第3話「月曜日の雨、俺は金曜日の嘘を許せなかった」
ルシアと暮らし始めてから、二週間が経っていた。
最初は「今夜だけ」だったはずだった。でも翌朝、ルシアは普通に卵を焼いた。その次の日も、その次の日も、出て行く気配がなかった。俺も追い出す理由がなかった。なんとなく、彼女がここにいることが、いつの間にか当たり前になっていた。
配信は毎晩のように続いていた。三十分くらいで終わる、リスナー数百人の小さな配信。終わると「つかれた」と言って倒れる。それが日常になっていた。
金曜日の夜、ルシアは少し遅くまで配信をしていた。
いつもは三十分で終わる。その日は一時間以上続いた。俺は台所でお湯を沸かしたり、本を読んだりしながら、配信の声を聞いていた。内容は聞いていなかった。ただ声が続いているのを、部屋の端で聞いていた。
いつもと少し違う気がした。声のトーンが、どこか高かった。テンションを上げようとしている、という感じだった。でも今の俺には、それが何を意味するのかわからなかった。気のせいかもしれなかった。
配信が終わった時、ルシアはいつもより静かだった。
イヤホンを外して、横に倒れた。「つかれた」とは言わなかった。天井を見たまま、黙っていた。関西弁も出なかった。ただ、天井を見ていた。
「お疲れ様です」と俺は言った。
「……ありがとうございます」
それだけだった。
緑茶を差し出したら受け取った。一口飲んで、また黙った。湯呑みを両手で持って、特に何を見るでもなく、ぼんやりしていた。いつもなら床に転がったまま関西弁で何か言う。今夜はそれがなかった。
「何かありましたか」と俺は聞いた。
「……いいえ」
「そうですか」
「はい」
それだけだった。俺はそれ以上聞かなかった。今の俺には、聞く理由がなかった。心配という感情が、まだ来ていなかった。
その夜は、それだけだった。
-----
土曜日の朝、ルシアは早く起きていた。
俺が目を覚ました時、彼女はソファに座って、スマートフォンを見ていた。ジャージ姿で、膝を抱えて、画面を見ていた。いつもなら俺が起きた気配を感じて「おはようございます」と言う。今朝は気づいていないようだった。画面から目を離さなかった。
「おはようございます」と俺は言った。
顔を上げた。少し間があった。
「おはようございます」
いつもより声が小さかった。でも今の俺には、それが何を意味するのかわからなかった。
朝ごはんを作った。今日は俺が作った。卵を二個使って、卵焼きを作ろうとした。ルシアが作るのを見ていたから、同じようにできると思っていた。フライパンを傾けたら、卵が崩れた。もう一度やったら、また崩れた。結局、崩れた卵焼きが皿に乗った。
「崩れましたね」とルシアが言った。
「巻くのが難しかったです」
「コツがあります」
「教えてください」
「今度」と彼女は言った。
今度。つまりまだここにいるつもりらしかった。いつからここにいるつもりになったのか、俺にはわからなかった。最初は「今夜だけ」だったはずだった。でも今度、と言った。俺は何も言わなかった。崩れた卵焼きをそのまま皿に盛った。
食べている間、ルシアはスマートフォンを触らなかった。テーブルに伏せて置いて、卵焼きを食べた。伏せて置く、というのが少し気になった。画面を見たくない、という感じに見えた。でも今の俺には、その理由がわからなかった。
「美味しいですよ」と彼女は言った。
「崩れてますけど」
「味は同じです」
「ルシアさんのより崩れてます」
「形は関係ないです」と彼女は言った。「ちゃんと食べられるので」
そういうものかもしれなかった。
食後、ルシアはまたソファに座って、スマートフォンを見始めた。今度は伏せて置かなかった。画面を見ていた。表情は読めなかった。俺は洗い物をした。特に何もない土曜日のはずだった。
昼前、俺もスマートフォンを見た。
SNSを開いたら、タイムラインが動いていた。
-----
最初は何のことかわからなかった。
流れてくる言葉が、最初はバラバラに見えた。「ルシア」「発言」「切り抜き」「性格悪い」「がっかり」「オワコン」。断片が流れてきて、少しずつ繋がった。
切り抜き動画があった。昨日の配信の一部を切り取ったものだった。再生した。
ルシアの声が聞こえた。配信中の声だった。何かのファンについての発言だった。文脈を切り取られていた。前後を切り落として、一言だけが残っていた。それだけ聞くと、確かに悪く聞こえた。
コメントが並んでいた。「こんな人だったの」「裏切られた気分」「ずっと応援してたのに」「もう見ない」。拡散されていた。まとめサイトに載っていた。知らないアカウントが次々と引用していた。
俺は顔を上げた。
ルシアはソファに座って、スマートフォンを見ていた。膝を抱えて、画面を見ていた。表情は、普通だった。さっきと変わっていなかった。
今の俺には、何も感じなかった。
炎上していることはわかった。ルシアが叩かれていることもわかった。でも怒りも、悲しみも、何も来なかった。今の俺には、まだ何も来ていない。
スマートフォンを置いて、洗い物の続きをした。
ルシアは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
雨が降り始めた。最初は小雨だった。だんだん強くなった。窓の外が暗くなった。土曜日の午後が、雨の音と一緒に、静かに過ぎていった。
-----
夕方、ルシアが立ち上がった。
「少し出てきます」
「雨ですよ」
「すぐ戻ります」
フードを深く被って、出て行った。傘は持って行かなかった。止めようとしたが、もうドアが閉まっていた。
三十分くらいして帰ってきた。肩が少し濡れていた。コンビニの袋を持っていた。中にプリンが三個入っていた。
「傘、持って行けばよかったです」と俺は言った。
「近かったので」
「濡れてます」
「少しだけです」
タオルを渡したら、「ありがとうございます」と言って受け取った。髪を拭いて、ソファに座った。コンビニの袋をテーブルに置いて、プリンを一個取って食べ始めた。
「……俺の分もありますか」と俺は聞いた。
「あります」
二個目を渡してくれた。二人でプリンを食べた。雨の音がしていた。テレビはつけていなかった。
「あの」と俺は言った。
「はい」
「今日、SNSが」
「知ってます」
ルシアは遮った。プリンを食べたまま、窓の外を見た。雨が窓を叩いていた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「でも」
「よくあることなので」と彼女は言った。「慣れてます」
慣れてます。その言葉が、少し引っかかった。でも今の俺には、その引っかかりの意味がわからなかった。
プリンを食べ終わった。雨の音が続いていた。
「あの切り抜き、文脈が違いました」と俺は言った。
「そうですね」
「前後を切ったら、何でも悪く聞こえます」
「そうですね」
「怒らないんですか」
ルシアは少し間を置いた。窓の外を見たまま、プリンのカップをテーブルに置いた。
「怒っても、変わらないので」
「変わらなくても、怒っていいと思いますけど」
「……慣れてます」と彼女はもう一度言った。「昔からこういうことはあったので。配信を続けてると、必ずある。だから、慣れました」
慣れた、と言う時の顔が、俺の知っているルシアの顔じゃなかった。配信の顔でも、床に転がる顔でも、プリンを食べる顔でもなかった。もっと遠くにある顔だった。
今の俺には、まだ何も来ていなかった。
それだけ言って、三個目のプリンを開けた。
-----
月曜日の朝、来た。
起き上がった瞬間から、来ていた。
金曜日の夜のことが、全部届いていた。
配信中のルシアの声。いつもより高かったトーン。一時間以上続いた配信。終わった後の静けさ。「つかれた」と言わなかったこと。関西弁が出なかったこと。緑茶を一口飲んで黙っていたこと。土曜日の朝、スマートフォンを伏せて置いていたこと。雨の中を傘も持たずに出て行ったこと。「慣れてます」と言った時の顔。
全部、一度に来た。
それから、切り抜き動画の内容が来た。昨日は事実として見ていた。今朝は感情として来ていた。
切り取られた発言の前後を、俺は昨日確認していた。文脈があった。悪意はなかった。それどころか、元の発言は誰かを庇おうとしたものだった。それを一言だけ切り取って、拡散した。
怒りが来た。
静かに、でも確実に来た。
台所に行ったら、ルシアがいた。卵を出していた。今日も卵焼きを作るつもりらしかった。いつも通りの朝だった。
「おはようございます」と俺は言った。
「おはようございます」
ルシアは振り向いて、俺の顔を見た。少し首を傾けた。
「……また変な顔してます」
「来てました」
「え」
「金曜日の夜の分が、今朝来ました」
ルシアは手を止めた。卵を持ったまま、俺を見た。
「……今ごろ」
「今ごろです」
「だから怒ってる顔してるんですか」
「怒ってます」
ルシアは少し黙った。それから、卵をボウルに割り入れた。
「もう終わったことですよ」
「俺には今来てるんです」
「でも実際には、三日前の話で」
「関係ないです」と俺は言った。
ルシアが手を止めた。
「あの切り抜き、おかしかったです。元の発言を確認しました。全然違いました。誰かを庇おうとした発言を、一言だけ切り取って拡散した。それがおかしい」
「……そんなこと、気にしなくていいです」
「気にしてます」
「でも」
「今来てるんです」と俺は言った。「三日前のことでも、今来てるんです。だから今、俺は怒ってます」
ルシアは黙った。
卵を持ったまま、俺を見ていた。何かを読もうとしている顔だった。でも読めていない顔だった。
「……なんで」と彼女は言った。
声が少し変わっていた。配信の声でも、「天国や」の声でも、「なんでもいいです」の声でもなかった。
「なんで、怒るんですか。私のことで」
俺は少し考えた。
「おかしかったから」
「それだけですか」
「今はそれだけしか来てないです」
嘘じゃなかった。今朝来ているのは怒りだけだった。それが誰への怒りなのか、何への怒りなのか、まだわからなかった。ただ、来ていた。三日前の全部が今朝届いて、その中に怒りがあった。
ルシアはまた黙った。
それから、卵を溶き始めた。フライパンを火にかけた。いつも通りの手順で、卵焼きを作り始めた。
俺はソファに座って、雨の音を聞いた。月曜日の朝も、まだ雨だった。
しばらくして、ルシアが言った。
「……ありがとうございます」
背中を向けたまま、フライパンを傾けながら言った。
小さい声だった。
「あの」と俺は言った。
「はい」
「あの切り抜きの元の発言、庇ってたんですよね。誰かを」
間があった。フライパンの音だけがした。
「……聞いてたんですか」
「確認しました」
またフライパンの音だけがした。卵焼きが巻けていく音がした。
「そうです」とルシアは言った。「でも、うまく言えなくて。他人の感情が混ざって、自分の言葉なのか他人の言葉なのか、わからなくなって。それを切り取られました」
「自分の言葉なのか他人の言葉なのか、わからなくなる」と俺は繰り返した。
「……よくあることです。私には」
俺は何も言わなかった。
今朝来ている怒りの中に、別の何かが混ざり始めていた。怒りじゃない何かが。でもそれが何なのか、まだわからなかった。名前がついていなかった。
たぶん三日後の俺には、わかる。
「自分の言葉なのか他人の言葉なのかわからない」という言葉が、三日後にどんな重さで届くのか。
今の俺には、まだ来ていない。
卵焼きが皿に盛られた。今日は綺麗に巻けていた。
「食べてください」とルシアは言った。
「ありがとうございます」
「……崩れてないです、今日は」
「昨日より上手いです」
「昨日は俺が作ったんで」
「そうでした」と彼女は少し笑った。
小さい笑いだった。でも笑った。金曜日の夜から、初めて笑った気がした。
「コツ、今度教えてください」と俺は言った。
「今度」とルシアは言った。
今度。また今度だった。
俺は卵焼きを食べた。綺麗に巻けた卵焼きは、やっぱり美味かった。
雨の音が続いていた。月曜日の朝が、静かに続いていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品を少しでも気に入っていただけましたら、下部にある【ブックマーク】や【評価(星マーク)】にて応援をいただけますと幸いです。
皆様の一票が、物語を書き進める大きな支えになっています。次回もよろしくお願いいたします。




