67. 夏の終わり 後編 ~帰れなくなった~
受付を済ませる間、リサはずっときょろきょろしていた。
壁一面のコミック棚。
ドリンクバー。
アイスのポップ。
深夜なのに意外と人が多いフロア。
見るたびに目が輝いていて、もう完全に楽しそうだった。
店員に案内されて通されたのは、鍵付きのペア個室だった。
靴を脱いで上がるタイプで、床には黒いクッションマットが敷かれている。
壁際には簡素な座椅子が二つ並んでいた。
パソコンへ向かって隣同士で置かれていて、普通に座るならそこを使うのが自然だった。
◇
リサは部屋を見回した。
思ったより狭い。
でも、そのせいで変に離れなくて済みそうだった。
ちょっとだけ口元が緩んだ。
「いいねー」
リサが先に入る。
座椅子を素通りして、躊躇なく部屋の真ん中へぺたんと座った。
「松前くんもおいで」
「……お、おぉ」
マサキは一瞬だけ座椅子とリサを見比べた。
なんでそこ。
いや、座椅子あるだろ。
普通そっち座るだろ。
そう思いながらも、とりあえず左側の座椅子へ腰を下ろす。
でも狭い。
思ったより、ずっと。
真ん中に座ったリサとの距離が近い。
脚を少し伸ばせば届きそうで、個室というより、小さな箱に閉じ込められたみたいだった。
マサキが内心で困惑している間も、リサはその距離をまるで気にした様子がない。
座った姿勢のまま腕だけを後ろへ伸ばし、ドアの鍵へ手をかけた。
かち、と小さな音が鳴る。
反射的にそちらを見る。
ただ鍵を閉めただけだと思った。
同時に、伸ばした拍子で短いスカートの裾がふわりと浮いた。
視界の端に入り込む。
太もものその奥まで視界へ入って、マサキの呼吸が止まる。
薄いピンク。
(見え……)
心臓が跳ねる。
慌てて視線を逸らした。
逸らしたのに、見た事実だけが頭に残る。
見ようとしたわけじゃない。
けれど見えた。
リサは気づいていない。
冷房が少し強く、狭い個室に機械音だけが低く流れている。
リサは座ったまま、楽しそうに辺りを見回していた。
「なんか旅行みたい」
「ネカフェで?」
「夜更かしする感じが」
言いながら、リサがバッグを脇へ置こうと肩へ手を回した。
肩からずり落ちかけたバッグの紐に引っ張られるみたいに、キャミソールの細い肩紐まで一緒にずれる。
慌てて押さえようとしたせいで、胸元の生地が大きくたわんだ。
白い胸元が、ほとんど隠しきれないまま露わになる。
柔らかい膨らみの上側が大きく覗き、谷間の線まで見えた。
マサキの視線が止まる。
一瞬だった。
いや、一瞬では済まなかった。
(……っ)
慌てて視線を逸らす。
けれど遅かった。
脳裏に焼きつく。
白い肌。
心臓が変な跳ね方をした。
リサはまだ気づいていない。
紐を肩へ戻しながら、「あぶな」と小さく笑っている。
(やばい…これは、すごくやばい)
マサキは誤魔化すみたいにスマホを取り出した。
画面を見る。
トーク画面を開く。
家族の欄。
少しだけ指が止まった。
こんな連絡を送るのは初めてだった。
『終電なくなったからネカフェ泊まる』
送信。
数秒後、すぐ返信が返ってくる。
『わかった。気をつけて』
短い文だった。
でも、その短さがいつも通りだった。
マサキにとっては、特別でも何でもない。
当たり前のやり取りだった。
マサキが画面を閉じようとした時、横からリサが声をかける。
「誰?」
「……親」
「えらいねー」
軽い調子でそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。
帰りを気にしてくれる相手がいて。
遅くなると言えば返事が返ってきて。
無事を確認する言葉が来る。
そういう当たり前を、たぶんリサは持っていない。
父親はもういない。
母親は海外。
夜遅くなっても。
終電を逃しても。
「気をつけて」と返してくれる相手はいない。
羨ましい、とは言わない。
寂しい、とも言わない。
ただ一瞬だけ。
"そういうの、いいな"とでも思ったみたいに、静かな顔をした。
でも次の瞬間には、またいつもの笑顔へ戻る。
「ちょっと漫画持ってくるー」
そう言って立ち上がった。
「待て」
反射みたいに声が出た。
マサキ自身、半分くらい無意識だった。
リサが振り返る。
同時に、マサキの手がその手首を掴んでいた。
「え?」
クッションフロアの上に立ったままのリサを、座った位置から見上げる形になる。
短いスカート。
立ち上がった瞬間にふわっと裾が浮いて、太ももの内側まで目に入った。
その奥に薄いピンクが覗く。
反射で視線を逸らしかける。
でも、手首を掴んだままだから動きが中途半端になる。
リサはまだ気づいていない顔だった。
きょとんとしたまま、掴まれた手を見る。
「なぁに?」
無防備だった。
店員を呼んだ時もそうだった。
この格好でどれだけ目を引くか、本人には分かっていないんだろう。
しかも今は深夜。
ネカフェ。
店内とはいえ、人はいる。
マサキは一度喉を詰まらせてから、無理やり言葉を出した。
「……ひ、一人で行くと危ないから」
「店の中だよ?」
「それでも……その格好でふらふらしないでくれ」
妙に早口で返してしまった。
リサがぱち、と瞬きをする。
それから少しだけ微笑んで、
「一緒に来てくれるのー?」
と首を傾げた。
「……行く」
即答だった。
リサが嬉しそうにマサキを見下ろす。
「松前くん、なんか過保護だねぇ」
そう言いながら、掴まれている手を軽く揺らした。
その拍子にスカートが擦れて、裾の奥が何度もちらつく。
(見える)
(見えてる)
(いや、見てるのはオレだが)
リサはそんなこと気にした様子もなく、くすっと笑った。
「はやく、はやく」
笑い方が少し柔らかい。
そのまま、リサが掴まれた手を軽く引く。
マサキも立ち上がるしかなかった。
本当は、「危ないから」だけじゃない。
今は、離したくなかった。
いつも通りみたいに笑って誤魔化して、部屋を出ていかれるのが嫌だった。
◇
個室を出ると、深夜のフロアは昼間より静かなのに、妙に生活音だけが残っていた。
ドリンクバーの氷が落ちる音。
遠くでページをめくる音。
キーボードを叩く乾いた音。
その中を、リサは楽しそうに歩いていく。
コミック棚の前へ行くなり、目を輝かせた。
そのまま備え付けのカゴを手に取って、端から見始める。
ぽいぽい入っていく。
マサキは後ろからついていくだけだった。
入っていくのは、ほとんど少年漫画だった。
バトルもの。
スポーツもの。
ギャグ漫画。
少女漫画の棚はほとんど見ない。
(こういうの好きなんだな)
その程度の認識で見ていた。
リサが棚の前で振り返る。
「松前くんは漫画とか読まないの?」
「あんまり……」
「ゼロ?」
「読む時は読むけど、家だとゲームの方が多い」
「あー、なんかわかる」
言いながら、また一冊抜き取る。
「でもネカフェ来ると読みたくならない?」
「まあ……」
「でしょー」
楽しそうだった。
好きなものに囲まれている顔だった。
そのままリサが背伸びした。
上の棚へ手を伸ばす。
「よいしょ――」
キャミソールの裾が少し浮く。
細い脇腹が見えた。
マサキの視線が反射で泳ぐ。
周囲を見る。
近くの席から出てきた男が、一瞬だけリサを見た。
(危ない……)
マサキは落ち着かないまま、棚から漫画を取ってやった。
「あ」
リサが振り返る。
「ありがと」
「……ん」
そのまま渡す。
リサは嬉しそうにカゴへ入れた。
次の棚へ移動する。
今度は下段だった。
「これこれ」
しゃがみ込む。
短いスカートが引っ張られて、太ももが大きく見えた。
マサキの視線が釘付けになる。
本人は無防備なまま棚へ顔を寄せて、
「続きどこ……」
と呟いている。
(見える見える見える)
反射で周囲を確認する。
通路の向こう側。
ドリンクバー前。
誰も見ていないか気になる。
自分でも何を警戒しているのか分からなかった。
リサは気にした様子もなく、次の棚へ移動する。
カゴの中にはどんどん漫画が増えていく。
「これも読むー」
カゴへ追加。
マサキはため息を飲み込む。
結局、自分が後ろについて回るしかないのだった。
◇
個室へ戻ってからしばらく経った。
リサは床へ座り込み、背中を壁へ預けて漫画を読んでいる。
マサキは座椅子へ腰を下ろした。
冷房の音とパソコンの駆動音だけが静かに流れていた。
漫画を開く。
ページをめくる。
読んでいるはずなのに頭へ入ってこない。
視界の端にリサがいるだけで意識が持っていかれる。
髪を耳へかける。
足を組み替える。
飲み物へ手を伸ばす。
ただそれだけの動作なのに、そのたびに視線が引っ張られた。
(なにやってんだオレ)
漫画へ目を戻す。
数秒後にはまた見ている。
完全に駄目だった。
リサはホットココアを両手で持っていた。
カップを包むように抱え込みながら、慎重に息を吹きかけている。
ふー。
ふー。
何度も繰り返してから、ようやく唇を近づけた。
「あち」
小さく肩が跳ねた。
慌ててコップを離す。
その仕草が妙に子供っぽくて、マサキの視線が止まる。
(可愛い)
思った瞬間、頭を抱えたくなる。
リサはそんなことも知らず、もう一度真剣な顔でココアへ息を吹きかけていた。
ふー。
ふー。
少し飲む。
また止まる。
また息を吹く。
その繰り返しだ。
いや、本当に何なんだ。
ココアを飲んでいるだけだろ。
それなのに目が離せない。
マサキは額を押さえた。
終電を逃しただけだ。
朝まで時間を潰して帰る。
ただそれだけ。
漫画を読んで、眠くなったら寝て、気付けば朝になっている。
普通に考えればそれで終わる話だった。
それなのに妙な緊張だけが消えない。
個室。
深夜。
二人きり。
しかも相手はリサだ。
(いや、だからなんだ)
自分で否定する。
そんなことを気にしているのは自分だけだ。
リサは漫画を読んでいる。
飲み物を飲んでいる。
いつも通り楽しそうにしている。
変なことを考えているのはオレだけだ。
そう思ったところで、別の考えが割り込んできた。
(でも)
リサはもう知ってる。
オレがそういう目で見てること。
意識していること。
知ってるはずなのに近い。
心臓がうるさくなった。
その時だった。
ふとリサが顔を上げる。
目が合った。
リサが小さく笑う。
にこっ、と。
ただそれだけなのに。
マサキは反射的に視線を逸らした。
気まずい。
なんか気まずい。
オレだけ変なこと考えてたみたいじゃないか。
いや実際そうなんだけど。
何か言わなければと思う。
とにかくこの場から逃げたい。
最初に口から出たのはそれだった。
「飲み物……取ってこようか」
「え?」
リサはぱちぱちと瞬きをしたあと、ふにゃっと笑った。
「いいのー?」
「……うん」
「松前くんやさしー」
その一言で胸の奥がざわつく。
マサキは立ち上がった。
「じゃあ行ってくる」
「お願いしまーす」
ひらひらと手を振るリサを残して個室を出る。
ドアが閉まった瞬間、ようやく息を吐いた。
冷たい空気が肺へ入る。
一人になったはずなのに落ち着かない。
さっきの笑顔が頭に残っている。
『松前くんやさしー』
(あれ、誰にでも言うんだよな)
リサはそういうやつだ。
愛想が良くて。
優しくて。
誰とでも話せて。
誰にでも笑う。
分かっている。
ちゃんと分かっている。
それなのに胸の奥が少しだけざわついた。
その笑顔が自分だけに向けられたものだったら、なんて。
そんなことを考えた瞬間、自分で嫌になる。
マサキは顔をしかめながらドリンクバーへ向かった。
◇
ドアが閉まる。
かちゃり、と鍵の音がして、個室の中が少し静かになった。
リサは漫画を閉じ、そのまま数秒だけドアを見つめた。
ついさっきまで隣にいたはずなのに、急に部屋が広くなった気がする。
「……行った」
正直、少しだけ期待していた。
終電を逃して、二人でネカフェへ来て、個室で朝まで過ごす。
少女漫画だったら絶対イベントが起きている。
でも現実は違った。
マサキは漫画を読んでいた。
近くにいるだけ。
時々目が合うだけ。
いつも通り優しいだけ。
(やっぱネカフェじゃいい雰囲気にはならないか……)
壁へ頭を預けながら、小さく息を吐く。
そもそもマサキはそういうタイプじゃない。
守ってくれる。
でも踏み込んでこない。
そこが好きなのだけど、そこが難しい。
「はぁ……」
もう一度息を吐いたところで、ふと思い出した。
「やば」
声を漏らし、慌てて鞄へ手を伸ばす。
ごそごそと中を探り、いつものポーチを取り出した。
落ち込んでる場合じゃない。
リサは素早く鏡を開いた。
まず気になったのは前髪だった。
鏡を覗き込みながらくしで整える。
少し崩れている気がして、流れをなぞるように何度も通した。
右を直して確認する。
左も直して確認する。
少し離して見る。
顔を近づけて見る。
まだ気になる。
もう一度直す。
「……変じゃない?」
鏡の中の自分へ向かって呟く。
当然返事はない。
でも確認したくなる。
今度は頬へ触れた。
乾燥していないか。
変にテカっていないか。
ネカフェの照明は少し暗くて分かりにくい。
スマホのライトも使いながら角度を変えて確認する。
右。
左。
正面。
たぶん大丈夫。
たぶん。
いや、どうだろう。
不安になってもう一度確認する。
今度はポーチからリップを取り出した。
キャップを外し、鏡を見ながら慎重に塗る。
塗り終えると唇を軽く合わせる。
それからもう一度鏡を見る。
変わっただろうか。
正直よく分からない。
それでも塗らないよりはマシな気がした。
鏡の中の自分を見る。
服を見る。
肩を見る。
胸元を見る。
スカートを見る。
(やっぱ今日派手過ぎた?)
眉が少しだけ下がる。
(こういうの嫌い?)
前髪を整えてから鏡を覗き込む。
少し首を傾げ、横顔の見え方を確認した。
(色気ってどうやって出すの……)
目線を変えてみる。
大人っぽく見える角度を探してみる。
数秒後。
「……なにしてんの」
自分でやっておきながら耐えられなくなってすぐやめる。
もし今この瞬間にマサキが戻ってきたら。
そう考えた途端、慌てて姿勢を戻す。
鏡を閉じる。
(今日…可愛いって言ってくれてないな…)
◇
かちゃり。
ドアを開けて個室へ戻る。
リサは壁へ背中を預けたまま漫画を読んでいた。
マサキが戻ってくると、ぱっと顔を上げる。
「おかえりー」
「……ただいま」
右手のカップを差し出す。
「さっきと同じので良かった?」
「うん、ありがとー」
リサは小さく笑いながらカップを受け取る。
両手で包む。
嬉しそうに微笑んでから、ふーっと息を吹きかけた。
一口。
「あつ」
すぐに口を離す。
その姿を見た瞬間、マサキは視線を逸らした。
今日ずっとそうだ。
見れば見るほど意識する。
漫画はもう無理だった。
さっきから全然読めていない。
なら別の何かをした方がいい。
そう思ってパソコンの電源を入れる。
画面が明るくなった。
適当にゲーム一覧を開く。
特にやりたいゲームがあるわけじゃない。
ただ、パソコンへ向かえばリサは背後側になる。
視界に入らない。
それが大事だった。
「ゲームするの?」
後ろから声がした。
マサキの肩がぴくりと動く。
「……まあ」
画面を見たまま答える。
リサは数秒黙った。
その沈黙が少し気になった。
だが振り向かない。
振り向いたらまた意識する。
たぶん、絶対。
今日はなんか駄目だ。
終電を逃しただけなのに。
個室だからか。
夜だからか。
分からないけど、とにかく調子が狂う。
「へー」
リサが返事をする。
その声が少し近かった。
嫌な予感がした。
次の瞬間。
ふわっ。
マサキの身体が固まる。
リサがそのまま横へ入り込んでくる。
迷いなくマサキの座る座椅子へ膝を乗せてきた。
「な、なにしてんの」
座椅子一つを二人で使うには狭すぎる。
肩が触れる。
太ももも近い。
髪がふわりと揺れた。
甘い香りが届く。
リサ一人でも十分な幅しかない。
そこへ二人。
当然距離がおかしくなる。
マサキは思わず背中を引いた。
けれどリサは画面を覗き込むことしか考えていない。
「これやるの?」
その拍子に肩がさらに寄る。
柔らかい感触が腕へ触れた。
マサキの指が止まる。
(近い)
同じ座椅子だ。
なんでそうなる。
隣あるだろ。
空いてるだろ。
思考とは裏腹に、リサをどかそうとはしない自分がいた。
だから余計に困るのだった。
「いや狭いだろ」
「大丈夫大丈夫」
大丈夫じゃない。
マサキの指が止まった。
ゲームどころじゃなかった。
◇
リサは画面を覗き込む。
けれど本当はゲームなんてどうでもいい。
少しだけ不満だった。
戻ってきてから、ほとんど見てくれない。
せっかく鏡を見た。
前髪も直した。
リップも塗った。
服だって悩んだ。
なのに、ゲーム?
(見ろよ)
そう思いながら、さらに身体を寄せる。
マサキは画面を見る。
リサは横顔を見る。
少しくらい、見てくれてもいいのに。
リサはさりげなく前髪へ触れた。
整えた場所。
指先で軽く流す。
ちらり。
横を見る。
マサキは画面を見ていた。
見ていない。
全然見ていない。
(見ろ)
少しだけ頬を膨らませながら、リサはさらに距離を詰めた。
そのせいで胸がマサキの腕に押し潰れる。
マサキの肩がぎくりと揺れた。
指も止まる。
数秒。
そして、チラッと胸だけ見た。
(見た)
リサの口元が少しだけ緩む。
(やっと見た)
(そっちじゃないけど)
◇ ◇ ◇
リサは座椅子へもたれた状態で漫画を開いている。
けれど、もうほとんど読めていない。
ページを持つ手がゆっくり下がる。
頭も少しずつ横へ傾いていく。
「……如月?」
「んぅ……」
返事が曖昧だった。
次の瞬間。
ずるっ、と。
背もたれから身体が滑り落ちる。
「うわっ」
反射でマサキが手を伸ばした。
倒れかけたリサの肩と背中を支える。
軽い。
クッションマットへ倒れ込む寸前で止まった。
「ん……」
リサは半分眠ったまま、ぼんやりマサキを見上げる。
近い。
髪の匂いが近かった。
マサキは一瞬固まってから、はっと我に返る。
(……いや、下クッションだし)
別に受け止めなくても痛くはなかったかもしれない。
そう思い直して、ゆっくり手を離そうとした。
でも。
ぎゅ。
服の裾を掴まれる。
「……え」
リサが離さない。
眠そうに目を閉じたまま、マサキへ寄ってくる。
「さむい……」
小さな声だった。
マサキは喉を詰まらせる。
「……ブランケット取ってくるか?」
「んー……」
首を横に振る。
そのまま、さらに近づいてきた。
「あっためて……」
眠気に溶けた声だった。
たぶん、深い意味なんてない。
寒いから。
近くにいるから。
それだけ。
でも、言われた側の心臓は全然平気じゃなかった。
マサキは固まったまま、腕の中のリサを見る。
肩へ触れた指先に、ひやりとした体温が伝わってきた。
冷房の風が、キャミソールから出た白い肩を冷やしている。
(……ほんとに冷えてる)
マサキは困ったように息を吐き、ゆっくり身体を離そうとする。
このまま支えているのもまずい。
下はクッションマットだし、いったん寝かせて、ブランケットを持ってくればそれで済む。
そう思って、そっと手を緩めた。
でも。
ぎゅ。
服の裾を掴む力が強くなる。
「……」
リサが眉を寄せたまま、小さく身を寄せてきた。
「一人にしないで……」
寝言みたいな声だった。
マサキの動きが止まる。
「……如月?」
返事はない。
眠ったまま。
でも、離れたくないみたいに掴んでくる。
(なんだよそれ……)
マサキは視線を落とした。
起きている時のリサは平気そうだった。
笑って。
はしゃいで。
何でもないみたいに。
親の話をした時もそうだ。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、静かな顔をしたのに。
すぐ笑った。
誤魔化すみたいに。
なのに。
なんで、こういう時だけ。
寝てる時だけ、こんなふうに頼ってくるんだ。
マサキは唇を噛む。
……いや。
違う。
頼らないんじゃない。
自分が頼りないだけだ。
安心させられるほど、ちゃんとしてない。
だからリサは、自分の前ではずっと一人で平気そうにしている。
「……っ」
胸の奥が少し痛かった。
マサキはしばらく動けなかった。
胸元へ寄りかかるリサの寝息だけが静かに聞こえる。
個室の外では誰かが歩く音がしていた。
ドリンクバーの氷が落ちる音。
遠くのパソコンのファン音。
そんなものが時々聞こえるのに、この狭い部屋だけ妙に静かだった。
リサは眠ったまま、服を掴んだ手も離さない。
いつもみたいに喋らないし、笑わないし、拗ねてもこない。
ただ小さく息をしながら、自分へ寄りかかっているだけだった。
マサキは視線を落とす。
頬へかかった髪の隙間から長いまつ毛が見えて、少しだけ開いた唇が規則正しく呼吸を繰り返している。
寝ているだけなのに、起きている時よりずっと幼く見えた。
普段のリサは違う。
クラスの中心にいて、誰とでも話して、いつも人に囲まれている。
だから最初は勝手に思っていた。
自分なんかよりずっと強い人なんだと。
けれど視線を落とした先では、服の裾を握った細い指が離れないように掴んだままになっている。
『一人にしないで』
あれは本当に寝言だったんだろうかと思いながら目を閉じる。
たぶん起きている時のリサなら言わない。
平気そうに笑って、何でもないみたいに振る舞う。
そういうところだけ妙に上手い人だから、余計に今だけは嘘じゃない気がした。
マサキはもう一度リサを見る。
安心したみたいな顔で眠っている。
無防備で、何も隠せていない。
その顔を見ていると不思議と目が離せず、可愛いとか綺麗とか、そういう感想より先に別のことを考えてしまう。
ちゃんと眠れてるな、と。
そのことが少しだけ嬉しかった。
笑ったあと、一瞬だけ力が抜ける時がある。
誰も見ていないと思った時だけ。
マサキはそれを何度か見たことがあった。
だから今みたいに力を抜いて眠っている姿を見ると、自分でも理由は分からないのに少し安心する。
胸元へ額を預けたまま眠るリサは、時々小さく息を吐いて、そのたびに服を掴む指先がわずかに動いた。
マサキはその様子を見ながら、そっと視線を逸らす。
こんなふうに誰かの寝顔を長い時間見ていたことなんて、今まで一度もなかった。
細い肩。
冷えた指先。
無防備な寝顔。
深夜のネカフェ。
鍵付き個室。
状況だけ見れば、全然落ち着ける空気じゃない。
でも。
(……寒いんだよな)
マサキは観念したみたいに息を吐く。
ゆっくり手を回した。
肩を抱くように支えて、そのまま自分の膝へ引き寄せる。
柔らかい重みが乗る。
リサは抵抗しなかった。
むしろ安心したみたいに、胸元へ額を擦り寄せる。
マサキの心臓が跳ねた。
肩へ触れる髪がくすぐったい。
しかも薄いキャミソール越しだから、体温まで変に伝わってくる。
(やばい……)
普通なら、距離を取るべきだった。
深夜。
鍵付き個室。
寝ぼけた女の子。
理性だけで考えるなら、むしろ離れるべき状況だ。
でも。
『一人にしないで』
そう言って、服を掴んできた声が頭から離れなかった。
『あっためて』
眠ったまま漏れた、小さな甘え声。
それはたぶん、起きている時のリサなら絶対に言わない。
ずっと平気そうにしていたから。
笑って。
楽しそうにして。
寂しいなんて顔を見せないまま、いつも通りを続けていた。
だからマサキは、ずっと思っていた。
自分は頼られていない。
男としても。
頼る相手としても。
でも今のリサは違った。
計算でもない。
冗談でもない。
寝ぼけたまま、無意識で縋ってきている。
それが妙に胸へ刺さった。
寒いなら、どうにかしたい。
安心させたい。
その気持ちの方が先に動いていた。
触りたい、とか。
そういうのじゃない。
このまま震えさせておけない。
その感覚の方がずっと強かった。
だからマサキは、離せなかった。
寒そうに肩を縮めるリサを、そのまま抱える。
するとリサは安心したみたいに、小さく息を吐いた。
服を掴む指から、少しだけ力が抜ける。
その反応を見てしまうと、もう離せなかった。
だから結局、そのまま抱えるしかなかった。
マサキは壁へ背中を預け、しばらく黙ったまま考える。
これ寝やすいか?
いや。
さすがに苦しいだろ。
自分の膝へ半分もたれかかるみたいになっているせいで、リサの首が変な角度になっていた。
リサは眠ったまま、小さく息をしていた。
(……いや、せめて寝やすくはするか)
マサキはそっと息を吐き、自分が座っている座椅子へ視線を向けた。
これ、倒せるよな。
リサを起こさないよう慎重に身体を支えたまま、片手で背もたれへ触れる。
がこん。
小さな音を立てて、背もたれが後ろへ倒れた。
マサキは服を掴まれたまま、ゆっくり身体の向きを変えた。
リサを支えながら、自分も倒れた背もたれへ身体を預ける。
すると。
こてん。
自然に、リサの頭が胸元へ収まった。
「っ……」
マサキの肩が跳ねる。
でもリサは安心したみたいに小さく息を吐いただけだった。
掴んでいた服の裾を、ぎゅっと握り直す。




