第2話「日曜日の朝、俺は木曜日を全部受け取った」
第2話「日曜日の朝、俺は木曜日を全部受け取った」
ルシアが部屋に来てから、三日が経った。
木曜日に来て、金曜日と土曜日が過ぎて、今日は日曜日だった。
最初の夜「泊めてもらえませんか」と来たから、てっきり一晩だけだと思っていた。でも、翌朝、彼女はナチュラルに台所に立っていて、卵焼きを作り始めた。
「あの、今日は」
「すみません、今日もう一日だけ、いいですか」
「いいですよ」
それだけだった。
その次の朝も、同じやり取りがあった。「今日も、もう一日」「いいですよ」。三回目になると、聞かれなくなった。彼女が台所にいるのが、自然になっていた。
俺も「いつまで?」とは聞かなかった。聞いたら、彼女が出て行く気がした。そして、彼女がいないこの部屋が、想像できなくなっていた。
最初の夜、寝る前に、彼女は少しだけ自分のことを話した。
「私、半年くらい、こういう場所を、探してました」と彼女は言った。「感情同期に反応しない場所。いろんな人を訪ねて、いろんな部屋に行って、でも、ダメで」
「半年」
「うん。配信、やってた頃から。もう、限界で。どこかに、逃げ場が、ないかなって」
「配信してる時から?」
「うん。みんなの感情が、流れ込んできて、しんどくて。でも、逃げ場は、見つからんくて。そのうち、倒れて、引退して」
「うん」
「引退しても、症状は、消えへんかった。だから、探し続けました」
「ダメだった?」
「どこも、ダメでした。家族の家でも、友達の家でも、ホテルでも。感情同期のノイズが、薄くても、必ず、ある」
「うん」
「でも」と彼女は言った。
「あなたの部屋だけ、ありませんでした」
「やっと、ここに、たどり着きました」
彼女はそれだけ言って、寝た。それ以上、聞かなかった。聞いても、たぶん、答えなかった。
いつの間にか、三日が過ぎていた。
-----
金曜日と土曜日のことは、断片的に覚えている。
ルシアは床に転がっていることが多かった。「無重力みたいで」と一度言った。配信を二度した。三十分くらいで終わって、「つかれた」と関西弁で言って倒れた。
俺は何もしなかった。麦茶を渡したり、コンビニに行ったりした。ルシアに頼まれて、からあげ棒を買ってきた。今度は二本で済んだ。
金曜日の昼間、彼女が一度、子供向けのアニメを見ていた。スマートフォンを天井に向けて、床に寝転んで、画面を見ていた。
「面白いんですか」と聞いたら、「あんまりわからないです」と彼女は答えた。「でも、見てしまいます」
「何が面白いんですか」
「みんなが最後に笑うので」
俺はそれ以上聞かなかった。彼女が何を考えてアニメを見ているのか、今の俺にはわからなかった。
土曜日は、特に何もなかった。配信があって、倒れて、麦茶を飲んで、寝た。それだけだった。
それらの出来事に、俺は何の感情も持っていなかった。
可愛い、と思ったわけでもない。可哀想、と感じたわけでもない。ただ、人がいる。麦茶を渡す。からあげ棒を買ってくる。それだけ、という感じで、二日が過ぎた。
俺の感情はいつも三日遅れる。だから、彼女が来た木曜日の感情が届くのは、たぶん日曜日。
そういう生活が、そういうペースで、続いていた。
-----
日曜日の朝、目が覚めた。
いつもより少し早い時間だった。窓の外は晴れていた。光が横から部屋に入ってきていた。
布団の中で、しばらく天井を見ていた。
そして、来た。
最初に来たのは声だった。「天国や」という関西弁が、耳の奥で鳴った。次に来たのは映像だった。玄関の前に立って、目を閉じて、静けさを確かめていた横顔。床に崩れ落ちて、天井を見上げていた顔。毛布を体に巻きつけて、ただ眠っていた顔。それから言葉が来た。「なんでもいいって言う方が、ずっと楽やったんです」。からあげ棒を受け取る時に一瞬だけ見せた、配信の顔に似た笑顔。
全部、一秒で来た。
止まらなかった。
布団の中に、三日分が、来ていた。
動けなかった。
こういうことは、毎週ある。三日後に感情が来るのは、いつものことだ。でも今朝は、量が多かった。一晩分じゃなくて、ルシアが来てからの全部が、一度に届いていた。処理が追いつかなかった。
十分くらい、天井を見ていた。
彼女が、玄関で深呼吸していた時、本当に疲れていたんだ、と今朝の俺は思った。
「天国や」と関西弁で言った時、本当に「天国だ」と感じていたんだ、と今朝の俺は思った。
「なんでもいいって言う方が、ずっと楽やった」と言った時、彼女がずっと、自分の好きを言えずに生きてきたんだ、と今朝の俺は理解した。
全部、三日前にはわからなかったことが、今朝、わかった。
-----
起き上がるまで、もう十分かかった。
台所に行ったら、ルシアがいた。
卵焼きを作っていた。今日も床に転がっていない。彼女は朝、わりと普通に起きる人らしかった。
「おはようございます」と俺は言った。
「おはようございます」と彼女は言った。
振り向いた。少し首を傾けた。
「……朝、起きるの、いつもより遅かったですね」
「来てたので」
「来てた」
「三日前の」
「あ」
彼女は少しの間、何も言わなかった。それから、卵焼きを巻き続けた。
「ここに来てからの分、ですか」
「全部です」
「全部」
「全部、一度に来ました」
「そうですか」
彼女は背中を向けたまま、もう一度「そうですか」と言った。さっきよりも少し小さい声で。
-----
二人でテーブルにつき、卵焼きと味噌汁を食べた。
味噌汁はインスタントだった。卵焼きは綺麗に巻けていた。
俺は食べながら、ルシアを見ていた。
彼女は窓の外を見ていた。朝の光が横から当たっていた。ジャージの袖を両手で包むみたいに持って、箸を持ったまま、何か考えるように少しだけ目を細めた。
——その横顔も、たぶん、三日後の俺には、もう一度届く。
そう思って、見ていた。
「白瀬さん」と彼女は言った。
「はい」
「今、何を感じてますか」
俺は少し考えた。
「うまく、言えないです」
「言えない」
「来てるのはわかります。重さもあります。でも、名前がついてないです」
「名前」
「嬉しいとも、悲しいとも違う。でも、確かに、何かが来てます」
ルシアは少しの間、卵焼きを見ていた。
「私には、わからないです」と彼女は言った。
「俺の感情、ですか」
「あなただけ、何も来ない。だから、今、何を感じてるのか、わからない」
「読めないんですね」
「読めないです」
彼女は俺をじっと見た。何かを読もうとしている顔。でも、読めていない顔。
俺はそれをじっと見返した。
彼女の前で、今、俺の感情は、彼女に「読まれない」。
それが、なぜか、安心する感じだった。
でも、今の俺には、その「安心」の意味も、まだ全部は来ていない。たぶん、三日後に届く。
-----
午後、ルシアが冷蔵庫を開けた。
「何か要りますか」と俺は聞いた。
「……プリンを、買おうかと思って」
「プリン?」
「来てから、ずっと、なんか食べたくて」
来てから、ずっと。つまり、木曜日からの三日間、ずっと。
「なんで言わなかったんですか」
少し間があった。
「……なんでもいいですって言う方が、楽やったので」
また、同じ言葉だった。
今朝の俺には、その言葉の重さが、三日前よりはっきり、わかっていた。
「コンビニ行きます」と俺は言った。「プリン、何個ですか」
「……二個」
「本当に二個ですか」
「……三個」
正直だった。
コンビニで三個買って帰った。ルシアはテーブルで三個全部食べた。一個目は慎重に、二個目は普通に、三個目は少し急いで食べた。
「……美味しかった」
昨日のからあげ棒を二本食べた時とは、声が違った。今日のは、自分で確かめるみたいな声だった。
自分の「美味しい」を、初めて、見つけたみたいな声だった。
俺はそれを見ていた。
——たぶん三日後の俺は、この「美味しかった」を思い出して、しばらく動けなくなる。
今の俺には、まだ、その重さの全部は来ていない。
でも、少しだけ、来ていた。
-----
夕方、ルシアが配信の準備を始めた。
「Lulu=Lucia」としては引退したと、来た日に聞いていた。何十万人を抱えていたあのアカウントは、もうない。最後の配信は世界中が泣いた配信だった。
今やっているのは別のアカウントらしかった。誰も「Lulu=Lucia」だとは知らない。リスナーも数百人くらいだと言っていた。
「完全に辞めるのが、怖くて」と彼女は来た日に言っていた。「全部やめたら、自分が何なのかわからなくなりそうで」
だから小さく、誰も知らない場所で、配信を続けていた。
スマートフォンを立てかけて、イヤホンをつけた。姿勢が変わった。
「……それじゃあ、今日も少しだけ」
声が変わった。
柔らかく、丸く、何百人かを包めそうな声。
俺は今日、初めて、その配信を正面から見ていた。前の二回は、台所にいたから少し距離があった。今日は真正面だった。
背筋が伸びていた。表情が整っていた。目の焦点が、少し遠くに移動していた。俺を見ているようで、俺を見ていない目になっていた。
六畳の部屋に、俺と彼女しかいないのに、遠かった。
彼女の声は、画面の向こうの何百人かに向けられていた。俺には向けられていなかった。
——三日後の俺は、この感覚に、名前をつけるんだろうか。
今の俺には、まだわからない。
三十分で終わった。
イヤホンを外して、横に倒れた。
「つかれた」
関西弁だった。さっきまでの声は、もうどこにもなかった。
俺は緑茶を淹れて、湯呑みを差し出した。彼女は床から手を伸ばして受け取った。
「ありがとう」と彼女は言った。
一口飲んで、また天井を見た。
しばらくして、彼女が言った。
「白瀬さん」
「はい」
「今日、ずっと、いつもと違う感じで、私を見てました」
「そうですか」
「三日前のが、来てるから、ですよね」
「来てます」
「だから」
「だから」
「……なんでもないです」
関西弁じゃなかった。
彼女は何かを言いかけて、止めた。
俺には、その続きが、わからなかった。
たぶん三日後の俺には、わかる。
「だから」の続きが、今日の彼女の顔と一緒に、三日後に届く。
今の俺には、まだ来ていない。
-----
「おやすみなさい」とルシアは言った。
「おやすみなさい」
電気を消した。
暗くなった部屋で、ルシアの寝息がすぐに聞こえてきた。配信の後は、いつもそうらしい。
俺は天井を見ていた。
今朝届いた三日分が、まだ少し残っていた。名前のない、重さだけがある何かが、まだ胸の中にあった。
三日前の彼女の横顔が、まだそこにいた。
朝に届いたのに、夜になっても消えていなかった。
こういう時、感情はいつまで残るんだろう。三日後に届いて、また三日後に消えるのか。それとも、ずっと残るものもあるのか。
今まで考えたことがなかった。
感情が遅れて届くことには慣れていた。でも、届いた感情がいつまで残るかは、考えていなかった。
「だから」の続きも、まだ来ていない。
三日後に来る。
今夜の俺には、まだ届いていない。届くのは、たぶん、来週の水曜日くらいだろう。それまで、知らないままで、ただ生きていく。それが、いつもの俺の生活の、いつものペースだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品を少しでも気に入っていただけましたら、下部にある【ブックマーク】や【評価(星マーク)】にて応援をいただけますと幸いです。
皆様の一票が、物語を書き進める大きな支えになっています。次回もよろしくお願いいたします。




