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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
背徳の功罪
93/179

<3>

 ハウエルが加わり、増え続ける難民たちのための直轄区奪還作戦が固まりつつあった八月中旬。エドワードはいつもの如く、地図を前に書類と睨み合いの状態にあった。

 行動を起こす前の下準備。それが重要なことは重々承知しているが、果てしなく続く作業に、多少うんざりしつつもある。

 本日、この天幕にいるのはエドワードとリッツの二人だけだった。

 ジェラルドはパトリシアを連れて旧本営まで戻り、グレイン自治領区の仕事を片付けている。ギルバートとコネルは、指揮官たちと共に実戦部隊の作戦行動を決定すべく、革命軍の訓練を視察している。

 王太子であるエドワードの護衛は、ひとりもいない。リッツがいれば護衛はいらない、というのが革命軍司令部の、暗黙の了解なのだ。

 先日軍に加わったハウエルは、貴族たちの目をそらすために半ば解体された状態になっていた諜報部を立て直すために旧本営に戻り、各所の諜報部員たちに指示を飛ばしているらしい。

 ハウエルがこの天幕に常駐することがないことに、完全に安堵したのはリッツだった。リッツはどうしてもハウエルと馴染めないようだった。

 信じるならばとことん信じるが、疑い出せばきりのないリッツのことだから、おそらくハウエルと相容れることはないだろう。感情よりも目的を優先する彼らは、リッツからいちばん遠い所にいる存在だ。

 ふと見ると相棒のリッツが、仮眠や休憩に使っているエドワードの長椅子に、身体を投げ出して転がっていた。先ほどまで王国図を眺めていたが、もう飽きたらしい。

 出会った頃より、格段に逞しくは成ったものの、細身のくせに長身のその身体を、普通サイズの長椅子ではもてあまし気味だ。

 夏の暑さも本格化して、森育ちのリッツは暑い暑いと文句ばかりを口にする。こちらは仕事をしているというのに、同じことを隣で繰り返されると、いくら忍耐強いエドワードであっても多少は苛つく。暑いのはエドワードも同じだ。

 そんな苛立ちに気付くでもなく、リッツは本日何十回目かの言葉を繰り返した。

「あっつ~」

 書類を捲る手をふと止め、エドワードは無意識に不機嫌な叱責の声を漏らしていた。

「俺だって暑い。仕事もしてないくせに文句言うな」

「だって仕事くれないじゃん」

「簡単な計算一つできない奴に、仕事を振れるか。外で遊んでこい」

 猫の子にでもするように片手で、しっしっと追い払うと、身体を起こしたリッツが完全にむくれた。

「子供じゃないぞ、遊んでこいはないじゃんか」

「ゴロゴロしながら、文句たらたらのお前を見てるだけでこっちが暑い。何もすることがないなら、必死で仕事をこなしている友を苛立たせるな。快適に仕事をさせてやろうとか思わないのか?」

「ちぇ。分かったよ。じゃあ、扇いでやる」

「……扇ぐ?」

 何となく嫌な予感がしてリッツの行動を見ていると、リッツは近くに立てかけてあった作戦指示用の大きなボードを手にした。そしてそれを両手で頭上に掲げる。

「な、やめ……っ!」

 エドワードが静止する前に、リッツは力の限りボードで風を起こした。エドワードの結うに結えない中途半端な長さの金の髪が目の前で激しく舞い踊り、視線を遮った。

 当然の結果、エドワードのデスクに山積みだった書類が、全てばらばらに風に舞う。舞い散る書類に、しばし呆然としていると、リッツが楽しげに笑う。

 苛立ってリッツに当たったことに気がつかれていたらしく、その仕返しのようだ。

「涼しかった?」

 大得意と言った、ガキ大将丸出しの顔に、暑さと疲れの苛立ちが頂点を迎えた。

「お前は馬鹿か!」

 反射的に立ち上がって、リッツの両頬をつまみ上げる。

「そういう馬鹿な遊びは、外でしろと言ってるだろうが!」

「い、いたひ! いたひって!」

「手伝えとは言ったが、邪魔しろとは言わなかっただろ!」

「いたひっ!」

「俺がここ一月、休みなく働いているのを知っててやってるんだろうな!」

 ぐりぐりと摘まんだ頬をつねり上げると、エドワードよりも高い位置にあるリッツの目に、痛みのあまり涙が浮かんだ。だがリッツは涙目のくせに、不満といった顔で抗議する。

「いつものことなのに何でこんなに怒るんだよ! お前だって涼しかったくせに!」

「涼しいわけあるか! 書類が吹き飛んだだけだろうが!」

「突発的な事故だよ!」

「嘘つけ!」

「嘘じゃない! びびらせようとは思ったけど、書類を飛ばそうなんて考えてない! 悪気があったわけじゃないよ!」

 振り払えば振り払えるだろうに、リッツはじたばたと暴れつつも逃れない。どこまで本気でどこまで冗談なのだろう。

「これで悪気があったらぶっ飛ばす。俺の仕事を増やすつもりなら、天幕に出入り禁止にするぞ」

 顔を寄せて低く申し渡すと、エドワードの本気の怒りに気がついたリッツは、情けない顔でようやく謝った。

「ごめんなさ~い。俺が悪かったです~」

 身体と年齢に合わない、子供っぽい口調のリッツに、溜息をつきつつようやく手を離す。

「分かればいい。ほら、書類を拾うぞ」

「うん」

 リッツは少し悄気たように、床に這いつくばって書類を集める。それを見ながら、自分でもしゃがみ込んで書類を拾った。きっとあまりに子供っぽいいたずらだったと気がつき、自分で自分を責めているのだろうなと気がつく。

 やれやれだ。後でしょげ返るのならば、馬鹿ないたずらを仕掛けてこなければいいのに。

 書類を束ねて床で揃えながら、エドワードはそれにしてもと考える。

 たった一度でこれほど書類をまき散らすリッツの馬鹿力はどれだけだ。普通の人なら、ボードで風を起こす一撃で、大量に積まれた書類にこれほど壊滅的打撃を与えられまい。

 出会った時に比べて、ダグラス隊に鍛え上げられた分、元々の馬鹿力が更に数倍にもなっているのだなと感心した。

 本気で剣を合わせたら、リッツには絶対に敵わないだろう。そもそもリッツが本気で戦ってくれるとは思えない。彼は無意識に、エドワード相手だと本気を出せなくなる。

 ふと書類を拾う手を止めて、冷静に自分とリッツの姿を見る。革命軍の王太子と精霊族の戦士が文句たらたらに落ちた書類を集めている図が、何だかおかしくなった。

 何が王太子で、何が英雄だ。自分たちは未だに馬鹿なことをして、二人で文句たらたらに後始末をする、ただの若造だ。

 そう思うと、つい吹き出した。

「どうしたの、エド?」

「いや、俺たち、馬鹿だなあって。こんな姿、民衆には見せられないな」

「そうなの?」

「ああ。英雄的剣技を持つ精霊族の戦士に、書類を吹き飛ばされて、相棒を抓り上げる王太子って……」

 こみ上げてくる笑いを堪えながら、震える手で書類を集める。

「その上二人で愚痴を言いながら書類を集めてる」

「拾えっていったの、エドじゃん」 

「確かに俺だが、俺たちの喧嘩は、どこのガキ同士のやりとりなんだろうって、おかしくなった」

「俺だって、頬を抓り上げられるなんて、子供の頃に、親父にしかやられたことなかったよ。エドはすぐに俺にやる。ガキだと思って馬鹿にしてるんだ」

 むくれたリッツに、堪えられずに吹き出した。それからこみ上げてくるままに笑う。最初は憮然としていたリッツだったが、やがてエドワードにつられたのか笑い出す。

 しばらく馬鹿みたいに笑ってから、エドワードは残りの書類を全て拾い上げ、腕に抱えてデスクに載せ直した。気がつくと心の中の苛立ちや、疲れがかなり軽減している。考えてみれば、怒鳴ったり、感情を表に出したり、笑ったことすら久しぶりだった。

 そうだ。リッツがグレイグのことで不器用にも慰めてくれた時以来だ。

 本当にリッツには救われる。ローレンがリッツをエドワードのために必要だと、言ってくれた理由をしみじみと理解した。

 時には苛立つし、全くこいつはと呆れもするが、やはりエドワードにとってリッツは必要な存在だ。こうしてしでかす馬鹿なことであっても、気晴らしになる。自分が王太子であっても、エドワード・バルディアという、ひとりの青年だと言うことを思い出させてくれる。

 これを計算してやっているのならたいした物だが、何も考えていなかった事は明白だから、それが余計ありがたい。打算も計算もいらない。ただそこにいてくれて、感情をぶつけられることのありがたさを噛みしめた。

「リッツ」

「何?」

「ありがとう。いい気分転換になった」

 再び書類に向き直る。先ほどの苛立ちの中で、事務的に処理しようとしていた事柄に、必要要素がかけていることに気がつき、ペン先をインクにつける。良かった。あまり見落としてはならない部分だ。

「俺の頬を抓るのが気分転換?」

 エドワードの抓んだ頬が微かに赤くなっている。それをさするリッツに、微かに視線を投げかけてから書類に目を戻す。

「まあ、それもあるかな」

「……じゃあ、疲れてしんどくなったら、俺の頬を抓んでもいいよ」

 殊勝なことを言うリッツに顔を上げると、リッツは妙に真面目な顔でこちらを見ていた。

「どうした?」

「だって俺、役立たずだからさ。そんぐらいでもエドの役に立てれば嬉しいし……」

 そういえばリッツがアーケル高原の戦い以後、少し自分の居場所を失いつつあることを思い出した。前にコネルに追い出されてから、じっと長椅子で黙って会議を見ていることも多い。

 元々自分に対して、まるきり自信のない男だから、やることがないと役に立たないと、落ち込んでしまうのだ。

 確かに、先ほどのようにリッツに鬱陶しいと、苛立ちを感じることもある。その時は大体、エドワードの方が疲れて気が立っている時なのだ。

 でもただここにいてくれるだけで、エドワードの助けになっているということに、リッツ自身は気がついてはいない。

 でも何となくそれを口にすることははばかられた。いい年をした友だし、そんなことまで口にすることは、エドワードだって気恥ずかしい部分はある。だから笑顔でリッツを見上げた。

「分かった。じゃあ俺は幾つになっても、ずっとお前の頬を抓り上げて、苛立ちを解消することにするよ」

「へ? 幾つになっても?」

「ああ。それでお前は、俺の役に立つんだ。それでいいだろ」

「……俺、一生エドに抓られてんの?」

 切れ長の目を丸くしてリッツが首を傾げた。こんな表情をすると、リッツは妙に幼い。

「そうだ。だから抓れるところにいろ」

 お前はここに居てもいいんだ。会議の時でも、書類作成の時でも、作戦立案の時でも。お前の決めた居場所がここならば、俺がお前を本気で邪魔になどするはずがないだろう。

 本心は上手く隠す。その代わり、書類に目を落として言葉を発した。

「だがうっとうしい繰り言は禁止だ。暑い時に暑いと言わずとも、俺だって暑さを感じてるんだ」

「うん」

「寒い時も同様だからな」

「うん。じゃあ、静かめに扇いでやろうか?」

「そうしてくれ」

 ようやく書類に戻ると、本当に適当な風が吹いてきた。リッツを見上げると、リッツは扇いでおらず、視線を真っ直ぐ天幕の入り口に向けている。風は天幕の入り口が大きく開かれたために起きたようだ。

 同じ方向に視線を向けると、そこには久しぶりに見る義弟シャスタの姿があった。

「シャスタ?」

「お二人だけですか?」

 小さく尋ねたシャスタに、エドワードは頷き、手招きする。シャスタは天幕に入るとすぐに入り口を閉じてしまった。風がぴたりと吹き止む。

「どうした?」

「本営の宰相閣下とジェラルド様から伝言です」 

 硬い表情でそういうと、シャスタはエドワードの前に立った。久しぶりに見る弟の姿がたくましく感じて、喜びを感じる。グラントの元で修行を積み、先日の暗殺者襲来の折も活躍して、一回り大きくなった印象だ。

「殿下にセクアナから使者が尋ねて参りました。いかがいたしましょう?」

 仕事とはいえ堅苦しいシャスタに、エドワードは苦笑する。報告の内容は、近いうちにあり得る出来事として頭に入っていたから、大して驚かなかった。

「……ついに来たか」

 こちらの対策は練ってある。落ち着き払ったエドワードと裏腹に、自治領区間の立場を知らないリッツは、エドワードを扇ぐ手を止めて、シャスタに疑問を投げかけた。

「セクアナってファルディナの川向こうの隣だろ?」

 遠慮ない言葉に、シャスタも遠慮なく視線を返す。

「そうですよ、リッツさん。地図を覚えたんですね」

 宰相秘書官という立場になったシャスタは、エドワードに対し、私的には今までの通りに、公の場においては、礼を持って接する。だが肩書きのないリッツに対する態度は、公私とも今までと何ら変わらない。

「うるせえなぁ。俺だってちゃんと勉強するさ」

「それはいいことです。リッツさんが勉強辞めたら、僕が死んだ母さんに叱られます」

「大丈夫だよ。ちゃんと勉強続けてる。一部だけど」

 口の中で反論したリッツに溜息をついてから、シャスタはこちらを向き直った。

「お会いになりますか? それともお引き取りいただきますか? 現在両閣下がお相手をしておりますのでご指示を頂きたいのです」

「会おう。すぐに行く」

 セクアナは現在、王国の最西部ルーイビル自治領区に、農産物を搾取されていた。グレインが北部同盟以外に小麦を出荷しなくなったため、ルーイビルは更にセクアナへの搾取を強めているのだ。

「リッツ。お前もだ」

「分かった。エドの後ろに立ってるよ」

 本営の後をコネルの副官であり、現在も同じ立場にあるチャックを呼んで託してから、エドワードはリッツとシャスタと共に、馬で元の本営へと戻った。

 元の本営は現在、革命軍後方支援基地となっている。北部同盟を通じて入ってくる補給物資なども、この後方支援基地に蓄えられていた。革命軍にとってここは、進軍の要となっているのである。

 その中にあり、元は革命軍司令部だった場所が、現在の後方支援部隊本部になっている。同じような規模で建てられた場所が、臨時の宰相府となっていて、こちらも大規模な事務所になっている。主は当然グラントであり、秘書官をシャスタが務めている。同様の秘書官は、十名以上おり、シャスタに言わせれば、お茶くみから始まる自分に比べたら、みんな自分より経験豊富な政務官なのだそうだ。

 その下には幾つもの部署に分かれた人々が働く天幕があり、実際の政務部と同じように機能している。

 リッツとシャスタ、それにシャスタを護衛してきた後方支援部隊を後ろに引き連れ、天幕に向かったエドワードは、後方支援基地に満ちている緊張感を肌で感じた。

 暗殺事件以来、客が訪れることに微かな緊張感が生まれるようになっているのだ。シャスタの話によると、セクアナの一行は十人ほどで、貴族に類する者はその中の半数にも満たないらしかった。

 それでも支援基地の軍人たちは、緊張し、万が一に備える。暗殺事件の際に、竜使いがいたことを覚えているし、精霊使いの力を知っているからだ。

 彼らの視線を浴びつつ、エドワードは天幕を開けた。天幕の中には、セクアナの使者たちと思わしき一行と、革命軍司令部の一部が巨大な円卓に顔を揃えていた。

 ジェラルド、フレイザー、グラントと、その側近の部下たちである。

 エドワードの姿を認めると、まずジェラルドが立ち上がり、頭を垂れ、右腕を胸に当てる王族への敬礼をした。それにならい、革命軍がみな立ち上がり、同じ敬礼を向けた。

 円卓を挟んで彼らと向かい合ったセクアナの使者たちの視線が一斉にこちらに向き、ジェラルドたちと同じように敬礼をした。

 彼らに軽く手を上げ、エドワードは空いている円卓の中央に向かって歩む。護衛の兵士は入り口に控え、シャスタは途中でグラントの後ろに控える数人の秘書官に混じった。

 後ろには影のように黙って、リッツだけが付き従っている。顔を上げることのない人々の傍を通り、エドワードは堂々と中央に座った。

 いつもは隣にぞんざいに腰を下ろすリッツだが、今日はそうせず、黙ったままエドワードの後ろに立つ。交渉の席でエドワードを護衛するために出遅れないため、リッツ自身がそうすることを決めたのだ。

 リッツの手はいつでも剣を抜けるようにと微かに剣の柄に触れたままだろう。剣士としてその場にいるときのリッツは常にそうだ。それは見なくても分かる。

 国民と共に歩む新しき王太子を印象づけるために、尋ねてきた使者に対しても王座のような一段高い場所から話をしないと、エドワードは決めていた。だからこの円卓の中央こそがエドワードの場所だ。

 誰も見ていないことを前提に、小さく息をつき、リッツを見上げると、いつものようににんまりと楽しげな表情を浮かべた。言葉にするならきっと、『頑張れ、王太子!』というところなのだろう。

 やれやれ、先ほどまで書類を吹き飛ばされて喧嘩をしていたというのに、ずいぶんな格差だ。だがこれがきっと、エドワードの通常の生活になっていくのだ。

「一同、面を上げよ」

 円卓に肘をつき、穏やかに告げると、全員が揃って顔を上げた。だがこの状況に慣れた革命軍とは違い、同じ卓に王太子がいるという状況に、セクアナの使者たちは明らかに戸惑っていた。

 彼らから伝わってくるのは、場の空気さえも振るわせそうな緊張感だ。微かにジェラルドに視線を向けると、エドワードしか分からないぐらいほんの僅かに頷かれた。

 王太子から話しかける。これが王族と使者が接する時のルールなのだ。

「私がエドワードだ。セクアナより戦乱のこの地へ、いかなる用があってきたのか?」

 穏やかに笑みを浮かべると、使者の中心にいた人物が、立ち上がって胸に手を当て、深々と頭を垂れた。

「初めて御意を得ます、エドワード王太子殿下。私はセクアナ自治領主ガルシア侯爵閣下より遣わされました、デューイ・メイソンでございます。貴族階級は男爵で、メイソン家の補佐を代々仰せつかっております」

「面を上げよ。それでは話ができん」 

 未だ頭を垂れたままのメイソンに、呼びかけると、恐縮したように彼は顔を上げた。その目がひたと、こちらを見た。

 静かに澄んだ、そして偽りのない瞳だった。彼の中に、エドワードや革命軍への何らかの思惑はなさそうだ。だからこそジェラルドとグラントが自分をここに呼んだのだろう。

「どのような用件だ」

 真実を真実として告げ、冷静な口調を心がける。王族として存在する限り、エドワードは絶対的な権力者だ。だが今やらねばならないことは、権力を誇示することではない。

 何故なら、セクアナを同盟に引き入れることは、必要不可欠とされているのだ。

「殿下のお力をお借りしたいのでございます」

「私の力が何故必要なのだ? セクアナは未だルーイビル領主ファルコナー公爵との協調を重んじ、彼と縁の深い現王室を支持していると聞いているが?」

 ルーイビルは、セクアナの西に位置する大都市だ。このユリスラ王国には九の自治領区と一の直轄区がある。そして王国の中でも栄えている自治領区が三つある。これを三大都市と呼ぶが、ルーイビルはその一つだ。

 一つは言わずと知れた中央の王都シアーズである。この都市が国王と多数の有力貴族たちが住む、ユリスラ最大の都市なのだ。交易、政治、経済、全ての中心は、シアーズに集まっている。

 二つ目の都市はランディアという、芸術の都である。アイゼンヴァレーとオフェリルの下に位置する、海に面した東の都、風光明媚な別荘地帯を北部に抱える、古よりの大都市である。

 古くはアイゼンヴァレーの鉱山をその権力下に置き、加えて自治領区東部に宝石の多く採掘される鉱山を持っている。そのため装飾品や彫刻等芸術が花開き、それによって国内外に独自販売ルートを持っている。王国の芸術は、主にこのランディアで栄えていると言っていいだろう。

 カークランドが領主を務めるオフェリルと境を接してはいるが、現在この自治領区との間に戦端が開かれたことはない。

 ランディアは海に近い所に街の大半が集中していて、北部に行くほど険しい山に囲まれた地となるため、オフェリルとの交流は少なく、それ故に街道が整備されていないのだ。

 そしてもう一つの大都市であり、セクアナに支配の手を伸ばし、支配を及ぼす自治領区こそ、西の都ルーイビルだ。

 ルーイビルは、森林と工芸品、そして隣国リュシアナ王国連合との交易によって栄えた、西の都であり、過去の戦乱の歴史からリュシアナ王国連合との境に巨大な砦を持つ、強固な都市である。

 ランディアとルーイビルは、侯爵よりも格上の公爵の地位の者が収める自治領区であり、この公爵家は両方共に王族の血縁者である。

 ルーイビルを治めるファルコナー公爵は、現在の王室の血縁者だ。彼の妻はシュヴァリエ王妃の叔母に当たる。シュバリエ公爵の妹だ。

 そしてランディア自治領主は大貴族バーンスタイン公爵である。現在の王室とは血筋は遠いが、大体の場合、シアーズに住む王家を含む、この三家から国王が出ているのである。

 前国王が政治から離れて以後、直轄区とルーイビルに挟まれたセクアナは、農業に特化しており、ルーイビルから、常に弱小自治領区として利用され続けている。

 それはエドワードも、すでに知っていた。だが知っているとこちらから言い出すのは、交渉として上手いことではない。リッツのように直球で話を進めることは、貴族相手にやるべきではない。

「表向きはその通りです。ですがセクアナは、現在すでに限界を迎えております。情けないことに、作物を作る農民すら飢え、自治領区の備蓄は著しく減っています。農民はすでに畑を捨ててファルディナやサラディオへと逃げ出しております」

 メイソンの語るセクアナの現状は、情報で得た以上に悲惨なものだった。豊かなはずのセクアナの農地は、荒れ放題に荒れ、難民化した人々が溢れている。作り上げた農産物は領民の口に入ることもなく、全て最低限の金だけで、ルーイビル商人に取り上げられてしまう。

 それはサラディオ自治領主レオポルト・ルシナからの書状で知っている。直接境を接するサラディオへの難民流出が極めて高く、サラディオの治安は再び危機的状況に見舞われているというのだ。

 それに加えて、まるで奴隷のようにセクアナの人々を買い上げていく者もいるのだという。ほぼ全てが農民の子らしいが、売られる先は大抵ルーイビルやシアーズ、ランディアの貴族だという。

 生活を脅かすだけではなく、家族を崩壊させるルーイビルを憎みつつも、未だルーイビルの言いなりになる貴族も多く、二つの伯爵家のうちどちらかが率先して、それに与していると言われる。

 病弱にして、ほとんど権力を持たないガルシア侯爵は、そんな自治領区を自らの力で助けることができずにいる。かといって現王家に助けを求めても、自治領主の権利を取り上げられ、ルーイビルに併呑されることはもはや間違いなかった。

 セクアナの反ルーイビル派は、この状況に際して、ついに手の打ちようがなくなったのだ。

 苦渋に満ちたメイソンに、エドワードは鷹揚に構えて頷く。目が合うとメイソンは安堵したように言葉を続けた。

「我が領主ガルシア侯は、生まれつきお体が丈夫ではございません。現在は病も悪化し、床から離れることも困難でございます。ルーイビルとの交渉の席に着くことすら難儀しておりますし、よしんば着くことができても、こちらの話などはルーイビルに通じません。我々セクアナはルーイビルにとって、食料庫に過ぎぬのです」

 セクアナは川に面した巨大な中州を持ち、それ以外にも川が多く流れる土地である。ここで取れるのは小麦ではなく、米である。この地では米を主食としているのだ。その米が現在、多く王都に運ばれていることは、シアーズの補給倉庫を監視している者からの報告で分かっている。

 それ故に、エドワードとジェラルドは、程なくセクアナが北部同盟に助けを求めて来るであろうことを、察知していたのである。黙ったまま見つめていると、メイソンは静かに頭を下げた。

「これ以上、民衆を苦しめるわけにはいかぬとの、ガルシア侯の考えに従い、王太子殿下をお訪ねした次第にございます」

 そういうとメイソンはその場から立ち上がり、数歩エドワードの方へと足を進めた。リッツが剣に手をかける気配が背を通じて伝わってくる。そのリッツを手で制してエドワードはメイソンを見守った。

 エドワードの目の前まで来たメイソンは、その身体を地に伏した。懇願するように床に額をすりつけたのである。

「王太子殿下、お願い申し上げます! セクアナをお救いください! 民衆に平穏と食物をお与えください!」

 円卓が静まりかえる。外で訓練する新兵の声が聞こえるほどだ。後ろではリッツが居心地悪そうに微かに身じろいだ。使者がいなければ、エドワードに軽く『どうすんの、エド?』と聞きたいところなのだろう。

 残念ながらリッツの希望には応えられないが。

 エドワードは小さく息を吐き、笑みを浮かべてメイソンを見た。

「面を上げよ、メイソン」

「しかし!」

「私は民衆と共に生きると決めている。助けを求めてきた者に、そのような態度を取られることは、心苦しい」

 顔を上げたメイソンの瞳をじっと見つめる。メイソンの瞳は、エドワードを見たまま動きを止めた。魅入られたようなその視線を受け止める。どうやらリッツとパトリシアが言うとおり、本当にこの瞳には人の視線を繋ぎ止める効果があるらしい。

 ならば最大限に活用するとしよう。メイソンのその瞳から目を離さずに微笑みかけ、静かにエドワードは問いかけた。

「セクアナは、私に何を与え、何を望むのだ?」

 再び静まった中で、皆に聞こえるほど大きく息を吸ったメイソンが、顔を上げた。

「セクアナの人民の忠誠を捧げます。我が領主ガルシア侯は民衆の幸福を望んでおります」

「つまり?」

「セクアナを北部同盟に加盟させていただきたい。領民が助かり、飢えずに生きて行かれるのならば、我々セクアナは、革命軍への主食の無償援助をお約束いたします」

 再び地に顔を伏せたメイソンに倣うように、共に来た男たちが皆立ち上がり、メイソンの隣に膝を突いた。皆が額を地面にこすりつけるように平伏する。これにはさすがのエドワードも困る。

「……顔を上げてくれ。これでは今後の話もできん」

 苦笑気味に告げると、メイソンは顔を上げずに再び口を開いた。

「ですが……申し訳なくも、もう一つ我々は殿下にお願い申し上げなければならぬことがございます」

「……もう一つ?」

 意外な展開に、エドワードは眉を顰める※。セクアナの支援はする気だが、要求をもう一つ持ってこられるとは思わなかった。

「聞くだけは聞こう。かなえられるかどうかは分からんぞ?」

「はっ。無理は承知の上でお願い申し上げます。殿下、セクアナへお越し頂き、我が領主ガルシア侯にお会いになってくださいませんでしょうか?」

 顔を上げないメイソンのつむじをエドワードはじっと見つめた。小刻みに震える髪を見ていると、自分がいかな無茶を言っているかは、理解しているのだろう。黙ったまま小さく息をついただけのエドワードに変わり、代わりに怒気を発したのは、革命軍側だった。

「何を申すか! ガルシア侯自らがこちらに足を運ぶのが本道であろう!」

 円卓を叩いて立ち上がったのは、グラントだった。グラントは王族に対して足を運べという無礼を許すほど甘い人物ではない。国家の宰相として当然だろう。グラントの後ろに立っていた秘書官たちも、あまりに常識外のメイソンに当惑している。

「貴公も同じ考えであろうな、モーガン侯」

 ごく自然に確認するグラントに、ジェラルドは微かな微笑みを浮かべた。

「もちろんだ、サウスフォード伯。ガルシア侯自らが足を運ぶことが交渉において最も重要であろう」

 穏やかにジェラルドの瞳がメイソンを見た。それから静かに頷く。

「領主との直接交渉なくして、同盟は組めぬ。だがガルシア侯のご病気が重いのもまた真実のようだ」

 平然と言い切ったジェラルドに、メイソンが微かに身じろいだ。ガルシアの病状を把握していたジェラルドに、警戒心を抱いているのだろうか、それとも何か思うところがあるのか。

 彼が顔を伏せているため、それは分からない。

「ではどうするのだ、モーガン侯?」

「簡単なことだ。北部同盟の盟主たる私が、交渉のためにセクアナへ赴こうではないか」

 まるで散歩にでも行こうかというように、軽くジェラルドが告げた。メイソンも顔を上げ穏やかに微笑むジェラルドと、元々堅苦しい顔を更に厳しくし、しわを寄せたグラントを交互に見つめた。

「……モーガン侯が……?」

「北部同盟のことならば、私で用は足りる。殿下の許可さえいただければ、貴公らと共にセクアナへ赴こうではないか」

 それは常々ジェラルドが言っていたことだった。もしもセクアナが交渉を求めてきたら、ガルシアの元に赴かねばならない。なれば私が行けば良いと。

 メイソンがジェラルドに気を取られた一瞬、微かにメイソンの瞳が曇った。話はこれで終わり、このままジェラルドがセクアナへ行けば一件落着だ。

 だがメイソンには何か他の望みがあり、エドワードをセクアナに呼び寄せたいに違いない。それが何かは分からないが、おそらくこの男にとって、セクアナを守るため必要不可欠なのだろう。

 エドワードは両肘を付き、顎を手の甲に載せて考え込む。セクアナに行くことで得られる、セクアナ側の利益は何か。そしてこちら側にもセクアナに行く事で利益があるのか。

 セクアナに関する報告書と、セクアナを取り巻く様々な状況に考えを巡らしたエドワードは、小さく息をついて顔を上げた。

「モーガン侯」

「は、殿下」

「本体はダグラス大将と、コネル中将に任せる。後方支援部隊及び政務部は、カークランド伯、サウスフォード伯に任せる。警備面で問題はあるか?」

 笑顔で尋ねると、ジェラルドの顔に楽しげな笑みが広がった。

「ありませぬ、殿下」

「そうか。では私がセクアナに赴こう。リッツ、来るだろう?」

 軽く振り向いて尋ねると、相棒はしばらく目にしたことがないほど嬉しそうに破顔した。

「もちろん。エドが行くならどこにでも」

 またこういうことを言うと、犬と言われるだろうが、リッツにとって本心からの言葉だ。口にしたことはないが、エドワードも何があろうと関係なく、共に来るリッツの存在が嬉しい。

「では決まりだな。これより三日後、騎兵隊五十を連れ、私とモーガン侯とリッツはセクアナに発つ。メイソン、案内せよ」

 きっぱりと告げると、一瞬の間を置いてグラントが立ち上がった。

「馬鹿なことをおっしゃいますな、殿下!」

「馬鹿なことではないぞ、グラント。考えた末だ」

「その考えの根拠は何なのです! 玉体にもしもの事があったら、いかがなさるおつもりですか! 革命は未だ道を歩み出したばかりですぞ? 今殿下にもしものことがあれば、全て瓦解してしまうではありませぬか!」

「大丈夫だ、グラント」

「だから何を根拠に……」

 怒りに満ちた真剣なグラントの言葉を途中で遮り、エドワードはリッツを手招きして、その背中を叩いた。

「私には、リッツがいる」

「え、俺?」

 反射的に返事をしたリッツに、エドワードは笑いかけた。

「そうだ。命に替えても私を守るのだろう?」

「もちろん」

 言葉少なに、だが確実な思いで頷いたリッツに、グラントは軽く頭を抱える。

「その粗忽者がいれば安全だと?」

「そうだ。リッツがいれば無事に戻る自信がある。私自身、腕に覚えがないわけじゃない」

「……確かに覚えはありましょうが……」

 いつもしかめ面に近い表情に更にしわを寄せて、グラントがじっとこちらを見据えている。軽はずみな行動に心底腹を立てているのだろうか。だが次の瞬間、グラントは小さく息を吐き、首を軽く振った。

「殿下が申すのであれば、臣下たるこのサウスフォードに異論はございませぬ」

 予想以上にあっさりと許されたことに、微かに疑問を感じつつも、エドワードは念を押した。

「本当にいいんだな、グラント?」

「止めて差し上げた方がよろしいでしょうか?」

「そうではない」

「では殿下の思うままに」

 いつもの感情を抑えきった表情で、グラントが小さく息をつく。呆れられたが、許して貰えたようだ。

「決まりだ。グラント、フレイザー、後を頼む」

 王族のエドワードがこう言ってしまえば、この場では不承不承であっても、カークランドも頷くしかないだろう。何しろ最初に強硬な反対をしようとしたグラントが先に折れている。

 そしてここで頷いてしまえば、もう使者への手前、グラントもカークランドも後には退けないことも分かっている。それでも二人は小さく息をついて胸に手を当てた。

「御意」

「ありがとう。すまないな」

 笑みを浮かべて二人を見ると、カークランドは仕方がないとばかりに苦笑していた。グラントは書類から顔を上げる。

「殿下の命とあれば致し方ありませぬ。リッツ」

 不意に呼ばれてリッツが首を傾げる。

「何?」

「なんとしてでも殿下をお守りしてくれ。どうやら私には、ここで民衆の生活の糧を整えつつ、精霊王に祈りを捧げているしかないようだ」

 半ばあきらめ顔のグラントに、リッツが子供のように自信満々に頷いた。

「任せておけって!」

「……貴公のそういう所が危ういのだがな……」

「ひどいよ、グラント」

 やり合う二人を見ながら、エドワードはもう一度視線をメイソンに移す。心から安堵した顔で小さく息をついたメイソンの目が、一瞬苦しげに細められた。

 メイソンの語るセクアナの様子は、情報収集の結果に得たことと、差異はなかった。ガルシアが助けを求めているのも事実だろう。

 だとしたらメイソンの、この微かな、悲しみにも似た表情はどこから来るのか。それが分からぬから、ジェラルドに、セクアナを押しつけるわけにはいかない。

 エドワードがセクアナに行くことで、セクアナが何らかの利を得る。それが何かは、いいまだに謎のヴェールの向こう側だ。

 何かがセクアナにはある。それを自分の目で確かめたい。

 グラントには申し訳がないが、エドワードは久しぶりに自分の気分が高揚していることに気がつく。

 旅はエドワードの夢。何が待ち受けていたとしても、命に関わる危険があったとしても、それは結局書類との睨み合いに白旗を揚げかけていたエドワードにとって、楽しみでしかないのである。 

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