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エッセイのプロムナード  作者: 多谷昇太
スクールカーストへの考察

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象徴派詩人ランボー

米国の著名な臨床心理学者であるキューブラー・ロスの著作を読めばそこには別な臨死体験者の言葉があります。こちらは遺憾ながらうろ覚えなのですが「大事だったこの世のこと(たぶん金とか生前の諸般の事情とか)など消し飛んでしまい、今のこの感覚こそがすべて」というもの。そしてその臨死体験者は蘇生後、強烈だったその感覚こそを第一義として生きるものですから、廻りの人間たちから見れば(いい方に、あるいは何か別のものに)「変わった」となるそうです。この両者を拙い私の語彙で表現するなら、前者は真我に立ち返って見た取るに足らない廻りの偽我なのであり、後者はその真我の働き(すなわち愛、もしくは慈愛、他者とのあるべき真の関わり)にまで立ち返った姿と云えるのかも知れません。

 ところで文学の系譜の一段階で象徴派という一派がありました。その代表的な詩人であるA・ランボーの言葉で「(象徴派とは)魂から魂へ、全てを要約し、薫り、音、色彩、思考を引っ掛け引き出す思考」というものがあり、彼の「酔いどれ船」や「四行詩」などを見れば些かなりともその説明に〝引っ掛かる″ものがあるのではありませんか?病的なまでに研ぎ澄まされた彼の魂への指向と憧れが、それを為さしめたのでしょうが、先の両輪論で云えば如何せん彼の詩は未だ片輪でしかなかった。「来ないものか、来ないものか、魂がただひとすじに打ち込める恍惚のその時は…」と痛切に求めた、魂への感覚的な肉迫には鬼気迫るものがあって、その意味では人間一人の深まりを誘う文学における一つの(感覚に於いての)頂点を極めたと云えるでしょう。なぜ斯くも彼が魂と表現せざるを得ないものを求めたのか…そこには世の中への疑問と反発(抗い)があったのだと思います。世の施政者や既得利権者達や(神を)商売とするような聖職者らに、引いてはそれらの存在を許しているような神そのものにさえ彼は反発しました。それでいながらではそれらを贖うものを、嘘のないものを彼は拠りどころにしたかったのです。一時起こったパリ・コンミューンに彼は(恐らく勇んで)駆けつけたことでしょう。

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プロムナードが時に歩く(=読む)に堪え難い、恥っさらしな「引越し顛末記」だったりして申しわけありません。不快をもよおした方はここを飛ばされて結構です。以後はできるだけ歩くにまともな道(エッセイ)を敷くつもりですが、しかしこの難所の「引越し顛末記」はあともう一章ほど続ける予定です。
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