キラ星のごとき作家たち
さてこの他にも「上海のフォックストロット」といういかにも斬新で小気味のいい作品があった。こちらの作者穆時英などは蓮花池で云えば漢奸となってしまいそうだ。事実日本軍協力の廉で国民党軍に殺されたのだが、私に云わせれば漢奸どころか漢雄だ。後の台湾における国民党軍の白色テロや、現中国の経済に驕った姿まで予見したような、まさしくこれからの中国の、真の暁への指針を描いて見せているようにも思えた。あとは蕭乾の「夕立の女」がいい。不貞の夫とその情婦に家から放逐されて、同情を受けるべき身なのにもかかわらず、かえって世間からも村八分を食うという男社会、農村封建社会の不合理さをよく描いている。思わず私が「夕立に軒乞うひとを科女とて追ひし農夫は憂き世ならずや」あるいは「塵染まぬ少年の目には哀しかり雨か涙か夕立の女」と歌を詠んでしまうほどのそこには義憤があった。同趣旨で「破鞋(中国語で身持ちの悪い女)」がこれに優るとも劣らない。他にも文革関連で残雪という女流作家の幻想小説に独特のものがあり(「弟」「余所者」など。表立って文革を批判できないのだ。すれば摑まってしまうのでこのスタイルに逃げたとも思えるが、しかし却ってそれが小説に趣旨と力を与えている)、また‘詩小説’とでも云うべき廃名の「桃畑」、あるいは鉄擬の「十二夜」などなど、キラ星のごとく名作があって、それらは余りにも見事であり、小説の手法においても主題においても私は新境地へと誘われる思いがしたものである。まさに出会いであった。
【エッセー返歌】
「生死場は無体のかぎりわが身には死ぬるもくやし蕭紅たらむ」
※返歌とは和歌の世界における長歌に対する返歌の形式に習ったものです。私の原点は和歌、歌人としてのそれでして、エッセーに限らず小説などでもこの趣向を使わせてもらっています。ここでの歌意は蕭紅が日本軍の進撃の為に辛酸な目に会いながらでも、その本懐を曲げなかったように、私も、ある理不尽な苛みに抵抗し、必ずやみずからの本懐を遂げたい…というものです。詳しくはこのエッセイ第二章「引越し顛末記」をご覧ください。




