下へと出て行く。蝶々を含めた幹部たちはさっさと会議室を後にした。
だが、背後では――
「だから、蝶々ちゃんには甘ロリが――」
「何度言えばわかるんですの?蝶々様にはゴスロリが――」
パンドラと鳥太郎の終わらない論争が会議室に響き続けていた。




