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距離感ゼロの如月さんと自己評価ゼロのオレ  作者: 空色いろはに
夏休み② 編

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夏の終わり 前編 ~たぶんオレだけ意識している~

 結局、渡したのは別れ際だった。

 タイミングを測り続けているうちに、完全に渡しどころを逃した。


 荷物になるから。

 そんな理由を、あとから自分の中で作った。


 夕方の駅前。リサと並んで歩いていた帰り道の、改札手前だった。


「……これ」


 自分でも、相変わらず言葉が少ないと思う。

 紙袋を差し出すと、リサが足を止めた。


「これなぁに?」


「土産」


「え、お土産?」


 受け取りながら、リサが袋の中を覗き込む。

 化粧箱が入っているのを見て、少し目が丸くなった。


 ◇


 帰省してたのは知ってた。

 でも、まさか自分にお土産を買ってきてくれるとは思っていなかった。


「別府!」


 リサが箱を取り出す。

 蓋に印刷された文字を読んで、声が弾んだ。


「くんたまだー」


 ぱっと顔が明るくなる。


「これ好き。ありがとう」


 箱を両手で持って、正面から眺めていた。


 好きなものをもらったのもそうだけど、それだけじゃない。

 別府にいる間、離れた場所にいても、自分のことを考えてくれていた。

 それが嬉しかった。


 でも、それは言わない。

 自分だけテンションが上がってる感じで、少し恥ずかしかった。

 だから代わりに、また箱を見る。


「松前くん、ずっと何持ってんのかなって気になってたんだよね」


 ◇


「荷物になるかと思って」


「ふふ、気にしすぎ」


 リサが小さく笑って、また箱へ視線を落とした。


「別府、どうだった? 温泉入った?」


「……まぁ」


「まぁって何、入ったの入ってないの」


「入った」


「いいな〜。地獄めぐりも行った?」


「行ってない」


「えー、もったいなーい。かまど地獄とか血の池地獄とか、もう名前がいいよね」


 声に力があった。

 でも、眉が少しだけ下がっていた。

 本人も気づいていないかもしれないくらい、小さな変化だった。


 マサキは何も言わない。

 リサの父親が、幼稚園のころに亡くなっていること。

 母親が海外にいて、ほとんど帰ってこないこと。

 この夏、リサから旅行の話題が一度も出なかったこと。


(もしかして、如月って……)


 旅行に行ったことがないのかもしれない。

 少なくとも、この夏は。

 いわゆる家族旅行みたいなものは。


 それなのに、リサは人の旅行を何でもないみたいに話す。


「地獄蒸しだっけ。蒸し料理も名物なんだよね。観光地が実家なのって楽しそう」


 明るく話して、知ってることを並べながら、さらっと流していく。


(無理してる……?)


 違うかもしれない。

 本当に気にしていないだけかもしれない。

 でも、マサキはこういうとき、どう言葉にしていいか分からなかった。


 どう慰めればいいのか、正直知らない。

 それに、リサは隠そうとしているのかもしれない。

 そこへ踏み込んで、分かった風な顔をするのも違う気がした。


 結局、かける言葉も見つからず、黙っているしかなかった。


「くんたま、今夜食べる。感想も送るね」


「べつに報告しなくていい」


「するの」


 リサが改札へ向かいながら、振り返る。


「またね、松前くん」


「……ああ」


 改札を抜けて、人の流れに消えていく。

 マサキはしばらく、その場に立っていた。


 できることを、頭の中で並べてみる。


 連れていく。


 ……ない。

 そんなこと言える立場じゃない。

 そもそも言えないし、言えるわけもない。


 慰める。


 ……何を。

 気にしてないふりをしている相手に、何を言う。

「寂しそう」とでも言うのか。

 気持ち悪い。


 いつもどおりにする。


 ……それが一番なのかもしれない。

 リサが流したんだから、こっちも流す。

 それでいい。


 でも、駅のアナウンスが流れるたび、人が改札を抜けていくのが視界に入った。


(……何がしたいんだ、オレ)


 答えは出なかった。

 出ないまま、帰り道を歩いた。


 ◇


 八月の終わりは、音から変わる。

 セミの声が昼間だけになって、夕方の風に少し違う温度が混ざり始める。

 日も短くなって、六時を過ぎるころには、空の端が橙色に溶けていた。


 夏が終わろうとしていた。

 その手前の、どこか惜しいような夕暮れだった。


 スマホが鳴ったのは、そんな時間だった。

 リサからだった。


『明日、暇?』


 マサキは三秒考えて、『まあ』と返した。

 すぐに既読がつく。


『じゃあ会いたい』


 その文字を見た瞬間、指が止まった。


 誰かに見られる。

 リサと並んで歩いているところを、クラスの誰かに。

 知っている誰かに。


 そのとき相手の頭に何が浮かぶか、だいたい想像できた。

 こいつと遊んでるのか、と思われる。

 リサが。


 それが嫌だった。

 自分のせいで、リサの評価が下がることが、とにかく嫌だった。


 それに、出かけるたびに何かが積み重なっていく。

 距離が近くなる。

 接触が増える。

 そのたびに、処理しきれないものが溜まっていく。

 これ以上増やしてどうする。


 断る理由は、ちゃんとあった。


 でも、改札の向こうへ消えていくリサの背中が、頭の端に残っていた。

 眉が少しだけ下がっていたこと。

 それでも明るく話し続けていたこと。

 この夏、旅行の話が一度も出なかったこと。


(……このまま夏が終わるのか)


 リサが夏を終える。

 何もないまま。

 それは。


 マサキは息を吐いて、スマホを持ち直した。


『……いいよ』


 送ってから、スマホを裏返す。

 返信を待つ気持ちと、後悔がほぼ同時に来た。


 ◇     ◇     ◇


 待ち合わせに現れたリサを見た瞬間、マサキの視線が一回だけ止まった。


 普段のリサはシンプルだ。

 余計なものを足さない方が似合うタイプで、本人もそれを分かっている。

 だから普段は、ふわっとした色味に、飾り気の少ない服を選ぶことが多かった。


 でも、今日は違った。


 細い紐のキャミソールで、肩が大きく出ている。

 鎖骨から胸元まで開いていて、ネックレスのせいでそこへ目が行く。

 ミニスカートの丈が短く、脚の長さが余計に目に入った。


 全体的にギャルっぽかった。


 ただ、それがどこか<頑張ってる>感じだった。

 服だけ見れば可愛い。

 顔立ちにも合っていなくはない。

 でも、着慣れていないのがすぐ分かった。


 スカートの裾を気にして触る回数。

 肩が出ているのを意識して、時々姿勢を直すところ。

 ネックレスを何度も指でいじる癖。


 どれも、普段なら絶対にしない仕草だった。


「……なんで今日そんな格好」


 マサキが言うと、リサは少しだけ唇を尖らせた。

 それから、照れ隠しみたいに笑う。


「ちょっと大人っぽい方が男の子は好きかなって思って」


 そう言って、くるりと一回転した。

 でも、その回り方もどこかぎこちない。

 普段なら自然にできるのに、今日は変な不慣れさが残っている。


 スカートの裾がふわっと浮く。

 マサキは即座に視線を外した。

 外した先の電柱を三秒見る。


(見えた)

(薄いピンク)

(いや一瞬だから)

(でも見た)


(なんで回った)

(今なんで回ったんだ)


「……誰に見せるんだ」


 絞り出した言葉がそれだった。


「松前くんしかいないでしょ」


 当然みたいに言う。

 軽い口調だった。

 でも、その軽さの奥に、本気が混じっているように見えた。


 マサキは返事ができなかった。


 たぶん、リサなりに考えたのだ。

 男の子ってこういう服が好きなのかな、と。

 肩が出てた方がいいのかな、と。

 少し大人っぽい方が、女の子として見てもらえるのかな、と。


 その理解は少しだけ雑だった。

 <露出すると男は意識する>

 たぶん、そのくらいの不器用な読みで頑張っている。


 だから余計に、マサキは処理できなかった。


「……普通に言わない方がいい」


「?」


 リサが首を傾げる。

 マサキは続ける言葉を持っていなかった。


 似合ってないわけじゃない。

 でも、それを言うのも違う。

 着慣れてないのが分かる、とも言えない。

 そもそも何が言いたかったのか、自分でも分からなくなっていた。


 黙っていると、リサが隣に並ぶ。

 そのままするっと、指の間に入ってきた。


「……」


 手を繋がれた。

 気づいたときには、もう繋がれていた。


「行こ」


 リサが前を向いたまま言う。

 さっきまでスカートの裾を気にしていた手が、今はマサキの手を握っていた。

 力は強くない。

 でも、離す気もなさそうだった。


 マサキは三秒、自分の手とリサの横顔を交互に見る。

 結局、何も言えなかった。

 そのまま歩き出す。


 ◇


「夏、終わっちゃうね」


 からかいじゃない声だった。

 ただ、そのまま零れたみたいな、小さい声だった。


 マサキは前を向いたまま、


「そうだな」


 と返す。


「もう少し、思い出ほしいんだよね」


 それだけ言って、リサは前を向く。

 繋いだ手に、少しだけ力が入った。


 リサが何を考えているか、マサキには分からない。

 分からないけど、夏休みの間、リサから旅行の話は一度も出なかった。

 家族の話も出なかった。

 どこか行った、という話も、一回も聞いていない。


 父親は幼稚園のころに亡くなっている。

 母親はニューヨークにいる。

 この夏、あの家には、たぶん一人でいた。


 だから今日、誘ってきたのかもしれない。

 夏が終わる前に、誰かと出かけたくて。


(……それで十分だろ)


 理由なんて、それでいい。

 今日一日、リサが満足するまで付き合えばいい。

 それだけのことだ。

 マサキはそう決めた。


 ◇


 一方リサは、繋いだ手の感触を確かめるみたいに、指をわずかに動かした。


 今日の服を選んだのは昨夜だった。

 クローゼットの前で三十分迷った。

 普段なら絶対に選ばない。


 でも、普段のままじゃ駄目な気がした。

 いつもの自分じゃなくて。

 少しだけ大人っぽくて、少しだけ特別な感じで。

 マサキに、ちゃんと女の子として見てほしかった。


 夏が終わる前に。

 このまま何もなく終わってしまう前に。

 それだけのことだった。


「どこ行きたい?」


 マサキが聞く。

 リサは少し考えてから、


「松前くんが決めて」


 と言った。


「……なんでも?」


「うん」


「じゃあ、如月が行きたいところ」


 リサが少し間を置く。


「もう」


 小さく笑った。

 繋いだ手は、そのままだった。


 ◇     ◇


 ゲームセンターは人が多かった。

 夏休み終盤の金曜日で、学生の集団があちこちにいた。

 音楽と機械音と笑い声が全部混ざった空気の中で、リサはUFOキャッチャーの前で目を輝かせていた。


 筐体の中には、丸っこくて薄茶色のもこもこしたぬいぐるみがいた。

 全身がふわふわした生地に包まれていて、目は小さい黒丸が二つ。

 口もほとんどなく、ずんぐりした楕円形のまま寝ている。


 マサキはしばらくそれを見たあと、眉をひそめた。


「……なにこれ」


「すみっこ〇らし知らない?」


「オレの知ってるすみっこは、くまとかかっぱとかで……たわしは知らない」


 リサが固まる。


「とんかつ」


 マサキはもう一度ぬいぐるみを見る。

 茶色くて、丸くて、もこもこしている。

 どう見ても<ちょっと顔のついたたわし>だった。


「……このたわし欲しいのか」


 わざとではない。

 話を聞いてなかったわけでもない。

 ちゃんと「とんかつ」と説明された。

 された上で、なお、たわしに見えてしまった。


「松前くん、UFOキャッチャー得意?」


 リサがガラス越しに<とんかつ>を見つめながら聞く。

 マサキは少しだけ眉を寄せたまま、筐体を見た。


 三本爪のミニクレ系だ。

 景品は出口の近くに置かれていて、ぱっと見はかなり取りやすそうだった。

 でも、


「……まだ早い。今は取れない」


「ギリギリのとこ乗ってるよ?」


「そう見えるように置いてあるのは初期位置」


 リサがきょとんとした顔になる。

 マサキはアームを見たまま言った。


「これ確率機だから」


「かくりつき?」


「一定金額入るまで、ちゃんと持ち上がらない」


 マサキは周囲を見回す。

 隣の筐体、そのさらに奥。

 夏休み終盤で学生が多く、カップルもいる。

 なら、店側も多少強気にしている。

 それを何となく見ていた。


「今日、人多いし設定悪いと思う……人気キャラなら天井3000円くらいか」


「3000円」


 ただ、この景品は妙だった。

 すみっこ〇らし自体は人気だ。

 でも、この薄茶色のもこもこは正直かなり地味だった。

 まわりのしろくまとか、ねこの方が客付きはいい。


「これはそこまで人気じゃなさそうだから、たぶん2000円くらい」


「すごいねー、そんなん分かっちゃうんだ」


 リサがガラスに近づいて、<とんかつ>を見つめる。

 マサキは少し黙った。


(すごくない)


 本当に上手いやつは、確率が入っていなくても、アームの癖とか重心を見て落としてしまう。

 でも、マサキはそこまでじゃない。

 仕組みは分かる。

 設定も読む。

 今この台が<まだ>なのも分かる。

 けど、実力で取れるほど上手くはなかった。


 リサが欲しそうにしている。

 それは分かるし、本当は今すぐ取って渡したかった。

 ワンコインであっさり落として、「ほら」と渡せたら格好いいのにと思う。


「……あと何人かやった後なら取れると思う」


「ほんと?」


 リサの顔がぱっと明るくなった。

 ガラスに張りつくみたいに、もう自分のものみたいな目で見ている。


「待っててねー」


 囁くみたいに、<とんかつ>へ向かって言う。

 その横顔を見て、マサキは少しだけ視線を筐体へ逃がした。


(可愛い……)


 思った瞬間、マサキは無言でたわしを見る。

 落ち着け。


 ◇


「あ、これ」


 リサが足を止めたのは、音ゲーの筐体の前だった。

 マサキは一歩遅れて、隣に並ぶ。


「……やりたいのか?」


 前回やった。

 リサが下手だったのも覚えている。

 隣で並んでやるだけなら、別に問題ない。


「うん」


 リサが筐体の前に立ち、マサキの方を向く。


「ねぇ、前みたいに教えて?」


「……」


 前回のことが、マサキの頭に戻ってきた。

 背後から手を重ねた体勢。

 リサの重心が後ろにかかってきた感覚。

 膝の上に座られた瞬間のことまで、まとめて思い出す。


(……いや、無理だろ)


 本当なら、そこで断ればよかった。

 でも、リサが旅行の話を避けたまま、それでも明るく話していたことが頭に残っていた。


(……今日一日、満足するまで付き合う)


 さっき決めたことを思い出しながら、マサキは小さく息を吐く。


「……わかった」


 リサの目が一瞬だけ丸くなった。

 断られると思っていた顔だった。


「やった、よろしく」


 小さな声だったけど、ちゃんと嬉しそうだった。


「……後ろ入るぞ」


 前回と同じ言葉を口にしながら、マサキはリサの背後へ回った。

 でも今回は違う。

 体ごと密着する気はなかった。


 後ろから腕だけ伸ばして、手だけ重ねる。

 距離を保てば問題ない。

 そう思っていた。


(手だけだ。手だけ重ねて、リズム教えて、それで終わり)


 リサが筐体の前に両手を置く。

 マサキは後ろから腕を伸ばし、指先だけをリサの手に重ねた。


 意識して距離を空ける。

 上半身が背中に触れないよう、重心を後ろへ残したまま腕だけ伸ばした。


(いける。これなら余裕でいける)


 ゲームが始まる。


「右、早め」


「うん」


「次、両方同時」


「……うん」


 リサの指がノーツを追っていく。

 前回より迷いが少ない。

 これならほとんど手を出さなくて済む。


 このまま終われる。

 そう思った瞬間だった。


 リサがふっと後ろへ体重を預けた。

 お尻が、マサキの太ももに当たる。


(当たってる)

(待て、当たってるんだが)


「……ここ、タイミング」


 声だけは平静を保った。

 自分でもよく保ててると思う。


「うん」


 リサは素直に返事をした。

 でも、離れない。


(離れないのか)

(いや離れなくていいけど)

(なんで離れないんだ)


 思考が崩れかける中、マサキはリサの手の上でリズムを取り続けた。


 体は引かない。

 引けなかった。


(耐えろ)

(耐えろ耐えろ耐えろ)


「ここ難しい」


 その声と一緒に、リサがさらに少しだけ後ろへ重心をかける。

 太ももへ触れていた感触が、今度は完全に乗る形になった。


(おい)


 思考が一瞬止まる。

 柔らかい。

 次の考えが浮かぶ前に、無理やり意識を画面へ戻した。


「……左、二連」


「え、あっ」


 リサの指が少し遅れる。

 マサキは反射で、その上から軽く押した。

 指先が重なった瞬間、リサの肩がぴくっと揺れる。


 距離が近い。

 背中には触れていないはずなのに、下半身の感覚だけが妙に鮮明だった。


 難しい場所になるたび、リサは少しずつ後ろへ寄りかかってくる。

 無意識なのか。

 分かってやってるのか。

 それが判断できないのが、一番困る。


(耐えろ)

(あと少しで終わる)

(終われば解放される)


 ◇


(松前くんが逃げてない)


 前回は偶然だった。

 でも今日は違う。

 自分からわざと後ろへ寄りかかった。

 それでもマサキは引かなかった。


(これいけるじゃん)

(いけるじゃんいけるじゃん)


 もう少しだけ体重を預ける。

 お尻越しに伝わってくる体温に、心臓がうるさくなる。


(やばい)

(でも逃げないならもう少しいける)


「……ここ、また難しくなる」


 耳のすぐ近くで、マサキの低い声が落ちた。


(低い声……)

(耳元でそれは……)


「う、うん」


 なんとか返事だけ返す。

 声が裏返らなかったのは奇跡だった。


 マサキは画面を見たまま、指先を動かし続けている。

 逃げない。


(今日はいけるのでは?)


 そう思いながら、リサはさらに少しだけ後ろへ寄りかかった。


 ◇     ◇


 クリア寸前。


 最後のノーツを叩いた瞬間、画面にベストスコアの表示が弾けた。


「やったー!」


 勢いよく振り返る。

 興奮していて、距離なんて考えていなかった。


 …つん。


 リサの鼻先が、マサキの鼻先に当たった。

 確かに当たった。


 二人とも固まる。

 睫毛の長さまで見える距離で、リサの目がまっすぐこっちを見ていた。

 吐息が近い。


「ごめ……っ」


 先に声を上げたのはリサだった。

 マサキはまだ動けなかった。


(なんでこうなる)


 思考がそこで止まる。

 リサは顔を赤くしたまま、逃げるみたいに視線を伏せた。

 そのまま、すとん、と腰を落とす。


 マサキの太ももの上だった。

 重みが乗る。

 柔らかい感触と体温が、そのまま伝わってきた。


 リサは両手で顔を隠したまま動かなくなっている。

 恥ずかしさで頭がいっぱいで、自分がどこへ座ったのか分かっていないらしい。

 でもマサキは全部把握していた。


「……如月」


「ごめん、鼻当たったー……ほんとにごめん」


「いや、オレも近かったし」


 それは事実だった。

 後ろから腕を伸ばしていれば、顔が近くなるのは当然だ。


 ただ。


「……それより」


 リサがぴたりと止まる。


「オレの足は椅子じゃない」


 数秒後。

 リサは勢いよく立ち上がった。


「えへへ、座り心地よかったからつい」


 笑って誤魔化そうとしていたが、顔が赤いのも声が上ずっているのも全部見えていた。


 太ももに残った熱をごまかすように、マサキは視線を逸らす。

 何か言わなきゃと思ったのに、口から出たのは別の言葉だった。


「……たわし、天井入ってると思う」


「とんかつだよ」


 リサが小さく笑う。

 その声は、さっきより少し落ち着いていた。

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