第9話『歌が橋を架ける』
「こっちの村の水場を勝手に使ったらしいぞ」「いや、向こうが線引きせずに植えたのが原因だ!」
些細な誤解が、じわじわと膨らんでいた。唯の村と交流のある二つの近隣村で、土地や水の使用を巡って争いの火種が生まれていたのだ。
「このままじゃ、どっちかが刃物を抜く……!」
緊迫する空気の中、春日唯は拳ではなく、声を上げた。
「ライブをやりましょう」
村人たちは目を丸くした。
「……は?」
「お祭りでも儀式でもない、“舞台”です。ふたつの村が、同じ場所で、同じ時間を過ごすんです。歌って、踊って、笑って。一緒のステージを見たら……きっとわかりあえる」
それは唯が、かつて全国ツアーで体感した“奇跡”だった。
敵対していたファン同士も、同じ空間で推しの声に震えた瞬間、たしかに何かが溶けた。
「“コール&レスポンス”って知ってます? こっちが『せーの!』って言ったら、向こうが応えるんです。それだけで心がひとつになるんです!」
準備は大急ぎだった。村の広場に木の板を組み、中央に簡易なステージを作る。
「音響はどうする?」
「うちのファンにね、元バンドマンがいたんです。野外ライブもやってて……ステージの向きは風上、反響は木々を利用、歌う人の足元には反響板代わりの板材……」
まるで魔法のように指示が飛ぶ。村人たちも唯の熱意に巻き込まれ、竹を割って風鈴をつくり、布をかけて照明代わりの反射板を仕込んだ。
そして、祭りの名は《収穫と歌の祭典》。
二つの村から、代表の大人たちと、その子どもたちが招かれた。
「争いなんて、もう面倒くさい」「親がピリピリしてて……やだな」
そんな声がちらほら聞こえる中、唯はステージに立つ。
静寂を切るように、一音目が放たれた。
「♪みんなで つなげた この声が 橋になる」
村の若者たちと作った合唱。祭りで配った手作りマラカスが鳴り、太鼓が低くリズムを刻む。
「せーの!」唯が叫ぶ。
すると、最初はぎこちなかった子どもたちの声が、やがて大人たちにも波及する。
「せーの!」
「せーの!!」
広場の空気が、一体になる。歌の途中で、村人たちはふと互いの顔を見る——怒りではなく、笑みで。
「……ねえ、あの人、こっちの野菜買ってくれてたよね?」
「うちの兄ちゃん、あっちの村の子と狩りに行ってたよ」
歌は、記憶をたぐる。そしてそれを、温め直す。
ライブの最後、唯は深く頭を下げた。
「歌は魔法じゃありません。でも、心の声を届ける手段にはなります。だから、話してください。怒りじゃなく、声で——言葉で」
沈黙。
だが、それを破ったのは、二つの村の年長者だった。
「……今回の水場のことは、こちらの確認不足もあった」
「いや、うちも耕作の範囲をきちんと伝えなかった。すまなかった」
ゆっくりと、握手が交わされた。
それは小さな手のひら同士の触れ合い。しかし、村人たちはそれを「平和の幕開け」と感じた。
夜が更け、焚き火を囲んでの歌が始まるころ——誰かが言った。
「争いがなくなるなら……歌姫のライブ、またやってもらえばいいじゃないか」
「うちの村にも来てほしいな」
「“歌姫のもとで平和を”……いい響きだなあ」
唯は火の灯りを見つめながら、胸の奥に手をあてた。
この手で誰かを殴ることもできる。でもこの声で誰かを結べるなら——私は、何度だって歌う。
それが、“歌姫”春日唯の選んだ道だった。