<5>
夜のセクアナは、また昼と違って一層すさんで見えた。相棒のリッツと並んで歩きながら、あちこちへと視線を配りつつ、エドワードはそう感じていた。
二人が歩いているのは、ファルディナからルーイビルへと続いている、この街を通る最も大きい通りだった。馬車のターミナルを中心に円心状に広がっているこの街は、大通りと路地があちらこちらで交わる、少々複雑な作りとなっていた。
ファルディナの場合、放射状に伸びた道は、区画毎に綺麗に整備されているが、セクアナの街はファルディナよりも小さい分、整備も遅れているようだ。
大通りを一歩入った裏路地には、すえたような異臭が漂っている。その大本は弱った難民たちだ。昼の間は明るいところにいた彼らも、日が暮れるとこうして街の片隅に身を隠しているのだろう。
「何か治安が悪いと言うより……雰囲気悪いよな」
隣を歩くリッツが、人差し指でハンチングの鍔を軽くつまみ上げて呟いた。隠密行動だったから、ファルディナからずっと、ラヴィ特製の耳篭も装着しているため、ハンチングは窮屈そうだ。
「そうだな。難民が多いし、彼らの生活手段がない」
「そうか……」
「ふっかけられても喧嘩は買うな。裏で何をされるか分からん」
「うん」
「スリにも気をつけろよ」
「分かってるってば。子供じゃないんだから」
むくれたリッツが頬を膨らす。そんなだからこちらも注意したくなるのだ。
「分かっていればいい。やはりこの街は荒れているからな」
「うん」
セクアナの街は、確かに限界を迎えているようだった。難民に向ける街の人々の目は、同情でもあるが、自分たちの生活を脅かされるのではないかという不安でもあった。
「見ろよエド!」
不意にリッツが声を上げた。その指し示す方を見てみると、食料を売る市場が軒を連ねている。食物についていた値段を見て、リッツが愕然としていた。
「米一キロ二ギルツって……四人家族で三日分あるかなしかだろう? 俺の月の給料の五分の一だぞ。ファルディナだったら一ベルセですむのに?」
一ギルツは一ベルセの十倍だ。つまりファルディナの穀物価格よりも二十倍高くなっていることになる。小麦に至っては三十倍だった。
「生産しているのはセクアナの民なのにな。それにファルディナで入手できる米より、格段に質が悪い」
出ている米を手にしてみた。どう見ても欠けている物が多い三級品だ。ファルディナだったら、この米を五十キロ買っても、二ギルツも払わずにすむだろう。
「なるほど、こりゃ食えないわけだ」
リッツは他の食べ物にも目を向ける。
「野菜も高いなぁ……」
食い意地の張っているリッツは、最近食べ物の値段に詳しい。ティルスにいる時とは違い、シアーズでヴェラとベネットや、娼婦たちに買い物に連れ回されて、すっかり詳しくなったのである。
「果物も半端じゃない値段だな。サラディオ産の栗が二百グラムで五ベルセって……ファルディナなら同じ値段で三キロ買えるよ」
「そうだな。それに比べて宝飾品は安い」
エドワードが指さすと、リッツがその先を見た。
「本当だ。何で?」
「宝飾品は食べられない。衣食住が揃ってこそ、嗜好品に目が向く」
「なるほど……」
しみじみと頷くリッツが、何かに気がついたように視線前方に向けた。そこには立派な身なりをした、騎馬の一団がいる。その一団をみつけた人々が、道の端に避けたり、路地に逃げ込んだしているのが、ここからでもよく見えた。
「あいつらなんだろ? ルーイビルの奴らかな?」
「どうだろう」
一団はこちらに向かってくる。リッツとエドワードは、背が高くて、一緒にいると相当目立つ。市井の人々の中で目立っても構わないが、あのような集団に目を付けられると面倒なことになる。
警戒しつつ様子を窺うリッツを引き寄せ、裏路地を指し示す。頷いたリッツは、素早く彼らを監視しつつも、裏路地に身を潜めた。エドワードもそれに倣う。
やがて近づいてきた一団の中に、エドワードは見知った顔があることに気がついた。
「ハーマン伯……」
「え? じゃあこいつらって……」
「セクアナの貴族だ」
晩餐会の時に、同席したサンタスの街を支配する男だ。しきりにセクアナの将来のことを語り、この街よりも自分の支配地サンタスがどれほど豊かなのかを自慢げに語っていたことを思い出す。
彼曰く、サンタスにもう少し余裕があれば、この自治領区を豊かにできるのだという。
それならば少し自治領主を助ければいい物をと、言葉には出さずに考えたエドワードだったが、この自治領区のことがよく見えていない以上、下手なことは口にできなかった。
晩餐会の席では自治領主のガルシアに合わせたのか、質素な服に身を包んでいたというのに、今は打って変わって、きらびやかな服装に身を包んでいる。どうやら彼の支配する街は、本当に豊かなようだ。というよりも、支配者である彼だけが豊かなのかもしれない。
横を通り過ぎていく、ハーマンの声が耳に届く。
「愚かなことよ。偽王太子が少人数で何ができるというのだ。ガルシアが死ねば私が自治領区を支配するというのに」
酔っているようだ。必要以上の声に、人々が怯えて道を空ける。道を空けない人は、容赦なく馬に蹴り上げられ、踏みつけられている。
「ガルシアは虫の息。間もなくこの街も、この自治領区も私の物だ」
人々に視線を向けつつ、高らかに笑うハーマンに人々は微かな笑みを返す。そうやってこびを売らねばこの街で生きられない。おそらく人々は皆、そう思っているのだろう。
「……あいつ、斬り殺してやろうか」
心底怒りを堪えながら、物騒なことを言い出したリッツの肩を軽く叩く。
「今はその時じゃない」
「じゃあ、いつ斬るんだ?」
「……近いうちに、大義名分を手にしてだ」
「だけど今殺せば問題は消える。俺なら気付かれずに殺せる。今殺せば、北部同盟に加盟するガルシア侯の助けになるはずだ」
「やめろ、リッツ」
「何故止めるんだよ。俺ならあいつの首を掻ききって、黙って戻れるのに」
今にも飛び出しそうなリッツの肩を、強く掴む。
「暗殺は何も生まない」
ハッとしたように、リッツが動きを止めた。その肩が微かに震えている。リッツは暗殺者を憎んでいる。でも自分が考えたことは、暗殺と同じであると気がつき、自分に驚いたのだろう。
確かに暗殺は乱世の時代有効な戦法だ。だが尊敬されぬことであるのも、また事実だった。
彼らがその場からゆき過ぎ、その気配さえも感じ取れぬようになった頃、街の人々が動き出した。道に倒れた人を、救助しているのだ。彼らの小声の呟きが耳に届く。
「ガルシア様は死なない。我らを分かってくださるのはガルシア様だ」
「そうだ。いつか戦える。ガルシア様さえ良くなってくだされば……」
難民に施しを与え、自ら質素を貫くガルシアは、やはり信頼を得ているのだ。そのことに安堵した。ガルシアの病が癒えることがあれば、何かが変わるかもしれない。
「エド」
「何だ?」
「俺は……暗殺者になれるんだな」
「……?」
リッツの落ち込んだ声に振り返ると、リッツは短剣を見つめていた。
「でもなっちゃいけないんだ。エドのためでもしちゃ駄目なこともあるんだ」
短剣をしまい、リッツが小さく呟いた。
「殺しちゃえば簡単に後顧の憂いを立てるって思った。でもそれは俺がしちゃいけないんだ。だよな?」
「ああ。もし俺が暗殺をお前に願ってもやるな。お前は俺の相棒であって、暗殺者じゃない」
「……うん」
「理想の国家が暗殺の上に立っているなど、誇れることじゃない。分かるよな?」
「……うん」
暗殺事件の時にリッツがどう感じ、何を思ったか分からない。グレイグの境遇を知り、リッツがどう思ったのか、本当のところは分からない。
リッツはそれを知ってもなお、エドワードを元気づけることにばかり一生懸命で、自分の気持ちをあらわにしなかったからだ。
でもおそらくリッツは、暗殺者と権力者の可能性を知ってしまったのだ。その手で人を消してしまえば、後顧の憂いを発ち、何もなかったように平然としていられることを。
あの時にこうすればという後悔を捨てきれない彼にとって、それは抗えない魅力かもしれない。
ダネル・クロヴィスがティルスで人を斬り、初めてリッツが人を殺したあの時、リッツが全員を殺して埋めてしまえば、後のティルスを襲撃はなかった。それがなければローレンは死ななかった。
危険要素は気がついたときに摘んでおきたい、と思うのが人の心だ。ましてやその分かれ目が目の前にあれば、それが暗殺という手段であっても実行したくなる。ハーマンは確実に後顧の憂いになる。きっとリッツはそう感じたのだ。それはエドワードも同じだ。
だが今は王位を狙うための戦いなのだから、正道を行かねばならない。正道をゆくための布石は、徐々に仕込んでいくしかないのだ。
「行こうリッツ。呑むんだろ?」
未だに落ち込んだ様子のリッツの肩を敢えて明るく叩くと、リッツは自分の頬を両手で強く叩く。ピシャリとかなりの大きな音が路地裏に響いた。気合いを入れて自分の後ろ向きな考えを振り落としたのだろう。
「もちろん」
二人が歩きかけた時だった。リッツが何かに引かれたように歩を止めた。どうしたと尋ねる前に、舌っ足らずな少女の声が聞こえた。
「お兄さん、セクアナの人じゃないよね?」
エドワードが振り返ったとき、少女は縋るようにリッツを見上げていた。リッツの服を掴んでいたのは、まだ年端もいかない少女だった。まだ十四、五の少女だろう。
道路では馬に踏みつけられた人の血を落とすために、水を捲き始めている。それを見せたくなかったのかリッツは少女をくるりと路地に連れ込んで、笑顔を向けた。
「ああ。何か用か?」
いつも子供に対するように、至極普通にリッツが少女の前に腰をかがめる。リッツはこうして子供に対する時は、自分の背が相手を圧迫しないように自然と腰を折ることを知っている。
ティルスで初めて子供に接しているときには不思議に思ったが、どうやらリッツは子供の相手をすることに手慣れているようだった。
そんなリッツを見上げた少女が、あどけない表情を浮かべて微笑んだ。リッツも釣られたように微笑み返す。
「ねぇ、お兄さんはまだ若いでしょう?」
明らかに少女はリッツに向かってそういった。まんざらでもない顔で笑うリッツが、いつものように楽しげに自分を指さした。
「俺は若く見える?」
「うん」
「じゃあ、こっちは?」
ふざけたようにリッツに指さされて、エドワードは軽く手を上げる。
「もう既婚者でしょう? その年ならみんな結婚してるよ」
少女の答えは素っ気ない。確かにもう二十七になったエドワードは、普通結婚している年だ。リッツがからかうようにエドワードをつつく。
「結婚してる年だってよ。いっそパティとくっついちゃえば?」
「お前はまたそういうことを……」
自分が苦しいくせに、どうして好きな女を他の男とくっつけようとするのか。全くリッツは素直じゃない。
「じゃあ、俺たち、どういう関係に見える?」
「兄弟じゃないね。全然似てないし。雇い主と使用人かな? お兄さんが雇われてる方」
「俺に威厳がないってことかぁ……」
複雑そうに腕を組み、苦笑しているリッツに、少女はあっさりと告げた。
「違うよ。だってずいぶんこっちの人の方が年上に見えるもの」
「え……?」
戸惑うリッツに、少女は無邪気に言葉を続ける。
「お兄さんは私に近いけど、こっちの人は完全な大人でしょう?」
とたんにリッツが笑顔のまま動きを止めた。エドワードはそんなリッツに首を傾げる。エドワードが年上に見えるのは今まで通りだ。だから何にそんなに衝撃を受けたのか、分からなかったのだ。
だが少女の与える衝撃は形を変え、更にリッツを襲った。
「だから、ねえ、お兄さん。買って」
甘えたような少女に、リッツはかろうじて笑みを取り戻す。
「買うって、何をだ?」
「私の身体」
リッツの笑みが凍り付いた。だがそんなリッツなどお構いなしに、少女は言葉を続ける。
「ちょっと細いけど、そんなに悪くないって言われたよ?」
リッツの表情に僅かな嫌悪感がよぎり、それがたちまちのうちに後悔に変わる。少女に相手にされていないエドワードは、そのリッツの表情の変化が、よく分かった。
彼女に嫌悪感を抱いたことは、彼女を蔑むことだった。この状況は決して、少女の責任ではない。リッツは、革命軍としてそれを知っている。
「お兄さん一人じゃいや? じゃあ、こっちのお兄さんも一緒でいいよ。そういうのも慣れてる」
エドワードも言葉を失う。大人だったらまだしも、こんなに幼い少女まで身を売らねば生きていけない。セクアナの街はもう、自治を守るには末期だった。食物を奪い去り、彼らに苦しい生活を強いるルーイビルから遠ざけねば、未来はない。
この少女のように。
少女は薄汚れた頬をしていた。髪は元々ブラウンだったのかもしれないが、埃が絡んで灰色がかって見える。
「私、それほど醜くないでしょう?」
少女は纏っていた布を開いた。まだ未成熟でやせ細った身体がそこにある。骨の浮いたその身体には幾つもの傷があり、この少女が今までにどんな目に遭ってきたのかが分かった。
リッツも分かったのだろう。まるで苦しさを堪えるように唇を噛みしめた。でも少女はそんなことにも気がつかない。
「ねぇ、本当に安いよ? 一ギルツ貰えたら、なんでもしてあげる。どんなことにも応えてあげる」
少女の瞳があどけなくリッツを見上げる。少女には、全くこの行為が罪である認識はないのだ。だがリッツはそれに気がついていない。
「ねぇお兄さん、どうかな?」
少女の手がリッツの服を辿り、身体に触れた。途端にリッツは怒鳴った。
「いらねえよ、んなもん!」
「商品価値が無い?」
「違う!」
「だってお腹が空いたの。ご飯が食べたいんだもの」
「身体を売って飯代を稼ぐなんて、駄目だ!」
リッツが言ったことは正論だった。でも少女は全く分からないといった顔で、きょとんと首を傾げた。
「じゃあ他にどうすればいいの?」
「……っ!」
少女の目は澄んでいた。当たり前のことを尋ねた。彼女にはそれだけのことだった。でもリッツはその彼女の問いかけを否定することが、彼女の生きてきた全てを否定することだと気がついたのだ。だから言葉に詰まる。
「物心ついたときから、こうだったよ? 身を売って私を育ててくれたお母さんが病気だから、私が身を売るの。そうしないとあんなに高い食料、どうやって買うの? 薬はどうすればいいの?」
彼女の顔に悲壮感はない。ただただリッツの反応が不思議でしょうがないのだ。この子が物心ついた頃から、もう国は乱れていた。この子は幸せな時代を知らない。これが当然だと思っているから、リッツの怒りの理由が分からないのだ。
だから無邪気に、金のためにその身を犠牲にして、それを悲しくも思わない。
子供が守られ生きていっていい時代を、自分の畑で自分の食物を育てる喜びを、知識を学ぶ喜びを、この子は知らない。
……これが誤った政治の生み出した産物なのだ。そしてその一端を作り上げたのは、エドワードの父、ハロルドだった。
エドワードの中に、とてつもない重圧がわき上がる。彼女の無邪気な瞳に、こう尋ねられているような気がした。
正せるのか、この国を。
救えるのか、少女の形をした不幸の連鎖から。
少女は纏っていたぼろ布を脱ぎ捨てた。少女の下着すらも身につけていないか細い肉体が、薄暗い路地であらわになる。
「なんならここでもいいよ。この街じゃ普通だもん。ねえ、買って」
少女がその瞳に懇願の色を浮かべると、リッツはエドワードが止める間も無く、最近出た給料全額が入った財布を取り出した。それを少女のまだ膨らみに乏しい胸に押しつける。
「これをやる!」
差し出された財布に一瞬目を輝かせた少女だったが、小さく首を振った。
「同情されても困る。商品だもん買ってくれないと受け取れない。母さんがそう言ったわ。同情に縋れば物乞いになる。買われれば娼婦になる。私は施しを受ける物乞いには成り下がりたくない」
毅然とした少女に、リッツは顔を歪めてから決意したように財布を押しつけたその乳房に触れた。娼館で遊ぶ時とはまるで違う、優しい手つきで、いたわるように乳房を撫でる。
それからリッツは、必死で笑顔を作って宣言する。
「満足した。だから会計」
「……お兄さん?」
「俺はそういう趣味なの! 若い女の子の胸を触って満足したの! だからそれ、受け取っとけ!」
吐き捨てるようにそう言うと、リッツは大股で路地を抜けていく。
「あ、あの……」
戸惑う少女に、エドワードは落ちていた布をかけてやると、その肩を叩く。
「受け取っておきなさい。大事に使うんだよ」
「あの……」
「大丈夫。その金を使い切るまでに、セクアナはきっと変わる。君はその金でそれまで命を繋ぎ、幸せな時代を生きなさい。いいね? もう身体を売らないで待っていなさい」
「身体を売らない……?」
意味が分からないと言う表情の少女に、エドワードは笑いかけた。
「自分を大切にするということさ」
「……そんなこと……言われたことなかった……」
少女はリッツの財布を両手で包み、何よりも大切な宝物を抱えるかのように、胸にきつく抱きしめた。
「君は若い。選択肢は無限だ。そんな未来が必ず来るから」
必ず作って見せるから。
「あの、お兄さん……」
「なんだい?」
「さっきのお兄さんの名前は、なんていうの?」
「どうして知りたいんだい?」
「……手が……優しかったの。暖かかったの……」
少女が財布を抱く手を震わせて、綺麗な涙をこぼした。エドワードは少女を力を込めて抱きしめた。
夜ごと道ばたに立ち、彼女はどれほど心細い思いをしていたのだろう。一瞬だけでも哀れみと優しさで触れたリッツの思いを、どれだけ暖かく感じたのだろう。
「あいつの名前は、リッツというんだ」
抱きしめた腕を緩めて身をかがめていうと、少女は口の中でその名を繰り返した。
「じゃあお兄さんは?」
「俺はエドワード。実は俺たちは、この国を救う、正義の味方なんだ。でもね、それは秘密だよ」
少女に軽く片目をつぶってみせると、エドワードは自分の帽子を少女の頭に乗せた。これも売れば金になるだろう。
パトリシアがプレゼントしてくれた、グレインの有名店で作られた帽子だ。もしパトリシアがエドワードのしたことを知っても『いいことをしたわ』と笑うに違いない。
「さあ、家にお帰り。お母さんが待っているよ」
まだ涙の残る瞳でエドワードを見上げた少女は、深々と頭を下げて、通りへと駆け抜けていった。
彼女が今日出会った二人が、王太子と精霊族の戦士だと気がつく日が来るだろうか。その時にあの少女は笑顔でいてくれるだろうか。
人々にまだ希望が届いていない。まだまだ戦いは、入り口に立ったばかりなのだ。
エドワードは、少女が消えた大通りから視線をリッツが消えた方へと向けた。後ろ姿すらも見えない。どこに行ってしまったのだろう。
少し早足気味に、先に行ってしまったリッツの後を追う。
相棒をみつけたのは、すぐ先の小さな通り沿いにある、酒場の空樽の上だった。リッツは力が抜けたように空の樽の上に座り、顔を覆っている。
通りを行き交う人々の視線は、この長身の若者に向けられるが、彼らは皆、関わり合うことを避けているのか、誰も語りかけてはこなかった。
エドワードは、迷い無くリッツの肩を叩く。
「大丈夫かリッツ?」
「……サリーと、マリーと、メリーの顔が浮かんだ」
ぽつりとリッツはそういった。
「ティルスの子供たちの顔が浮かんだ。あいつらがあんなことになったらって思ったら、いてもたってもいらんなかった。あいつらはさ、黄金色の麦ん中で、青空の下で笑ってるんだ。なのに……同じ国に住んでるのに、同じぐらいの年で身体を売るのが普通だなんて俺は嫌だ」
黙ったままリッツに寄り添い、ハンチング越しにその頭を軽く叩く。
「幸せな時代を今まで一度も過ごしたことがないなんて、そんなの俺は嫌だ」
「そうだな」
顔を上げぬまま、リッツが呻いた。
「ごめん。俺嘘ついた。俺は自分の大切な奴だけが幸せならいいって言ったけど、やっぱやだ。生まれてからずっと、自分の気持ちなんて関係なく、底辺で蔑まれている子供を見るのは嫌だ。自分の運命を知らぬ間に不幸に引き込まれて、這いずってる子供を見るのは嫌だ」
唇を噛み、それから小さく、本当に微かにリッツは呟いた。
「救われたいって夢を見てた、自分を見てるみたいで……いたたまれない」
ふと出会った時のリッツがよぎった。リッツはこう言ったのだ。
『死んでも特に困らない。俺は結局、そういう命だから』
「俺は今、結構幸せなんだ。申し訳ないぐらいに。だけどあの子たちはずっとそのままだ。本当は俺から手を伸ばしたいのに、伸ばし方も伸ばす方向も分からない」
エドワードは無言でハンチングの上からぐりぐりと頭を撫でる。がくがくと頭を揺さぶられながらも、それでも顔を上げないリッツに、エドワードはあえて明るく言葉を口にする。
「あの子にな、お前と俺の名前を教えてやった」
「え?」
リッツが初めて顔を上げた。その瞳に戸惑いの色がある。瞳を見られると目をそらせないというリッツの言葉を思い出し、逸らされぬようにその瞳を見つめる。ダークブラウンの瞳の底に、微かにたゆとう闇をみつけた。
エドワードはこの闇を消し去ってやれないことに、何となく気がついている。きっとエドワードでは力不足なのだろう。それでも少しは、友の光になれればいい。
「お前と俺は、正義の味方だと教えてやった。だから正義の味方らしく、毅然と胸を張ってろ。あの子はいつか、俺とお前が誰だったか気付くときが来るかもしれない。その時に誇れるお前になっておけ。この国を救うんだと思えなくても、俺は全然構わない。だからお前は、俺たちを守るためだけではなく、ああいう子を無くすためにも戦えばいい」
目を見たまま言い切ると、リッツは唇を微かに歪めて俯き、拳で鼻をこすった。
「分かった。正義の味方なんだな、俺は」
「少々馬鹿だがな」
混ぜっ返すと、ようやくリッツはいつもの表情を取り戻した。
「馬鹿って言うなよな」
「馬鹿に馬鹿といって何が悪い?」
「エドって、たまに優しいけど、基本、意地悪だ」
憮然と頬を膨らませるリッツの肩を叩くと、リッツはむくれてそっぽを向いた。だがそのまま何故か動きを止めてしまう。
「どうした?」
「エド、あれって……」
指さしたリッツの視線の先にいたのは、使者としてファルディナに来て、ガルシアの看病をしていたはずのメイソンだった。
「……メイソン……?」
呟くと、エドワードはメイソンを見つめる。メイソンは何か思い詰めたような顔で、俯きつつも前を見ず、足早に歩いている。二人との距離は見る間に縮まった。
これは気がつかれただろうか。だがここに逃げ場はない。どうするかと思案していると、かなり至近距離にきたメイソンが、何かに気がついたように、不意に視線が上げた。
その途端、まともに目が合う。
一瞬、メイソンは自分で見た物が信じられぬと言った顔で目をしばたかせ、おもむろに口を開けた。次に出てくる言葉が容易に想像できたから、とっさにその言葉を大声で塞ぐ。
「で、でん……」
「デューイおじさん、ここだよここ!」
「は?」
「なかなかこないから、俺、間違った店に来ちゃったかと思ったよ」
笑顔でメイソンに近寄り、エドワードは後ろからメイソンの肩を抱く。リッツもエドワードの意図を察して、満面の笑みを浮かべた。
「おじさん、俺腹減ったよ。美味しい店に連れてってくれる約束じゃんか!」
「! あ、ある……」
言葉を挟む隙を与えず、リッツとエドワードは両側からがっしりとメイソンを捕まえた。リッツもエドワードも長身の武人である。中肉中背のメイソンは逆らいようがない。
あっという間に掴まった形になったメイソンは、目を白黒させていたが、二人の満面の笑みに状況を何となく理解したらしく、動揺したまま、それでも二人に合わせて言葉をひねり出してくれた。
「ああ、待たせて悪かったね。じゃあ、約束の店に行こうか?」
「高い所は嫌だよ、おじさん」
「そうそう。俺たち庶民レベルに合わせてくれよな」
暗に高級な店を拒絶すると、すっかり観念したメイソンは溜息交じりに頷いた。
「分かった。行きつけの酒場に連れて行こう……」
半ばメイソンの両脇を固めつつも、メイソンの案内でたどり着いたのは、中に赤々と明かりを灯す雰囲気のいい家庭的な酒場だった。
だがまだ酔いの入りの、この時間は賑わうはずの酒場も、何となく閑散としている。席は三分の一ほどしか埋まっていないだろう。
席を取り、麦酒とつまみ数種を頼んだメイソンは、おもむろに声を潜めた。
「殿下、アルスター殿、一体こんなところで何を?」
訝しげなメイソンに、あっさりと応える。
「飲み直しだ。晩餐会とやらは堅苦しくてな」
「でしたら領主邸で……」
「私の権力を使って、使用人に無理をさせよと? 辞めてくれ、柄じゃない」
「はぁ……」
困惑したメイソンが、溜息をつくと、麦酒を運んで来た店員が語りかけてきた。
「メイソン卿の親族かい?」
メイソンが口を開く前に、エドワードはあっさりと頷く。
「そう。俺たちはファルディナからデューイ叔父に会いに来たんだ」
「へえ。こんな立派な甥っ子がいるなんて、一言も言っていなかったじゃないですか、メイソン卿」
「ああ」
「これなら寂しくなくなりますな」
本当に嬉しそうな店主に対して、複雑そうにメイソンが頷いた
「……まあ、そうだな」
「君らはずっとセクアナに住むのかい?」
明るく尋ねた店主に、首を振ってみせる。
「いや。叔父さんの顔を見に来ただけなんだ。ほらファルディナは今平和だろ? 叔父さんも来ないかと誘いに来たんだけどさ」
麦酒に口を付け、エドワードはもっともらしく言葉を続ける。
「叔父さんは首を縦に振っちゃくれない」
「ああ、まあそうだろうねぇ。メイソン卿はガルシア様の最後の砦だもの。みんなメイソン卿には期待してるんだ」
「へえ。それじゃますます、叔父さんをファルディナに連れて行けないな」
店主が行ってしまうと、メイソンは溜息をついた。
「殿下、私をどうするつもりです?」
「どうもこうもない。あそこで殿下、などと叫ばれたら、即帰宅だろう」
「その方が安全です」
堅苦しく言いつのるメイソンをあっさり無視して、エドワードは目の前のナッツ類をつまむ。
「ガルシア侯の調子はどうだ?」
尋ねてから、返事も聞かずに麦酒を流し込む。グレインと比べると、その味は遙かに薄かった。水で薄められているのかもしれない。それでもこの街なら、ないよりましなのだろう。
「は。少々興奮されて体調を崩されたので、二、三日中には床を離れられるかと」
「そうか。では我々がこの街に滞在するのは、それぐらいの時間と言うことになるな」
「……はい」
何故か一瞬、メイソンの返事が遅れた。微かにそれに違和感を覚える。だがエドワードが再び口を開く前に、リッツがメイソンに話しかけていた。
「メイソン卿、さっきさ、女の子に自分を買わないかって声かけられた」
「アルスター殿」
「リッツでいい。俺は精霊族だから身分とかないんだ。あんたらが敬うのは階級だろう? だから俺は普通に呼ばれたい。階級は嫌いだ」
真剣な口調に、メイソンはハッとしたようだった。敬うのは階級であって人ではない。何だかそれが貴族社会を暗喩していて、胸に痛い。メイソンも同じ気分になったようで、微かに微笑んだ。
「では私はデューイと。卿も階級だ」
「うん。じゃあデューイ、俺はさ、そういうの嫌だと思ったんだ。あんたはどうなの?」
すでにあんた扱いをされたことに、表情一つ変えず、メイソンは小さく溜息をつく。
「セクアナ駐留部隊が見回りをし、そういう子を保護するんだが、保護した傍から逃げられる。彼女たちも生活がかかっているから必死だ」
「そうじゃないよ。デューイと、ガルシア侯は、あんなに幼い子が自分を買えって言ってくることをどう感じてるか聞きたいんだよ。この街の支配者としてじゃなくて、人として!」
ほんの微かにメイソンの目が伏せられた。顔を上げたメイソンは、じっと麦酒の泡を見つめたまま答える。
「私も貴族である前に、子を持つ父親だ。あの子たちを見ていると、胸が締め付けられる。だがこの手はどうしようもなく無力だ」
自らの節ばった手のひらを見つめつつ、メイソンは苦痛の吐息を漏らした。
「ガルシア侯は?」
「ジェレミー様も同じだ。お体が動かぬことで、私よりも更に心苦しく、それ故に心まで重く塞いでしまっている」
「そっか……じゃあ、あのハーマンって奴とは違うんだな」
その名が出たとき、何故かメイソンは一瞬ぎょっとしたようにリッツを見つめた。やはりメイソンは何かを隠している。それだけは分かる。だがすぐにメイソンの表情が和らぐ。
「ハーマン伯と一緒にされてはかなわんな。彼はルーイビルと最も近い立地を生かして、全てのセクアナの食物の関税をルーイビルから受け取っている。今や、ジェレミー様とハーマン伯のどちらがこの自治領区の支配者だか分からぬほどだ」
「へぇ……。じゃあ北部同盟加盟は、ハーマンって奴、絶対に反対じゃないの?」
「当然そうだ。反対している」
「なのに晩餐会では上機嫌だったし、さっき見かけた時は『自分がこの自治領区の支配者になるぞ』なんて騒いでたけど?」
エドワードの脳裏にも、先ほどのハーマンの姿がよぎった。馬でセクアナの民を平気で踏みつけていくあの男に、民に対する哀れみは感じられなかった。
だが考えてみれば妙なのだ。北部同盟に反対していて、しかもここに王太子が来ていると知っているのに、何故あんなにも上機嫌なのか。そして何故自分がセクアナを手に入れると思っているのか。
自治領主の座は基本的に、代々一族によって継承されていく。もし一族が絶えたり、その一族では治められない状況になれば、国王によって自治領区の座は取り上げられ、次期自治領主が決まるまでは直轄区となる。
「メイソン」
「はい殿下」
「ガルシア侯に子供は?」
「おります。まだ幼くも聡明なお嬢様であられます」
「……そうか」
ならばガルシアにもしもの事があったとしても、何ら問題なく、自治領主職は娘に受け継がれていくはずだ。
「んじゃ、パティと同じだ。女の自治領主がもう一人誕生するわけだよな」
「ああ。ジェレミー様は、娘が今すぐ領主になった方が動けるといつも苦笑しておられるよ」
それが嬉しい反面、領主に痛ましい物を感じているのだろう、メイソンの微笑みはどこか寂しげだ。
「じゃあさ、なんでガルシア侯が死んだ後、ハーマンが支配者になるの?」
当然のリッツの疑問に、メイソンはただ首を振る。
「なり得ない」
「それならいいけど」
本当は全然良くないのだろう。リッツの感情に気がついているのだろう、メイソンが再び口を開く。
「だが何か企んでいるのかもしれない。ハーマン伯の後ろには、ファルコナーがいる」
「ファルコナー?」
「ルーイビルの自治領主で、公爵だ。現王妃の叔母の夫にあたる。つまりシュヴァリエ公爵の義弟だ」
「うわぁ、出たよ貴族繋がり。血脈が何だっての」
うんざりといった表情を浮かべ、リッツが呻いた。それがおかしくて、笑いを堪えつつリッツの肩を叩いた。
「だからそれを言ったら、私が王太子を名乗る前提がなくなるだろうが」
「そうだった。血脈を否定したら、エドって田舎先生の農民の息子じゃん」
「威厳も何もあったもんじゃないな」
いつものように、お互いに対して軽口をたたき合って麦酒を流し込む。
「何をご冗談を。王太子ぶってるときは威厳の塊のくせして」
「馬鹿だな。猫かぶってるんだ。巨大な猫をな」
「全長二メートルぐらいの?」
「その大きさなら、猫じゃなくて犬だな。確かに身近に全長二メートル近い犬がいる」
「あ~! 俺のこと犬って言った!」
ふざけたやりとりに、唖然としていたメイソンだったが、しまいには笑い出していた。
「す、すまない。お二人とも身分ある方だと分かっているのに、おかしくなってしまって……」
笑いを堪えるメイソンに、リッツは本当に嬉しそうな顔で笑った。
「だって俺たち友達だもん。忠義とか忠誠で一緒にいるわけじゃない」
「なるほど。その絆は弱く見え、実は最も強いかもしれんな。実に羨ましい」
メイソンは麦酒を手にした。すっかり泡が消えてしまっている。
「忠誠と信頼は、失われてしまえば憎しみしか残らないかもしれぬな」
それはほんのかすかな呟きだった。店のざわめきに隠れて消えてしまうほどの。だがエドワードには確かに聞こえた。他に気を取られていたリッツは気がついていないようだ。
つまみを咀嚼し終えたリッツが、再びメイソンに向き直った。
「北部同盟にセクアナが入ったら、ハーマンって奴はどうなるの? 何らかの処罰したりするの?」
「何故だね?」
「だってあのハーマンって奴、酷いじゃん。もしもさ、北部同盟にセクアナが入っても、あいつはそのままなんだろ? 取り除かないと何も変わんないじゃん」
リッツも麦酒を口に運び、一口含んで眉を寄せた。だが食物の値段を知っているリッツは、そのまま黙ってそれを口にする。
「分かっているが、まあそのままだな」
率直なメイソンに、リッツが憮然とする。
「そのままなの?」
「ああ。何もない限りは、そのままだ。まあ、そうはならんだろうが……」
その言葉にエドワードは引っかかりを覚えた。
何もない限りそのまま。それはつまり何かがあれば排除できると言う言葉に取れる。ふとメイソンの顔を見ると、その瞳に微かに影がよぎるのを感じた。
でも自分の考えを必死でまとめようとしているリッツは、それに気がついていない。
「今まではさ、加盟する前に、対抗勢力をやっつけたりとか、元々そういう奴がいないところと組むとかしてたんだよ、エドは。だから俺、分からないんだ。このままああいう奴が居続けて、そのせいで身体を売る子が居続けたら嫌だもん」
「そうだな。私もそれには憂いを感じている。街の中の食料をみたかい?」
「うん。高くて買えたもんじゃないよ」
「そう。それがルーイビルに搾取される現実だ。そしてハーマンはルーイビルと繋がりを持っている」
「じゃあやっぱりハーマンって奴を何とかしないと……」
草木を刈り取るようにそういうリッツの口調を、メイソンは優しく否定した。
「理由もなく、北部同盟に加盟したら不必要だと、彼に罪状をねつ造して殺すのか?」
静かなメイソンにリッツは黙った。
「体制が変わったから、罪をなすりつけて殺すのは、問題があるだろうと思う。だからそのままにしておくしかないだろう」
「……そんな……」
「だが何かが起こるかもしれない。そうすればハーマンを追い出すことができる」
顔を上げたメイソンと、目が合った。その目の中にある種の決意がある。エドワードはそれを感じ取った。メイソンはもう、何らかの手段を考えているのかもしれない。
もしくは、何かを企んでいるのだろうか。エドワードたち革命軍に対して。
だがエドワードはどうしても、目の前にいるこの男が、ガルシアを裏切り、セクアナの民を裏切るとは思えなかった。
だがこの視線に意味があるはずだ。おそらくメイソンは、エドワードに今後何かが起こることを警告してくれているのである。
館に戻ったら、ジェラルドと相談し、メイソンを調べさせるべきだろう。
ふと耳にリッツの楽しそうな声が入ってきた。リッツはメイソンと笑い合っていた。話題はメイソンの子供たちと妻の話らしい。リッツの方は何故かマルヴィルの三姉妹とシャスタについて話している。
エドワードはリッツからつと、視線を背けた。リッツが諜報部のピーター・ハウエルを嫌悪しているのと反対に、疑わしいとエドワードが判断したメイソンを信頼している。
リッツは人を見抜く。メイソンはきっと、嘘をついていない。ガルシアや革命軍に不利なことをしようとは考えていないだろう。
だからこそ、リッツはああしてメイソンに信頼を寄せ始めている。だがエドワードはリッツが信頼し始めた相手を、ジェラルドやハウエルの部下を使って調べさせようとしている。
情報を集めるために、ある程度の諜報活動を行うのは軍の命脈を長引かせる必要不可欠のことだ。だがリッツはきっと、それを快く思わないだろう。
だから黙っていた方がいいのか、それでも話した方がいいのか。そう考えると、その楽しげな笑顔が眩しかった。
それでもエドワードは心に決める。
おそらく近いうちにハーマン失脚のための何かが起こる。そこから味方を守るために、できる限りの情報を収集して動く。
それが友の意に沿わぬことでも。
リッツの笑顔を直視できず、エドワードは視線を逸らした。




