第005話:音なき一閃と、黒曜石プレートの厚切りステーキ
午前8時のカルデラ冒険者ギルドは、朝一番で迷宮へ潜ろうとする荒くれ者たちの熱気と、昨晩からのエール酒の匂いでむせ返っていた。
俺とセリアがギルドの両開き扉を押し開けると、依頼掲示板の前にたむろしていた冒険者たちが一斉にこちらを振り返り、ヒソヒソと下品な笑い声を上げた。
「おい見ろよ、あの『壊れもんのトカゲ女』がまた来てやがるぜ」
「右腕がカタカタ震えて槍も満足に握れねえくせに、まだ冒険者のつもりか? 後ろにいる兄ちゃん、あいつと組むなんて物好きにも程があるぞ!」
周囲から浴びせられる容赦ない嘲笑。
以前のセリアなら、フードを目深に被って俯いていたところだろう。
だが今の彼女は、背筋を凛と伸ばし、背中に括り付けた『調律・黒鉄竜槍』の柄に右手を添えて、真っ直ぐ前だけを見据えていた。その右腕は、微塵も震えていない。
「気にするな、セリア。結果はあと2時間もすりゃ分かる。――さて、手頃で実入りのいい依頼はこれだな」
俺が掲示板の「緊急・討伐枠」から引き剥がしたのは、1枚の赤い羊皮紙だった。
『カルデラ大迷宮・地下9層に出没する【鉄甲イノシシ(アイアン・ボア)】の群れ7頭の討伐。報酬:銀貨45枚+素材の優先買取権』。
受付カウンターにその依頼票を出すと、受付嬢が目を丸くし、横から覗き込んできたC級冒険者の男が鼻で笑った。
「おいおい素人さんよ、そいつはやめとけ! 『鉄甲イノシシ』ってのはな、背中の毛が鉄針みたいに固まってて、半端な大剣じゃ刃が弾かれて傷1つつけられねえ厄介もんだぞ。だからもう5日も誰も受けずに塩漬けになってるんだ」
「だからこそ、素材に傷をつけずに仕留めれば高く売れるんだろ? 受付のお姉さん、これで手続きを頼む」
俺は周囲の忠告を聞き流し、登録証にサインを済ませてセリアと共に迷宮の入り口へと向かった。
カルデラ大迷宮の地下9層は、湿った赤土とシダ植物が生い茂る『地底樹海エリア』だ。
気温は16度ほどで少し肌寒く、空気中には獣の脂と腐葉土の混じった独特の匂いが漂っている。
俺が腰のランタンで足元を照らしながら進むこと30分。開けた岩場の奥から、地面を揺らすような荒い鼻息と、硬い蹄が岩を削る音が響いてきた。
――ブモォォォォッ!!
茂みをなぎ倒して姿を現したのは、体長2.4メートル、体重350キロを超える巨獣『鉄甲イノシシ』の群れ、計7頭だった。
その背中から首回りにかけては、名前の通り黒光りする鋼鉄のような剛毛が厚さ4センチの装甲板のように密集しており、口元からは長さ30センチの湾曲した牙が突き出ている。
「セリア、俺の音叉の合図を聞け」
俺は一歩下がり、懐の純銀音叉を膝で叩いて鳴らした。
イノシシが地面を蹴る振動と、奴らの装甲毛の密度を音叉の反響で瞬時に読み取る。
「奴らの鉄毛は、上から叩き斬ろうとすれば厚さ4センチの鉄板と同じだ。だが、眉間のつむじから喉元にかけての毛流れは、下から上へ『15度の角度』で逆立ってる。――刃角14.8度に研いだお前の槍なら、毛の隙間にそのまま滑り込むぞ!」
「了解しました、カイル!」
セリアが黒鉄の短槍を引き抜き、琥珀色の瞳を細めて低く構えた。
先頭のボス格の鉄甲イノシシが、獲物を串刺しにしようと時速50キロの猛スピードで突進してくる。
3メートル、2メートル、1メートル――!
死の質量が目の前に迫った極限の瞬間、セリアの視界は一点だけに絞り込まれていた。
見えているのは、イノシシの眉間にある直径2センチのつむじの渦と、自分の右手の中で「完全に重さを消した」黒鉄槍の切っ先だけ。
「――ハァッ!」
セリアが最小限の歩幅で半歩だけ左へ身をかわし、すれ違いざまに右腕の槍を繰り出した。
柄の中の3.6グラムの鉛が彼女の筋繊維の収縮と完璧に同調し、槍の穂先が「光の筋」となって閃く。
――スッ。
音は、それだけだった。
硬い鉄を叩く衝撃音も、骨が砕ける鈍い音すらもしない。
14,000番の『蒼霞』で鏡面に磨き上げられた青白い穂先は、摩擦ゼロで鉄甲イノシシの眉間から滑り込み、頭蓋骨と頸椎の隙間を豆腐のように貫通して、そのまま引き抜かれていた。
ボス格のイノシシは、自分が突かれたことにすら気づかないまま惰性で5メートルほど走り――ドシャァン!と土煙を上げて絶命した。傷口からは血すらほとんど飛び散っていない。
「……速い。前よりも、ずっと身体が動く……!」
セリアの唇に、誇り高い戦乙女の笑みが戻る。
そこからの光景は、もはや一方的な蹂躙だった。
後方から飛びかかってきた2頭目と3頭目のイノシシに対し、セリアは短く詰めた1.6メートルの柄の取り回しの良さを活かし、独楽のように旋回しながら2連撃を叩き込む。
スパン! スパァン!
2頭のイノシシの巨大な牙が根元から鏡のような断面で切り落とされ、返す穂先が喉元の急所を正確に一閃する。
セリアの右手には、かつて彼女を苦しめていた反動も、0.4秒の震えも一切ない。俺が調律した刃角14.8度の穂先は、350キロの巨獣の突進力をそのまま「斬れ味」へと変換し、残る4頭も紙切れを裂くように次々と沈めていった。
最後の7頭目が倒れ伏した時、俺が懐中時計の秒針を見ると、戦闘開始からわずか4分18秒しか経っていなかった。
「ふぅ……っ」
セリアが槍を軽く一振りして血脂を払い、ゆっくりと俺の方へ振り返った。
青白い鏡面の穂先には、0.01ミリの刃こぼれも、曇り1つすらついていない。
「カイル……! 見ましたか、カイル! 私の槍が、あの鉄甲イノシシを……1度も弾かれずに……!」
セリアは槍を鞘に収めるのも忘れ、俺の前まで駆け寄ると、俺のゴツゴツした右手を両手でぎゅうっと握りしめた。
琥珀色の瞳がキラキラと潤み、白い頬が興奮でバラ色に染まっている。
「ああ、見たよ。踏み込みの角度も、引き抜きの手首の返しも100点満点だ。俺の研いだ刃を1ミリも曇らせずに使いこなすなんて、さすが元A級の槍使いだな」
「えへへ……っ。あ、いえ、その……すべてカイルの調律のおかげです!」
俺が素直に褒めると、セリアは急に我に返ったように耳の先端まで真っ赤にし、慌てて手を離して咳払いをした。
「よっしゃ、討伐証明の魔石と、一番脂の乗ったボス個体の肩ロース肉を切り出して帰るぞ。他の6頭はギルドの運搬班に回収させりゃいい。――今夜は工房で、とびきりの祝勝会だ」
◇
その日の夕方、俺たちの鍛冶小屋には、昨日にも増して暴力的なまでの肉の香りが立ち込めていた。
俺が炉の白炭の上に置いたのは、鉄のフライパンではない。
かつて割れて使えなくなった天然砥石の母岩――熱伝導率と蓄熱性に優れた『厚さ3センチの黒曜石プレート』を、鏡面に磨いて焼き石にした特製の調理板だ。
230度まで熱せられた黒曜石プレートの上に、厚さ4センチに贅沢にカットした『鉄甲イノシシの特上肩ロース肉』を豪快に乗せる。
――ジュワァァァァァッ!!
一瞬にして脂が弾ける小気味よい音が響き、ナッツのように甘く芳醇なイノシシの脂の香りが工房を満たした。
黒曜石の遠赤外線効果で、表面はカリッと香ばしい焦げ目がつき、内部は肉汁を1滴も逃さずに鮮やかなロゼ色へと火が通っていく。
俺は焼き上がったステーキを食べやすい厚さにそぎ切りにし、カルデラ産の結晶岩塩と、擦りたての爽やかな『山わさび』、そして炉の隅で焼いたホクホクのじゃがいもを添えて、セリアの前へと出した。
「さあ、食え。お前が自分の腕で仕留めた、復活祝いの『鉄甲イノシシの黒曜石プレート焼き』だ」
「い、いただきます……っ!」
セリアはフォークで分厚い肉を刺し、山わさびを少し乗せて口へと運んだ。
噛み締めた瞬間――サクッ、という歯切れの良い音とともに、濃厚で甘い肉汁が口いっぱいに溢れ出した。
「んんっ〜〜〜っ!! や、柔らかい……! イノシシの肉って硬くて臭いものだと思っていたのに、舌の上で脂がトロトロに溶けて、山わさびの香りでいくらでも食べられます……っ!」
セリアは両頬をリスみたいに膨らませ、スカートの下の黒い竜の尻尾を「パタパタパタッ!」と高速で床に打ち付けながら、400グラムの特大ステーキをみるみるうちに平らげていく。
「お前、一撃で即死させたからな。魔物が苦しまずに絶命した肉は、血が回らないから臭みがゼロで極上の味になるんだ。つまり、俺の研ぎとお前の槍が生み出した味ってわけよ」
俺も自分の皿の肉を頬張り、冷たいエール酒で喉を鳴らした。
最高だ。王都でガイルたちの愚痴を聞きながら冷めたパンをかじっていた頃とは、空気の味からしてまるで違う。
だがその時、俺たちはまだ知らなかった。
今日、俺たちがギルドの解体場へ預けてきた「残りの6頭の鉄甲イノシシの死体」が、翌朝のカルデラギルドをひっくり返すほどの大騒動を引き起こすことになるのを。
お読みいただきありがとうございます!
カイルの研ぎ技とセリアの一閃、そして鍛冶場メシはいかがでしたでしょうか?
次回、さらに物語が大きく動きます!
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