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エッセイのプロムナード  作者: 多谷昇太
スクールカーストへの考察

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純文学とは

語法や文体に於いても況やをやで、彼の上田秋成でさえその流麗華麗なる美文に嫉妬したという紫式部や、近くはその語彙の豊富さや文語口語体ともどもインテリジェントを極めた芥川龍之介などと比べれば、抑々比較にさえならないわけです。畢竟過去綿々と続いた文学の系譜は今時を以ってミッシングリングとなり断ち切られざるを得ないのでしょうか?文学評論のジャンルは費えるのか…なのですが、ここにおいて伊藤氏の云う社会評論と文学評論の関係について思いを馳せる次第です。文学を評論するにあるいは文学を為す上において社会(評論)と文学(評論)は車の両輪のようなもので、互いが互いを単にイメージ化する程度の関係であるとはとても思えません。抑々純文学とは日本独特の呼び名だそうで「大衆性」に対する「芸術性」的なものなのだそうです。然るにその系統の雄たる「文藝」「群像」「文学界」は発行がふるわず、方やの「すばる」や「野生時代」などが優勢なのだとか。またそれに止まらず今や敢て両者を分ける必要すらもなく、後者の媒体の中に前者も含まれるようになった、とも云われているようです。私などは前記した偽作文学と近代文学の別離辺りに所謂純文学と称するものの萌芽があるようにも思えます。どういうことか。伊藤氏の西洋哲学云々とも重なるのですがこの頃に成された哲学的な自己への把握、分析、いわゆる理性や知性、感情、意志とはなんぞや、畢竟我とは、人間とは何なのかと改めて追及する、そう意識することを始めた辺りに純文学と称するものの萌芽を見るわけです。この「自己の発見」とでも云うべき思考法は横文字で云えばインナートリップとでもなり、自己の中にある小宇宙への旅立ちなのではないでしょうか。改めて向かい合うならばそこは未だ謎に充ちた神秘の世界なのであり、真剣に追及するならば宗教の世界にまで誘われるものなのかも知れません。その深度によって純文学の良し悪しさえも決まることでしょう。

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プロムナードが時に歩く(=読む)に堪え難い、恥っさらしな「引越し顛末記」だったりして申しわけありません。不快をもよおした方はここを飛ばされて結構です。以後はできるだけ歩くにまともな道(エッセイ)を敷くつもりですが、しかしこの難所の「引越し顛末記」はあともう一章ほど続ける予定です。
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