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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
邂逅の光明
86/179

<11>

 シャスタはゴクリと唾を飲み込んだ。

 判定係にと言われたものの、この天幕に入ったシャスタがしたことといえば、真剣に薬品を作り上げる二人の毒使いを、冷や汗混じりに見つめることだけだ。

 そして今、目の前には、五個づつ、二組の小さなグラスのセットが並んでいる。普通に使うグラスと比べると、とても小さく、芸術品のように綺麗に透き通っている。

 美しいそのグラスに入っているのは、どちらも微かに色づいた美しく透明な液体だ。

 何らかの薬品を調合し、ヴェラとヴィンスの二人が、三十分ほど掛けてそれぞれに五個セットを作り上げたのである。

 それを作りながらヴェラが教えてくれたのは、このファイブグラスの説明だった。

 ファイブグラスのルールは、シンプルきわまりない。お互いに五つのグラスに、毒液を作る。その全ての種類、致死量が違うのだ。

 そして作った物をお互いに交換して、順番に飲み干していくのだそうだ。

 毒液が何であるか、どのような濃度なのかを見極めてから口にしない限り、毒は簡単に致死量を超える。だが毒同士の効果を打ち消す作用もあり、順番を正しく飲み干せば、死なずに生き残るということだった。

「つまり、この五つのグラスを全部混ぜてから飲み干した場合、致死量にはならないの。でも致死量が十だとしたら、こちらのグラスは六、こちらはマイナス二、こちらは七、といった具合で、飲み方を間違えると致死量の十を超えてしまうってわけ。だから瞬時にそれを見抜いて、順番に飲み干していくというゲーム」

 こともなげにそう言ってのけたヴェラの気持ちがさっぱり分からない。

「それって、お互いに死の危険があるって事ですよね?」

「ええ。相手も同時に呑むから、二人とも死んでゲームはドローっていうのもざらにある」

 なんて危ない、命を賭けた遊びなのだろう。

 見た目の年齢と本当の年齢が違うことは聞いているけれど、どうしてこの人はこんな危険なことを嬉々としてやろうとするのだろう。

「相手が全部を致死量にしてたら、どうするんですか? 絶対に死んじゃいますよ?」

「私たち毒使いは自らの誇りに賭けてそんなことをしない。それをした毒使いは、あっという間に同業者に屠られて消えるわ」

「だけど……」

 シャスタの常識とはあまりにかけ離れた世界に、シャスタの戸惑いは広がるばかりだ。だが止めても無駄なことだけは分かる。もし止めたなら、アデルフィー護衛団二千人を、見殺しにすることになるのだから。

 でももし、ヴェラが負けたら……。

「シャスタ、安心しなさい。私は負けないって言ったでしょ?」

 シャスタの不安を読み取ったのか、ヴェラがそう言って笑う。

「ねぇシャスタのお母さんは何歳だったの?」

「え?」

 唐突な質問に首を傾げる。

「教えてよ。内緒にすることじゃないんでしょ?」

「あ、はい。ええっと、生きてれば四十五歳ですね。ルイーズ様よりもいくつか年上だったから……」

 ローレンの笑顔と、だらしなく酔っ払うその姿を思い出して、胸を突かれた。

 ああ、なんて自分は遠くに来てしまったのだろう。あの時、ローレンと過ごしたティルスの幸福な時間から……。

「ふうん」

 楽しげに目を細めたヴェラに、シャスタは眉をしかめた。この命がけの状況に、ヴェラは何を言い出したのだろう。

「あの……?」

「じゃあ私が今子供を産んだら、シャスタがこのぐらいの年になる時、私も同じぐらいの年ね」

「……え……?」

 見た目が十代前半のヴェラは楽しげにそういった。計算してみると、ヴェラはもう、三十になるという計算になる。

「ええっ!」

 見えない。もう三十歳だなんて、どう見ても見えない。

「うふふふ。そう考えたら何か嬉しくなっちゃった。ママ、頑張るわ」

「ちょ、何を言い出したんですか、ヴェラさん!」

「みんなには絶対に内緒。もし話したりしたら、可愛い婚約者ちゃんよりも先に、あなたを頂くわよ?」

「!」

 それは困る。そういうのはリッツにしておいて欲しい。

「言いません! 言いません!」

「うふふふ。信じてるわよ。あ、そうだ。いいこと思いついちゃった。私が勝ったら、私をお母さんって呼んでくれる?」

「は?」

「だってぇ、私子供産めないもの。毒婦だから」

 毒婦は身体に少量づつの毒をため込んでいる。だからきっと本当のことなのだろう。どう答えたらいいか分からずに沈黙すると、ヴェラは目を細めて言葉を続けた。

「今産んだ子がシャスタのお母さんと同じ年で同じ大きさになるなら、呼んでくれてもいいじゃない」

「何ですか、その理屈。理解できないんですけど」

「いいからいいから。約束よ」

 笑顔でヴィンスに向かい合ったその背中を見て、ハッと気がついた。ヴェラは絶対に死なないと、冗談交じりにシャスタに伝えてきたのだ。そして、シャスタも殺させないと伝えてくれている。

 あなたを死なせないから、絶対に生かすから、約束を重ねたのよと。

 シャスタは唇を噛んだ。判定にと指定されたシャスタをも、この人は守ろうとしてくれているのか。気が重くならないように、ちょっといやらしい冗談交じりに。

「僕は信じてます、ヴェラさん。頑張って!」

 きっぱりと告げると、ヴェラが振り返って極上の笑みを見せた。

「ありがと」

「ではいいですか? 菫の乙女」

 笑みを湛えた邪気のない顔で、ヴィンスが問いかけてくる。ヴェラはさも楽しそうに笑った。

 二人の間には、兵士二千人分の解毒剤が置かれている。何の変哲もないガラス瓶が、何故だかシャスタには黄金色に輝く尊い物に見える。

 これが全員の命を救う切り札。そしてそのために……命のために命を賭けて行うゲーム。

 なんて退廃的で、なんて空恐ろしい戦いだろう。

「ええ。一杯目はあなたからどうぞ」

「ふふ。頂きます」

 目の前で男が迷い無く一つのグラスを手に取る。匂いをかいだり、色をじっと見ることもない。シャスタから見れば、さも無造作だ。

 ヴェラに視線を向けてぎょっとした。彼女もグラスを確かめるどんな仕草もせず、細い指先を一つのグラスに伸ばす。そして全く迷い無い手つきで、グラスを一つ手の中に包み込んだのだ。

 両方とも限りなく透明だ。シャスタにはどちらも水にしか見えない。だが二人にはこれが何だか分かっているのだろう。

「憧れの菫の乙女の杯を受けられることを、精霊王と女神に感謝します」

「いうわね。では私は死神ジャックの死出への旅に乾杯」

 言うと同時に、二人はグラスを軽く掲げて迷い無く飲み干した。あまりに迷いのない手つきに、シャスタは呆然と立ち尽くした。

「なんて……無茶な……」

 一口で飲み干した二人は、楽しげに見つめ合う。

「さすがは菫の乙女、これが一番強いと思ったのに」

「あら、あなただって。まさかこの調合で来るとは予想外よ」

 二人にしか分からない会話を交わす。でも二人の目は笑っていない。この和やかな雰囲気全てが作り出されたまがい物であることぐらい、シャスタにだって痛いほど感じられる。

 ヴェラの白くて細い綺麗な指が、早くも次のグラスに伸ばされている。ヴィンスも次のグラスを手にした。

 目配せして微笑み合い、二人はグラスを口に運ぶ。目の前で再び透明な毒液は、美しい二人の毒使いの身体に流れ込んでいく。

 シャスタの目の前で繰り広げられる戦いは、まるでワインの試飲会のように、楽しげな会話と、優雅さを漂わせた手つきで進んでいく。

 怖くないのだろうか。恐ろしくて震えたりしないのだろうか。シャスタだったなら、怖くて手を伸ばしたりなんて出来ない。

 一杯目よりも二杯目、二杯目よりも三杯目と、グラスを選ぶ時間こそは延びていくものの、それが滞ったり、二人が苦悩のそぶりを見せることなど全くない。

 常に二人は余裕に満ち、優雅だった。

 シャスタの目の前には、喉が渇くだろうからと、毒を用意する合間にヴェラが用意してくれた、水の入った普通のグラスが置かれていたが、あまりの緊迫感に手を出すことすら申し訳ない気がして、そのままになっている。

 喉は渇いている。この緊迫感に、唾を飲むのにも苦しいぐらいには。

 それでもシャスタはグラスに手を出すことすら出来ない。身動きすることで、ヴェラの集中を妨げたくないのだ。

 ただでさえ暑いというのに、緊張感で更に汗をかく。背中を辿る汗と、顔を流れ落ちるしずくを妙に意識してしまう。握りしめた拳は、汗でじっとりと湿っている。

 何も出来ないからこそ、緊張感ばかりがシャスタを絡め取っていく。

 目の前の勝負は、あっという間に終盤へと移っていた。ヴェラとヴィンスの目の前には、グラスが一つだけ置かれていた。

 この一杯で勝負が決まる。どちらかの死か、二人の死か、二人の生かだ。二人とも生きていた場合、もう一勝負行われるらしい。

 この緊張感がもう一度繰り返されるのは、絶えられそうにない。出来ればこれで、ヴェラに勝利して欲しい。

「ねぇ死神ジャック。これが最後よ。何か言い残すことは?」

「特に。雇い主に愛着があるわけでもありませんしね」

「ふうん」

 ヴェラの手が目の前のグラスの縁を色っぽくなぞっている。

「あなたは可哀相ね。結局道具として使われ、道具としてここで死ぬしかない」

「……僕が負けるとでも?」

「さあ、どうかしら。もしかしたら私が死ぬかもしれない。でも私は私の主にとっても愛着があるわ」

「ギルバート・ダグラスですか?」

「ええ。最高の人だわ。上司としても、男としても」

「へぇ。菫の乙女がそれほど褒めるなんて、是非、殺したいですね」

「ふふふ。殺させるわけないじゃない。あなたはここで死ぬの。私のこの手にかかって」

「自信満々と言ったところですか」

「いいえ。真実よ」

 言い切ると、何の躊躇いもなくヴェラはグラスを飲み干した。一瞬焦りを浮かべたのはヴィンスの方だった。

 自信に満ちた迷いのないヴェラに、恐れをなしているのだ。初めてヴィンスに動揺が走る。でもヴェラは躊躇いを許さない。

「さあ、ジャック。飲んで」

 魅惑的を通り越して、蠱惑的な甘い声色でヴェラは目を細めてヴィンスを見た。微笑みは極上なのに、その中に漂う色気は恐ろしく艶めかしい。

 ヴィンスと同じように、シャスタも息を詰めてヴィンスの目の前の最後のグラスを見つめていた。ただの透明な液体だというのに、とてつもなく恐ろしいものだというのが分かった。

「さぁ……飲んで?」

 甘く匂う女の色気に、毒使いのヴィンスが飲まれた。ヴェラもヴィンスも同じ毒使いだというのに、ヴィンスはヴェラを見つめたまま、最後の杯を手にした。

 微かにヴィンスの手が震えているのが分かった。

 怖いのだろうか、そう思ったのだが、違うことに気がつく。ヴィンスは恍惚とした表情を浮かべてヴェラを見ているのだ。

 ヴィンスが手にしていたグラスを、一息に飲み干した。しんと、空気が澄んだように沈黙がこの場を支配した。

 でもそれは一瞬で、ヴィンスの唇から真っ赤な一筋の流れが滴った。  

「菫の乙女……」

 上気した頬で、ヴィンスがヴェラをそう呼んだ。

「なあに?」

 流れ落ちる血液が、テーブルに落ちて広がる。鮮血は怖いぐらいに赤くて、まるで小さな野バラが無数に咲き乱れていくようだ。

 血飛沫の紅に満ちていく世界で、ヴィンスは満足げに微笑んだ。

「なんて美しい……」

 それが毒使い死神ジャックの最後だった。緩やかに力を失った身体は、椅子からゆっくりと倒れ落ち、床にたたきつけられる。

 シャスタはその音の大きさで我に返った。

「あ……死んでる……?」

 呟くと、ヴェラが穏やかに笑った。

「ええ。私の勝ちね」

 美しい笑みだった。でもその口端からヴィンスと同じように流れ出した血液に、血の気が引いた。

「ヴェラさん?」

「……ぎりぎり勝利、みたいね」

「え……え……?」

「シャスタ、解毒剤は、あの小瓶を千倍に薄めなさい。それで全員が目覚めるはずよ」

「ヴェラさん?」

 戸惑うシャスタの前で、ヴェラは透明な笑顔を作った。それはとても綺麗だったが、シャスタの背筋を冷たいものが伝った。

 この満足そうな笑み……ローレンが死んだ時と同じだ。ヴェラは死ぬつもりなのだ。このまま死んでいくつもりだ。

「ヴェラさん、駄目です! 満足しないで! まだ死のうとしないで!」

 恐怖で足が震えた。ローレンのように、何も出来ないまま、また自分をも救ってくれた人を失うしかないのか。何の力もないまま、母と同じように、このヴェラも死での国へと送るしかないのか。

「シャスタ……早く解毒剤を……」

「眠っている人に時間はあるんでしょう? ヴェラさんの方が時間がない!」

「シャスタ……」

「ヴェラさんが母さんの話なんかするから、僕は……もう一度母さんを死の国に送りたくない。ヴェラさんに死んで欲しくない!」

 とっさにシャスタは、今にも倒れそうなヴェラの背中を抱えた。意外と華奢で、農作業と騎士団の修行で一応鍛えたシャスタには軽かった。

 そしておもむろに、その口を開かせて喉の奥に指を突っ込んだ。

「ん! んっ!」

 抵抗するヴェラを無視してそれを続けると、やがて力を抜いたヴェラが、血の混じった液体を苦しそうにはき出した。

 毒草を誤って食べてしまった時に、ローレンがこうして吐き出させていたのを、シャスタは見ていた。その処置の一部始終をシャスタは知っている。

 ローレンの息子であるシャスタだからこそ、ヴェラを救える。救いたい。

 苦しげなヴェラの背中を空いた手でさすりつつ、全てをはき出させるために、抵抗する気力もないヴェラを吐かせる。

 やがてヴェラが荒い息をつきながら、情けない声を出した。

「もう……毒使いに毒をはき出させるって……なにごとよぉ……」

「毒使いだから格好良く毒で死ぬなんて、絶対に僕は認めませんからね」

 シャスタはきっぱりと、ヴェラのすみれ色の瞳を見つめて言い切った。

「……な……」

「ヴェラさんは、毒使いでこうやって危ないことしてきたかもしれないし、ぎりぎり勝てても、はき出さずに相手を褒めて死ぬような選択をするのが普通の世界で暮らしてきたんでしょうけど、僕の世界でそれはなしです」

「……あなたって……融通の利かない男ね……」

「エドワード様と、リッツさんと兄弟してるんです。融通利かないぐらいじゃないと、弟やっていられないですよ」

「……何か納得」

 呟いたヴェラの身体から力が抜けた。

「あ、駄目ですよ! まだ気を失わないで!」

 とっさにシャスタは、自分の前にあった水を掴んだ。

「飲んで!」

 まだ胃の中の毒を全部出していない。薄めなければ何の意味もない。

「ヴェラさん」

 揺すってみたが、ヴェラは微かに焦点の会わない目でシャスタを見上げただけだった。もうろうとしてきているらしい。グラスを口に付けても、こぼすばかりで上手く飲めない。

 シャスタは心の中で、婚約者のサリーに詫びた。

 ごめん、またヴェラさんに触るけど、これは浮気じゃないからね。

 そしてグラスの水を口にいっぱい含んで、ヴェラに口づけて、少しずつ、むせないように流し込む。飲めないかと思ったが、微かに意識はあるようで、むせることなく少しずつ水が減っていく。

 幾度か水を含み直しては、ヴェラの唇を通して注ぎ込む。ヴェラは苦しげに、細い息を吐きながらも、シャスタにされるがままになっている。

 それを幾度か繰り返すと、しばらくしてヴェラは大きく震えて、毒と水の入り交じった液体を、大量にはき出した。

「ヴェラさん、これでおしまいですよ」

 優しく言いながらその身体をしっかりと抱いて、背中をさすると、彼女の頬が、微かに赤みを帯びていることに気がつく。

 大丈夫だ。全部ではないにしろ、命に別状がないぐらいに毒は体外に出ただろう。

「ヴェラさん、ヴェラさん、分かります? 僕が分かりますか?」

 腕の中に抱きしめたまま問いかけると、ヴェラは薄く目を開けた。

「ヴェラさん!」

「……参ったわ」

「え?」

「シャスタったら……とってもいい男ね。ギルには敵わないけれど、リッツよりも、エドワードよりも、とってもいい男よ。きっといい夫になって、いい父親になるのでしょうね。あなたならきっと、この国の危機を乗り越えさせる、立派な政務官になるわ」

 穏やかに、儚く笑ったヴェラは、やはりあの時のローレンみたいだった。

 ローレンは失ってしまったけれど、でもヴェラは救えた。

 ヴェラの笑顔とローレンの微笑みが重なり、シャスタは堪えきれずに、腕の中のヴェラを抱きしめた。

「シャスタ?」

「……母さんっ! 母さんっ!」

 気がつくと、呻くようにシャスタは母ローレンを呼んでいた。

 涙がこみ上げてきて止まらない。

 あの時に泣けなかった感情が爆発した。ずっと堪えてきた母への想いが止まらなくなった。

 救いたかった。

 生きていて欲しかった。

 死んで欲しくなかった。

 ずっと一緒に、ティルスで先生をしていて欲しかった。母のように、ティルスで教師になって、医師になって、ずっと母と共にいたかった。

 辛い思いをした人だったから、幸せになって欲しかったのに。

 なのにシャスタの甘い油断で、命をなくさせてしまった。もっとサリーの妹たちを、ちゃんと見ていればよかった。何であの時、目を離してしまったのだろう。

 後悔は死ぬほどした。苦悩して眠れない日もあった。

 でも悲しみに涙できなかった。

 リッツが辛そうだったから、サリーが立ち直れなかったから。

 だけど何故だろう、ヴェラが生きてくれたことで、シャスタの中のわだかまりが流れ出してしまった。

「シャスタ」

 心配そうに尋ねられて、顔を上げてびっくりした。いつものヴェラのはずなのに、そこにいたのは母親のように、人生を積み重ねてきたであろう、美しい一人の人だった。あの色気と蠱惑的な雰囲気を一切纏わない、本当のヴェラがいた。

「……すみません、ヴェラさん」

「いいのよ。そうね、格好悪くても、私生きた方がいいわよね。あなたがこうして泣くように、きっと私の死で涙する人がいると分かっているんだもの」

「ギルバート様ですか?」

「いいえ。ソフィアよ。私の大切な、たった一人の私の姉」

 ふんわりとけぶるような笑みを浮かべて、ヴェラはシャスタの頬に手を伸ばした。

「シャスタ」

「はい」

「約束、覚えている? 勝ったら、お母さんって呼んでくれるんでしょう?」

「ヴェラさん……」

「だから、泣いていいわよ。あなたは私との約束を守っただけ」 

 そんなヴェラの優しさに、シャスタは彼女を抱きしめた。

「生きててよかった、ヴェラさん……」

「あら、呼んでくれないの?」

 冗談めかしたような言葉に、シャスタは涙を拳でぬぐった。この人は生きている。この人は救えた。ローレンを救えなくても、この人は救えた。

 それでもう、許されてはいけないだろうか。

 母を失った自分の苦しみから……。

「無茶しないでくださいね……母さん……」

 呼びかけると、ヴェラが泣きそうな顔でシャスタの胸に顔を埋めた。

「呼んでくれたら助けますけど、こんなの二度と駄目ですからね、母さん」

「……うん。もうしないわ、シャスタ」

 柔らかな銀の髪を、ゆっくりと撫でると、ヴェラは黙って目を閉じた。

 何だ、この人も普通の女の人なんだ。

 その時、天幕の入り口が大きく揺れた。

「ヴェラ、シャスタ!」

 リッツよりも大きくて逞しいその影に、シャスタは安堵の息をこぼした。

「ギルバート様」

「二人とも無事か!?」

 シャスタが、甘えるヴェラを抱きしめて頭を撫でているという、思いも寄らない状況に、ギルバートは目を丸くし、それからヴィンスの遺体を見て思い切り困惑している。

 見た事もないようなギルバートの顔に、ヴェラが吹き出した。シャスタもおかしくなって吹き出してしまった。

「エン先生の所に行きましょう、ヴェラさん。ギルバート様、こちらの暗殺者の始末をお願いしてもいいですか?」

「あ、ああ」

「テーブルの上の液体を、千倍で薄めて、眠ってしまった人たち全員に飲ませるそうです」

 てきぱきと指示を飛ばすと、何があったのか分からぬままに、ギルバートは全てを飲み込んでいつものように人を食ったような笑顔を作って、シャスタの頭をぐりぐりと撫でた。

「了解だ。シャスタ、ヴェラを頼むぞ」

「はい」

 エドワードやリッツがやっているから出来るかなと、シャスタはヴェラを横抱きに抱き上げてみた。びっくりしたけど、あまり抵抗なく彼女が持ち上がる。

「……へぇ。大きくなったなシャスタ」

 感心したギルバートの声で何だか全てが腑に落ちた。時間が進んでいく。シャスタの時間も進んで、大きくなっていく。

 この先グラントと共に更に大きくなれるといい。

 もう過去は戻らない。未来しかない。

 ローレンの代わりに、誰かを救える人になりたい。それがティルス村の先生ではなく、宰相秘書官なのだったら、それを極めたい。

「行きましょう、ヴェラさん」 


 リッツは、騎兵隊によって取り囲まれた二人の刺客の目の前にいた。

 解毒剤を持って救護隊の元へと行ったギルバートが最後の刺客の死を確認したそうだから、もうこれで四人全員が倒れたこととなる。

 リッツは黙ったままじっと二人を見つめていた。今や仮面を付けることも許されず、俯いたままの男の顔は見えない。だから周りの殺気だった兵士たちは、気がついていないだろう。

 仮面の男の顔のことを。

 やがて怪我の手当を終えたジェラルドが、エドワードに肩を借りてこの場に現れた。一緒にいるのはパトリシアだ。全員がエドワードとジェラルドの前に、頭を垂れる。リッツは軽く二人に手を上げた。

「大丈夫かよ、おっさん」

 声を掛けると、エドワードの肩から手を放し、ジェラルドは一人で堂々と立つ。

「大丈夫に決まっているだろう。柔な鍛え方はしておらんよ」

「だけどエドが刺された時は、ほとんど二日眠ってたよ?」

「殿下よりも傷は浅かった。広範囲だったがな」

 苦笑するジェラルドに、エドワードが肩をすくめた。

「俺は自ら刺されにいった方だからな。避けようがない」

「……ごめんよ、エド……」

 しょんぼりとすると、エドワードの手がリッツの肩に掛かった。

「気にしてないさ。俺は自分を守っただけだし」

 そう言われると返す言葉も無い。

「俺はお前の身体の一部かなんかか?」

 一応、軽く冗談を言って、エドワードの顔を窺う。リッツのどことなく申し訳なくて、微かな引け目を感じている感情を知っているエドワードの唇に、からかうような皮肉の笑みが浮かぶ。

「気にくわないなら、俺の半分にしておいてやろうか?」

「何でだ?」

「それとも『お前は俺の全てだよ、リッツ』とか言って欲しいか?」

「いうな! 気持ち悪いな!」

 お互いに冗談を飛ばし合っていると、エリクソンが歩み出た。小さく溜息交じりに、でも配下としての礼を崩さずにこちらを見る。

「お戯れはそのぐらいにしてください殿下、リッツ」

 昔だったら『いい加減にしろ、エド、リッツ!』と怒鳴られていたところだな、とちょっと胸が痛んだ。なるほどこんな些細な違和感が、エドワードを消耗させていくのだろう。

 感慨にふけるリッツなどに目もくれず、エリクソンがジェラルドに尋ねた。

「モーガン閣下、捕らえたこの二人をどういたしましょうか?」

「少々話を聞きたい。土の精霊使いは、イーディスの名を口にしたからな」

 ゆっくりとジェラルドは、捕らえられた二人の元に歩み寄った。顔を上げたのは女だけで、男は相変わらず俯いている。

「私は革命軍のジェラルド・モーガンだ。我々は捕虜を虐待することはしない。だが情報は欲しい。王都の情報を教えてくれないかな?」

 柔らかく、いつもの調子で語りかけてきたジェラルドに、仮面の男がゆっくりと顔を上げた。仮面の男の、水色の瞳が真っ直ぐにジェラルドを捕らえる。

 ジェラルドの目が、みるみる見開かれていった。

「ジェラルド?」

 問いかけたエドワードに答えず、ジェラルドは小さく喘ぐ。

「何故……?」

「ジェラルド?」

 傷が痛むのか、それとも仮面の男が何かをしたのかと、リッツはジェラルドの元に歩み寄る。エドワードも同じように、リッツと反対側を支えようとした。

 だがそれを手で制したジェラルドは、仮面の男をじっと見つめたまま、小さく呻く。

「……生きていたのか……」

 ジェラルドの問いかけに、仮面の男は眉をしかめた。

「何のことだ、モーガン侯?」

「生きていたのなら、何故今まで私の元に戻らなかった? 何故お前がエドワードを襲うようなことをしている?」

 あまりに意外すぎる言葉に、リッツはジェラルドを支えようとした手を止めた。

 明らかにジェラルドは、仮面の男の正体を知っている。それなのに、仮面の男は、全くジェラルドを知らない。

「お前……私が分からないか?」

 尋ねたジェラルドに、仮面の男は小さく息をついた。

「分かるさ。お前はモーガン侯爵だろう」

「そうではない。ではお前は自分が分かるか?」

「私はアノニマス。名もないイーディス・シュヴァリエの暗殺者さ」

 皮肉の笑みを浮かべた仮面の男に、ジェラルドは苦悩の表情を浮かべた。

「お前……記憶が……」

「ああ。一切記憶はない。自分が何者なのかなど、興味もない。気がついた時には、シュバリエ公爵に飼われていたからな」

「何と言うことだ……」

 小さくジェラルドは首を振ると、エリクソンを手招きした。不審な顔をしながら、エリクソンが歩み寄って来る。

「では彼に見覚えは?」

 仮面の男の前に押し出されたエリクソンは、当惑の表情でジェラルドを見上げる。

「閣下?」

「お前が初めて持った後輩だろう? お前はそれを本当に喜んで可愛がっていただろうに」

 言われた仮面の男よりも、仮面の男の顔を見たエリクソンの顔が、みるみる青ざめていく。

「まさか……」

 呻くエリクソンを、仮面の男は眉をしかめて見上げた。二人の目が合う。エリクソンは小さく声を上げる。

「そんな……ありえない……」

 一歩下がったエリクソンは、悲痛な表情でジェラルドを見上げた。

「閣下……」

 縋るように問いかけた言葉に、眉を寄せたままのジェラルドが頷く。とたんに、縛り上げられた男の前に、エリクソンが膝を付いた。

 動けない男の肩に、手を置く。

「俺が分かりませんか? 俺ですよ、マシュー・エリクソンです」

「……マシュー……?」

「アル兄と一緒に、よく呑みに連れて行ってくれたじゃないですか」

「アル兄?」

「アルバートです。アルバート・セロシア。あなたの親友でしょう!」

 初めて聞く、普段から冷静沈着なエリクソンの、苛立ち、叫ぶような声に打たれるようにリッツは身動き出来なくなった。

 ゆっくりと隣のエドワードを見ると、エドワードが完全に動きを止めて、仮面の男を見つめているのが分かった。

 リッツも理解した。これほど仮面の男がエドワードに似ていたわけを。

 元騎士団員で、アルバート・セロシアの親友だった男は、たった一人しかいない。

 ジェラルドは、ゆっくりと仮面の男の前に膝を付いた。エリクソンが静かに場所を譲る。

 しばらく無言で見つめ合っていた二人だったが、やがてジェラルドが重苦しい口調で呼びかけた。

「グレイグ」

 名を呼ばれた瞬間、びくりと仮面の男が震えた。

「あ……あ……」

 何かを思い出すように、苛立ったように、仮面の男は縛られたままの両手で頭を抱える。その目が自らの正体を知る恐怖に、揺れている。

 だがそんな男の恐怖を打ち壊すかのように、ジェラルドは強い口調で呼びかけた。

「お前は我がグレイン騎士団の騎士だ」

「うそだ……、そんな……」

「嘘ではない。騎士団の騎士にして、バルディア夫人の兄であり、エドワードの叔父である、グレイグ・バルディアだ」

「うっ……嘘だっ!」

 叫び声を上げて、男は……グレイグは頭を抱えた。

「嘘だっ! 嘘だっ!」 

 その痛みに耐えられないと言った苦痛をほとばしらせながら、グレイグはのたうつ。

「グレイグ!」

「違う違う! 俺は……俺は……アノニマス……イーディスの暗殺者だ……」

 自らが誰だか認めることは、自らの罪を認めることと等しい。今までずっとこの男と戦ってきたリッツは、彼が何をしてきたのかをみな知っている。

 だからこそ、彼がグレイグであるならば、それを認めるのが辛いのだ。

「お前はルイーズの兄だ! イーディスの物でも、シュバリエ家の物でもない!」

 叱りつけたジェラルドに、グレイグはハッとしたように顔を上げた。

「俺は……」

「お前は、物ではない。一人の人間だ」

 ジェラルドの顔をじっと見上げたグレイグにジェラルドが静かに微笑みかけた。

「アルバートがずっと気に病んでいる。お前が死を選んだのは、自分が理解してやれなかったからだと、苦しんでいる。アルバートは、剣を捨てたよ」

 仮面の男の目から、一筋の涙が流れた。

「……アル……」

「戻ってこい、グレイグ」

 ジェラルドをじっと見つめるその唇が、震えながら微かに開かれる。

「……ジェラルド……様……?」

「そうだ、私だ」

 グレイグはゆっくりと、ジェラルドの隣に立つエリクソンに目をやった。

「……マシュー?」

「そうですよ、グレイグ!」

 くしゃりと男の顔が歪んだ。長き夢から目が覚めたような表情を浮かべる。

 だが次の瞬間には、自らの立場を思い出したのか、エリクソンから視線をそらして俯く。

「……立派になったな……見違えた……」

「当たり前です! あれから三十年近く経っているんですから!」

 エリクソンがそう言って、唇を噛んだ。

「生きてたなんて。だったらアル兄と一緒にもっと探せば良かった……」

 エリクソンがボロボロと涙をこぼした。

「死んでしまったと諦めなければ、記憶を失ったあなたを、暗殺者などにさせなかったのに……」

 もうすぐ五十になるという、いつも冷静沈着な、エリクソンなら考えられないことだった。

「済まなかった……マシュー」

 グレイグはうなだれ、拳を握りしめたまま黙りこくった。唇が苦痛にゆっくりと歪んでいく。

 リッツはグレイグから、エドワードに視線を移した。エドワードは言葉も無く、目を見開いたままグレイグを見つめていた。

 リッツにはその気持ちが痛いほど分かる。エドワードは突然に、ティルスを、故郷を奪った仇を失ってしまった。しかもそれは、記憶を失った自分の叔父だった。

 誰を責めればいい? 誰を憎めばいい? 復讐のために革命をしてはいけないけれど、たった一人を憎むことだけは、エドワードに許されていたはずなのに。

 心の中が葛藤している。憎むべきか、許すべきか。

 でもジェラルドもエリクソンも彼を許し、受け入れようとしている。エドワードはそれをまだ、自分の中で消化できない。

 リッツも複雑な思いを抱えながら、じっと見ているしかない。

 そんな中でジェラルドがグレイグに語りかけた。

「お前が生きていたと知ったら、アルバートは喜ぶだろう。さあ、こい。グレインへ戻っておいで、グレイグ」

 差し伸べられた手の先で、グレイグが顔を上げることなく首を振った。

「……戻れません」

「グレイグ……」

「俺は……自分の故郷を……燃やした男だ。ティルスは……俺の故郷だったのに、それを思い出すことも出来なかった……」

 グレイグは縛られたその手で、地面にきつく爪を立てた。握られた拳が、その苦悩と苦痛を表している。

「エドワードの育ての母親が死んだと聞いた。それは……あいつだ。ローレンだったんだろう? 俺たち兄妹と一緒に育ったのに、俺が殺したのだろう?」

 頭を抱えたグレイグは、苦痛に顔を歪めた。記憶が戻っていく、それ故に自分の行った数々の行動全てが、大切な物を壊すことだったと知ってしまった。

 この苦痛はどれだけだ? どれだけの苦しみだ?

 リッツには想像が付かない。

 記憶を失って、エドワードやパトリシアをこの手に掛けたなら、それを後に知ったなら……きっとリッツは生きられない。

 その場で死を選ぶだろう。

「妹を救わねばならないのに、イーディスの手先をしていた」

 言葉も無く、誰も一言も発することが出来ない。そんな中で、血の滲むようなグレイグの苦痛が重くのしかかる。

「ルイーズ。俺のたった一人の家族、俺の大切な、可愛いルイーズを見殺しにした…….。俺のせいで、俺の浅はかな虚栄心のせいでハロルドに犯された妹を、救い出すことが出来なかった。幸せにしてやりたかったのに!」

 地面に突っ伏し、地に爪を立てて呻き声を上げたグレイグは、やがて地に伏せたまま懇願した。

「殺してくれ。俺を……殺してくれ!」

「グレイグ」

「ジェラルド様、慈悲と思ったなら、この場で俺を殺してください」

「……グレイグ……」

「マシュー、頼むから」

「嫌です……出来ない!」

 ゆっくりとグレイグは顔を上げた。その目は真っ直ぐにエドワードとリッツを見ていた。

 目が合った瞬間に、リッツは凍り付く。エドワードとよく似たまなざしをしているのに、その中にエドワードの中にある、あの叡智と生命の輝きがない。

「……ずっとお前たちに執着していた。何故かなど分かっていなかった。でも今なら分かる。お前を苦しめたのは俺だ。だからお前に殺して欲しかった」

 エドワードの唇が開きかけて、そして堪えるように閉じられた。罵倒するでもなく、責めるでもないエドワードに、グレイグは静かに視線を送る。 

「エドワード済まない。俺のせいでお前を苦しめた。ルイーズをお前の手の届かないところへやってしまったのは俺の責任だ。お前は本来ティルスで、アルバートの子として生まれてくるはずだった。ルイーズとアルバートは、本当に愛し合っていたのに……」

 あまりのことに、リッツは言葉を失った。エドワードが唇を噛む。その拳が固く握りしめられている。どれだけの想いを、エドワードは堪えているのだろう。

「俺はローレンを愛していた。ローレンも俺を受け入れてくれた。国王がグレインに来なければ、俺たちは結婚するはずだった。ルイーズはよく、一緒に結婚式を挙げられたらいいと、夢見ていた。なのに俺は……俺の愛するローレンを、自らの手で殺してしまったんだ」

 苦痛を打ち明けるグレイグから、リッツは目を放すことが出来なかった。

「エドワード! 俺が憎いだろう? 頼む、俺を殺してくれ! 俺はもう……生きられない!」

 グレイグの瞳から涙があふれ出していた。その瞳には希望のひとかけらも残されていない。エドワードはどうするのだろう。そう思って見ていると、エドワードが何かを呟いたのが見えた。

 微かに聞き取れたのは、怒りに燃えた低い呟きだった。他の誰にも届いていないだろう。でも耳のいいリッツだから聞こえる声だった。

「自分だけ楽になるのかよ……死んで逃れる気なのかよ」

「エド……」

 エドワードの肩を抱くと、エドワードは微かに肩をふるわせて叫んだ。

「お前が死ねば、ローレンが戻ってくるのか! 母さんが戻ってくるのか! ティルスが元に戻るのか!」

「エド!」

 後ろからエドワードを抱きしめる。

「死にたければ死ねよ! でもジェラルドやエリクソンに命を絶たせて、更なる後悔を重ねさせることなど許さない! 過去は戻らない! 前に進む気がないなら、自分で消えればいいだろう!」

「やめてくれよ、エド!」

 エドワードの苦痛が伝わってくる。伝わってくるからこそ、これ以上グレイグに感情をぶつけて欲しくない。それはきっと、エドワードの中の苦痛をまた呼び起こしてしまうことになる。

「離せよリッツ!」

「嫌だ!」

「お前もこいつに同情するのか! 殺してくれなんて甘えたことを言うこの男を許すのか! 記憶がないことに甘んじて、自らを知ることもせずに、唯々諾々と暗殺者に落ちたような男を、許すのか!」

 手を離したら、エドワードがグレイグを殺してしまいそうだった。だからいっそう友を抱く手に力を込める。

「俺が同情なんてするもんか! 俺はお前が今でも傷ついてるのに、更に傷つくのが嫌だ!」

 半泣きになってしまった。しまった。また騎士団の目の前で情けないことになっている。でも感情が抑えられないのだから仕方ない。

「自分が何者か分からない不安は俺だって分かる。このグレイグって人がどんだけの不安を抱えてたかも分かるよ。だけど暗殺者の道を選び取ったのはこの人だ。同情なんてするもんか」

「リッツ」

「だけどエドがこの人を責めて、手に掛けたら、ルイーズ様が可哀相だ! ローレンが可哀相だ! アルバートが可哀相だ! 三人はきっと、この人が大好きなんだから! 俺だって大好きな人が、記憶を失って暗殺者になってたって事になったら、絶対に嫌だ! 辛いよ! 助け出したいって思うよ! 殺されてしまえばいいなんて、絶対に思うもんか!」

「リッツ……」

「もしそれがお前だったりしたらエド、俺は例えお前が暗殺者に身を落としていても、お前を殺した奴を許さない!」

 きっぱりと言い切ると、エドワードが腕の中で硬直した。鼻をすすりながら、更に言葉を重ねる。

「それにこの人を罰する権利はエドにもあるけど、親友で妻を殺されたアルバートが一番の権利を持ってる。この人を一番に裁くのは、アルバートだ! エドじゃない!」

 腕の中のエドワードに、半泣きのまま怒鳴ると、ふいにエドワードの身体から力が抜けた。

「……そうだな。確かにそうだ」

 ようやく落ち着いたらしいエドワードにホッとする。リッツも力を抜いて、鼻をすすった。

「うん。その後にエドが怒ったらいいよ。エドにはそうする権利があるから」

「ああ」

 そういうと、エドワードは小さく溜息をついた。

「リッツ」

「ん?」

「俺はもう大丈夫だから、離してくれ。鼻水やら涙やらが、冷たくて仕方ない」

 微かに笑うエドワードに、目をやると、エドワードのくびやら髪やらを、涙と鼻水だらけにしていた。身重差はたったの十数センチなのだから仕方ない。

「あ……ごめん」

 慌てて離れると、エドワードに頭を撫でられた。良かった。いつものエドワードだ。

 仮面の男は黙ったままいたが、やがて縛られたままどこからか抜いた、小さなナイフを両手で構えて、自らの喉に突き立てようと力を込めた。

「グレイグ!」

 ジェラルドとエリクソンが止めようとしたが、一歩間に合わない。

 もう駄目かとリッツが思った時、異変が起きた。グレイグはナイフを取り落とし、その場にうつぶせに倒れたのだ。

「大丈夫です。少し眠ってもらいました」

 静かな口調でそう語りかけて、グレイグの後ろにいた女が立ち上がった。縛られていたはずなのに、彼女を縛する物はなにもない。

「小官に害意はありません」

 女は今まで戦ってきたのとは、全く違う顔を見せる。軽薄で、色気があって、楽しみのために人を殺せるような、そんな雰囲気を持っていたのに、今はまるで違った。

 それなのに、彼女の中の力や強さはそのままだ。エドワードが何かに納得したように頷く。どうやらエドワードは彼女が何かを隠しているらしいことに、感付いていたらしい。

 騎士団員がみな身構える。リッツも剣をいつでも抜けるように柄に手をかける。この人数ではさすがにこの女も逃げられないだろう。

 そう思った時、聞き慣れた声がした。

「ジレット中佐!」

 声の主はグラントだった。グラントの姿を目にした瞬間、女はその場に跪く。

「宰相閣下。ご無事でしたか」

「無事だ」

 親しげな口調に、ジェラルドが目を剥いた。

「グラント……彼女は?」

「彼女はグレタ・ジレット。国王直属の特殊部隊である、査察部の潜入捜査官です」

「査察官か……」

 意味が分からないリッツだが、エドワードやジェラルドは分かっているようだった。全員が納得したと理解し、グラントが言葉を続ける。

「貴官は今、どの立場で動いているのだ?」

 グラントの問いかけに、女は冷静沈着な表情で答えた。

「私は未だハロルド陛下の臣。陛下の最後の命を着実に守るのみ」

「では、最後の命とは何か?」

「はっ。グレイグ・バルディアを護衛せよ。エドワード・バルディアを死なせるなです。陛下はお命が長くないことを承知しておいででした。ですから、ルイーズ様の願いを私に託しました」

「そうだろうな。して、今後どうするつもりか?」

「分かりませぬ。ですが私は陛下の命を守る所存です。グレイグと共に、しばし身を隠したいと思っております。彼が落ち着き、自らの身の振り方を決めた時、査察官としての任務を下ろさせて頂きます。私はハロルド陛下以外に、主君を持ちたくありませぬ故」

 深々と頭を下げてそういったグレタに、グラントは小さく頷いた。

「ジェラルド、話は聞いていた。私は彼をグレインへ連れて行くべきではないと考える。おそらくグレインにいることは絶えられず、遅かれ早かれ、彼は自滅する。グレタに任せてみてはどうか?」

「だが彼女は先ほどまで敵だった。信用できるのか?」

「それが査察官だ。護衛対象、もしくは潜入捜査において、決して彼らは正体を知られることはない。ジレット中佐は、希代の査察官だ。陛下も、ルイーズ様も、そして私も、信用している」

 しばし黙って考え込んでいたジェラルドは、やがて顔を上げて静かに頷いた。

「分かった。託そう」

「……ありがとうございます、閣下。馬を一頭借りてもよろしいでしょうか?」

「持って行くがいい。頼んだぞ、ジレット中佐」

「かしこまりました」

 跪いて頭を垂れたグレタはゆっくりと立ち上がった。そしてまっすぐにエドワードを見つめる。

「殿下」

「何だ?」

「いいわけに過ぎぬかもしれませんが、グレイグが暗殺者になったのは、彼のせいではありません。薬物と暗示が彼を暗殺者にしました。どうかグレイグを憎まずにいてください」

 グレタの言葉に、エドワードは顔を背ける。そんなエドワードにも全く動じず、グレタは言葉を続けた。

「ルイーズ様は、グレイグ様が利用されていることを知っておられました。そして殿下を狙うであろう事も分かっていました。身内同士を殺し合わせるのが、シュヴァリエ公爵の策略でしたから。ですから私がいたのです」

 引き出されてきた馬に、グレタはジェラルドとエリクソンの手を借りて、グレイグを乗せた。それから全員に向かって頭を下げる。

「いつか、またお会いします。その時まで壮健でいらしてくださいませ、殿下」

 エドワードは口を開かなかった。でもエドワードは分かっているだろう。グレタは深々と一礼し、静かに去って行った。

 こうして暗殺者たちの攻撃が、幕を閉じた。エドワードや、ジェラルド、エリクソンの中に、大きな一石を投じたまま。

読んでくださっています読者のみなさま。

今年も本当にありがとうございました。

また来年も不詳さかもとの小説をご贔屓にしていただけますと、大変にありがたいです。

今年の更新はここまでとなります。

また来年もよろしくお願いいたします。

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