文化祭準備 中編 ~みんな気づいている2~’
「如月、みんなで休憩しようって」
作業中のリサの隣にしゃがみ込み、マサキが声をかける。
紙に目を落としていたリサは、少しだけ手を止めて横目でマサキを見た。
(……来てくれた)
内心ではそれだけで少し嬉しい。
いつもならそのまま笑って「行くーっ」と即答するところだ。
でも。
『みんなで』
その言葉が、どうにも引っかかった。
「やだよ、あたし行かない」
短く、きっぱりと突っぱねる。
マサキはやっぱりそうなるか……と小さく頭を抱えた。
それでも諦めきれず、少しだけ声の調子を変える。
「せっかくの文化祭だろ、如月1人だけ残すわけにもいかないから」
「やだ、あの人たち気持ち悪いもん」
拗ねたようにそっぽを向きながら、リサはぶつぶつ言う。
マサキは一瞬言葉に詰まる。
(さっきオレの方が如月に気持ち悪いことしたけど……)
さきほどマサキはリサのスカートに顔を突っ込んでしまったことを思い返す。
このままでは、リサにとってつまらない文化祭になってしまう。
それはなんとなく違う気がして、マサキは少しだけ強引にリサを連れ出すことにした。
「如月、ほら」
ペンを握るリサの手に、マサキの手が伸びる。
そのまま、ペンを持つリサの指の上から、そっと覆うように手が重なる。
「……」
リサの指先が、ぴくりと小さく反応した。
触れられている。
それだけなのに、思考が一瞬遅れる。
マサキの手は強くない。
むしろ力は抜けていて、ただそこにあるだけの感触に近い。
それなのに、妙に逃げられない。
ペンはまだリサの指に挟まれたまま。
その上から、マサキの指がゆっくりと重なっている。
マサキは黙ったまま、まず親指に触れた。
ぴ、と軽く押される。
リサの親指が、ほんの少しだけペンから離れる。
その瞬間、胸の奥が小さく跳ねる。
次に、人差し指。
マサキは急がない。
まるで確認するみたいに、一つずつ順番に外していく。
指の関節に軽く触れて、角度をずらして、静かに外していく。
リサの指は言われるままに動いてしまう。
抵抗する理由が見つからないというより、そもそも抵抗する意識が薄れている。
(ちょっと、待って……)
人に手を触られているだけ。
それだけのはずなのに、頭が妙にふわつく。
特に、マサキの指が触れるたびに、そこだけ熱が残る。
中指。
薬指。
一本ずつ外されていくたびに、
自分の手が少しずつ空になっていく感覚がはっきりしていく。
最後に残った小指に、マサキの指が触れたとき。
リサは一瞬だけ、息を止めた。
(なにこれ、力はいんない……)
ほんのわずかな力で、くい、と外される。
ペンが支えを失いかけて、バランスを崩す。
リサは慌てて手を動かそうとするが、その前にマサキの手がさらに上から覆う。
マサキはそのまま、リサの手から完全にペンを外した。
こつん。
手元からペンが滑り落ち、床に転がる。
「いいから来い」
低い声が落ちた直後。
「……っ」
リサの顔が一気に真っ赤になる。
カァッと音がしそうなほど、一気に熱が上がる。
「松前くん……」
リサはうるうると目を潤ませながらマサキを見つめる。
そのまま、少しだけ身体を寄せてくる。
リサはもう表情と行動すべてで好きオーラを全開させていた。
それを見ていたクラスメイトたちは、マサキの大胆な行動に言葉を失う。
さっきまでとは違う意味で、見られている。
(え、なにあれ……)
(あいつ、あんな積極的だったか?)
クラスメイトたちの目が、明らかに戸惑い混じりに揺れていた。
これまでのマサキは<地味で奥手なやつ>という扱いだった。
前に出るタイプでもなく、女子に対しても距離を取る側。
それなのに今は、リサのすぐ隣で、やけに自然に手を伸ばしている。
しかもその手つきが、迷いがない。
(……あいつ、意外とやるやつなのか?)
誰かが小さく呟く。
地味で、目立たなくて、どちらかといえば奥手で、誰かを引っ張るようなタイプではない。
それがマサキという認識だったはずなのに。
今は違う。
リサの手元に自然に手を伸ばし、その指先に触れ、まるで慣れているかのように距離を詰めている。
「いや、あれ絶対わざとじゃないだろ」
「無自覚だろ?ああいうのが一番効くんだよ」
その言葉で、空気が少し変わる。
計算ではなく<素>。
それなのに結果だけがやけに強い。
そんな視線の中で、マサキは慌てて手を離した。
「手……ごめん、触った」
少しぎこちなく謝る。
その瞬間だった。
リサの表情が、すっと曇る。
「やだぁ、繋いでて」
小さくそう言って、華奢な指先がマサキの手をつつく。
拒絶ではなく、さっきの続きを求める動きだった。
(……なんだこれ)
マサキは完全に処理が追いつかない。
「如月、休憩……」
軌道修正のように言う。
するとリサは即答した。
「行くから」
さっきまでの拗ねはもう消えている。
代わりにあるのは、迷いのない素直さだった。
マサキは少しだけ息を吐き、今度は逃げるような距離ではなく、自然な形でリサの手を取り直す。
そのまま、教室の中心へと歩き出した。
◇
教室の空気は、まだざわついたままだった。
文化祭準備の雑音が流れているはずなのに、その中心だけが浮いている。
マサキがリサを連れて戻ってきた、その瞬間からだ。
男子たちの目が、ほぼ同時に一点へ集まる。
明確な敵意というわけではない。
だがそこには、あからさまな嫉妬と、言葉にしづらい苛立ちが混ざっていた。
その苛立ちは、リサと自然に並んで立っているマサキに向いている。
(あいつ、なんであんな普通に……)
地味で目立たないはずのマサキが、なぜか当たり前のようにリサの隣にいる。
その事実だけが、周囲の認識を少しずつ歪ませていた。
男子たちは空気を切り替えるように、リサへと歩み寄る。
「わー、如月さんだ。さっきはごめんねー」
「お詫びにジュース奢るよ」
笑顔と上辺だけの言葉。
だがリサは、その言葉に反応しなかった。
「………」
小さく目をそらし、ぷいっと顔を横に向ける。
ただし、手は離していない。
マサキの手を、しっかりと握ったままだった。
「き、如月」
マサキが様子をうかがうように声をかける。
リサはそっぽを向いたまま、すぐには返さない。
その沈黙の数秒が、やけに長く感じられる。
これは単に返事を待っているだけじゃない。
マサキ自身も気づき始めていた。
(……これ、本当に休憩に連れていっていい流れなのか?)
リサは一緒に行く気はあるのか。
それとも、まだこの場に引っかかっているのか。
さっきまでは、呼べばすぐ反応が返ってきた。
冗談に乗って、場を軽くしてくれていた。
なのに今は、どこか判断を待っているような間がある。
男子たちの目も、まだ完全には引いていない。
このまま連れていけばいいのか、それとも一度切るべきなのか。
その確認のために、マサキはもう一度名前を呼んだ。
「如月……」
ようやく小さく反応が返ってきた。
「なに?あたし悪くないもん」
不満げな言い方。
それでも、ちらりとだけマサキを見る目は、どこか柔らかい。
(完全には怒ってない)
その事実だけで、少しだけ気が楽になる。
今のリサは、空気に合わせて動いていない。
マサキの反応と、この場の流れを、ちゃんと見ている。
だからこそ、マサキも判断を急がなかった。
男子の一人が苦笑しながら口を開いた。
「どうしたら許してもらえるかなー」
軽いノリ。
だが、その一言に対してリサは少しだけ間を置く。
もじもじと指先を動かしながら、マサキの手を握ったまま、控えめに口を開いた。
「松前くんが……あたしのこと、リサって呼んだら…許す」
「「なにぃぃ?!」」
空気が一瞬で跳ねる。
教室のあちこちから、同時に声が上がった。
マサキ自身も思わず目を瞬かせる。
「オ、オレぇ?」
確認するようにリサを見る。
リサは真っ直ぐに見返し、小さくうなずいた。
(いや……待て)
目の前のリサは、真っ直ぐこちらを見ている。
怒っているというより、少し拗ねているだけだ。
(なんで<名前で呼ぶ>になるんだよ……)
マサキの中で、整理が追いつかない。
男子たちが勝手に盛り上がって、勝手にエロいポーズさせて、
その結果としてリサが不機嫌になって、なぜかその責任が自分に寄せられている。
(いや、オレ悪くないだろ……)
そう思う一方で。
この場を収める役割が、自分に回ってきているのも分かっていた。
リサは、まだマサキの手を握ったままだ。
離す気配はない。
むしろ、ほんの少しだけ力がこもっている。
(……それでも、この場が収まるなら)
単純な話だ。
名前を呼ぶだけ。
それで機嫌が戻って、変な空気が収まるなら、それで終わる。
目を上げると、リサと目が合う。
じっと待っている。
逃がさない、というより、ただ待っている。
その静けさが、逆に重い。
(オレが、言うかどうか)
それで、この場の空気を戻していいのか決めようとしている。
マサキは小さく目を落とし、もう一度息を吐く。
(……よし)
目を戻す。
リサの目を見る。
今度は逃げない。
「リ、リサ……」
呼んだ瞬間だった。
リサの表情が一気に変わる。
頬がふっと熱を持ち、目が揺れる。
そしてそのまま、満面の笑顔に変わった。
次の瞬間には、マサキの胸元へ飛び込んでいる。
「マサキくんっ」
細い腕がぎゅっと背中に回される。
声は明るく、嬉しさを隠そうともしない。
男子たちは、その光景を一斉に見たまま固まった。
(……なに見せられてんだこれ)
ざわつきというより、思考が止まる沈黙。
「あれマジで好きなんだな」
「なんでアイツ気づかねーの?」
「いいなー、代わりてー」
羨望と混乱だけが残る。
マサキはリサに抱きつかれ、必死に恥ずかしさに耐えながらなんとか理性を保とうとする。
「くっつき過ぎ、ちょっと離れて」
できるだけ強くならないように、でも確かに距離を取ろうとする声。
それどころかリサはさらに強くぎゅーっと抱きしめた。
(……まずい)
マサキは慌てて目をそらしながら、もう一度声を落とす。
「如月」
そっと肩へ手を添え引き離す。
リサは少しだけ不満そうに唇を尖らせたまま、それでもマサキに肩を押されると、抱きしめていた腕をゆっくりとゆるめた。
細い腕が、少しずつ離れていく。
マサキは変な落ち着かなさを覚えながら、頭の中で無理やり意識を切り替える。
(いや、落ち着け……)
周囲の目がまだ痛いほど集まっているのも分かっていた。
リサはようやくマサキから身体を離すと、そのまま少しだけ上目遣いで見てくる。
頬はまだ赤い。
長い髪が肩へ流れ、潤んだ目が真っ直ぐこちらを見ていた。
さっきまで拗ねていたはずなのに、今はどこか期待するみたいな顔をしている。
そして、小さく呟いた。
「なまえ……」
マサキは一瞬、意味が分からず聞き返しかける。
(あ、これ……もう一回言えってことか)
目の前のリサは、じっと待っていた。
名前を呼ばれるのを待つみたいに。
マサキは少しだけ目を泳がせる。
周囲の男子たちは完全に黙ってこちらを見ていた。
張り詰めた空気の中で、マサキだけが取り残されている。
「……えっと」
口を開く。
だが、そこで妙に引っかかった。
さっきは勢いだった。
空気を止めるために、とにかく呼んだ。
でも二回目となると、急に現実味が出てくる。
<如月>じゃなくて、<リサ>。
頭の中で音だけが妙にはっきり響く。
呼び慣れていない名前。
しかも相手は、クラスでも目立つ女の子で。
今もこんな近距離で、自分だけを見ている。
マサキは一度だけ小さく息を吐いた。
それから、少しぎこちなく口を開く。
「……リサ」
今度はさっきより少し静かな声だった。
照れをごまかしきれない、硬い呼び方。
その瞬間。
リサの表情が、ぱっと明るくなる。
花が開くみたいに、一気に笑顔になる。
「うんっ」
嬉しそうな返事。
マサキは内心で覚悟を決める。
(あぁ、これって一回じゃ終わらないやつか……)
その笑顔は、さっきまでの拗ねや不満をすべて溶かしたように、まっすぐだった。
教室は、完全に静かになっている。
誰も言葉を挟めないまま、そのやり取りだけが中心に残っていた。
そして全員が、ほぼ同じことを思っていた。
(松前が羨ましい)
地味で奥手に見えるのに、なぜか一番距離が近い。
そしてリサの反応は、あまりにも分かりやすく彼だけに向いている。
その事実だけが、教室の空気をじわじわと塗り替えていくのだった。
◇ ◇ ◇
午後の休憩時間。
文化祭準備で騒がしい教室を抜け、何人かでそのまま購買へ流れてきていた。
「焼きそばパンなくなるの早すぎ」
「お前来るの遅いんだって」
男子たちが騒ぎながら棚を覗いている横で、リサは少しだけ足を止める。
目の先には、小さなクッキーやチョコ菓子の並んだ棚。
可愛いパッケージが並ぶ中に、いつもリサがよく買うお菓子も混ざっていた。
(……食べたい)
ほんの少しだけ、指先が動く。
でも、そのまま止まった。
『重い』
ふいに、頭の奥で言葉がよみがえる。
マサキはたぶん、もう覚えていない。
あのときも深い意味で言ったわけじゃないのは分かっている。
でもリサの中には、思ったよりずっと残っていた。
食べ過ぎとか。
甘いものばっかりとか。
そういう風に見えてたのかな、って。
「買わないのか」
隣からマサキの声が落ちる。
リサは一瞬だけ考えを止め、それから笑った。
「うん、今日はいいかな」
明るく返す。
いつもの柔らかい笑い方。
けれど目だけは、一瞬だけ棚へ残っていた。
マサキはその顔を見たあと、何も言わずに目を外す。
そのまま少し横へずれ、今度は冷蔵ケースの前へ。
透明な扉の向こうに並ぶジュースの中で、ピンク色のいちごミルクが目に入る。
リサの指先が、反射みたいにそちらへ伸びた。
だが、途中で止まる。
(……やめとこ)
小さく息を飲み込み、そのまま隣のお茶を一本取った。
「珍しいな」
マサキがぽつりと言う。
リサはケースを閉めながら、小さく肩を落とした。
「いま甘いのにすると眠くなるから」
そう言って笑う。
でもレジへ飲み物を置く瞬間だけ、ほんの少しだけ動きが鈍る。
未練を切るみたいな、短い間。
マサキはその横顔を見ていた。
文化祭準備のせいで教室は暑く、リサは制服の袖を少しまくっている。
細い手首。
長い髪。
男子たちと並んでいても、やっぱり目立つ。
可愛い、というより、視線を引っ張っていく感じだった。
そのとき、リサが財布を取り出そうとして少し前屈みになる。
胸元がわずかに揺れて、マサキは反射的に目をそらした。
自分で勝手に気まずくなる。
リサ本人は気づいていない。
お茶を持ちながら、レジ袋はいらないです、と店員へ笑っていた。
マサキはそんな様子を横目で見ながら、無言のまま冷蔵ケースへ目を戻す。
ピンク色のいちごミルク。
それから、さっきリサが立ち止まっていた棚へ。
小さなクッキー。
チョコ菓子。
その中に混ざっていた、いちごポッキー。
マサキは特に理由もなく、そこへ目を止める。
(……食いたそうに見えたけど)
ただ、それだけが頭に残った。
別に我慢しなくてもいいだろ、とも思う。
でもリサは結局、手を引っ込めた。
そのときの、一瞬だけ迷うみたいな顔も残っている。
マサキは何も言わない。
ただ、少しだけ考えるみたいに目を止めていた。
そのまま購買を出ながら、リサはお茶を胸元で抱えるように持ち直した。
笑顔はいつも通りだった。
でもマサキには、その笑い方が少しだけ無理しているようにも見えていた。





