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穴倉

「吾輩は猫である。名前はまだ無い」

夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭だ。

 かく言う我輩もまた猫である。名前はある。だが、どんな名前だったかは忘れてしまった。その名前で呼ばれることがないからだ。我輩は捨猫。そう、捨てられた猫なのである。

 我輩が、飼主の元へやってきたのは、生まれてまもなくのまだ子猫の頃だった。

 雨の降りしきる夕方。日はまだ沈んではいなかったが、分厚い雨雲に覆われて薄暗かった。我輩はその時公園にあるベンチの下で雨宿りをしていた。子猫の我輩が何故そこにいたのかは記憶に無い。朝からいたのか、それとも昨日から、それとももっと以前から。それら全てに記憶がないのである。気がついたらそのベンチの下で恐怖と寂寞で鳴き続けていた。

 子猫の細くて痛々しい鳴き声は、降りしきる雨音に掻き消されてしまって、公園を横切っていく人の足は止まることもなく素通りしていってしまっていた。我輩はこのまま、我輩はこのまま、この世とはおさらばなのであろうか、などとよからぬことを考え始めていたその矢先に、がっしりとした大きな手が、我輩を救い上げてくれた。

 ミャーミャーと我輩は訴えかけた。その声が届いたのか、飼主は大きな手で我輩を包み込んで、その胸に抱き寄せて抱きしめた。我輩は、鳴き疲れたのかそれとも救いの手に安堵したのか飼主の胸の中で気を失ってしまった。

 眼が覚めたのは温かなフカフカのクッションの上だった。眼の前にはミルクの注がれた小皿が置かれてあった。我輩は、疲れた体を労わるようにゆっくりと立ち上がってそのミルクを勢い良く飲み干した。それでも空腹を満たすには事足りなかった。我輩はまたも鳴いた。ミャーミャーと有らん限りの力を振り絞って鳴いて飼主にミルクを要求した。”元気になって良かったな”と言って、飼主は小皿にミルクを注ぎ込んだ。

 飼主の大きな手の中にスッポリと入ってしまう程に小さな子猫はミャーと鳴かずとも、飼主の大きくて温かな手は、まるで壊れやすいガラス玉を扱うように優しく優しく頭を撫でてくれることを知った。

 やがて、子猫は月日が過ぎるとともに成猫へと成長し、それにあわせるようにその鳴き声も変化していった。ボーイソプラノの声域で可愛くミャーミャーと鳴いていた愛らしい子猫の声は、成長するにつれてテノール、バリトンと徐々に低く声変わりしていって、到頭、バスの声域で憎たらしいほどの力強さでニャーニャーと吠えるようになった。

 鳴き声がミャーからニャーに変わり、大きな手の中にスッポリと入りきれなくなってからは、飼主が頭を撫でてくれる回数もめっきりと減少していった。いつしか、ニャーと鳴き声をあげても、ゴロゴロと咽喉を鳴らしても、飼主が我輩を構う事はしなくなってしまった。

 余談ではあるが……。

蜘蛛の子を散らすとは、蜘蛛の子の入っている袋を破ると、中から多数の蜘蛛の子が出てきて四方八方に散る様子から、大勢の者が四方八方に散って逃げる様子を意味している。

 蜘蛛の研究をしているある先生は、この言葉通りに袋を破ると蜘蛛の子は四方八方に散るのかどうかそれを知りたくて、観察を続けた。袋の中で卵から蜘蛛の子に成長して袋から出て来た蜘蛛の子達は、それぞれ自分勝手に四方八方に散っていくものだと思っていたのに、蜘蛛の子達は袋を破って出て来ると散り散りに散らずに、数匹から十数匹の一塊になって、安全地帯へと向かって進行していった。一塊の蜘蛛の子達は行く先々で困難な目に出くわすと、仲間同士で協力し合い互いに助け合いながら難を逃れ先へさきへと前進していった。そして、安全な場所を見つけると、蜘蛛の子達はここで漸くチリヂリバラバラに散っていったという。これが蜘蛛の子達に与えられた生きるための知恵なのであろうと言っていた。

 こうして、ミャーミャーと飼主の後ばかり追い回していた子猫の頃の我輩は、成猫となって自立し独立していったのだった。


 そんなある日、草木も眠るある夏の熱帯夜のことだ。飼主は、我輩を車に乗せてドライブに出かけた。熱帯夜のせいで暑苦しく寝苦しい飼主が、それを解消しようとしてそうしたものとばかり思っていた。我輩はその先に何が待ち構えているのか、そんな事はどうでも良かったし考えてもいなかった。ただ単純に、飼主との久し振りのドライブを喜び楽しんだ。

 ネオン輝く賑やかな市街地の繁華街を抜け、寝静まった住宅街を抜けて、車は田園風景の田舎道を走り、更に遠くへ遠くへと車は停止することもなく走り続けた。

 どれくらいの時間がたったのか、それは長かったのか短かったのか、助手席で眠っていた我輩には、到底知る由もなければ理解もできなかった。

 ふと目覚めたのは、飼主に抱き上げられたその時のことだった。大きくて逞しい胸に抱かれ、大きくて温かな手で何度も何度も、子猫の頃のように優しく優しく我輩を愛撫してくれた。我輩は余りの嬉しさに、いつもより長くゴロゴロと咽喉を鳴らした。

 これで満足でもしたのか、飼主は我輩を助手席に戻して車をUターンさせて停車し、窓を開けて我輩の首根っこを掴んだ。

「え?」

と思う暇もなく、我輩は車外へとほっぽり出された。何事が起きたのかもわからず知れず、我輩は不安な眼で表情で辺りをキョロキョロと見回した。ヘッドライトの明かりに照らしだされていたのは、数え切れぬほどの木々だった。

 そうこうしている内にエンジン音が耳を劈き、やがて、小さくなっていった。眩しかった光は淡いものとなり、やがて、消えていった。その場に我輩を捨て置いたまま飼主の車は走り去っていったのだ。余りにも突然の出来事にどう対処すればいいのか、考える気にもなれないぐらいに我輩にとっては衝撃であり、ショックなことだった。

 我輩は、深い森の奥に捨てられたのだ。そう、再び、我輩は捨猫になってしまったのだ。現段階での状況がわかったのは、たったそれだけのことであった。

 我輩は一睡もせずに当てもなく歩き続けた。どこへ行っているのかもわからず、どこへ行けばいいのかもわからず、ただ只管歩き続けた。夜が明けて翌朝になった。咽喉の渇きは朝露を舐めて凌いだ。だが、空腹だけはどうしようもなかった。我輩は、エサを取る術を知らなかったのだ。飼主が与えてくれる毎日の食事だけが頼りの生活が身に染みて、エサをどうやってとればいいのか教わらなかったのだ。

 頭を垂れ、尻尾を垂れ、我輩は森の中を彷徨い続けた。当てもなくブラブラと歩き続けた。昼が過ぎ日が沈み夜になった。途端に、眠気と疲労が我が身に襲い掛かってきた。塒を求めてフラフラと歩いていると、ふと、目の先に大きく口を開けた洞窟のような、洞穴のような穴倉があるのに気がついた。

 我輩はその前に立ち止まって、暫し考えた。ここへ入り込んでもよいものかどうか、ここを抜ければこことは違う場所へ行けるのかどうか、と。暫く考えた末に、結局、結論も出せぬまま、眠気と疲労感からその穴の中に入っていった。

 だがそこは、行けども行けども出口には行き着けなかった。それどころか、まるで行く手を阻むようにその穴の通り道は急に狭くなっていった。

 我輩は、徐々に不安になり怖くなって、元来た道を戻ろうとして踵を返したその瞬間だった。

「あなたも捕まったのですね」

 突如の声に吃驚仰天し、我輩は辺りを見渡した。

「そこを抜けて来れば広い場所へ出ますよ」

と、再度声が言った。

 我輩は、その声に導かれるように狭い通路を抜けた。すると声の主が言ったように広い場所へと出た。

「誰だ?」

と、我輩が叫ぶように訊くと

「あなたには見えるのでは」

と、声が答えた。

 我輩は目を凝らして声の主を見つめた。

「蛇?」

と、我輩が尋ねるように言うと

「はい、蛇です」

と、声の主が答えた。

「何だよ、ちっちゃい蛇じゃねえか」

 我輩は、鼻で笑って小柄な蛇に近付いていった。

「はい。蛇はヘビでも、毒蛇です」

「毒蛇!?」

 我輩は驚きの声をあげて、咄嗟にジャンプして飛び退いた。

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