用済みと継ぎの仕事を取り上げられ、爪印の一枚紙を集めました——三月で、お宅の鍋だけ底が抜けます
風は、半分で止まりました。
「嫌なら出て行けと言ってやろうか」
火床の向こうで、儀助さんが笑いました。笑うところだったのでしょう、たぶん。わたくしの胸には灰しか入りませんでしたが、儀助さんの声はよく燃えておりました。
その威勢の半分でも鞴へ回せば、継ぎ金がもう少し素直に馴染みますのに。人の口は便利です。炭を食わず、汗もかかず、いくらでも熱くなる。
「おまえが余計な口を挟むから、仕事が遅れるんだ。稼ぐのは俺だぞ」
儀助さんは鍋底へ溶かした金を置き、鞴の柄を二度押しました。三度目はない。赤みの足りない継ぎ金を槌で叩けば、見た目だけは穴が塞がります。
今日も半分。昨日も半分。一昨日は、話に夢中で三分の一でした。こうして並べますと、夫婦の思い出にも厚みが出ますこと。
「さようでございますか」
わたくしは鍋を挟む火箸の先を少しずらしました。それだけでございます。言葉を足せば、儀助さんは自分の声をさらに一枚厚くするでしょうから。
「その返事が気に入らねえんだよ」
「親方の言うとおりにおし」
おっ母さんは帯留めを直しながら、火床の脇に積んだ鍋をわたくしの前へ押しました。息子の継ぎ損ねを、嫁の手元へ。たいへん滑らかな受け渡しでございます。あの帯留めなら継ぎ金三枚、腕輪まで合わせれば小鍋の底が二つ直せる。人の家の財を数えるのは品がありませんけれど、わたくしの手間を数えない方々に品を説かれても困ります。
「家のためだよ。男を立てるのも女房の仕事だ」
「聞いたか。嫌なら出て行けと言ってやる」
母が隣にいると、儀助さんの声は一段高くなります。鞴の風は増えないのに。世の中、まことに釣り合わないものがございます。
わたくしは押し戻された鍋を火へかけました。朝晩使う家のものなら、この薄さでは三月。冬に煮炊きが増えれば、ひと月半。儀助さんの機嫌なら半刻ももたない。どれも修繕が必要ですが、最後の一つはわたくしの受け持ちではありません。
鞴を最後まで送り、赤くなった継ぎ金を見ました。火は正直です。誰が稼いだことになっているかなど、一度も尋ねません。
* * *
厚みは、暮らしの数です。
「これからは親方が継がれますので、ご挨拶に参りました」
最初の家では、朝餉の粥から夜の汁まで同じ鍋を使っておりました。火へかかるのは日に二度、寒い月は三度。底の煤をひと撫ですれば、必要な継ぎ金は爪の厚みの一枚半と分かります。儀助さんなら一枚。しかも気分次第で端を惜しむ。半年と二年、たいへん分かりやすい夫婦の差ですこと。
「この底を前に継いだのは、誰の手だったか覚えておいでですか」
「そりゃ、あんただよ。親方は受け取りに来ただけさ」
家の女主人は鍋を裏返し、継ぎの縁を親指で確かめました。それから、わたくしが差し出した一枚紙へ爪印を押します。黒い小さな跡でしたが、儀助さんの口よりずっと重い。
二軒目は、大鍋を朝から晩まで火から下ろさない家でした。煮豆の甘い匂いが底まで染みていて、薄く継げばひと月も危うい。厚みは二枚、風は長く、仕上げは急がず。ところが渡された鍋の継ぎは、わたくしが四月前に入れたまま、きれいに持っております。
「誰が継いだか、覚えておいでですか」
「あんただ。あのとき親方は、表で代金を数えてた」
ここにも爪印を一つ。代金を数える手は親方、火を読む手は嫁。数える物が違うだけで、儀助さんには同じ仕事に見えるらしい。羨ましい目でございます。あれなら穴の空いた笊も鍋として売れましょう。
三軒目で、お糸さんが待っておりました。炭の仲買を切り回す女主人で、慰めより先に品を火へ放り込む方です。こちらも、人を見る目に継ぎ金が要りません。
「かけてごらん」
差し出された小鍋を火へかけると、お糸さんは腕を組みました。朝だけ使う鍋なのに、底には分厚い継ぎ。厚ければよいというものではございません。儀助さんの自尊心と同じで、余分な厚みは周りを割ります。
「これは親方の手だね」
「なぜ、そう思われます」
「持ち主の暮らしを見てない」
お糸さんはそれだけ言い、紙を寄越せと指を出しました。爪印が三つ目に並びます。人が何月も使った鍋を見れば、言葉より先に手が名乗る。ならば、名乗らせておけばよろしい。
それから先は、紙の上だけが賑やかになりました。朝だけの火、朝晩の火、商いで一日絶やさぬ火。印の間隔も、煤の濃さも、鍋の暮らしの数でございます。
わたくしは紙を畳み、帯の内へしまいました。家へ帰れば、また「親方の仕事」が積まれております。ええ、存じておりますとも。ですから順番に、お返しするのです。
* * *
お指図どおりに、お返しします。
「一日に返す数が少なすぎる」
儀助さんは土間へ鍋を十二枚並べました。穴の大きさも、使われ方も見ず、十二という数だけを見ております。なるほど、鍋とは丸い板で、穴とは塞げば消える黒い点。そこまで世界を簡単に眺められたら、わたくしも昼寝の時間が増えますのに。
「もっと薄くしろ。金を使いすぎだ」
「毎日火へかかる鍋もございます」
「数を合わせろと言ってるんだ。稼ぐ者が決める」
儀助さんはわたくしの言葉を途中で切り、鍋の山を顎で示しました。おっ母さんも隣で頷きます。二人分の頷きがあっても、継ぎ金の厚みは増えません。
「さようでございますか」
まず、継ぎ金の選別を返しました。どの鍋にどれほど使うか、わたくしは申しません。儀助さんが同じ幅に切った金を、同じ枚数ずつ置いてゆくのを見ておりました。大鍋も小鍋も仲良く一枚。平等とは、ずいぶん恐ろしいものです。
次に、鞴を返しました。わたくしは火床の脇へ手を置かず、儀助さんが押す風だけを待ちました。柄は半分まで下がり、途中で止まる。儀助さんは額の汗を拭き、火の色が足りないまま金を置きます。
「もう赤い。これで十分だ」
はい。生煮えの団子も、表面だけなら白くて立派でございます。腹を壊すのは食べた者で、こねた者ではない。実に親方らしい理屈でした。
最後に、仕上げを返しました。縁をなだらかに均す槌も、冷めるまで割れを確かめる指も、引っ込めました。手を出せば、また儀助さんの仕事になります。ならば親方のお仕事を、親方だけのお手元へ。
「なんだ、今日は素直じゃないか」
「お指図どおりでございます」
儀助さんは出来上がった鍋を抱え、得意先へ運びました。前にわたくしが継いだ三枚も一緒に積み、自分の仕事として代金を受け取ります。おっ母さんは何も言わず、受け取った銭を家の箱へ落としました。ちゃりん。共犯とは、よく澄んだ音がするものです。
「ずいぶん出歩いてるそうじゃないか」
「ご挨拶を少々」
「女同士は話が長いからな。仕事の邪魔だけはするなよ」
儀助さんは、爪印を集めた一枚紙を挨拶の覚え書きだと思ったようでした。わたくしが帯の内へしまっても、止めません。止めるべき風はすぐ止めるのに、止めた方がよいものほど見逃す。その目利き、継ぎ金なら髪の毛より薄うございます。
* * *
同じに見える底ほど、違います。
三月目に、最初の鍋が戻りました。継いだ縁から水が滲み、火へかけると細い息を吐きます。四月目には三枚、それから五枚、八枚。土間に並べれば見た目だけはよく揃い、まるで儀助さんの言い訳を丸く打ち延ばしたようでした。
「この金が悪いんだ」
得意先の前で、儀助さんは鍋を裏返しました。頭を下げ、語尾を丸め、継ぎ金を仕入れた者のせいにする。火の前ではあれほど胸を張る方が、お糸さんの姿を見つけた途端、背まで少し薄くなりました。
「風は、どれだけ送った」
お糸さんが尋ねます。
「そこは、金との具合で……まあ、今度は別のを使います」
声まで半分で止まりました。よい兆しです、と申し上げたいところですが、帰宅すれば厚みは元通りになります。
「おまえの選び方が悪かったんじゃないのか」
土間へ入るなり、儀助さんは戻った鍋をわたくしの足元へ置きました。お糸さんには金のせい、わたくしには嫁のせい。罪というものは相手を見て足が生えるらしく、たいへん器用に歩き回ります。
「直しておけ。盆前で忙しいんだ」
「これからは親方が継がれるのでは」
「家の仕事だろうが。口答えするな」
おっ母さんは、戻った鍋の数を数えておりました。儀助さんが十二と言えば十二、穴が十三あっても十二。数え終わると、そのうち一つをわたくしへ渡します。
「若い二人のためだよ。これだけは早くおし」
その鍋は、商いで毎日火へかかる家のものでした。継ぎ金の端は薄く、槌の跡は浅い。このまま返せば、盆まで持ちません。
わたくしは火を起こし、鞴の柄を最後まで押しました。一度、二度、三度。金が芯まで赤くなるのを待ち、薄い縁を剥がして厚みを足します。ほかの鍋には触れませんでした。一つだけ。毎日、火を絶やせぬ家の一つだけ。
剥がした薄い継ぎ金が、手の中で冷えてゆきました。指を閉じれば端が食い込んだので、開いて屑入れへ落としました。
儀助さんは翌朝、その鍋を自分で直した品として渡しました。受け取った家の者は底を撫で、何も言わず火へかけます。
火は、暮らしを見た手と、穴だけを見た手の違いを覚えております。
* * *
申しません。仰るまで。
「結局、嫁御をどうなさる」
寄合の親方衆は、鍋の穴より話の穴を嫌う方々でした。儀助さんが「家のことだ」「女には分からぬ」と回り道をするたび、結論だけを求めて同じ問いを置きます。
「須賀は稼ぎもしねえくせに、親方の俺へ逆らうんです。最近はろくに手も動かさない」
わたくしが短く頭を下げると、儀助さんの声が一段上がりました。おっ母さんも背後で頷きます。土間と同じ並び、同じ威勢。違うのは、ここには鍋のもち方を知る目が幾つもあることでした。
「では、家に置くのか。出すのか」
「この嫁は要らぬ、出て行かせる」
儀助さんは言い切りました。火床の前で言うときより、よく通る声でした。
「さようでございますか」
わたくしは帯の内へ手を入れました。親方衆の顔も、儀助さんの赤い耳も見ず、折り目のついた一枚紙を膝の前へ置きます。
「わたくしは、四年、火の入り方を見てまいりました」
朝だけ使う鍋がありました。朝晩使う鍋がありました。一日じゅう火から下ろせぬ鍋もございました。
「穴の大きさだけでは、次にいつ底が抜けるか決まりません。どれほど風を送り、どこまで厚みを残すか。それを見てまいりました」
それ以上は足しませんでした。四年は四年分、そこにあります。軽くも重くも言い換える必要はございません。
「別れろと、わたくしが求めたのではございません」
紙を、儀助さんの方へ向けます。
「わたくしからは申しません」
並んだ爪印を見た途端、儀助さんの顎が下がりました。まだ得意先の名は一つも読み上げられておりません。それでも、どの家へ挨拶に回ったのか、ようやく数が繋がったのでしょう。威勢が顔から抜けてゆく。鞴より先に、こちらの風が止まりました。
お糸さんが紙を取り上げ、最初の印を指で叩きました。
「朝晩二度。須賀の継ぎで二年」
得意先の者たちが持参した鍋を裏返しました。
「こっちは一年八月」
「うちは二年を越した」
「親方のに替わって三月だった」
一人が一つ、それだけ答えました。余計な褒め言葉はありません。鍋の底には、使われた月の数が残っております。
「待ってくれ。こいつは家の仕事を——」
「今、ご自分で仰ったな」
親方の一人が儀助さんを止めました。儀助さんの口が開き、そのまま閉じます。胸の奥で、何かが一度だけ槌を打ちました。お見事。わたくしには、とてもそこまで都合よく言えません。
お糸さんは一枚紙を親方衆の前へ置き直しました。爪印はもう、家の中で消せる跡ではございません。
* * *
風が止まれば、手も止まります。
長くもった鍋と、三月で戻った鍋が、同じ火へかけられました。どちらも同じ仕入れの継ぎ金。片方は縁まで赤みが回り、もう片方は火の筋が途中で切れております。
「長くもった方は、誰が直した」
親方が尋ねると、鍋の持ち主はわたくしを見ました。
「戻ってきたあと、一つだけ持ちが違った。前の須賀さんの継ぎと同じだよ。うちは盆前に火を止められないから」
お糸さんが鍋底を叩きます。高く締まった音が一つ、鈍い音が一つ。儀助さんは金の端を爪で掻きました。
「同じ金だ。なら、たまたま火の当たりが——」
「鞴を送ってごらん」
お糸さんは儀助さんへ柄を譲りました。家では命令する手が、得意先の前では妙に遠慮深く柄を握ります。一度押し、戻し、二度目の半ばで腕が止まりました。
(鋳掛けなんぞ、穴さえ塞げば——)
儀助さんの目の前で、赤みが継ぎ金の端まで届かず消えました。もう一度押しても、風は細い。これまで足りない分を誰の手が送り、誰の指が火を待っていたのか、火床の方から並べて見せております。
「盆前の分、出して」
お糸さんが言うと、得意先の者たちは儀助さんの前に積んだ鍋を持ち上げました。一枚、二枚、五枚。わたくしの前へ置き直されます。受注が紙の上で移るのではなく、煤けた重みとなって土間を渡りました。
「これはうちの客だぞ」
「直せるところへ出す。それだけだ」
お糸さんは鍋を抱え、わたくしへ顎をしゃくりました。慰めも、夫婦の事情もございません。穴の空いた鍋と、火を読める手。それだけで十分でした。
おっ母さんは空いた土間を見回し、わたくしの袖を掴もうとしました。けれど、お糸さんが鍋を間へ置きます。
「風が止まれば、手も止まる。今まで止めなかった手が、あんたの家からなくなっただけだよ」
儀助さんの前には、半分まで下がった鞴の柄が残りました。わたくしの前には、盆前に火を待つ鍋が並びます。
* * *
今度は、わたくしの名で。
「あんたの継ぎに、うちは月いくら払えばいい?」
お糸さんは、爪印の一枚紙を炭の山の上へ広げました。慰めより先に月の支払い。なんと頼もしいことでしょう。優しい言葉では米は炊けませんが、銀なら炊けます。できれば白い米を。豆も少々。働いたあとの豆飯は、夫の威勢よりずっと腹持ちがよろしい。
「ひと月、銀二十匁」
「十五」
「十八。炭は別でお願いいたします」
「決まり」
取引は、夫婦の言い争いより短く済みました。お糸さんは爪印の並びと、各家の火の使い方から盆前に回す鍋を選び、朝だけの火、朝晩の火、一日絶やさぬ火の順に並べます。わたくしは厚みを決め、必要な分だけ継ぎ金を切りました。
最初の一枚を仕上げると、鍋の耳へ鏨を当てました。これまでは家の印を入れる場所です。小さく、二度、三度。槌を上げるたび、火花が散ります。
須賀。
鍋の耳に、初めてわたくしの名が入りました。大きくはございません。けれど煤を被っても、火へかけられても、誰の手か尋ねられれば裏返して見せられる深さです。
「曲がってるね」
「初めてでございますので」
「次はまっすぐ入れな」
「次があるのですね」
「十二枚」
お糸さんはもう次の鍋を差し出しておりました。祝いの言葉も、抱擁もなし。十二枚。たいへん結構。わたくしには、それで十分すぎました。
半年後、おっ母さんが訪ねてきました。帯留めは以前と同じでしたが、指は何度もそこを直しております。
「若い二人のためだよ。意地を張らず、家へ戻っておくれ。盆前から仕事が減って、儀助も困っているんだ」
「家のためではございませんでしたか」
「それは、二人のことですから。お糸さんには口を出さないでもらいたいね」
お糸さんは炭の書付から顔を上げませんでした。
「口は出さないよ。代わりに銀を出してる」
おっ母さんの指が帯留めから離れました。継ぎ金三枚分。相変わらずよい品です。けれど今のわたくしは、それを鍋へ換算する必要がありません。自分で買う銀を、自分の手で稼いでおりますので。
その日の暮れ、儀助さんも土間へ来ました。以前より肩を狭くし、わたくしの名が入った鍋を見ております。
「戻れ。今度は、おまえにも仕事をさせてやる」
わたくしは鞴を最後まで押しました。火は継ぎ金の芯へ届き、鍋の耳に刻んだ須賀の二字を赤く照らします。
「聞いているのか。戻るのか、戻らないのか」
槌を一度。継ぎの縁が締まりました。わたくしは手を止めません。
「わたくしからは申しません」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




