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32. 野外活動 当日 ~独占欲~

 学校から離れた山道。

 自然観察の一環として、クラス全体で来ていた。

 マサキは班での作業を終えたあと、少しだけ離れた場所に立っている。

 名目上は、周りの景色を眺めているだけ。

 だが、視線の先にあるのは——

 リサだった。


 遠くで、他の女の子たちと一緒に、何か作業をしている。

 植物を採集しているらしい。

 リサは笑いながら、友人たちと会話している。

 その姿が、やけに眩しく見える。

 マサキは、その横顔を眺めたまま、動かない。


(……何してんだ、オレ)


 自分で自分に問いかける。

 遠くからリサを見つめるなんて。

 不気味だろう。

 でも、視線は逸らせない。


 リサが髪をかき上げる動作。

 笑顔を見せる瞬間。

 少しだけ屈んで、植物を採集する姿。

 全てが、マサキの目に焼き付く。


(……)


 何も言わず、ただ見ている。

 そのとき。


「あー………如月、胸でけぇな」


 背後から、突然の声。

 マサキは一瞬、手を止める。

 というより、体全体が固まる。


(なに言ってんだコイツ)


 振り返ると、池沢がいた。

 同じようにリサの方を眺めている。

 池沢はマサキの様子を見ながら、さらに続ける。


「お前さわったことある?」


 その一言で、マサキの脳裏にカラオケや体育倉庫でのことが蘇る。

 あの時の感触。

 柔らかさ。温もり。大きさ。

 心臓が、一瞬だけ強く鳴った。

 でも、絶対に認めることはできない。

 マサキは視線を落としたまま、口を開く。


「………あるわけないだろ」


 短く、ぶっきらぼうに返す。

 だが。

 その返答の直前に、ほんの一瞬だけ、沈黙があった。

 思い出す時間。

 池沢はその一瞬を見逃さなかった。


「いまの間はなんだよ」


 マサキは即座に返す。


「お前が低俗すぎて引いたんだよ」


 冷たい言い方だった。

 池沢は笑う。


「付き合えないなら、せめてちょっとくらい触りてぇ」


 その発言に、マサキは心の中で舌打ちする。


(発想が幼稚すぎるだろ…)


 マサキは視線をリサに戻す。

 遠くで、相変わらず笑いながら作業をしている。

 何も知らない顔で。

 何も気づかない顔で。

 その姿を眺めながら。

 マサキも、その胸を見てしまう。

 見ようとしているわけじゃない。

 なのに、一度意識してしまうと、もう駄目だった。

 リサが身を乗り出すたびに揺れる柔らかな輪郭が、視界の端に焼き付いて離れない。

 リサは友達に呼ばれ、振り返りながら笑う。

 その動きだけで、柔らかい弾力が、布越しでも分かるほど自然に波打つ。


 マサキの喉が、無意識に詰まる。

 目の前にいる池沢みたいなヤツが、

 同じことを考えているのかと思うと。

 心の奥が、少しだけ黒くなった。


 ◇     ◇


 鍋の中では、カレーがぐつぐつと煮えている。

 リサは火を見つめながら、ほんの少しだけ眉を寄せる。


(煮立ってる…火が強い…)


 でも、どうすればいいのか分からない。


「如月さん」


 すぐ横から声。

 気づけば池沢が隣にしゃがみ込んでいる。

 距離が近い。


「いい感じじゃん」


 鍋を覗き込む。

 リサは笑ったまま頷く。


「うん、でもちょっと火が強くって…」


 内心とは逆に、声は軽い。

 池沢はそのまま距離を詰める。


「えー、大丈夫じゃない?焦げそうになったらおろせばいいんだろ。オレも見てるから」


 笑いながら言う。

 自然に囲い込むみたいな位置。

 リサはそのまま笑顔で、


「そうだね、ありがと」


 答える。


(どうしよ…なんか怖い)


 でも手は止めない。

 そのとき。

 後ろから、マサキ。

 何も言わずに鍋を見る。

 手を伸ばして、薪を一本、抜く。

 火がすっと落ち着く。

 池沢がすぐに言う。


「え、なにしてんの?」


「いや、煮立ってるから」


 一歩下がる。

 リサが鍋を見る。


「……あ」


 小さく漏れる。

 さっきより、明らかにいい。


「あ、ありがとう。こっちの方がやりやすい」


 笑顔のまま言う。

 今度はちゃんと、実感がある。

 池沢が少しだけ顔をしかめる。


「マジかよ…」


 池沢がまだ近いまま、鍋を覗き込んでいる。

 リサは笑顔を保ったまま、少しだけ身を引けずにいる。

 そのとき。

 マサキが一歩近づく。

 ほんの一瞬だけ間を置いて――

 リサの肩に、軽く触れる。


「一回、火ちゃんと見たいから、そこどいて」


 低く、短く。

 視線は鍋のまま。

 リサは一瞬だけ止まって、


「あ、うん。ありがとう」


 素直に横へずれる。

 そのまま立ち位置が変わる。

 マサキが火の正面に入り、

 リサはその横へ。

 池沢は、自然に一歩外れる形になる。

 マサキはすぐに手を離す。

 何事もなかったみたいに、火を確認する。

 リサはその横で、少しだけ視線を落とす。


 ◇


(……)


 今の動き。

 池沢との距離。

 自分の位置。

 全部、きれいに切り替わっている。

 ちらっと横を見る。

 マサキは、何も考えていないみたいな顔で火を見ている。


(……助けてくれたんだよね)


 リサは少しだけ口元を緩める。


(……かっこいい)


 小さく、心の中でだけ呟いた。


 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


 野外学習場所。

 水道の前。

 マサキは手を洗おうとしていた。

 蛇口をひねり、水が流れ出す。

 そのとき。


「あたしも手洗いたい」


 背後からリサの声。

 マサキは無意識に少しだけ身をずらす。

 スペースを作ってやるために。

 リサがマサキの隣に立つ。

 他の女の子たちは、まだ採集地で作業をしているらしい。

 池沢は、相変わらずマサキのそばで何か言いたそうにしている。

 マサキは蛇口をさらに捻った。

 水の勢いが増す。

 顔も洗おうかと思った。

 が——

 蛇口に手が当たり、勢いで方向が変わった。

 水が、すぐ隣のリサの顔に直撃した。


『びしゃっ』


 水音。


「ぷひゃ」


 リサが声を上げた。

 反射的に、手で顔を覆う。

 マサキは即座に反応した。


「ご、ごめん。如月さん」


 謝る。

 声には、明らかに動揺が混ざっている。

 池沢は、その光景を見て


「おおっ」


 興奮したような声。

 リサのTシャツが、水に濡れていた。

 真っ白なTシャツ。

 水が染み込んで、生地が透き通っている。

 その下に、リサの下着が透けて見える。

 白いブラジャー。

 その形が、濡れた生地越しに、くっきりと浮き出ている。

 胸の膨らみも、より強調されている。

 リサは、その状態に気づいていない。

 マサキは、すぐに池沢に向かって言う。


「おい見るな」


 必死の声。

 池沢は引かない。


「お前はいいのかよ」


 一方、リサは。


「鼻にはいったー」


 まだ水を吹き出している。

 目をつぶったまま、両手で顔を押さえている。

 マサキは急いで言う。


「おい、前隠せ」


 リサが動くたびに。

 濡れたTシャツが身体に張り付き。

 下着の形がより浮き出ていく。

 ブラの線。

 胸の形。

 リサはまだ水を吹き出すことで必死だ。


「痛いよー」


 小さく泣き言を言う。

 マサキは、その状態を見て。

 反射的に言った。


「分かったから」


 短く。

 必死で。

 池沢は、それでも言う。


「おい見せろ」


 リサは、相変わらず顔を覆ったまま。


「あー鼻水出ちゃう見ないでー」


 マサキは、その光景を見て。


「その格好でフラフラするな」


 言いながら、マサキが動く。

 リサを隠すように身体を寄せ、近くの木陰まで誘導すると、そこへ座らせた。

 リサの頭から隠すように、腕で覆った。

 そうすることで。

 リサの濡れた身体は、マサキの腕に隠れる。

 周りからは見えない。

 ただ——

 二人がぴったりと寄り添い、マサキがリサを庇う形で座っている姿だけが、周りに見える。

 リサの濡れた身体は、もう見えない。

 マサキの腕の中に、完全に隠れている。


(半分はオレのせいだし…仕方ない…)


 そう思いながら。

 マサキは、リサの頭を腕で押さえたままにしておく。

 数秒。

 リサの動きが落ち着いた。


「如月さん、顔なおったか?」


 マサキが聞く。

 リサの声は、もごもごしている。


「いいかたぁー」


 話しにくいらしい。

 マサキは、少しだけ腕を緩める。


「顔は可愛いか?」


 その問い方は、奇妙だ。

 つまり、「大丈夫か」という意味のはずなのに。

 その言い方は、まるで——

 リサの顔を褒めているようにも聞こえる。

 リサは、その問い方に。

 心の中で何かが反応する。


「ん……っ、う」


 曖昧な返事。


「なに笑ってんだ」


「変な言い方するから」


 リサが返す。

 心の中では、


(笑ったわけじゃないけど)


 そう思いながら。


「前髪はりつく」


 濡れた髪が、顔にくっついているらしい。

 マサキは反射的に言う。


「それより服の心配してくれ」


 視線はそっぽを向いたまま。

 リサの濡れたTシャツ。透ける下着。

 それが視界に入らないように、早くここから離れるために。

 その焦りを、言葉で追い払おうとしていた。


 ◇     ◇


「着替え持ってたんなら言えよ」


 リサはまだ濡れた髪を押さえながら、ぽつりと答える。


「誰のせいだと思ってんの」


「すいません」


「あーあ、前髪ワカメじゃん。せっかくセットしてきたのに」


「別にいいだろ、如月さん可愛いんだし」


「………そ、そういえば許してもらえると思ってるの?」


 リサはそれを聞いて、少しだけ肩の力を抜く。


「じゃあ」


 タオルをぎゅっと握り直して立ち上がる。


「ちょっと隠してて」


 リサはマサキの手をひき、木の影へ移動する。

 マサキは即座に一歩前に出る。

 リサを木陰で挟む立ち方になる。

 完全に"壁"になる位置。


「じゃあ脱ぐよ」


 衣擦れの気配が、わずかに変わる。

 マサキはその瞬間、目を閉じた。


(……見ない)


 自分に言い聞かせるみたいに。

 顔をそらしたまま、さらに視線を上げる。

 空の方を向く。

 何も見ないように。

 何も考えないように。

 目は閉じたまま、リサの気配がある。

 動く音。

 布の擦れる音。

 小さな気配の変化。

 それだけが、ぼんやりと伝わってくる。

 リサは濡れて張り付く布に苦戦する。


(まだか…?)


 マサキはつい細目でチラッと見てしまう。

 そして、即座に後悔する。

 リサの白い肩。

 濡れた髪が鎖骨に張りついて。

 そのすぐ下――

 ブラジャーの白いレースに包まれた、大きな2つのふくらみ。


(……っ)


 息を吸うタイミングが一瞬遅れる。

 本能的に見てしまう。

 柔らかそうな曲線。


(如月さんの…おっぱい…)


 制服や私服の下に隠れていた部分が、今この瞬間だけ露わになっている。

 その事実だけで、頭の中が変な具合に騒ぐ。

 リサが身体を動かすたびに、豊かなふくらみがわずかに揺れる。


(……ヤバい)


 目が離せない。

 池沢の言葉が頭をよぎる。


『付き合えないなら、せめてちょっとくらい触りてぇ』


(あいつを幼稚だと思ったのに……今はその気持ちが分からなくもない)


 そう考えてしまった自分に、マサキは戸惑う。


(如月さんだって、オレがそういう男じゃないって信用してくれてるから…)


 分かってる。分かってるのに。

 理性の隙間に潜む本能が、どうしても揺れてしまう。

 手が動いた。無意識だった。

 右手が、リサの方に伸びていく。

 まるで吸い寄せられるように。

 距離が縮む。手が触れそうになる。


(ダメだろ…)


 でも、手は止まらない。


『ふにっ』


 指先が触れた。

 柔らかい。温かい。柔らかすぎる。

 マサキの指先でリサの胸が持ち上げられるように震える。


「え……」


 リサの声が漏れる。

 その瞬間、マサキは即座に手を引っ込める。動きが止まる。

 視線は下を向いたまま、リサと目を合わせられない。


「え?」


 再びリサの声。

 声を出すまでの時間が長い。やっと口を開く。


「悪い……その、つい…」


 リサは疑わしげに眉を寄せる。

 驚きはあった。

 でも、怒りではなかった。

 ただ、心臓が少しだけ跳ねている。

 その感覚だけが妙に残っている。


(……今の、びっくりした)


 そう思いながらも、すぐに感情を整理しようとする自分もいる。

 嫌ではない。けれど、軽く流されるのも違う。


「つい?」


 リサは軽く問い返す。声は落ち着いているが、視線はじっとマサキを見ていた。

 マサキは一瞬黙り、観念したように言う。


「……触ってしまった」


 その言葉に、リサはふっと表情を緩めた。


「理由になってないよ」


 怒っているわけではない。

 勝手に踏み込まれるのは違うと思っただけだった。

 ただ頬に赤みが差していた。

 マサキはすぐに視線を逸らす。


「怒っていいぞ…殴ってもいい…」


 自分自身に腹が立った。手が勝手に動いた。触っていいわけないのに。

 相手が警戒しないのをいいことに、それを利用した。最低だ。


「いいよ、別に。松前くんに触られるの初めてじゃないし……まぁ、わざとじゃないとか言われてたら怒ったけど」


 リサは軽く笑いながら明るく言う。

 その表情には確かに無理がなかった。


「逆じゃないか。わざとなんだから…怒っていい」


 リサはその真面目さに、少しだけ困ったように笑った。


「なぁに怒ってほしいの?真面目だね」


 自分の行動が許されるラインを越えた。

 自分の手が勝手に動いた感覚だけが、妙に重く残っている。

 マサキが黙っていると、


「わざとじゃないって言われて、今のなかったことにされる方がイヤだし」


 さらっと言う。

 マサキは。


「……なかったことにはしない」


 自分でも何を言いたいのか分からないまま、それだけ返す。

 リサはその言葉を聞いて、ふっと表情をゆるめる。


「我慢できなくなっちゃった?松前くんも男の子だもんね」


 軽い調子。

 マサキは、その言葉にすぐ返せなかった。

 否定もできない。かといって、それだけで片づける気にもなれない。

 沈黙のあと、マサキは視線を落としたまま、短く言う。


「……抑えられなかった」


 リサは少しだけ目を細めた。

 彼の不器用さが、可愛いとすら思う。


「正直だなぁ」


 リサはそのまま少しだけ間を置いてから、マサキの顔をじっと見た。

 どこか確認するような静かな視線だった。


「今度はちゃんと言ってね」


 軽い調子だが、はっきりしている。

 マサキが戸惑う。


「なにを」


「触るなら触るって言ってねって。急にはびっくりするから」


 その言葉に、マサキは一瞬言葉を失う。


「……そういう冗談もほどほどにしないと、また変なこと言うやつ出るぞ」


 少しだけ眉をひそめる。


「池沢とか、ああいうの」


 名前を出すときだけ、わずかに声が硬くなる。

 リサは首をかしげる。


「なに?なんか言ってたの?」


 軽い調子だった。

 マサキは一瞬迷ってから、やめる。


(言ったところで、余計な話になるだけか)


 ため息を飲み込んで、短く言う。


「……大したことじゃない」


 リサは納得していない顔のまま、それでも追及はしなかった。


「ふーん。まあいいけど」


 そして、目の前のマサキをもう一度見た。


(松前くん、普通に女の子に興味はあるのか…)


 そんなことをぼんやり考えていると、沈黙が少しだけ長くなる。

 マサキが視線を外したまま、低く言った。


「早く服着てくれないか」


 リサは一瞬きょとんとして、


「え、あ…違うの。下着も濡れてるから乾かしたくて…見せようとしてるんじゃないよ?」


 最後だけ、少しだけ確認するような言い方になる。

 その言葉に、マサキはすぐには返せなかった。


(下着も濡れてるとか言うな……)


 内心でそう思いながら、視線をわずかに逸らす。

 聞こえた情報が余計に頭の中で反響して、落ち着かない。


「……分かってる」


 ようやく出した声は短くて、少しだけ硬い。

 リサはその反応を見て、逆に少しだけ肩の力が抜けた。


(あ、変な意味には取ってないか)


 マサキはそれ以上何も言わず、視線を木の外へ逃がしたまま立っている。

 気まずさは残ったままなのに、どこか妙に落ち着いてしまう沈黙だった。


 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


 休憩時間。

 班ごとに散らばって、休憩をしている。

 木立の中。

 人気のない場所。

 リサは疲れたのか、木の根元に凭れ掛かったまま、眠ってしまっていた。


「すー…すー…」


 穏やかな寝息。

 顔は、少しだけ横に傾いている。

 髪が頬にかかり、その表情をより柔らかく見せている。

 マサキは、少し離れた場所で、リサを見守るようにして座っていた。

 特に何をするわけでもなく。

 ただ、リサが眠っている間、周りに気をつけるために。

 そのとき。

 足音がした。

 池沢だった。


「可愛いなおい、同じ班で良かった」


 低い声で、呟くように言う。

 リサの寝顔を見つめている。

 マサキは、その動きに即座に反応した。


「おい、起こすなよ」


 短く、冷たく。

 池沢は笑う。


「彼氏ヅラすんな」


 その言い方に、マサキは反射的に返す。


「してねぇ」


「ちょっと近くで見るだけだ」


 そう言いながら、池沢はリサに近づく。

 マサキは、その動きを見て立ち上がった。

 池沢はしゃがみ込み、リサの顔のすぐ近くまで身を寄せる。

 眠っている横顔を、じっと覗き込むように。


「マジで可愛いな。こんな無防備で寝るなんて…」


 その低い声。

 その距離感。

 マサキの中で、何かが切れた。


「近すぎだ…!」


 反射的に足が出る。

 マサキの靴先が、池沢の肩を横から軽く蹴った。

 本当に軽い一撃だった。

 距離を取らせるためだけの。

 池沢の身体がぐらりと傾く。

 本来なら、横へ崩れるはずだった。

 けれど池沢は、一瞬だけリサを見た。


 眠っている顔。

 すぐ目の前にある身体。

 その一瞬の下心が、咄嗟に身体を動かした。


 倒れかけた勢いを、無理やり前へ持ち直す。

 まるで支えを求めるように。

 結果として、池沢の身体がそのままリサへ覆いかぶさる形になる。

 その瞬間。

 リサの目が開いた。


 至近距離に男の顔。

 覆いかぶさる身体。


 状況を理解するより早く、防衛本能が、全力で発動する。


「ひっ…!」


 短い悲鳴。

 彼女の脚が、本気で上がった。

 ドッ

 池沢のみぞおちに、すべての力を込めた蹴りが直撃した。


「ぐふ…」


 池沢が呻く。

 その蹴りは、本気だった。

 空気を吐き出しながら、池沢の身体が後ろへ吹き飛んだ。


 リサは息を荒くしながら身体を起こす。

 乱れた髪。

 驚きで揺れる瞳。

 胸元が大きく上下している。


「わ、悪い…いまのはオレが」


 マサキが言う。

 その言葉を聞いた瞬間。

 リサの中で何かが爆発した。


「うわぁーん」


 リサはマサキに抱き付いた。

 頭をマサキの肩に預ける。


「ちょっ」


 マサキは、その動きに一瞬戸惑う。


(いや、オレが悪いんだが…)


 そう思いながらも。

 リサを抱き止めるしかなかった。


 ◇


「落ち着いたか?」


 マサキが聞く。

 リサは、まだマサキの肩に顎を乗せたまま。


「うん、でもこのままがいい」


 その言葉に。

 マサキは少しだけ硬くなる。


「ダメだろ…」


 短く返す。


(いろんな意味で)


 心の中で、そう付け加える。

 このままだと。

 自分の心の奥が、どんどん暗くなる気がした。

 リサは、マサキの拒否に反発する。


「はぁ?あたし怖かったんだけど?」


「悪かったって…」


 マサキは謝る。

 でも、それでもリサは離れない。


「お水もかけられるし…少しくらいいいことあったっていいじゃん…」


 その言葉に。

 マサキは、その意味を少しだけ誤解する。


「いいこと…」


 リサの中では。

 この瞬間。

 マサキに抱き止められていること。

 それが「いいこと」だった。

 でも、マサキにはそれが分からない。

 マサキは、別の意味で考える。


(如月が喜ぶこと…)


 心の中で、その言葉が浮かぶ。

 そして。


「如月さんはなにされたら嬉しいんだ?」


 その質問が、口をついて出た。

 リサは、その質問を聞いて。

 顔を上げる。

 目が、マサキの目を見つめた。


「いまぁ?松前くんがぎゅってしてくれたら嬉しいよ」


 その言葉。

 その視線。

 マサキは、その意味を理解しかけて。

 でも、まだ完全には理解していない。


(………触るのか)


 心の中で呟きながら。

 マサキは少しだけ腕に力を入れた。


「こうか…?」


 ぎゅっ

 その抱き方は、まだ慎重だった。

 リサは、その抱き方に小さく声を上げた。


「っ」


 マサキは、その反応に不安になる。


「いいか?」


 聞く。

 リサの答えは。


「もっと強く」


 その一言だった。

 マサキは、その要求に応える。


(加減がわからん)


 心の中で呟きながら。

 リサの腰に、より強く力を入れた。

 ぎゅうっ


「うぅー…最高ー」


 リサが、その抱きしめられ方に満足する。

 その声。

 その言葉に。

 マサキの中で、また別の感情が芽生える。


(こういうの、オレでいいのか…?下心ないとか思われてる…?)


 その疑問。

 その不安。

 でも、今は。

 その感情を考えている余裕は、マサキにはなかった。

 リサの体温を感じながら。

 その柔らかさを感じながら。

 マサキは、ただ。

 彼女を抱きしめているだけだった。

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