21.エピローグ
シオン・ラングヴェルトが宰相に就任してから、王城の空気が変わった。
隣国とのあらゆる交渉を電光石火でまとめ、十年以上停滞していた税制改革案を半年で整備し、埃をかぶっていた法案を次々と形にしていく。
その速度は異常で、他省庁の役人たちは書類が回ってくるたびに目を白黒させていた。
若き天才宰相、という呼び名はあっという間に王都中に広まった。
しかし当の本人は相変わらず飄々としていた。
「愛してるよ、セレス」
「……私も愛していますよ」
「よし、やる気出た」
シオン様は満足そうに頷いて、書類の山に向かった。
私は思わず苦笑した。
ほとんど習慣になっていた。やる気が出ないときは愛の言葉を確認してから仕事を始める。
宰相のルーティンとしてどうなのかとは思うが、今更やめさせる気も起きなかった。
羽ペンを手に取って、自分の書類に向かう。
ふと、手が止まった。
あの頃の執務室を思い出す。
書類の山の向こうから聞こえた飄々とした声。挨拶もそこそこに始まった仕事。感情を殺して、ただ淡々とこなしていた日々。
家に帰りたくなかった。誰かと関わりたくなかった。仕事だけしていられればそれでよかった。
そう思っていた。
婚約者に裏切られて、義妹に笑われて、父に顧みられなかった自分には、もう誰かを信じる余力なんて残っていないと思っていた。
それでも。
「終わった」
声がした。
顔を上げると、シオン様が背もたれに身を預けていた。
傍らには決裁済みの書類の山。
「……はっや」
思わず素の声が出た。
今朝届いたばかりの書類だった。あの量を、この短時間で。
「セレスが愛してるって言ってくれたからだね」
シオン様は笑った。
「……宰相の執務速度が私の言葉にかかってるんですか」
「そうだよ」
「国政を私情で」
「私情じゃなくて愛情」
「同じです」
私は書類に目を戻した。
これだから天才は、と思った。
理屈が通じない。スケールが違いすぎる。呆れても、怒っても、どこか憎めない。
「セレス」
「はい」
「今何考えてた?」
「これだから天才は、と思っていました」
「やった、褒められた」
「褒めていません」
シオン様はおかしそうに笑った。
私も、小さく笑った。
窓の外に目をやる。春の光の中、王都が穏やかに広がっていた。
感情を殺して生きていたあの頃の自分に、教えてあげたい。
隣に誰かがいる。話を最後まで聞いてくれる人が現れると。
笑える日が来ると。
「セレス、次の案件なんだけど」
「はい」
「北部三領の件、そろそろ動こうと思って。水利権の再調停から入る」
「わかりました。資料室から文書を引き出しておきます」
「さすが。大好き」
「仕事してください」
「してるしてる」
羽ペンの音が二つ、執務室に響いた。




