第6話 キミと焼き立てのパン
最近は心の調子もよく、学校に行く回数が着実に増えていき、今ではほぼ毎日学校に行けるほどになっていた。今はあまり昔のトラウマを思い出すこともなくなっている。ただやっぱり、ふとした時に突然、今は一緒に暮らしていない、ここにいないはずの両親からの暴力や暴言の数々を思い出す。深い恐怖に陥り、過呼吸になることがある。そうなったときには一度落ち着くのを待ってから、散歩へ行くようにしている。そう、今日みたいに。
「今の時間は……もう六時か、そろそろ帰らないと。でもここどこだ?隣町じゃないだろうな……」
うっすらと陽の光が差し込む休日の明け方。肌寒い空気を纏い、僕は静かな街を歩く。だが方向音痴なくせにいつもと違う道を歩いたせいか自分のいる場所がどこか分からなくなっていた。
僕は一度、無心で散歩をしている時、気づかぬうちに隣町まで歩いて行ってしまい、家へ帰るのに何時間もかかったことがある。
「……まぁ、いいや」
とりあえず覚えている限りの来た道をたどることにした。歩いていればいずれ帰れるだろう。しばらく歩き続けていると段々と、犬の散歩をしている人やランニングをしている人が増えてきた。
「……朝早いのに元気だなぁ」
そんな健康そうな人たちを横目に歩き続ける。僕もいつまでも健康でいたいものだ。こうして歩いていると普段、気にも留めないような色々なものが見えてくる。道端に咲く花、木の枝に仲良く停まる二羽の雀、パン屋から香る焼き立てのパンの香り。そしてスポーツウェアを着て走る、さわやかなイケメン幼馴染。
「え!?瞬!?」
さすがにスルーしきれず振り向く。
「ん?優斗か!お前なんでこんな時間にいるんだよ!いや待て、幻覚か?」
「それはこっちのセリフだ」
この幼馴染、間宮瞬はイケメンで運動もでき割とモテるのだが、たまに様子がおかしくなる。それでも僕のことを気にかけ、一緒にいてくれる良い幼馴染だ。
「俺はこの辺りを毎朝この時間に走ってるんだ」
「毎朝!?すごいなこんな早い時間に……」
瞬はさも当然かのように言う。
「……さて、俺は話したぞ。次は優斗の番だ」
「僕は、たまたま早く起きたから散歩してるだけだよ」
少しだけ嘘をついた。こんな朝早くから心配をさせたくない。
「そうか……走りに来てたんじゃなかったんだな」
「こんな朝早く起きて走らないよ。それに僕が運動苦手なの知ってるだろ?」
「そういえば、そうだったな。いや、そうだったか?」
「そうなんだよ」
そんな、なんて事のない会話を気心知れた幼馴染と交わす。そんな時間が僕は好きだ。
「じゃあ、俺は走るのに戻るぞ。また学校でな!」
「うん。また学校で」
再び走り出した瞬と別れ、僕も家に向かって歩く。段々、見知った建物が増えてきた。着実に家に近づいて行っている証拠だ。
「……良い匂いするな」
歩いているとどこからかパンの焼ける良い匂いが漂ってきた。その匂いを辿ってみる。
「こんなところにパン屋なんてあったんだ」
大通りから外れた細い路地。その先にひっそりとたたずむ、花壇に色鮮やかな花の咲いたお店。看板には【シロネコベーカリー】と書かれていた。僕は扉を開けて中に入る。店の中は焼き立てのパンの匂いと木の温もりで包まれていた。入り口近くにある白いトレーとトングをもってパンを選ぶ。種類は少ないがどれもおいしそうだ。
「……クロワッサンと、サンドイッチとメロンパン。帽子の形をしたパンなんてあるんだ」
目についたおいしそうなパンをトレーに乗せていく。ちょっと前ならこんなにパンなんて買わなかったけど今は一人じゃない。
「よく考えたらメロンパン食べる黒猫って何なんだよ」
トレーに乗ったメロンパンを見て、堕天使の星月ノアに仕える黒猫のロデムを思い浮かべる。メロンパンが好きなのはロデムだけではない。一緒に暮らしている星月ノアも、もちろん僕もよく食べる。
「……あと二つ買っておくか」
僕はトレーの上にメロンパンを追加で二つ乗せる。そして、そのままレジに向かう。
「……白い猫?」
レジの上には、毛並みの美しい白い猫が行儀よく座っていた。
「その子はうちの看板娘、チカ。可愛いでしょ?」
レジ裏にあるのれんの裏から、妖精のように美しい緑色の髪をした少女が出てきた。
「はい、とっても。でもちょっと近寄りがたい感じが……」
白い猫のチカからどことなく触れるな、近づくなというオーラが出ている。
「あはは、この子は警戒心が強い子だからね。初対面の人には特に」
チカはじっと僕を見る。僕が目をそらしてもずっと圧を感じる。そうこうしているといつの間にか会計が終わっていた。
「また来てねお兄さん。次来たときはチカに警戒されてないといいね」
パンの入った袋を受け取り、手を振る少女に見送られ僕は店を後にした。そして数十分かけてようやく家に帰ることができた。玄関の扉を開け、家の中に入ると黒猫のロデムが座って待っていた。
「ロデム?起きてたんだ」
「……主がお怒りだぞ、人間」
「え?」
ロデムはそう言って、薄暗い廊下の先の閉じた扉を見る。
「それって本当?」
「本当だ」
「……ちなみに星月さんが怒ったらどういう感じなの?」
「なんというか、怖いぞ。淡々と詰められる。まぁ、頑張るんだな、人間」
いつまでも玄関にいるわけにもいかないので、僕は恐る恐る扉を開け、リビングに入る。そこには静かにソファーに座る、透き通るような薄いピンク色の長い髪の堕天使、星月ノアがいた。
「お帰り、優斗」
「た、ただいま……」
「どこ行ってたの?」
「ちょ、ちょっと散歩に……」
「ふーん」
ロデムの言っていた通り、彼女は淡々としている。それに少し声も低い。正直怖い。
「散歩ねぇ……いつも夜、一緒に散歩へ行くのに急に一人で……しかも朝早く……」
「悪夢を見て眠れなかったんだ。それに、寝てるのに起こすのはちょっと悪い気がして」
「ふーん、そう」
声は少し明るくなったが、やっぱり圧を感じる。
「それで、その手に持ってるものは何?」
「パンだよ。焼き立てだったんだ。一緒に食べない?」
袋に入った焼き立てのパンを彼女はじっと見る。
「……まぁ、今回は許してあげる。次はせめて書置きくらいして。心配だから……」
彼女はどこか安心しきったような声でそう言う。
「うん、次からはそうするよ。心配かけてごめん」
僕はそう謝って彼女の隣に座る。
「さ、パン食べようか。焼き立てだからいつもよりおいしいと思うよ」
「私、この帽子の形したパン食べてみたい」
「人間、メロンパンは買ってあるんだろうな?」
僕たちはそれぞれ袋の中からパンを取り出し、あたたかいうちに食べる。
「美味しい……また買いに行こうかな」
「それなら私も一緒に行く」
「もちろん、一緒に行こう」
今度は彼女を一人にしないように約束を立てる。明日の散歩も早朝になりそうだ。




