9.彼女の選択
「まだ…思い出せないんです」
涙が落ち着くと、ルーチェはそう言って顔を伏せた。
「ただ、殿下の香りをかいだら…何故か涙が出てきて…」
「…ルーチェは私の香水の香りが好きだとよく言っていたな」
頬を緩めてそう言うと、エルネストはルーチェの髪をひと束手に取り鼻元に寄せた。
「私もルーチェの香りが好きだ」
「殿下」
ルキーノが音を立ててエルネストの手を払った。
「もう婚約者ではないのですから、おやめください」
「———まだ婚約は解消していない」
「え」
ルーチェは顔を上げてエルネストを見た。
「その件に関しては、保留にして欲しいと父上とドゥランテ侯爵に頼んでいる。…ルーチェがそれを望むのか確認してからと」
そう言うと、エルネストは改めてルーチェに向かい膝をついた。
「あんな事をしでかして、言える立場ではない事は分かっている。だがそれでも…私にはルーチェしかいない。もう二度と、君を傷つけないと誓う」
目を見開いたルーチェを見つめてエルネストは言った。
「ルーチェ・ドゥランテ。どうかもう一度…私と共に一生を歩む事を選んでくれないだろうか」
「…私は…何も覚えていないんです」
「分かっている」
「殿下と過ごした事も忘れて…受けたはずのお妃教育も、貴族としての礼儀も…何も知りません。耳だって半分聞こえないんです。こんな私は殿下の…妃にはなれません」
「妃にはならなくていい」
エルネストはルーチェの手を握りしめた。
「私は王にはならない」
「殿下?!」
ルキーノが思わず声を上げた。
「ここに来る前に話し合って来た。怪しげな術に惑わされたとはいえ、一番大切な者を守れず傷つけてしまった私は王になどなれないと。———それでも、せめてその大切な者を守れる者にはなりたいのだ」
「…しかし殿下が王にならないとなったら誰が…」
「従兄弟のアルマンドがいる」
「大公家の?」
「ああ。彼なら私よりも立派な王になるだろう」
(…大公家のアルマンド様って、確か攻略対象全員をクリアしたら攻略できるようになる隠れキャラじゃなかったっけ)
ゲームに出てきた、大人びた雰囲気の顔を思い出しているとエルネストがぎゅっとルーチェを握る手に力を込めた。
「だからルーチェ。何も思い出せなくても心配しなくていい。私が責任を持って、君を一生守るから」
「エルネスト殿下…」
「愛している、ルーチェ」
ルーチェを真摯な眼差しが見つめる。
(私は…きっと、本当にこの人が好きだったんだ)
記憶はなくとも匂いや身体が覚えている。
ルキーノに触れられた時には感じなかった、喜びの感情。
けれど、ルーチェの記憶がない自分には、素直にエルネストを受け入れる勇気も覚悟もまだなかった。
ルーチェはそっと傍のルキーノを見上げた。
「嫌なら断ればいいよ」
不安を察してそう言うと、ルキーノは甘い笑顔を向けた。
「殿下に守ってもらわなくとも、ルーチェは俺たち家族が守るから」
「…ありがとう」
微笑むと、ルーチェはエルネストを見た。
「エルネスト殿下…私は、殿下の事を知りません。殿下も今の私の事は知らないでしょう。……ですから」
不安そうな水色の瞳を見つめる。
「お互いを知る所から始めさせてもらえますか」
ひかりとしての記憶しかないルーチェにとって、貴族の婚姻制度は理屈では理解していても心では受け入れるのに抵抗がある。
いきなり結婚と言われても困るけれど…いつかはこの人と一生共にいたいと思う時が来るだろうから。
「そうか…そうだな」
ルーチェを見つめたまま、エルネストは頷いた。
「もう一度最初からやり直してくれるか」
「はい」
「ありがとうルーチェ…私を拒否しないでくれて」
ルーチェの手を握ったまま、エルネストは空いた左の手でルーチェの右耳をそっと撫でた。
「すまなかった…苦しかっただろう」
「———いいえ…」
消えない傷を残してしまった、その罪もまた消えないけれど。
「私の一生をかけて償うから」
そう言うと、エルネストはルーチェを強く抱きしめた。
おわり
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回はハッピーエンドではない話を書いてみようと書き始めたのですが、どうしてもラブな方向に行ってしまいます…
登場人物の名前はいつも悩みます。
今回はイタリア語系の名前にしてみました。