カラオケ 前編 ~ただのカラオケのはずだった3~
沈黙が訪れる。
空調の音がかすかに聞こえる程度の静けさ。
リサはちらっとマサキを見た。
マサキは目を伏せたまま、ほとんど動かない。
リサは思わず咳払いする。
「さっきの、最初からいれるね。ロックだから、この気まずい空気ぶっ飛ばしてよね」
リサは曲名をタップする前に、ちらっとマサキを見る。
マサキは微かに頷くだけで、まだ視線を合わせようとしない。
リサはそれを確認してから、タッチペンを画面に押し付けた。
再生ボタンが押され、部屋に電子的なイントロが流れる。
マサキはマイクを手に取った。
◇ ◇
あのクラス会のカラオケのときとは違う。
これは、リサに聴かせるために歌う。
(いや、普通に歌えばいい)
モニターを見ると歌詞が流れ始め、歌い出しの一小節で声が出た。
リサが動きを止めたのが、気配でわかった。
しかし、気にしないようにする。
サビに入る。
少しだけ声量を上げる。
リサの耳に、その声が届いた瞬間だった。
(……すごい)
感覚じゃなく、耳がそう結論を出していた。
音がちゃんと前に来て、言葉が一つずつ、きれいに形を保って飛んでくる。
喉で押し出してる感じがしないのに、声がちゃんと届く。
サビの高音に入っても、全然崩れない。
(いいなぁ)
ビブラートも語尾にだけさらっとかけるから、余韻が邪魔にならない。
そのまま次の言葉に自然に繋がっていく。
大部屋じゃなくても、これは変わらない。
イントロで感じた緊張が、サビに入るころにはもうなかった。
曲が終わると、拍手が来た。
「…………」
リサからだ。
「うますぎー!あたしだけ聴いてるの超贅沢ーっ」
本心っぽい声に、マサキはマイクを握ったまま顔を上げる。
「……ありがとな」
でもその一言のあと、
「高い音やばくない?めっちゃ鳥肌たっちゃった!」
如月さんが勢いよく身を乗り出した。
その動きでスカートがふわりと揺れ、マサキは一瞬だけ視線を泳がせるが、すぐに逸らす。
「てか息まで使ってくるよね!あたしああいうの超好き!サビの前で深く吸うやつ、あたしの好きな歌い手さんもー」
と言いかけて止まる。
「ごめん、よその歌い手さんのコメントはマナー違反」
その真面目さに、マサキは思わず小さく笑う。
「ふっ」
笑い声というより、呼吸の隙間で漏れたような小さな音だった。
リサは一瞬きょとんとしたあと、目を細める。
「え、なに?笑った?」
「笑った。如月さんがニコ厨なんだって思ったら面白くて」
マサキは表情を変えないまま言い、リサは顔を少し赤らめる。
「……えぇー……恥ず……」
むっとしながらマサキを軽く睨む。
でも、ほんの少しだけ顎を引いて照れくさそうにしているところが愛らしい。
(笑われた……)
そう思ったけれど不快じゃなく、むしろ笑ってくれることが嬉しい。
(松前くん、普段あんまり表情変えないし)
声も低めで淡々としていて、喋り方もあんまり主張しない感じなのに。
だからこそ、笑ってくれると、
(あたしといて、楽しい…?)
そう思えて、じんわりと嬉しくなる。
◇
そのタイミングで、ドリンクが到着した。
「失礼します」
軽いノックのあとにドアが開き、店員がトレーを持って入ってきた瞬間、空気が一気に現実に引き戻される。
リサは反射みたいに姿勢を正した。
「ありがとうございます」
マサキもマイクをテーブルに置いて、軽く会釈する。
マサキのコーラと、リサのいちごみるく。
グラスが一つずつ置かれていき、氷の触れ合う音が小さく響いた。
「フードは後ほどお持ちいたします」
「はーい」
店員が出ていって、ドアが閉まる。
静かになる。
リサはぱっと明るく声を出した。
「次の曲いれるねー、松前くん選んで」
スマホを軽く持ち上げて見せる。
マサキは少しだけ間を置いてから、短く返す。
「いや、如月さんも歌って」
「えー、上手くないって言ったじゃん」
「関係ない、せっかく来たんだし」
あっさりとした言い方だった。
でも、その言葉には変な遠慮がなかった。
リサは一瞬だけ目をぱちぱちさせて、それから小さく息を吐く。
「……ずるい」
ぼそっと呟いてから、リサはしぶしぶという感じで言う。
「じゃあ、一曲だけね」
そう言いながら、リサがタブレットを操作する。
マサキは黙って待った。
数秒後、イントロが流れ始める。
リサはマイクを手に取って、ほんの少しだけ深呼吸した。
(やば……緊張する……)
ちらっと松前くんを見る。
松前くんは特に何も言わず、ただ普通に座っているだけだった。
その<普通さ>に、少しだけ救われる。
(……いっか)
歌い出す。
最初の一音。
少し外れる。
マサキは一瞬だけ耳がそれを拾う。
ピッチがほんのわずかに上ずっている。
でも、すぐに次のフレーズで立て直してくるのが分かる。
テンポは遅れない。
(出だし、ちょっと浮いた)
リサは小さく顔を熱くする。
(うわ、やっぱり下手……)
でも、そのまま歌い続けた。
音程はやっぱり不安定で、サビでほんの少しだけ走る。
ところどころ危うい。
それでも楽しそうだった。
マサキはそれを見ながら、少しだけ視線を細める。
(……下手だな)
率直な評価は変わらない。
ただ、その下にもう一つ重なる。
(……いいな)
表情がある。
歌詞を追う目が、迷いながらも楽しさを失っていない。
曲が終わる。
リサは「ふーっ」と息を吐いて、マイクを置いた。
◇ ◇
「……ね、ガッカリしたでしょ」
少しだけ恥ずかしそうな顔で言うと、マサキは一拍置いてから正直に答えた。
「音程は外れてた」
「う」
そのまま固まる。
「でも、聴いてる感じは悪くなかった」
リサは一瞬きょとんとしてから、
「どういう意味?」
首をかしげる。
「楽しそうだったから……この歌が好きなんだってのは伝わる」
リサは少しだけ視線を泳がせてから、
「えへへ、そうなの。テンション上がるからこれ好き」
照れくさそうに笑った。
「感情乗ってるのはいいよな、声質も普通に……」
マサキは、そこで一瞬だけ言葉を止めた。
(……好きだ)
喉の奥まで出かかった言葉をぎりぎりで飲み込み、代わりに少しだけ視線を外してから続けた。
「……声質も普通にいい」
リサは一瞬、反応が遅れ、それからじわっと頬が赤くなって両手で顔を軽く押さえる。
「お世辞じゃないのが分かるから、余計困る」
小さく笑いながらもどこか嬉しそうで、そのまま視線をずらしてタブレットを手に取る。
耳が、少しだけ赤い。
「松前くん歌って」
話題を変えるみたいな勢いで言う。
(何にするか)
如月さんのスマホの曲リストを眺めながらゆっくり選ぶと、如月さんが横で待っている。
「これ」
リサはタブレットを操作しながらも、さりげなく端末を自分の膝側に寄せたまま離さない。
画面を確認するたびに手元へ引き戻し、テーブル中央には置かない。
(……これ、渡すとやばいやつだから)
本人は自然にやっているつもりだが、どこか<手放さない理由>があるような動きだった。
◇
(やっぱり……いい声)
普段の淡々とした声とは違い、ライブ感のある声で、息を混ぜた伸びのある高音。
(あー……ずるいなぁ)
マサキは、たぶん気づいていない。
視線には敏感なのに、こういう言葉を自分への好意として受け取るのだけは、びっくりするくらい下手だ。
(褒めてるのに、なんで毎回そんな遠くに置くかなぁ)
リサは心の中で小さくため息をつく。
でも、その不器用さまで可愛く見えてしまう。
歌が終わり、リサがまたパチパチと拍手する。
「囁き声で歌うとこやばいー。耳めっちゃゾクゾクした」
マサキはマイクを持ったまま、
「……大げさ」
ぼそっと呟く。
「大げさじゃないって、むしろどう表現していいか分かんないくらいえもい。歌上手い人って、音程合ってるだけじゃなくてテクニックすごいんだね」
マサキは、その言葉に少しだけ視線を上げる。
「オレのは……テクニックってほどじゃない」
少し考えてから続ける。
「音程とかより、抜き方とか……そっちの癖があるだけだと思う」
そのとき、コンコン、と軽いノック。
「ご注文のお品お持ちしましたー」
扉が開き、店員がトレイを持って入ってきた。
テーブルの上に、焼きおにぎり、のりチーズスティック、ベーコンポテトパイ、ソーセージ盛り合わせ、タコのから揚げとイカゲソの合わせ盛りが次々と並べられていく。
さっきまでの空気が、少しだけ現実に引き戻される。
「以上でお揃いになります、ごゆっくりどうぞー」
「ありがとうございます」
リサがにこっと笑って対応する。
店員が出ていき、扉が閉まる。
◇ ◇
一瞬だけ、静かになる。
リサはおしぼりで手を拭くと、そっとのりチーズスティックを一本つまむ。
一口かじって、マサキの方に差し出す。
「なんで食いかけ……」
マサキは少しだけ口元を引いて言う。
リサは、
「食べるかなって」
軽い調子のはずなのに、どこか様子をうかがうみたいな響きが混ざっていた。
マサキは差し出された、一口かじられたのりチーズスティックを見る。
ほんの少しだけ視線が揺れる。
「……じゃあ、食う」
そのまま口を寄せ、長いそれを端から軽く噛み、食いちぎるように、一口。
「……ん」
咀嚼する音が、小さく響く。
「前はもっと動揺してくれてたのに」
少しだけ拗ねたように言う。
その言葉に、マサキは一拍だけ沈黙した。
表情はほとんど変わらないまま、視線だけがわずかに泳ぐ。
(……別に、動揺してないわけじゃない)
そう思おうとした瞬間、さっきの感触が脳裏に浮かぶ。
一瞬だけ、呼吸のリズムが乱れた。
喉の奥が軽く詰まる。
それを誤魔化すように、咀嚼を続けたまま目線を落とした。
「……別に」
短く返す。いつもの淡々とした声。
だが、その間がほんの少しだけ長い。
リサなら気づかない程度の、ほんの小さな揺れ。
「さっきもっとすごいことしただろ」
その一言で、リサの動きがぴたりと止まる。
一瞬で、さっきの感触がよみがえったのか、肩がびくっと揺れる。
顔が一気に熱くなっているのが分かった。
「あれは……じ、事故だったし……」
言い返しかけて、言葉に詰まる。
『気持ちよかったんで……堪能してた』
(今日、このまま……なんかあるよね?)
思い出した瞬間、余計に期待してしまう。
じわっと熱くなる。
「悪い、思い出させて」
顔の熱が引かないまま、リサは
「……ほんとにね」
小さく返す。
「普通に食べていいか?」
「……うん」
リサは少しだけ間を置いてから、小さく頷いた。
「カラオケって、あんまり来ないけど……ここの料理って、なんか違うよな」
マサキがぼそっと言う。
「そうなの!」
リサは目を輝かせた。
「他のカラオケ屋さんってほぼ冷凍食品じゃん。ここって隣が居酒屋さんで、同じ系列だからそことメニュー同じなんだよね。だからちゃんと作ってるんだよ」
「へえ」
マサキはしっかりと焦げ目のついた焼きおにぎりを見ながら、小さく相槌を打つ。
「食べるの好きって、ただ好きなだけじゃないんだな……」
「うん、こだわり強いんだー。美味しいとこいっぱい知ってるよ」
リサはちょっと得意げに笑う。
「学校のやつらともよく来るのか」
マサキの何気ない一言。
リサは一瞬だけ、動きを止めた。
「ここには来たことないよ」
少しだけトーンを落として答える。
「なんで?行きたいって言わないの?」
ソーセージを齧りながら聞く。
リサは焼きおにぎりを頬張りながら
「教えたくない。自分の好きなお店、誰とでも行きたいわけじゃないもん」
マサキは一度、その言葉をそのまま受け取った。
誰とでも行きたいわけじゃない。
なら、今日はその<誰とでも>ではない相手として、自分がここにいることになる。
如月さんの好きな店。
誰にでも教えるわけじゃない場所。
そこに、自分は連れてこられている。
(これ、どういう顔すればいいんだ)
嬉しいと言うのは変な気がする。
「……そういうものか」
分かったような、分かっていないような声だった。
でも、それ以上は聞かなかった。
「ここのソーセージ美味しいでしょ、物は市販のだけど。鉄板で焼いてるから、歯ごたえ最高」
「……確かに、噛んだ時の音がすごかった」
リサはその反応がちょっと嬉しくて、少しだけ身を乗り出した。
「カリッてすごいいい音したよね。食感てやっぱすごく大事」
マサキはソーセージを噛みながら、無言の時間を持て余していた。
リサはというと、イカゲソをひと口かじっては満足そうに頷き、焼きおにぎりに視線を移している。
特に沈黙を気にしている様子はない。
(……何か話すべきか)
カラオケの機械音と、咀嚼音だけがやけにクリアに聞こえる空間。
普段なら一人でも平気な沈黙なのに、今は違う。
隣に誰かがいるだけで、間の持ち方が分からなくなる。
マサキはテーブルの上の料理を一度見てから、リサの方へ視線を向けた。
ちょうどリサは、タコのから揚げを口に運びながら小さく頬を緩めているところだった。
(……このままだと、何も喋らず終わるな)
(……何か言わないと)
間を埋めるように、思いついたことをそのまま口に出した。
「如月さんってさ」
「ん?」
「モデルなのにめっちゃ食うよな」
その一言で、リサの箸が一瞬だけ止まる。
「……あたし、そんな食べてる?」
そう言いながら、イカゲソを口に運ぶ。
「食べながらそれ言うのはツッコミ待ち?」
もぐもぐしながら目を細めた。
「普段こんな食べないよ。松前くんとご飯行くと美味しいんだよね」
その一言で、マサキは手を止める。
誰かと食べるから美味しい、という感覚が、すぐには分からなかった。
飯は一人で食べても味は変わらないし、うまいものはうまい。
そういうものだと思っていた。
「……いや、1人で食べても美味いだろ」
「実際の味が変わるわけじゃないよ。美味しそうに食べる人と一緒だと、美味しく感じることあるの」
「……ふーん」
マサキは納得したのかしてないのか分からない声を出す。
「てかさ、松前くんこないだはあたしに『痩せてるんだから食った方がいい』って言ってたじゃん」
「思ったことを言っただけで、食べるのダメって言ってないが」
「いや、そうだけどさ」
「それは別に矛盾してないな」
マサキはそのまま、何事もなかったみたいに焼きおにぎりをかじる。
パリッ、と小さく音が鳴る。
「モデルって、あんまり食べないイメージあったから……如月さんみたいにガッツリ食べてると」
リサはソーセージをつまみながら、少しだけ頬をふくらませる。
「なに」
「中身は普通の女の子なんだなって安心する」
ソーセージをつまんだまま、ぱちっと瞬きをする。
「……安心?」
聞き返されて、マサキは少しだけ視線を落とした。
雑誌に載っているリサは、やっぱり遠い。
学校で誰かに囲まれているときも、自分とは違う場所にいる人みたいに見える。
でも、目の前でイカゲソを食べて、焼きおにぎりに目を輝かせているリサは、そういう遠さが少し薄れる。
同じテーブルにいて、同じものを食べている。
それだけで、こっちも少しだけ息がしやすくなる。
ただ、それをそのまま口に出せるほど、マサキは器用じゃなかった。
「いや、モデルと飯食うとか緊張するだろ。それをかき消すくらいに如月さんの食いっぷりがすごい」
「それ褒めてないじゃん」
リサは口の中のイカゲソを飲み込んで、少しむくれたように視線を向ける。
「褒めようとして言ってないから」
「さっきは可愛い可愛いっていっぱい褒めてくれたのに」
小さく言い返すと、マサキは少しだけ視線を上げた。
「可愛いとは思ってる。美味そうに食べてる如月さんも可愛い」
さらっと言う。
言葉が本気すぎて、リサの方が面食らう。
リサの箸が止まる。
ほんの数秒だけ、沈黙が流れる。
「食べてるのが可愛いって……なに」
理由を聞かれても、うまく説明できる気はしなかった。
ただ、食べているリサが<作ってない顔>に見えるからだと思う。
雑誌に載っている如月さんとは違う。
学校で誰かに囲まれているときの如月さんとも違う。
ただ美味しいものを前にして素直に反応している。
目の前で同じものを食べて笑ってる感じに、どうしても目が引っ張られる。
「美味しいって思ってるところが、いちいち素直に顔に出てる」
そこで一度、視線が料理へ落ちる。
「頬張りすぎて口元隠すとことか、一口目で無言のまま何回も頷くとことか」
淡々とした口調。
褒めるでも煽るでもなく、ただ見ていたことをそのまま言っている感じだった。
「そういうのは、見てると目が離せなくなる」
「……はっず!」
リサは慌てて頬を押さえた。急に顔が熱くなる。
シンプルな言葉なのに、それが逆に突き刺さる。
リサは小さく咳払いして、テーブルに視線を落とす。
「……もう、なんで急にそんなこと言い出すの?」
「今のは見たままを言っただけ……」
「見てると目が離せなくなる……なんて」
小さく呟いて、残りのイカゲソを口に放り込む。
「如月さんはモデルなんだから、見られるのは慣れてるよな……?」
リサは一瞬、固まった。
そのあと顔を赤くして
「ご飯食べてるとこ見られるのは慣れてないし……。そもそもそこじゃなくて、あの……目が……離せないって……い、言い方がさぁ」
言葉が止まる。
ちらっとマサキを見た。
(だからそれ口説き文句じゃん…。松前くんて、意外と天然たらし……)
心のなかで小さくため息をつく。
視線をそっと外す。
マサキはもう次の料理に手を伸ばしていた。
何事もなかったみたいに、ベーコンポテトパイをつまんでいる。
(……ほんと、気づいてないんだろうな)
今日一日で、何回言われたか。
可愛い。似合ってる。目が離せない。
全部、嘘をつけない人が言ってるから重い。
(困る)
でも、困るのに嬉しい。
それがまた困る。
評価くれるのメチャクチャ嬉しいです(^▽^)





