夏の終わり 後編 ~帰れなくなった2~
どれくらい時間が経ったのか分からなかった。
冷房の音。
遠くで誰かが歩く足音。
ページをめくる音。
深夜のネカフェ特有の静けさが、ずっと個室の外で続いている。
その間も、リサは眠ったままだった。
胸元へ額を預けるみたいに寄りかかり、小さく寝息を立てている。
マサキは背もたれへ頭を預けたまま、じっと天井を見ていた。
服の裾は、まだ掴まれている。
指先だけは時々ぴく、と動いた。
(……これ、朝までやるわけにはいかないよな)
さすがに。
起きた時にどう見える。
抱き込むみたいな体勢で、同じ座椅子へ寄りかかって。
しかもリサは、自分の胸元へ顔を埋めるみたいになっている。
(絶対誤解されるだろ……)
いや、現状かなりアウト寄りではある。
マサキは深く息を吐いた。
そろそろ降ろすか。
せめてリサだけでも、ちゃんと横にした方がいい。
そう思って、マサキは慎重に腕を動かした。
起こさないよう、少しずつ。
肩を支えながら身体を離そうとする。
その時だった。
「……パパ……」
小さな声が落ちる。
マサキの動きが止まった。
リサは眠ったまま、眉を少し寄せていた。
掴む力が強くなる。
服の裾がくしゃっと歪んだ。
「……やだ……」
その声は。
起きている時のリサからは想像できないくらい、弱かった。
マサキは何も言えなかった。
胸の奥が、重く沈む。
起きている時のリサは、ずっと平気そうだった。
何でもないみたいに。
慣れてるみたいに。
でも、本当は。
全然、平気なんかじゃなかったんだろう。
寂しくないわけがない。
(いや、勝手に決めつけるな)
(寝言だろ)
(でも……)
帰る場所に誰もいなくて。
夜遅くなっても連絡する相手がいなくて。
「気をつけて」と返してくれる人もいない。
それを、たぶんずっと。
一人で当たり前みたいに飲み込んでいた。
だから起きてる時は笑うしかないんだ。
平気そうにして。
明るくして。
寂しくないふりをする。
「……」
マサキは視線を落とした。
胸元へ擦り寄るみたいに眠るリサを見る。
小さく身を縮めながら、それでも離れないように服を掴んでいる。
寝ぼけたリサが零したのは、たぶん本音だろうと思った。
無意識で。
寂しさに耐えきれなくなった時にだけ漏れる、本音。
寝ぼけているだけだとしても、それでも自分が頼られているなら。
マサキは離しかけていた腕を止める。
心臓なんて、さっきから全然落ち着かない。
◇
気づけば、マサキはクッションマットの上へずり落ちていた。
倒した座椅子から身体が滑り落ち、そのまま眠ってしまったらしい。
(寝てた…)
ぼんやりと目を開けた瞬間。
顔へ柔らかな感触が押し当てられていた。
そして、
重い。
「……ん?」
視界の大半を何かが塞いでいる。
かすかに甘い香りがして、息を吸うたび頭がぼうっとする。
その正体に気づいた瞬間。
マサキは言葉が出なくなった。
「……あったかい……」
頭上から、幸せそうな寝言が落ちてくる。
リサだった。
眠ったまま、抱き枕でも抱えるみたいにマサキへしがみついている。
しかも無意識らしい。
そのまま、ぎゅう、とさらに抱え込まれた。
「っ、!? ん゛っ……!」
マサキの呼吸が潰れる。
やわらかい。
顔が何かやわらかいものへ押し付けられる。
状況を理解した瞬間、マサキの呼吸が止まった。
キャミソール越しの弾力がそのまま押し付けられている。
苦しい。
でもやわらかい。
いや苦しい。
やわらかい。
脳が処理を拒否した。
(ちょ、待…)
視界が塞がっている。
息を吸うたび甘い匂いがして、余計に頭がおかしくなる。
リサは完全に寝ぼけていた。
「ん…」
さらにぎゅっと抱き込まれる。
「ん゛っ……!」
潰れる。
マサキは必死に片手を動かした。
起こさないよう、そっと肩を押して距離を取ろうとする。
でも。
指先へ、細い感触が絡まった。
キャミソールの肩紐だった。
(やば…)
マサキの指がわずかに動いた瞬間、リサが寝返りを打つ。
ずるっ。
肩紐が指に引っかかったまま、するすると滑り落ちていく。
キャミソールの生地ごとずれ、白い肩が大きく露わになる。
「っ……!」
でも顔はまだ胸へ押し潰されていて何も見えない。
リサの身体が少し動いた拍子に、肩紐がさらに絡まって引っ張られる。
見えないのに状況だけ最悪だった。
その時。
「へくち」
小さなくしゃみ。
リサがうっすら目を開けた。
ぼんやりした視線。
数秒遅れて状況を認識する。
自分がマサキへ抱きついていて。
その顔が、自分の胸へ完全に埋まっていた。
服も少し乱れている。
「ご、ごめんっ……!」
リサが飛び起きた。
その瞬間だった。
ぺろん。
立ち上がる勢いのまま、肩紐がマサキの指へ絡まって引っ張られる。
キャミソールの胸元が大きくずり落ちた。
(全部、見えた)
リサの顔が一気に赤くなる。
薄い生地が胸の下まで滑り落ちて、白い肌が露わになった。
カップ付きのキャミソールだったせいで、下には何もない。
丸みを帯びた膨らみが、そのままマサキの視界へ飛び込んできた。
寝起きで熱を持った肌。
浅く上下する胸。
細い鎖骨のライン。
全部見えた。
マサキの反応が遅れる。
息が止まった。
とっさに胸を隠そうとしたリサは、完全にパニックだった。
寝起きで回らない頭のまま、反射的にマサキの頭を抱え込む。
むにっ。
「ん゛っ!?」
何かに包まれた。
反射的に息を止める。
(待て、状況把握が先だ、状況把握)
でも状況も何も、顔が埋まっている以上の情報が入ってこない。
逃げ場がない。
(いや待て、動くな、動いたら終わる)
自分に言い聞かせるそばから、呼吸のたびに何かが揺れる感触だけは伝わってくる。
「み、見ちゃだめっ!」
「っ~~~っ!!」
喋れない。
完全に塞がれていた。
(声、出せ、声)
出ない。
(じゃあ手だ、手を動かせ)
動かした先がどこなのかを考えた瞬間、思考がまた止まった。
(やばい…っ)
思考がまとまらない。
苦しい。
熱い。
息できない。
心臓が暴れている。
逃げたいのに、変に動けばもっと触れそうで動けない。
呼吸だけ必死になる。
その息が胸元へ当たった。
「ひゃ……っ」
リサの肩が跳ねる。
くすぐったかった。
慌てるたびに余計抱き込んでしまう。
頬に、また何かが押し付けられる感触。
(考えるな、考えたら終わる)
考えていた。
「う、動かないで……!」
むにゅっ。
「ふぐっ……!?」
余計潰れる。
マサキはもう限界だった。
肺なのか。
心臓なのか。
理性なのか。
どれが先に死ぬのか分からない。
でも振り払えない。
動けばもっと触れる。
それが分かるから余計に動けなかった。
リサは真っ赤なまま、半泣きみたいな声を出す。
「ま、待ってぇ……!これは違うの…」
「ん゛ーっ……!!」
全然伝わらなかった。
頬が埋まる。
(考えるな)
考えるなと思うそばから、呼吸のたびに何かが動く感触だけが伝わってくる。
(いつまでだ、これ)
時間を数えている場合ではないと分かっていて、それでも数えてしまう自分に絶望した。
しかもリサはパニックで力加減が分かっていない。
「み、見ないでぇ……っ」
ぎゅうう。
さらに埋まる。
(呼吸、呼吸を確保しろ)
鼻先まで沈んで、その指令すら実行できないと気づいた瞬間、脳が本格的に限界を宣言した。
逃げようとして少し動く。
その瞬間。
むに。
さらに深く押し付けられる。
(理性、まだいるか)
いない。
少なくとも返事はなかった。
(むりだろこれ……っ!)
◇
「だからごめんて……」
ようやくキャミソールを直したリサは、耳まで真っ赤にしたまま、床の上で小さく縮こまっていた。
まだマサキの顔の形が薄く残っているような気がして、両手でぎゅっと押さえていた。
マサキはその少し離れた場所で壁を向いている。
というか、見れなかった。
「怒ってる……?」
「怒ってない」
即答だった。
でも視線は壁のまま。
リサがじとっとした目になる。
「……こっち見ないじゃん」
「あんなことあって見れるか」
リサの顔がまた赤くなる。
思い出したらしい。
自分の胸を隠そうとして。
結果的にマサキを押し潰したことを。
「なんで肩紐つかんでたの」
「それは……」
マサキが詰まる。
リサがじっと見る。
「我慢できなくなっちゃったー?」
冗談っぽく、空気を重くしない聞き方だった。
マサキは顔を逸らしたまま、低く呻く。
「如月が寝ぼけてオレの上に乗ってくるから」
「……え」
リサが固まる。
「離そうとしたら肩紐が指に引っかかっただけで……」
「なにそれぇ……」
リサがもごもご呟く。
しばらく沈黙が落ちた。
気まずい。
ものすごく気まずい。
さっきまで胸へ顔を埋められていた感触が、まだ消えていない。
やわらかかった。
というか、あれは反則だった。
思い出した瞬間、マサキは再び壁を向く。
リサは膝を抱え込みながら、ちら、とマサキを見る。
さっきまで騒いでいたくせに、今は妙におとなしかった。
「あの……」
「なに」
マサキはまだ壁を向いたままだった。
リサが少しだけ視線を落とす。
「あたし、今日……ていうか、昨日と今日」
言い淀む。
「わがままばっかりで、ごめんね」
マサキは眉を寄せた。
(わがまま?)
そんな印象は、一度もなかった。
むしろ。
リサはずっと、相手に合わせる側だった気がする。
「如月がわがまま言ったことないだろ」
「い、言ったよ?」
リサは横に置いてあった<とんかつ>を抱き上げる。
もふもふ、と撫でながら、
「これ欲しいって言ったし……」
「それは……オレが、カッコつけたかっただけ」
あの時。
ワンコインで取って渡せたら、絶対かっこいいと思った。
だからムキになった。
だから必死だった。
リサは<とんかつ>を抱えたまま、少しだけ口元を緩める。
「あと、終電も」
リサがぽつりと言った。
「逃しちゃったし……そのせいで親にも連絡させちゃったし……」
「オレも楽しかったし……帰りたくなかった」
リサが顔を上げた。
「タクシーで帰ろうとしてたのに?」
「そりゃ、帰さないとって思うだろ。女の子だし」
「……そ」
リサの顔が、じわっと赤くなる。
耳まで赤い。
マサキは気づかない。
少し沈黙が落ちた。
そのあと。
リサが、もごもごした声で言った。
「あ、あと……抱き枕にしちゃったし……」
リサは<とんかつ>へ顔を埋める。
その姿を見て。
マサキは、ぽつりと返す。
「別に……あれ、気持ちよかったから」
間。
リサの動きが止まる。
マサキも止まる。
数秒遅れて、自分で自分の発言を理解した。
(それは言わなくていいだろ……っ)
一気に顔が熱くなる。
リサは<とんかつ>へ顔を埋めたまま、肩だけ震わせた。
「……へぇ」
その声に、マサキの心臓が嫌な跳ね方をする。
(いや待て)
今の言い方、完全にまずかった。
気持ちよかったってなんだ。
いや実際、やわらかかったし、あったかかったし、抱きつかれてる時点で心臓おかしかったけど。
そういうことじゃなくて。
マサキは壁を向いたまま頭を抱えたくなった。
でも。
じゃあ、なんて言えばよかった。
「別に気にしてない」とか。
「平気だった」とか。
そういう無難な言い方もできた。
でも、それだとなんか違う気がした。
さっきリサは、<わがままだった>って気にしていた。
抱き枕にしたことも。
甘えたことも。
迷惑だったかもしれないって。
そこで変に取り繕うと、逆に気を遣わせる。
「大丈夫」だけだと、たぶん距離ができる。
だから。
否定するなら、本音で返すしかなかった。
マサキは、そういう場面で上手く嘘をつけない。
躊躇って言葉を選ぶと、自分でも分かるくらい不自然になる。
誤魔化した瞬間、たぶん全部嘘っぽくなる。
だから事実を言った。
抱きつかれた時。
安心したみたいに寄ってきた時。
嫌じゃなかった。
むしろ、離したくないと思った。
……そこまでは言ってないけど。
問題は。
自分がそれを<気持ちいい>と思ってしまったことだった。
(いや、普通に言うなよ……っ)
マサキは額を押さえる。
頭の中で、さっきの感触まで蘇った。
やわらかかった。
近かった。
息が当たるたび、変に熱かった。
思い出した瞬間、また顔が熱くなる。
終わっていた。
リサは<とんかつ>へ顔を埋めたまま、小さく笑う。
「良かった。松前くん、今日ずっと優しいねぇ」
その声が思ったより嬉しそうで、マサキは余計に居たたまれなくなった。
視線を逸らしたまま、ぽつりと呟く。
「……如月が、旅行とか行ったことないと思ったから」
「旅行……?」
リサが顔を上げる。
「うん、ないけど……」
「夏の思い出、少ないと思って……」
言いながら、自分でも何を言ってるんだと思った。
でも、もう止まらなかった。
「最初から、如月が満足するまで付き合うつもりだった」
ゲーセンも。
買い物も。
ネカフェも。
終電を逃した時点で、たぶんもう。
今日は最後まで付き合うつもりだった。
「オレが勝手にそう決めた」
リサは少し黙った。
<とんかつ>を抱えたまま、じっとマサキを見る。
それから。
「……松前くんは、あたしが可哀想だから一緒にいたの?」
マサキの呼吸が止まる。
「………」
言葉が出なかった。
可哀想。
その単語が、妙に引っかかった。
たしかに。
最初は気になった。
親がいない家に帰ること。
夏休みなのに一人なこと。
寂しそうな顔を隠して笑ってること。
放っておけないと思った。
でも。
(……違う気がする)
マサキは眉を寄せる。
じゃあ何が違う。
うまく言葉にならない。
ただ、<可哀想だから一緒にいた>と言われると、違和感だけが残った。
リサは視線を落とす。
「……そうなの?」
「たぶん、違う」
反射で口をついて出た。
「たぶん?」
リサが困ったみたいに笑う。
マサキは額を押さえた。
自分でも説明できない。
でも。
(可哀想は違う。それだけは違う)
マサキは言葉を探すみたいに黙り込む。
壁を向いたまま、ゆっくり息を吐いた。
「……最初は如月に、夏の思い出作ってほしいって思ってた」
リサが静かに聞いている。
だから。
なんとなく。
今日くらいは、楽しい日にしたかった。
「……でも」
マサキはそこで言葉を切る。
頭の中に、今日の景色が浮かんだ。
気づけば、自分もずっと楽しかった。
「たぶんオレも、欲しかったんだと思う。夏の思い出みたいなの」
その言葉を口にした瞬間、マサキ自身が少し驚いた。
自分でも、今やっと気づいたみたいだった。
友達と遊び回った記憶なんて、ほとんどない。
思い出って言われても、家族旅行くらいしか浮かばない。
だから最初は、本気で<リサのため>だと思っていた。
リサに、楽しい夏を作ってほしかった。
でも違った。
自分も。
リサと一緒に、そういう時間を過ごしたかったんだ。
ただ、それに気づいてなかった。
「……て、いま気づいた」
リサはしばらく何も言わなかった。
それから、小さく。
本当に小さく笑う。
「……鈍感すぎ」
その声は、少しだけ嬉しそうだった。
◇
ネカフェを出た時、空はもう薄く白んでいた。
夜と朝の境目みたいな時間。
ビルの隙間から、淡い青が広がっている。
空気は少し冷たくて、でも深夜ほどじゃない。
始発前の駅前は静かだった。
シャッターの閉まった店。
眠そうに歩くサラリーマン。
コンビニの前で缶コーヒーを飲んでいる人。
さっきまで閉じ込められていた個室の空気とは違う、朝の匂いがした。
「……ねむ」
リサが小さく欠伸をする。
肩から透明の袋を提げて、隣を歩いていた。
中で<とんかつ>と<えびふらいのしっぽ>が揺れている。
髪は少し乱れていて。
寝起きのせいか、いつもよりぼんやりしている。
マサキはそんな横顔をちらりと見て、すぐ前へ向き直した。
思い出すからだ。
胸とか。
抱き枕とか。
やわらかかったとか。
思い出した瞬間に終わる。
(忘れろ忘れろ……)
マサキは自分へ言い聞かせるみたいに歩幅を速めた。
その時。
「あたしが満足するまで付き合うつもりって言ってたけど」
リサが前を向いたまま言う。
「……ん」
「まだ満足してないって言ったらどうする?」
マサキは足を止めかけた。
朝の風が吹く。
リサは少しだけ笑っていた。
でも、冗談だけじゃない顔だった。
「……付き合う」
答えたあと。
マサキは少しだけ前を向いた。
朝のアスファルト。
白み始めた駅前。
隣を歩くリサのスニーカー。
昨夜の寝言が、まだ頭の中に残っていた。
『パパ……』
あの小さな声が、離れない。
マサキは無意識に唇を引き結ぶ。
リサが自分へ寄りかかってきた理由。
抱きついて。
あっためて、って甘えてきた理由。
それは本当に、自分で良かったんだろうか。
ただ。
安心できる誰かを求めていただけなんじゃないか。
隣にいてくれる誰か。
帰らなくていい場所。
冷たくない体温。
そういうものが欲しかっただけなんじゃないか。
父親の代わりみたいに。
安心するための場所として。
たまたま近くにいた自分を掴んだだけなんじゃないか。
……そうだとしたら。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
その方がいい、とも思ってしまった。
昨夜。
リサが服を掴んで離さなかったこと。
安心したみたいに眠ったこと。
あの時だけは確かに、自分が必要だった。
代わりでも。
勘違いでも。
一瞬でも。





