表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/76

67. 夏の終わり 後編 ~帰れなくなった~

 受付を済ませる間、リサはずっときょろきょろしていた。


 壁一面のコミック棚。

 ドリンクバー。

 アイスのポップ。

 深夜なのに意外と人が多いフロア。


 見るたびに目が輝いていて、もう完全に楽しそうだった。


 店員に案内されて通されたのは、鍵付きのペア個室だった。

 靴を脱いで上がるタイプで、床には黒いクッションマットが敷かれている。


 壁際には簡素な座椅子が二つ並んでいた。

 パソコンへ向かって隣同士で置かれていて、普通に座るならそこを使うのが自然だった。


 ◇


 リサは部屋を見回した。

 思ったより狭い。


 でも、そのせいで変に離れなくて済みそうだった。

 ちょっとだけ口元が緩んだ。


「いいねー」


 リサが先に入る。

 座椅子を素通りして、躊躇なく部屋の真ん中へぺたんと座った。


「松前くんもおいで」


「……お、おぉ」


 マサキは一瞬だけ座椅子とリサを見比べた。


 なんでそこ。

 いや、座椅子あるだろ。

 普通そっち座るだろ。


 そう思いながらも、とりあえず左側の座椅子へ腰を下ろす。


 でも狭い。

 思ったより、ずっと。


 真ん中に座ったリサとの距離が近い。

 脚を少し伸ばせば届きそうで、個室というより、小さな箱に閉じ込められたみたいだった。


 マサキが内心で困惑している間も、リサはその距離をまるで気にした様子がない。

 座った姿勢のまま腕だけを後ろへ伸ばし、ドアの鍵へ手をかけた。


 かち、と小さな音が鳴る。

 反射的にそちらを見る。

 ただ鍵を閉めただけだと思った。


 同時に、伸ばした拍子で短いスカートの裾がふわりと浮いた。

 視界の端に入り込む。


 太もものその奥まで視界へ入って、マサキの呼吸が止まる。


 薄いピンク。


(見え……)


 心臓が跳ねる。

 慌てて視線を逸らした。


 逸らしたのに、見た事実だけが頭に残る。

 見ようとしたわけじゃない。

 けれど見えた。

 リサは気づいていない。


 冷房が少し強く、狭い個室に機械音だけが低く流れている。


 リサは座ったまま、楽しそうに辺りを見回していた。


「なんか旅行みたい」


「ネカフェで?」


「夜更かしする感じが」


 言いながら、リサがバッグを脇へ置こうと肩へ手を回した。


 肩からずり落ちかけたバッグの紐に引っ張られるみたいに、キャミソールの細い肩紐まで一緒にずれる。

 慌てて押さえようとしたせいで、胸元の生地が大きくたわんだ。


 白い胸元が、ほとんど隠しきれないまま露わになる。

 柔らかい膨らみの上側が大きく覗き、谷間の線まで見えた。


 マサキの視線が止まる。


 一瞬だった。

 いや、一瞬では済まなかった。


(……っ)


 慌てて視線を逸らす。

 けれど遅かった。


 脳裏に焼きつく。

 白い肌。


 心臓が変な跳ね方をした。


 リサはまだ気づいていない。

 紐を肩へ戻しながら、「あぶな」と小さく笑っている。


(やばい…これは、すごくやばい)


 マサキは誤魔化すみたいにスマホを取り出した。


 画面を見る。

 トーク画面を開く。

 家族の欄。


 少しだけ指が止まった。


 こんな連絡を送るのは初めてだった。


『終電なくなったからネカフェ泊まる』


 送信。


 数秒後、すぐ返信が返ってくる。


『わかった。気をつけて』


 短い文だった。

 でも、その短さがいつも通りだった。


 マサキにとっては、特別でも何でもない。

 当たり前のやり取りだった。


 マサキが画面を閉じようとした時、横からリサが声をかける。


「誰?」


「……親」


「えらいねー」


 軽い調子でそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。


 帰りを気にしてくれる相手がいて。

 遅くなると言えば返事が返ってきて。

 無事を確認する言葉が来る。


 そういう当たり前を、たぶんリサは持っていない。


 父親はもういない。

 母親は海外。


 夜遅くなっても。

 終電を逃しても。

「気をつけて」と返してくれる相手はいない。


 羨ましい、とは言わない。

 寂しい、とも言わない。


 ただ一瞬だけ。

 "そういうの、いいな"とでも思ったみたいに、静かな顔をした。


 でも次の瞬間には、またいつもの笑顔へ戻る。


「ちょっと漫画持ってくるー」


 そう言って立ち上がった。


「待て」


 反射みたいに声が出た。

 マサキ自身、半分くらい無意識だった。


 リサが振り返る。

 同時に、マサキの手がその手首を掴んでいた。


「え?」


 クッションフロアの上に立ったままのリサを、座った位置から見上げる形になる。


 短いスカート。

 立ち上がった瞬間にふわっと裾が浮いて、太ももの内側まで目に入った。


 その奥に薄いピンクが覗く。


 反射で視線を逸らしかける。

 でも、手首を掴んだままだから動きが中途半端になる。


 リサはまだ気づいていない顔だった。

 きょとんとしたまま、掴まれた手を見る。


「なぁに?」


 無防備だった。


 店員を呼んだ時もそうだった。

 この格好でどれだけ目を引くか、本人には分かっていないんだろう。


 しかも今は深夜。

 ネカフェ。

 店内とはいえ、人はいる。


 マサキは一度喉を詰まらせてから、無理やり言葉を出した。


「……ひ、一人で行くと危ないから」


「店の中だよ?」


「それでも……その格好でふらふらしないでくれ」


 妙に早口で返してしまった。


 リサがぱち、と瞬きをする。


 それから少しだけ微笑んで、


「一緒に来てくれるのー?」


 と首を傾げた。


「……行く」


 即答だった。


 リサが嬉しそうにマサキを見下ろす。


「松前くん、なんか過保護だねぇ」


 そう言いながら、掴まれている手を軽く揺らした。


 その拍子にスカートが擦れて、裾の奥が何度もちらつく。


(見える)

(見えてる)

(いや、見てるのはオレだが)


 リサはそんなこと気にした様子もなく、くすっと笑った。


「はやく、はやく」


 笑い方が少し柔らかい。


 そのまま、リサが掴まれた手を軽く引く。

 マサキも立ち上がるしかなかった。


 本当は、「危ないから」だけじゃない。

 今は、離したくなかった。

 いつも通りみたいに笑って誤魔化して、部屋を出ていかれるのが嫌だった。


 ◇


 個室を出ると、深夜のフロアは昼間より静かなのに、妙に生活音だけが残っていた。


 ドリンクバーの氷が落ちる音。

 遠くでページをめくる音。

 キーボードを叩く乾いた音。


 その中を、リサは楽しそうに歩いていく。


 コミック棚の前へ行くなり、目を輝かせた。

 そのまま備え付けのカゴを手に取って、端から見始める。


 ぽいぽい入っていく。

 マサキは後ろからついていくだけだった。


 入っていくのは、ほとんど少年漫画だった。


 バトルもの。

 スポーツもの。

 ギャグ漫画。


 少女漫画の棚はほとんど見ない。


(こういうの好きなんだな)


 その程度の認識で見ていた。


 リサが棚の前で振り返る。


「松前くんは漫画とか読まないの?」


「あんまり……」


「ゼロ?」


「読む時は読むけど、家だとゲームの方が多い」


「あー、なんかわかる」


 言いながら、また一冊抜き取る。


「でもネカフェ来ると読みたくならない?」


「まあ……」


「でしょー」


 楽しそうだった。

 好きなものに囲まれている顔だった。


 そのままリサが背伸びした。

 上の棚へ手を伸ばす。


「よいしょ――」


 キャミソールの裾が少し浮く。

 細い脇腹が見えた。


 マサキの視線が反射で泳ぐ。

 周囲を見る。


 近くの席から出てきた男が、一瞬だけリサを見た。


(危ない……)


 マサキは落ち着かないまま、棚から漫画を取ってやった。


「あ」


 リサが振り返る。


「ありがと」


「……ん」


 そのまま渡す。

 リサは嬉しそうにカゴへ入れた。


 次の棚へ移動する。

 今度は下段だった。


「これこれ」


 しゃがみ込む。


 短いスカートが引っ張られて、太ももが大きく見えた。

 マサキの視線が釘付けになる。

 本人は無防備なまま棚へ顔を寄せて、


「続きどこ……」


 と呟いている。


(見える見える見える)


 反射で周囲を確認する。


 通路の向こう側。

 ドリンクバー前。

 誰も見ていないか気になる。


 自分でも何を警戒しているのか分からなかった。

 リサは気にした様子もなく、次の棚へ移動する。


 カゴの中にはどんどん漫画が増えていく。


「これも読むー」


 カゴへ追加。


 マサキはため息を飲み込む。

 結局、自分が後ろについて回るしかないのだった。


 ◇


 個室へ戻ってからしばらく経った。

 リサは床へ座り込み、背中を壁へ預けて漫画を読んでいる。


 マサキは座椅子へ腰を下ろした。

 冷房の音とパソコンの駆動音だけが静かに流れていた。


 漫画を開く。

 ページをめくる。

 読んでいるはずなのに頭へ入ってこない。


 視界の端にリサがいるだけで意識が持っていかれる。


 髪を耳へかける。

 足を組み替える。

 飲み物へ手を伸ばす。


 ただそれだけの動作なのに、そのたびに視線が引っ張られた。


(なにやってんだオレ)


 漫画へ目を戻す。

 数秒後にはまた見ている。

 完全に駄目だった。


 リサはホットココアを両手で持っていた。

 カップを包むように抱え込みながら、慎重に息を吹きかけている。


 ふー。

 ふー。


 何度も繰り返してから、ようやく唇を近づけた。


「あち」


 小さく肩が跳ねた。

 慌ててコップを離す。


 その仕草が妙に子供っぽくて、マサキの視線が止まる。


(可愛い)


 思った瞬間、頭を抱えたくなる。

 リサはそんなことも知らず、もう一度真剣な顔でココアへ息を吹きかけていた。


 ふー。

 ふー。


 少し飲む。

 また止まる。

 また息を吹く。

 その繰り返しだ。


 いや、本当に何なんだ。

 ココアを飲んでいるだけだろ。

 それなのに目が離せない。


 マサキは額を押さえた。

 終電を逃しただけだ。

 朝まで時間を潰して帰る。

 ただそれだけ。


 漫画を読んで、眠くなったら寝て、気付けば朝になっている。

 普通に考えればそれで終わる話だった。

 それなのに妙な緊張だけが消えない。


 個室。

 深夜。

 二人きり。


 しかも相手はリサだ。


(いや、だからなんだ)


 自分で否定する。

 そんなことを気にしているのは自分だけだ。


 リサは漫画を読んでいる。

 飲み物を飲んでいる。

 いつも通り楽しそうにしている。


 変なことを考えているのはオレだけだ。

 そう思ったところで、別の考えが割り込んできた。


(でも)


 リサはもう知ってる。

 オレがそういう目で見てること。

 意識していること。

 知ってるはずなのに近い。


 心臓がうるさくなった。


 その時だった。

 ふとリサが顔を上げる。

 目が合った。


 リサが小さく笑う。

 にこっ、と。

 ただそれだけなのに。


 マサキは反射的に視線を逸らした。


 気まずい。

 なんか気まずい。


 オレだけ変なこと考えてたみたいじゃないか。

 いや実際そうなんだけど。


 何か言わなければと思う。

 とにかくこの場から逃げたい。

 最初に口から出たのはそれだった。


「飲み物……取ってこようか」


「え?」


 リサはぱちぱちと瞬きをしたあと、ふにゃっと笑った。


「いいのー?」


「……うん」


「松前くんやさしー」


 その一言で胸の奥がざわつく。


 マサキは立ち上がった。


「じゃあ行ってくる」


「お願いしまーす」


 ひらひらと手を振るリサを残して個室を出る。


 ドアが閉まった瞬間、ようやく息を吐いた。

 冷たい空気が肺へ入る。

 一人になったはずなのに落ち着かない。


 さっきの笑顔が頭に残っている。


『松前くんやさしー』


(あれ、誰にでも言うんだよな)


 リサはそういうやつだ。


 愛想が良くて。

 優しくて。

 誰とでも話せて。

 誰にでも笑う。


 分かっている。

 ちゃんと分かっている。


 それなのに胸の奥が少しだけざわついた。

 その笑顔が自分だけに向けられたものだったら、なんて。

 そんなことを考えた瞬間、自分で嫌になる。


 マサキは顔をしかめながらドリンクバーへ向かった。


 ◇


 ドアが閉まる。

 かちゃり、と鍵の音がして、個室の中が少し静かになった。


 リサは漫画を閉じ、そのまま数秒だけドアを見つめた。

 ついさっきまで隣にいたはずなのに、急に部屋が広くなった気がする。


「……行った」


 正直、少しだけ期待していた。


 終電を逃して、二人でネカフェへ来て、個室で朝まで過ごす。

 少女漫画だったら絶対イベントが起きている。

 でも現実は違った。


 マサキは漫画を読んでいた。

 近くにいるだけ。

 時々目が合うだけ。

 いつも通り優しいだけ。


(やっぱネカフェじゃいい雰囲気にはならないか……)


 壁へ頭を預けながら、小さく息を吐く。


 そもそもマサキはそういうタイプじゃない。

 守ってくれる。

 でも踏み込んでこない。

 そこが好きなのだけど、そこが難しい。


「はぁ……」


 もう一度息を吐いたところで、ふと思い出した。


「やば」


 声を漏らし、慌てて鞄へ手を伸ばす。

 ごそごそと中を探り、いつものポーチを取り出した。


 落ち込んでる場合じゃない。

 リサは素早く鏡を開いた。


 まず気になったのは前髪だった。

 鏡を覗き込みながらくしで整える。

 少し崩れている気がして、流れをなぞるように何度も通した。


 右を直して確認する。

 左も直して確認する。

 少し離して見る。

 顔を近づけて見る。


 まだ気になる。

 もう一度直す。


「……変じゃない?」


 鏡の中の自分へ向かって呟く。

 当然返事はない。

 でも確認したくなる。


 今度は頬へ触れた。


 乾燥していないか。

 変にテカっていないか。


 ネカフェの照明は少し暗くて分かりにくい。

 スマホのライトも使いながら角度を変えて確認する。


 右。

 左。

 正面。


 たぶん大丈夫。

 たぶん。

 いや、どうだろう。


 不安になってもう一度確認する。


 今度はポーチからリップを取り出した。

 キャップを外し、鏡を見ながら慎重に塗る。

 塗り終えると唇を軽く合わせる。


 それからもう一度鏡を見る。

 変わっただろうか。

 正直よく分からない。

 それでも塗らないよりはマシな気がした。


 鏡の中の自分を見る。

 服を見る。

 肩を見る。

 胸元を見る。

 スカートを見る。


(やっぱ今日派手過ぎた?)


 眉が少しだけ下がる。


(こういうの嫌い?)


 前髪を整えてから鏡を覗き込む。

 少し首を傾げ、横顔の見え方を確認した。


(色気ってどうやって出すの……)


 目線を変えてみる。

 大人っぽく見える角度を探してみる。


 数秒後。


「……なにしてんの」


 自分でやっておきながら耐えられなくなってすぐやめる。


 もし今この瞬間にマサキが戻ってきたら。

 そう考えた途端、慌てて姿勢を戻す。

 鏡を閉じる。


(今日…可愛いって言ってくれてないな…)


 ◇


 かちゃり。


 ドアを開けて個室へ戻る。

 リサは壁へ背中を預けたまま漫画を読んでいた。


 マサキが戻ってくると、ぱっと顔を上げる。


「おかえりー」


「……ただいま」


 右手のカップを差し出す。


「さっきと同じので良かった?」


「うん、ありがとー」


 リサは小さく笑いながらカップを受け取る。


 両手で包む。

 嬉しそうに微笑んでから、ふーっと息を吹きかけた。


 一口。


「あつ」


 すぐに口を離す。

 その姿を見た瞬間、マサキは視線を逸らした。


 今日ずっとそうだ。

 見れば見るほど意識する。


 漫画はもう無理だった。

 さっきから全然読めていない。

 なら別の何かをした方がいい。


 そう思ってパソコンの電源を入れる。

 画面が明るくなった。

 適当にゲーム一覧を開く。

 特にやりたいゲームがあるわけじゃない。


 ただ、パソコンへ向かえばリサは背後側になる。

 視界に入らない。

 それが大事だった。


「ゲームするの?」


 後ろから声がした。

 マサキの肩がぴくりと動く。


「……まあ」


 画面を見たまま答える。

 リサは数秒黙った。


 その沈黙が少し気になった。

 だが振り向かない。

 振り向いたらまた意識する。


 たぶん、絶対。

 今日はなんか駄目だ。

 終電を逃しただけなのに。

 個室だからか。

 夜だからか。

 分からないけど、とにかく調子が狂う。


「へー」


 リサが返事をする。

 その声が少し近かった。

 嫌な予感がした。


 次の瞬間。


 ふわっ。


 マサキの身体が固まる。

 リサがそのまま横へ入り込んでくる。

 迷いなくマサキの座る座椅子へ膝を乗せてきた。


「な、なにしてんの」


 座椅子一つを二人で使うには狭すぎる。

 肩が触れる。

 太ももも近い。

 髪がふわりと揺れた。

 甘い香りが届く。


 リサ一人でも十分な幅しかない。

 そこへ二人。

 当然距離がおかしくなる。


 マサキは思わず背中を引いた。

 けれどリサは画面を覗き込むことしか考えていない。


「これやるの?」


 その拍子に肩がさらに寄る。

 柔らかい感触が腕へ触れた。

 マサキの指が止まる。


(近い)


 同じ座椅子だ。

 なんでそうなる。

 隣あるだろ。

 空いてるだろ。


 思考とは裏腹に、リサをどかそうとはしない自分がいた。

 だから余計に困るのだった。


「いや狭いだろ」


「大丈夫大丈夫」


 大丈夫じゃない。


 マサキの指が止まった。

 ゲームどころじゃなかった。


 ◇


 リサは画面を覗き込む。

 けれど本当はゲームなんてどうでもいい。


 少しだけ不満だった。


 戻ってきてから、ほとんど見てくれない。

 せっかく鏡を見た。

 前髪も直した。

 リップも塗った。

 服だって悩んだ。

 なのに、ゲーム?


(見ろよ)


 そう思いながら、さらに身体を寄せる。

 マサキは画面を見る。


 リサは横顔を見る。

 少しくらい、見てくれてもいいのに。


 リサはさりげなく前髪へ触れた。

 整えた場所。

 指先で軽く流す。


 ちらり。


 横を見る。

 マサキは画面を見ていた。


 見ていない。

 全然見ていない。


(見ろ)


 少しだけ頬を膨らませながら、リサはさらに距離を詰めた。


 そのせいで胸がマサキの腕に押し潰れる。

 マサキの肩がぎくりと揺れた。

 指も止まる。

 数秒。


 そして、チラッと胸だけ見た。


(見た)


 リサの口元が少しだけ緩む。


(やっと見た)


(そっちじゃないけど)


 ◇     ◇     ◇


 リサは座椅子へもたれた状態で漫画を開いている。

 けれど、もうほとんど読めていない。


 ページを持つ手がゆっくり下がる。

 頭も少しずつ横へ傾いていく。


「……如月?」


「んぅ……」


 返事が曖昧だった。

 次の瞬間。


 ずるっ、と。

 背もたれから身体が滑り落ちる。


「うわっ」


 反射でマサキが手を伸ばした。


 倒れかけたリサの肩と背中を支える。

 軽い。

 クッションマットへ倒れ込む寸前で止まった。


「ん……」


 リサは半分眠ったまま、ぼんやりマサキを見上げる。

 近い。

 髪の匂いが近かった。


 マサキは一瞬固まってから、はっと我に返る。


(……いや、下クッションだし)


 別に受け止めなくても痛くはなかったかもしれない。

 そう思い直して、ゆっくり手を離そうとした。


 でも。


 ぎゅ。


 服の裾を掴まれる。


「……え」


 リサが離さない。

 眠そうに目を閉じたまま、マサキへ寄ってくる。


「さむい……」


 小さな声だった。

 マサキは喉を詰まらせる。


「……ブランケット取ってくるか?」


「んー……」


 首を横に振る。

 そのまま、さらに近づいてきた。


「あっためて……」


 眠気に溶けた声だった。

 たぶん、深い意味なんてない。


 寒いから。

 近くにいるから。

 それだけ。


 でも、言われた側の心臓は全然平気じゃなかった。

 マサキは固まったまま、腕の中のリサを見る。


 肩へ触れた指先に、ひやりとした体温が伝わってきた。

 冷房の風が、キャミソールから出た白い肩を冷やしている。


(……ほんとに冷えてる)


 マサキは困ったように息を吐き、ゆっくり身体を離そうとする。


 このまま支えているのもまずい。

 下はクッションマットだし、いったん寝かせて、ブランケットを持ってくればそれで済む。


 そう思って、そっと手を緩めた。


 でも。


 ぎゅ。


 服の裾を掴む力が強くなる。


「……」


 リサが眉を寄せたまま、小さく身を寄せてきた。


「一人にしないで……」


 寝言みたいな声だった。

 マサキの動きが止まる。


「……如月?」


 返事はない。


 眠ったまま。

 でも、離れたくないみたいに掴んでくる。


(なんだよそれ……)


 マサキは視線を落とした。


 起きている時のリサは平気そうだった。


 笑って。

 はしゃいで。

 何でもないみたいに。


 親の話をした時もそうだ。

 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、静かな顔をしたのに。

 すぐ笑った。

 誤魔化すみたいに。


 なのに。

 なんで、こういう時だけ。


 寝てる時だけ、こんなふうに頼ってくるんだ。


 マサキは唇を噛む。


 ……いや。

 違う。


 頼らないんじゃない。

 自分が頼りないだけだ。


 安心させられるほど、ちゃんとしてない。

 だからリサは、自分の前ではずっと一人で平気そうにしている。


「……っ」


 胸の奥が少し痛かった。

 マサキはしばらく動けなかった。

 胸元へ寄りかかるリサの寝息だけが静かに聞こえる。


 個室の外では誰かが歩く音がしていた。

 ドリンクバーの氷が落ちる音。

 遠くのパソコンのファン音。


 そんなものが時々聞こえるのに、この狭い部屋だけ妙に静かだった。


 リサは眠ったまま、服を掴んだ手も離さない。

 いつもみたいに喋らないし、笑わないし、拗ねてもこない。

 ただ小さく息をしながら、自分へ寄りかかっているだけだった。


 マサキは視線を落とす。


 頬へかかった髪の隙間から長いまつ毛が見えて、少しだけ開いた唇が規則正しく呼吸を繰り返している。

 寝ているだけなのに、起きている時よりずっと幼く見えた。


 普段のリサは違う。

 クラスの中心にいて、誰とでも話して、いつも人に囲まれている。


 だから最初は勝手に思っていた。

 自分なんかよりずっと強い人なんだと。


 けれど視線を落とした先では、服の裾を握った細い指が離れないように掴んだままになっている。


『一人にしないで』


 あれは本当に寝言だったんだろうかと思いながら目を閉じる。

 たぶん起きている時のリサなら言わない。

 平気そうに笑って、何でもないみたいに振る舞う。

 そういうところだけ妙に上手い人だから、余計に今だけは嘘じゃない気がした。


 マサキはもう一度リサを見る。

 安心したみたいな顔で眠っている。

 無防備で、何も隠せていない。


 その顔を見ていると不思議と目が離せず、可愛いとか綺麗とか、そういう感想より先に別のことを考えてしまう。

 ちゃんと眠れてるな、と。

 そのことが少しだけ嬉しかった。


 笑ったあと、一瞬だけ力が抜ける時がある。

 誰も見ていないと思った時だけ。

 マサキはそれを何度か見たことがあった。


 だから今みたいに力を抜いて眠っている姿を見ると、自分でも理由は分からないのに少し安心する。

 胸元へ額を預けたまま眠るリサは、時々小さく息を吐いて、そのたびに服を掴む指先がわずかに動いた。


 マサキはその様子を見ながら、そっと視線を逸らす。

 こんなふうに誰かの寝顔を長い時間見ていたことなんて、今まで一度もなかった。


 細い肩。

 冷えた指先。

 無防備な寝顔。


 深夜のネカフェ。

 鍵付き個室。


 状況だけ見れば、全然落ち着ける空気じゃない。


 でも。


(……寒いんだよな)


 マサキは観念したみたいに息を吐く。

 ゆっくり手を回した。

 肩を抱くように支えて、そのまま自分の膝へ引き寄せる。


 柔らかい重みが乗る。


 リサは抵抗しなかった。

 むしろ安心したみたいに、胸元へ額を擦り寄せる。


 マサキの心臓が跳ねた。

 肩へ触れる髪がくすぐったい。


 しかも薄いキャミソール越しだから、体温まで変に伝わってくる。


(やばい……)


 普通なら、距離を取るべきだった。


 深夜。

 鍵付き個室。

 寝ぼけた女の子。


 理性だけで考えるなら、むしろ離れるべき状況だ。


 でも。


『一人にしないで』


 そう言って、服を掴んできた声が頭から離れなかった。


『あっためて』


 眠ったまま漏れた、小さな甘え声。


 それはたぶん、起きている時のリサなら絶対に言わない。


 ずっと平気そうにしていたから。


 笑って。

 楽しそうにして。

 寂しいなんて顔を見せないまま、いつも通りを続けていた。


 だからマサキは、ずっと思っていた。

 自分は頼られていない。


 男としても。

 頼る相手としても。


 でも今のリサは違った。


 計算でもない。

 冗談でもない。

 寝ぼけたまま、無意識で縋ってきている。


 それが妙に胸へ刺さった。


 寒いなら、どうにかしたい。

 安心させたい。


 その気持ちの方が先に動いていた。


 触りたい、とか。

 そういうのじゃない。


 このまま震えさせておけない。

 その感覚の方がずっと強かった。

 だからマサキは、離せなかった。


 寒そうに肩を縮めるリサを、そのまま抱える。

 するとリサは安心したみたいに、小さく息を吐いた。


 服を掴む指から、少しだけ力が抜ける。

 その反応を見てしまうと、もう離せなかった。


 だから結局、そのまま抱えるしかなかった。

 マサキは壁へ背中を預け、しばらく黙ったまま考える。


 これ寝やすいか?

 いや。

 さすがに苦しいだろ。


 自分の膝へ半分もたれかかるみたいになっているせいで、リサの首が変な角度になっていた。


 リサは眠ったまま、小さく息をしていた。


(……いや、せめて寝やすくはするか)


 マサキはそっと息を吐き、自分が座っている座椅子へ視線を向けた。


 これ、倒せるよな。


 リサを起こさないよう慎重に身体を支えたまま、片手で背もたれへ触れる。


 がこん。


 小さな音を立てて、背もたれが後ろへ倒れた。

 マサキは服を掴まれたまま、ゆっくり身体の向きを変えた。

 リサを支えながら、自分も倒れた背もたれへ身体を預ける。


 すると。


 こてん。


 自然に、リサの頭が胸元へ収まった。


「っ……」


 マサキの肩が跳ねる。

 でもリサは安心したみたいに小さく息を吐いただけだった。

 掴んでいた服の裾を、ぎゅっと握り直す。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ