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「ふん。なかなか上手くやってるじゃねえか」
混乱に陥っている王国軍を森の中から眺めつつ、ギルバートが呟いた。
ギルバートの数歩後ろで馬に乗ったまま、パトリシアは緊張のあまり流れ落ちる汗をぬぐった。
暑いけれど、暑さよりも怖さが勝る。
「無理して前線に来る必要も無いだろうに」
軽く言われて、隣にいた男を軽く睨む。ファンという飛刀使いだ。
「無理してないわ。これが精霊部隊として初めての仕事だもの。後方にはいられない」
「そうかい? 僕には無理があるように見えるよ」
馬鹿にしているわけではないのだろうが、ファンの細い目が微かにつり上がり、薄い唇が三日月のように持ち上がる。笑われているような気分で、何となく落ち着かない。
「本当に大丈夫」
答えながら後ろを見ると、そこにはラヴィとジェイという二人の傭兵がいた。ラヴィは時折絵を描いているのを見かけるし、穏やかな気質だから幾度か話したことがあって、比較的気安い。
でもジェイとは一度も話したことがない。無口なサーニア人である彼には話しかけづらいのだ。
唯一話しやすいのは、元は伯爵の息子だったという、ベネットことジェイムズ・ガヴァンだ。そのベネットは、パトリシアの隣にいてくれている。
「あなたたちがそんな顔で近づくから緊張しちゃうのよ。パティちゃんは私が守るから、むさ苦しい男共は敵兵をなぎ倒してればいーの」
「やれやれ。むさ苦しくはなくとも、男であることには変わりないだろうにね」
肩をすくめたファンに、片目をつぶられた。細い目だから、どちらを閉じているか分からずに、ついつい忍び笑いしてしまった。
「何かおかしいかい?」
分かっているだろうに、ファンがしらばくれる。そんな彼らに接していると、リッツのどことなく変わった性格の元は、ここにあるのだと気がついた。
シアーズから帰ってきたリッツは、相変わらずでありつつも、どことなく妙な余裕というか、退廃的な雰囲気を醸し出すことがあったのだ。
リッツには慣れているし、どれだけ雰囲気が変わろうとリッツだから気にもならないが、傭兵たちのこの独特な雰囲気に、パトリシアは何だか馴染めないでいる。
それでもこれが今現在で最強の部隊であり、最強の布陣であるならば、自分の好みでものを言ってはいけない。
パトリシアは今、遊撃隊と共に、騎乗したままシアーズ街道を挟んだ森の両側に潜んでいる。精霊使いとしてここにいることを選んだのだ。
ジェラルドにはいい顔をされなかったが、ギルバートはパトリシアの覚悟を受け入れて、こうしてダグラス隊と共にこの場にいることを許してくれた。
「そろそろ頃合いになりそうだな」
呟いたギルバートの肩越しに、混乱する街道の光景が見えた。といっても人の姿があまり見えない。ただただ煙の中から叫び声と、金属の触れあう音と、怒声が響いてくるだけだ。
パトリシアたちが潜んでいる場所までは、煙が流れてこない。発煙するロープが仕込まれたのは、この場所から、百メートルほど街道を進んだ先までなのだ。
やがて煙の中から、騎兵の一団が躍り出た。
「抜けたぞ!」
咳き込みながらの騎兵の男の叫び声に、辺りがどよめくような男たちの声が混じる。全くの無秩序に、男たちが煙の中から飛び出してくる。
全員が荒い呼吸をし、咳き込み、安堵して吐く者もいる始末だ。リッツの考えた煙作戦は、どうやら効果があったようだ。
煙を抜け出た男たちの声が、切れ切れに聞こえてくる。口々に話す声を聞いていたギルバートが笑った。
「すぐに戦いが始まりそうだ」
「え?」
「この先に森を抜ける場所があると気がついたようだからな」
ギルバートの視線を辿ると、確かに森の切れ間が微かに見えている。街道から見ればあちらが開けていることがよく分かるだろう。
「敵軍はすぐにあちらに向かうのですか?」
混乱を制すためにまず一息、ということになりそうな気もするが。問いかけたパトリシアに、敵軍を見つめてうっすらと笑いを浮かべたままギルバートが答える。
「向かわざるを得ないさ。煙の中では隊列を組み直すことも、混乱を収拾することも出来ないだろうよ」
「なるほど……」
ギルバートの言葉の通り、煙の中から無秩序に出てきた兵士たちは、咳き込み、目をこすりながら、森が切れ、明るい光が見えるこちら側に向かってきている。
みな早く煙から逃れたいのか、人々は押し合いながら街道にあふれ出している。
「あそこで森が切れるぞ!」
「もう少しで明るいところに出られる! もう少しだ。全員、急げ!」
軍人たちは先を争うように前に進もうとしている。小走りな者、人を押しのけようとして反対に引き倒される者。何もしていないのに混乱状態は更に続いている。でもこの勢いでは、放っておけばあっという間に、街道を突破されてしまいそうだ。
「さぁて、私の出番ね」
気楽に微笑みながら、ベネットが馬を軽く蹴る。いよいよ作戦が始まる緊張感で身を固くするパトリシアの肩に、ベネットが手を置いた。男とは思えないほどに綺麗な笑みを浮かべて、ベネットが肩を叩いてくれる。
「肩の力を抜いて。大丈夫よ。作戦を立てたあなたのお父様とギルを信じなさい」
「ありがとう、ベネット」
「いいの。女同士不安を分かち合うのはいいものよ」
小さく頷いたが、ファンの言葉で我に返る。
「女じゃないだろう、ベネット」
「失礼しちゃう! 心は乙女よ!」
ベネットはファンを睨んだ。
「後で覚えてなさいよ、ファン」
「ああ。覚えておくよ」
ふざけたやりとりの後、ベネットは何も躊躇わずに、街道へと踏み出した。固唾をのんで見守っていると、背に大弓を背負ったベネットは、優雅に馬を王国軍に向けて立つ。
ベネットは涼しい顔で王国軍の軍勢を前に、微笑んでいる。その笑みは横顔を見ていても本当に美しい。これなら誰も男とは思わないだろう。
案の定街道に溢れている男たちは、呆然とベネットを見つめている。まさかの美女登場に茫然自失というところだろう。
見ているだけで、自分がそこにいるわけではないのに、胸の鼓動がうるさいほど音を立てている。
ベネットの横顔から目が離せない。自信に満ちているその口元が、優雅に柔らかく微笑んだ。
「娘、そこで何をしている?」
一瞬息を呑んだ騎兵の男たちが、ベネットに歩み寄りながら尋ねる。でもベネットは微笑みながら見ているだけだ。不審に思いつつも、男たちは一歩、また一歩と歩を進める。
得体が知れぬも美しいその存在へと、惹き付けられているようだ。それに人が次から次へと煙のない前方に逃げてきているから、押されるように前に進むしかないのだろう。
あとベネットと男たちが接触するのに、二十メートルほどになった時、ベネットはゆっくりと矢をつがえた。
「何をするか!」
男が怒鳴った瞬間、大弓から小気味よく音を立てて矢が放たれた。矢は吸い込まれるように、先ほどからベネットを誰何していた、男の額のど真ん中に突き立った。
男はもんどり打って、馬から転げ落ちる。
「貴様!」
男たちが殺気だった。
最初に煙から抜け出した騎兵の一団が剣を抜き、一気にベネットに向かってくる。その距離がどんどん狭まっていくが、ベネットは身動き一つしない。自分のことのようにパトリシアは手に汗を握った。
危ない、斬られる! そう思った瞬間だった。森の両側から一斉に矢が飛び出し、ベネットに殺到しようとしていた男たちに突き立ったのだ。
あっという間に、何十人もの男と同数の馬たちがみな血に倒れ伏す。
「な、待ち伏せか!」
叫んだ男が後ずさろうとするも、煙から逃げてくる軍勢に押されて、後退などできようはずがない。「止まれ! 止まれぇぇぇぇぇぇ!」
叫ぶ男に一斉に掛けられた矢が、再び逃げ場のない兵士たちに突き刺さった。
一斉掃射ごとに、何十人もの男たちが、馬たちが苦悶の表情を浮かべて地に倒れ伏す。
「……ああ」
知らず知らずのうちに、ため息が漏れていたそれでもパトリシアは顔を覆ったり、目をそらしたりしない。これが戦いだからだ。
幾度もの一斉掃射が行われ、街道は赤い血に染まる。美しく白いベネットの横顔にも、飛び散った血痕が赤く鮮やかな花を咲かせていく。
黙ったまま笑みを浮かべて、数メートルずつ下がりゆく彼女は、兵士から見れば、美しい死者の国の使いだろう。
血の花がベネットを更に美しく飾る。表情一つ変えないベネットと、目の前で死にゆく大量の人々に、パトリシアは胸を押さえた。
今まで戦場に立ったことはある。ティルス、オフェリル、共に血が流れた。
でもこんな一方的な殺害を見たのは初めてだ。だが敵軍は革命軍の倍いる。こうして減らすしか、勝つ手がない。
いつの間にか手が震えていた。震えを押さえるために、両手を合わせて胸元に持ってきた。服の下に感じる、エドワードとリッツへの証のネックレスを強く押さえる。
絶対に勝つ。ユリスラに平和を取り戻す。
このぐらい恐れるな。
戦いはまだ始まったばかりだ。
パトリシアは顔を上げた。目の前には眉一つ動かさず、その場に立ち続けるベネットの姿が見えた。
大混乱に陥った王国軍に、ベネットは悠々と笑いながら舌を出した。
「敵襲! 森の両側に伏兵あり! 弓兵! 弓兵はどこにいるか!」
軍の構成も全く整わないようだ。弓兵は数人でオロオロと森に打ち込もうと弓を引く。
「挟み撃ちになる。いいから撃て!」
半ば狂乱的に叫んだ男に、パトリシアは小さく息を吐く。
そんなことをしても無駄なのに。
革命軍の弓兵は、大半が義勇兵だ。幾度かの一斉掃射を終え、与えられた本数を打ち終わった弓兵は、振り返りもせず、とっとと本陣へと駆け戻っているのである。気がつき、弓兵が森に矢を打ち込んだとしても、すでにそこはもぬけの空だ。
叫ぶ兵士に、パトリシアの一歩前にいたギルバートが笑う。
「馬鹿め。遅いわ」
敵弓兵さえも、体勢を整える前に、後方から逃げてくる味方にあるものは押しのけられ、あるものは踏みつぶされている。
「……戦いから遠のいていた軍は使えねぇな」
ボソッとギルバートが呟くのが耳に入った。元はユリスラ軍の中将だったのだから、心配にもなるだろう。
「さあ、そろそろ行くぞ」
まるで散歩に誘うかのように、のんびりとギルバートが言った。緊張感が全身に走る。小さく幾度か息を吸うパトリシアとは違い、ダグラス隊は余裕を持って笑った。
戦場慣れしている強さなのだろう。
一歩遅れたパトリシアが馬を進めると、すでにギルバートがが敵軍の前に立ちはだかっていた。
「さぁ、死にたい奴は前に出ろ!」
混乱する戦いの場に、ギルバートの怒声がとどろいた。敵兵がその瞬間に悲鳴のような声を上げる。
「ダグラス中将だ! 前方よりギルバート・ダグラス襲撃! 指示を!」
叫ぶ兵士たちに、ギルバートが騎乗のまま巨大な大剣を振りかざし、問答無用に斬り込む。リッツよりも大きく、逞しいその体躯に反して、行動は恐ろしく素早い。
「この状態で指示を待つとは、言語道断だな」
言葉と同時にうなり声を上げて、巨大な大剣が風を切る。目の前で男たちの頭が数個吹き飛んだ。切られた首からは噴水のように血が吹き上がり、主を失った馬が大きく嘶いて狂乱に陥る。
血を切る間もなく、ギルバートは街道の薄闇に鈍い輝きを煌めかせながら、大剣で兵士たちをなぎ払う。
ギルバートの進む先に、生者は残らない。
足下にいた歩兵が馬に踏みつぶされて、内蔵をばらまきながら引きずられている。
惨状が、あっという間に目の前に広がっていく。ギルバートの振るう大剣は、空気を裂くように簡単に人の命をたたき切る。
大型のボウガンに構え直したベネットは、遠距離の敵を的確に仕留めていく。煙から抜け出し、何も分からない人々が、光を見ることもなく、そのまま地に伏す。
両手にタガーを持った無口なジェイは、いつの間にやら馬から飛び降り、小柄な身体で戦場を跳躍し、縦横無尽に二刀流を放つ。舞を舞うように回転したその後には、無残に切り裂かれた死体が転がっているだけだ。
絵描きのラヴィは、その巨大な槍を振り回し、一度に幾人もの兵士たちをなぎ倒していく。馬上にある巨大な体躯のラヴィの、頭上からの攻撃に、兵士たちはなすすべもない。
一度に幾人もを相手にしつつも、全く引けを取らず、あの少し申し訳なさそうな顔をしたまま、次々に命を吹き飛ばしていた。
こんな手練れ、見た事がない。
こんな風に簡単に、人の骸が積み重なっていく光景なんて、見た事がない。
これが……傭兵……。
ダグラス隊の面々が切り開いた道を、遊撃隊員たちが、騎馬のまま勇猛に乗り込み、剣を振るう。元第三隊の面々も、恐れることなく血に塗れていた。
次々と押し出されてくる、混乱した王国軍兵士に対し、徐々に後ずさりながら、巨大な軍勢を草原に向けて引き寄せつつも、決してその手をゆるめはしない遊撃隊員……。
パトリシアも彼らに合わせて徐々に後退しつつ、戦場を見守ることしか出来ない。
煙のなくなった地点から、もう数百メートルもの間、地面には赤い幾筋もの血の流れが出来ている。土だと思っていたものは、人々の肉で埋まっている。ぬかるみの飛び散るのは、先ほどまで人々の腹に収まっていた内臓だ。
狭い場所での接近戦であるからこそ、凄惨さがとてつもなく目に付く。
前線は徐々にパトリシアの目前に迫る。
「ううっ……」
口元を押さえそうになったが、何とか堪え、パトリシアはこみ上げてきたものを飲み込んだ。
ここで普通の女のように怯えてどうする。私は何年グレイン騎士団の精霊使いを名乗ってきた。
圧倒的な数の軍と、混乱した兵士たちに、徐々に押されながらも、パトリシアはそこから目が離せない。新たに煙から逃れてくる兵士たちは、すでに屍となった仲間の上を通ってくる。
戦い前から彼らはもう血に塗れている。一歩、また一歩を距離を測りながら、パトリシアはじっと凄惨な光景を見つめた。
「下がっていますか、お嬢様?」
護衛に付いてくれていたファンの、執事のように丁寧ながら、からかいを含んだ声に、パトリシアは顔を上げた。
「行くわ。私は風使いですもの」
大きく息を吸うと、血の香りと内蔵の生臭さに身体に満たされたような気がした。一瞬、吐きそうになったが、パトリシアは強く唇を噛みしめた。
血塗られた茨の道だが、これがエドワードの行く道。そしてその友、リッツが共に歩む道。
ならばパトリシアだって、決して逃げたりしない。
やがて後退し続けていた前線が、目標としていたラインに達した。森の出口まであと二百メートル。ここまで引っ張れば、後は彼らが後退することもないだろう。
なぜなら街道から少し高くなっている革命軍本隊の陣地が遠くに見えるようになっているからだ。
それを見れば敵は必ず、本隊を立て直せるほどの距離を革命軍が取っていると思い込み、草原に突撃してくるはずだと、父、ジェラルドが語っていた。確認した時、確かに革命軍本隊と、街道出口には、二キロほどの差があると感じる。
それが数の少ない革命軍の狙いだ。
腰に差していた白銀の杖を取り出して構える。
パトリシアの役割は、この煙を前方だけ軽く吹き飛ばし、敵軍がこちらへ向かってくるように、視界を少し開くことだ。
そうすることで、敵軍にわずかに統制を取らせる。そのタイミングを図りながら、ギルバートたち傭兵部隊は、逃げ出すのだ。
もし今のまま混乱に混乱を重ねていたら、傭兵たちを追わせることが出来ないから、少々正気を取り戻させてやらねばならないのである。
ギルバートの役割は、その環境が整うまで、とことんまで敵兵を殺すことだ。怖じ気づかせ、相手に恐怖を与えることで、精神的に戦いに勝つ。
これが大きな勝利に繋がると、ギルバートは言う。
目の前にはすでに屍の山がある。ギルバートたちと遊撃隊は、完全に乱戦状態へと陥りつつあるが、圧倒的な数がいるはずの王国軍は、全く統制が取れておらず、反撃らしい反撃はまだない。
でもこの混戦状態ならば、そろそろ頃合いだろう。
「ファン、行くわ!」
前方を見つめて言い放つと、ファンが静かに頷いた。
「お守りします」
白銀の杖を正面に構えた。
心を研ぎ澄まし、精霊の声を感じ取りながら、パトリシアは詠唱を始める。
「自由と協調を司る風の精霊よ。我にその力を与えよ」
風を感じる。まだ短い髪が、集まる精霊たちで軽く巻き上がった。
風のざわめきが森を越え、空からここに下りてくる。自由にして、それでも仲間と共に季節を運び、香りを運び、思いを運ぶ、協調の調べ。
それが風の精霊。
「白き闇を吹き払え、風の渦!」
全身を包み込んだ風が、白銀の杖に取り付けられたクリスタルに集まり、一気に放たれた。木々の葉をも巻き込み、激しい渦を作りながら、強い風が血塗られたシアーズ街道に吹き荒れる。
戦っていた人々も一瞬の強風に、身体を庇いつつ体勢を整えた。
すぐそこまで立ちこめていた白い煙が、目を瞠るような速度で風にちぎり取られるように、吹き上がり、空へと巻き上がる。
見る見る間に、リッツの仕込んだ白い闇は消え去り、街道が明るい日差しに包まれた。思っていた以上に煙を吹き飛ばしてしまったようだ。
「ありゃ~。すごい威力ですねぇ……」
ファンに感心されて焦る。こんなに綺麗さっぱり吹き飛ばしてしまうつもりはさらさら無かった。とたんに敵軍は活気づいた。
「煙が消えたぞ!」
「態勢を整えろ! 敵は少数だ!」
乱戦になっていた前方以外が、みるみる整い始める。だがギルバートは引かない。当然ながら誰も引くことなく戦い続けている。
風の渦を叩き付け、相手が態勢を整える直前に逃げ出す。相手が追ってこなかったら、精霊をけしかけて反撃する。これがこの部隊の役割だ。
その引き際を決めるのは、遊撃隊長であるギルバートだけだ。パトリシアは再び白銀の杖を握って、風の渦を作り上げた。遊撃隊が吹き飛ばされぬように、敵のただ中に放った風の渦が暴れ回る。
だがみるみるうちに敵陣形が整いつつあった。入り交じっていた人々は、各自の持ち場に戻り、彼らはみなじりじりと前方に迫ってくる。
「……まだなの、おじさま」
口の中で子供の頃からの呼び名でギルバートに問いかける。相手の陣形が整ったら、反撃に出られる。街道は狭いから完全に包囲される可能性はゼロだけど、それでも遊撃隊は今、百人未満しかいないのだ。
「弓兵前へ! 歩兵、弓兵に続け!」
敵指揮官の声が響いた瞬間、ギルバートが叫んだ。
「野郎共、逃げるぞ!」
逃げるって……他に言い方はなかったの?
心の中で思ったが、身体はギルバートに命じられたように、馬首を巡らせ、草原方面に向けていた。帰還命令が出たら、パトリシアは真っ直ぐに逃げ、そのまま精霊部隊に合流するのが任務だ。
馬の腹を蹴ると、飛ぶように街道を草原に向かって逃げ出す。後ろを遊撃隊員の馬が同じように駆けてくる。
「逃げるぞ! 追え! ギルバート・ダグラスを討ち取り、王国軍に名を上げろ!」
敵の鬨の声が、雷鳴のようにとどろく。弓兵の矢が闇雲にこちらに向かって放たれるも、すでに遊撃隊員たちは、脇目も振らずに馬を本隊へ向けて走らせている。
混戦状態で草原になだれ込むわけにはいかない。ほんの数十メートルでもいいから、敵との間に距離が欲しい。
パトリシアは馬を疾走させた。風に揺れる丈の長い草原を、夢中で駆けていく。
目の前に目的の場所が見えた。
草原を入ってすぐに、少し高い丘があるのだが、街道からは全くその傾斜が分からない。そしてその丘は、反対側に下っていて、下からは見えない天然の塹壕のようになっているのだ。
塹壕に潜んでいるのは、たった十人にも満たない人々だった。そこには数頭の馬も隠されている。全員分ないのは、乗れない人もいるためだが、彼らが全員逃げられる算段は立ててある。
そこに飛び込んだパトリシアは、馬上から息を切らせながらそこに陣を張る特殊部隊を見つめた。
「ソフィア! 来るわ!」
「了解、パティ」
銀の髪を掻き上げ、ソフィアは煙草の煙を悠々と吹き出した。それから少数の部下たちを見て、その冷たい美貌で微笑んだ。
「さ、あんたたち、きばりな」
「はい!」
彼らは塹壕の上に立った。狙撃されるのにはまだ距離があるが、彼らはそれでも出来ることがあるのだ。そのために彼らはこの最も前方に配備された。
「うん。いい距離」
ソフィアが満足そうに頷く。足下には遊撃隊員が距離を取ってこの草原に逃げてきている姿がある。その中にはギルバートの姿があった。
ギルバートはソフィアに気がつくと、軽く手を上げた。無言のままソフィアは火の付いた煙草を持った手を上げる。
それが合図だった。
「蟻地獄、発動!」
鋭いソフィアの声と共に、二人の男が地面に杖を突き立てた。地割れが恐ろしい速度で草原を走り、今まさに街道からあふれ出ようとしていた王国軍の足下で光を放つ。
その瞬間、激しい音を立てて地面が大きく落ちくぼんだ。激しい振動と共に避けた地面が蜘蛛の巣状に広がっていく。
頭に血が上るあまり、罠の存在を全く考えていなかったのか、街道から溢れていた王国軍の軍勢が、恐ろしい勢いで地面に叩き付けられた。
「……すごい」
パトリシアはあまりの光景に絶句した。二人がかりの蟻地獄は、直径が二百メートルほどもあったのだ。事前に発動しやすく仕込んだと聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。
遊撃隊を追い、殺到してきた敵軍が、数百人単位で穴に落ちていく。
馬は倒れ、人々は転び、馬車は転倒している。しかも突撃の号令を掛けられた状態だった王国軍は、止まることが出来ずに、倒れた人々の上に次々に殺到していく。
滑り落ちた者の上に、また人が滑り落ち、転がる馬の下敷きになって、人々がまた潰されながら滑っていく。
見る見る間に巨大な蟻地獄は、王国軍の焦げ茶色の軍服で埋まる。まるで蟻地獄に絡め取られた蟻のようだ。
後から来た人々が、そこを避けようとして逃れたところにも、再び蟻地獄が出来て大きく深く地面がえぐれて落ちくぼんだ。
街道から草原への出口が、次々に破壊され、砕かれていく。
一体どれぐらいの人々が蟻地獄に引き込まれていくのだろう。おそらく数千はくだらないだろう。
蟻地獄とはその技の名であり、本物のように中心に吸い込まれることはない。態勢さえ立て直せれば脱出できる基礎的な精霊魔法だ。
だが後から後からあふれ出る軍勢は、自分自身でその場を地獄と化している。
そう。ここに待機していたのは、精霊使いたちだった。二人の土の精霊使いは、それほどの手練れではない。でも精霊魔法の発動がしやすいように仕掛けをし、二人で蟻地獄を作るのならば、それは難しい事ではないのだ。
この大混乱の間に、遊撃隊員たちは、丘を駆け上がり、本隊へと駆け戻っていく。ソフィアとすれ違いざま、ギルバートがソフィアに片目をつぶった。
「頼んだぜ、相棒」
「任せな」
やがて後から後から溢れる敵が、この事態を収拾すべく動き出した。地割れを避けつつ、だがそこが街道から草原への出口であるから、近くを通らざるを得ず、人々が混乱状態で一所に集まりつつある。
おそらく彼らの目に見えているのは、この塹壕よりも遙か後方に位置する本隊だけだろう。だからこうして慌てて陣形を整えようとしているのだ。
蟻地獄の周り、街道からの出口、その一帯に人々が集中するその瞬間をソフィアは狙っていた。
ソフィアは長い髪に隠れていて見えない表情のまま、細く煙草の煙を吹き出した。化粧っ気がなくても色気のある唇が低く言葉を紡ぎ出す。
「……燃えさかれ、炎」
口にくわえていた煙草を利き手に持ち、スッと右手を広げた。とたんに目の前に炎が現れた。
それは真っ白に輝く白熱の球だった。大きさはソフィアの腕一抱えほどもある。
「焼き尽くせ、灼熱球」
静かな声と共に放たれたそれは、混乱を極める王国軍の中に飛び込んだ。
一瞬の後、世界が白熱した。
「くっ……」
目がくらんだ直後、激しい爆発音が響き渡る。ここまでその爆風が届き、パトリシアは激しい爆風の中で目をこらした。
何が起きているのか、どうなっているのか、それを知らねばならない。それを本隊に伝えるのがパトリシアの役割だ。
光が収まり、ようやく景色が見えた時、目の前の光景が一変していた。先ほどまで地面に溢れていた敵軍が、真っ黒な消し炭と共に消え去っていた。
「すごい……」
直撃を受けていないところでも、人々が逃げ惑っている。
「……燃えてしまったの?」
呟くと、ソフィアは肩をすくめた。
「ああ。骨も残らない。ティルスの死体処理で見ただろ? あれの大きい奴さ」
「……すごい威力ね」
これがソフィアの力。あれだけいた人々が一瞬にして消し飛ぶなんて、ものすごい実力だ。敵にいたならば、恐ろしい力だろう。
恐怖におののきつつも、他に道はないのか王国軍は絶え間なく街道から逃げるように草原に散らばっていく。後方からは煙、前方からは炎。それでも視界が遮られない草原を、本能的に選んだのだろう。
ああ、なんて命が軽いのだろう。こんなに簡単に人は命を落とすのだな。パトリシアは言葉も無く、次々とはき出されてくる人々を見つめる。
「怖くなったかい?」
ふと尋ねられてパトリシアは唇を噛む。
「少し。でも私たちは、勝たねばならないのよね。勝たねばこの国の変革を望めない」
少し堅くなったかもしれないが、小さく告げると、ソフィアは前方を見つめた。
「その通りだ」
ソフィアは、迷うことなく右往左往している茶色の塊にしか見えない一団に、もう一撃を放った。先ほどと全く同じ白熱と爆発音、爆風が起こり、沢山の人々が消え去る。
だが沢山の人々が消えたと言っても、五万の軍勢の一部でしかない。それは蟻地獄と炎を超えて人々が草原にあふれ出していることからも明らかだ。
「精霊部隊、撤退だ。本隊に戻る」
あっさりとソフィアはそういうと、部下たちが馬に乗るのを見守った。彼らが駆け去った後、足下を眺めながら、馬上から先ほどよりも小さな灼熱球を放つ。
「強力な技ほど、打てる回数も少ない。この技は私で三度が限界だ。ま、これを超える技は、火竜しかないらしいけど、残念ながら私は竜使いじゃない」
「それでもすごい。怖いぐらいに……」
本音が零れてしまった。小さく笑ったソフィアが、戦場を見下ろしている。
「今日はもう小さな白球しか打てないと思ってくれていい。後はパティのバックアップに回る」
淡々というと、ソフィアは小さく肩を回した。
「パティ。もしこれ以上の力を私が持っていたならば、私は大量殺戮者さ。女神は微妙な所で力を調整してるんだろうよ」
そこには精霊使いの苦悩が垣間見えた。
「まあ一般人から見れば、大量殺戮者に変わりないか」
短くなった煙草を靴底でもみ消して、ソフィアは戦場に背を向けた。
「リッツの遊撃隊、ギルバートの遊撃隊、そして私の精霊部隊で一万人ちょっと。それでもまだ敵が倍いる状態であることに変わりない」
ソフィアはくわえていた煙草を、旨そうに吸い、短くなったところでその場に放り捨てた。
「この戦いにおいてこれで有利となったのか、私たちの殺した人が多いのか少ないのか。それはきっと私たちの判断じゃない」
そう。それを判断するのは軍の総司令官であるジェラルドであり、この革命軍を率いるエドワードであるはずだ。
人の命を左右する立場の重さに、再びパトリシアは唇を噛む。そんなパトリシアを察したのか、ソフィアが、いつもの男性を感じさせるような笑みを浮かべた。
「あとは本隊にお任せだ。所定の位置に戻るさ」
「そうね。本当の戦いはまだ始まっていないもの」
パトリシアは少し先に陣を張る、エドワードたちを見つめた。




