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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
邂逅の光明
77/179

<2>

 後方支援部隊の再結成と、政務部の立て直しのための人員集めのために幹部たちは持ち場へと戻り、気がつけば天幕に残っているのはリッツとエドワード、パトリシアだけとなった。

 三人はどちらかと言えば組織の再編成をする立場では無く、状況によって様々な部隊を動く立場だから、こうして残されることが多いのだ。

 リッツは大きく息をつきながら、首をぐるぐると回した。やれやれ。ぼんやりしていたら突かれるし、暇をもてあましてたら睨まれるしと、本当に会議は苦手だ。

「シャスは怒らないかしらね」

 そんな言葉が耳に入った。書類をトントンとテーブルで整えながらのパトリシアの呟きだった。

「あの子、従軍する気満々だったわよ?」

「それは俺も分かっているさ」

 小さくため息をつき、エドワードが眉間を揉んだ。本気で困っている時の癖だ。彼だけでは無い、パトリシアもそんな顔をしているし、かくいうリッツだって似たような顔をしているだろう。

「だがなぁパティ、シャスタは本当に戦場向きじゃ無いんだ。な、リッツ」

 いいわけがましく、小さなため息交じりに見つめられて、リッツも同じような息を漏らして頷いた。シャスタの適正は、エドワードに頼まれて調べた。彼は王太子としてでは無く、兄として本気で心配をしていたのだ。その結果だけを言えば、シャスタは戦場向きじゃ無い。

「どうだったのよ」

「シャスタに新兵訓練で剣技の稽古を付けたりするんだけど、どう努力しても普通という以上にこう……優れた点が見いだせないというか……」

 共に訓練を始めた同期入団の騎士団員たちの方が、シャスタよりも格段に上達が早い。元々シャスタは剣を持つなど考えたことも無かったのだろう。それに幼い頃からローレンが働いていたし、父親のアルバートがグレインにいたしで、男の子らしく剣技のまねごとをして過ごすこともあまりなかったのだそうだ。

 彼が得意とするのは、セロシア家の家計管理と家事全般だ。何しろセロシア家には、居候が二人もいたし、その居候の分まで決められた額で家計を運用するのは大変だっただろう。でも彼はそれを難なくこなしていた。

 間違いなく政務の才能はある。

「つまり、村の自警団以上にはなれそうに無い腕前なんだ」

 語尾が小さくなってしまったが、最後まで告げると、エドワードとパトリシアは似たような表情で頭を抱えた。

「あなたと比較してじゃ無いわね、リッツ」

 最後の望みとばかりに、縋るような目でパトリシアに見つめられたが、正直に答えるしか無い。

「俺と比較してどうすんだよ。俺、ダグラス隊レベルだよ? 他の新兵と比較して、だ」

「……まあ、そうよね。村の子たちが騎士団ごっこをしていた頃には、買い物篭をぶら下げて肉屋と金銭交渉してたんですもの、基本も何もあったものじゃ無いわ」

「俺がもう少しこまめに家に顔を出して、家事を肩代わりしてやったり、剣技を教えていればもう少しましだったかな」

 エドワードまでがぼやく。家でシャスタの代わりを務めるエドワードを想像すると、少し気味が悪い。

「それ、俺やだなぁ。買い物して家に帰ったら、お前がエプロン掛けて『お帰りリッツ。お肉安かった?』って出てきたら回れ右して逃げたくなる」

「……家にいるだけで俺はお前の嫁扱いか?」

「だって何かエドが家にいるって妙じゃん。それにどちらかと言えば会ったばかりのエドって、嫁というよりも父親だよな?」

「じゃあお前は俺の息子か、リッツ。俺が生まれる八十六年前の息子って、矛盾があるだろうが」

 思い切り話がくだらない方向に流れていく。

「エディ、リッツ。現実逃避しないで」

 きっぱりとパトリシアに言われて、顔を見合わせて押し黙った。エドワードとリッツは、あの転属命令書がシャスタの手に渡ると、何が起こるのかを分かりすぎるほど分かっている。パトリシアも勿論分かっている。

 きっとシャスタは転属命令を見た瞬間に、この天幕へと怒鳴り込んでくるに違いない。グラントに絡むことはまず無いだろうから、直接被害を被るのはここにいる三人だ。つまりここに三人残ったと言うことは、三人で怒り狂って乗り込んでくるシャスタを収めねばならないと言うことなのだ。

「グラントが、命令書を渡すのを明日にしたりして」

 希望的な観測を口にすると、エドワードにため息をつかれた。

「それはないだろう。グラントの仕事の速さは天下一だと聞くし」

「シャスが忙しくて、こちらにこれないって言うのはどうかしら?」

 それでもなお、パトリシアが希望的観測を語る。だがこちらもエドワードに一刀両断された。

「グラントの世話係だぞ?」

「あ~」

 呻き声を上げたリッツとパトリシアだったが、首を振ってエドワードが眉間を揉み、言葉を発する前に、それは訪れた。外へと続く天幕に、黒い影が差したのだ。それと同時に、聞き覚えのある怒鳴り声が響く。

「これはどういうことですか、エドワード様!」

 座ったままのリッツは、そろりとエドワードの表情を盗み見た。笑顔が引きつったまま固まっている。視線をパトリシアに向けても同じような表情だ。

 恐る恐る声の方向を見ると、シャスタが先ほどエドワードがしたためたばかりの書類を手に、仁王立ちしていた。小柄な彼が妙に大きく見えるのは、気のせいだろうか。

「どうかしたか、シャスタ」

 リッツよりも一足早く立ち直ったエドワードが笑顔を作って義弟に呼びかけると、シャスタは土埃を蹴立てる勢いでテーブルに歩み寄った。

「どうかしたかじゃありません! しらばっくれないでください!」

 怒鳴りながらシャスタは手にしていた命令書をテーブルに叩き付けた。

「また僕を安全圏に置くつもりですか? オフェリル進攻作戦の時みたいに」

「そういうわけじゃないさ。ちょっと落ち着け、シャスタ」

 年上としての柔らかな口調で語りかけるエドワードに対して、シャスタは一歩も引かない。

「あの時の僕は確かに考えなしで、母の復讐のために戦いたいと申し出ました。でも今回は違います。それぐらいエドワード様も分かっているじゃ無いですか!」

「だがなシャスタ。アルバートの気持ちも考えろよ。アルバートは本当はお前を手元に置いて、グレイン領主の秘書官を継いで欲しいと思うんだ。そのためには、グラントの元で修行するのが一番だろう?」

 見つめているとエドワードの表情は、王太子でもリッツの友でも無く、心配性な兄の顔になっている。やはりシャスタは彼にとって可愛い弟なのだ。

「それにローレンだって、お前が普通に幸せになることを望んでいたんだ。この戦いが終わってお前が無事だったら、サリーと結婚するんだろう? 幸せが目の前にあるのに、何で進んで危険な前線に出たいと望むんだ?」

 グラントに望まれたからシャスタを手放したはずなのに、何故だがエドワードは、彼が望んでシャスタを前線から遠ざけるような口ぶりで、優しく話し続けている。きっとグラントに望まれて仕方なくなどと態度を示してしまい、シャスタとグラントを対立させたくないのだろう。

 頭がいいし気が回るから、エドワードは本当に気苦労が絶えない。

「俺もアルバートやローレンと同じだ。生まれた時から知っているお前に、幸せになって欲しいし、危険な目に遭って欲しくない。それに政務を学ぶことは、お前に向いていると思うんだ。少なくとも剣を振り回すよりもきっと、お前の力を発揮できる」

 エドワードの水色の瞳が、目の前で口を引き結び、俯いたままのシャスタを見つめている。シャスタはどう答えるだろうか。エドワードの思いは、ちゃんと伝わるのだろうか。

 不安な心持ちのまま二人を交互に見ていると、痛いぐらいの沈黙の後でシャスタが低く呟いた。

「……そうして僕は、戦場の遙か後方で、焦燥感を募らせながらみんなを待ち続けるんですか?」

「シャスタ」

「何も出来ないって手をこまねいて、いらいらしながら情報が回ってくるのを、書類を整理しながら待つんですか!?」

「落ち着いて聞け、シャスタ」

 なだめるエドワードの声も、今のシャスタの耳には入っていないようだ。    

「僕は、エドワード様と従軍するって決めたんです!リッツさんも、パティ様も従軍して、命を賭けてこの国のために戦おうというのに、何故その傍に僕を置いてはくれないんですか!」

 その声に怒り以上に悲しみと悔しさが滲んでいて、リッツは困惑した。怒鳴りかかってきて、それを慰めながら納得して貰おうと思っていたのに、あふれ出す悲しみの感情に、リッツはなすすべが無い。

 同じようにシャスタの苦悩を察知し、エドワードが隣で息を呑むのが分かった。

「僕が無能だから? エドワード様の義理の弟という立場が無ければ、ただの田舎者の役立たずだからですか?」

「……」

「剣技……才能ないんですね、リッツさん」

「あ、ああ、まあ……」

 言葉を濁したものの、そんなことシャスタには何の意味のなかった。自分の才能のなさには、薄々感付いていたのだろう。

「シャスタ……」

 エドワードが半ば呻くように、シャスタの名を呼んだ。その苦悩の色を感じ取ったのか、シャスタは俯いて、命令書をテーブルに押しつけたまま握りつぶした。握られた拳が微かに震えているのが分かって、リッツはかける言葉が見つからない。

 慰めるのも違う気がするし、命令だから従えと突っぱねるのも違う。シャスタはエドワードの義弟だ。

 その時、ふとシャスタの肩に白い手が乗せられた。パトリシアだった。彼女はどうしたらいいのか分からず、ただ動揺するリッツと違い、慰めるように優しくシャスタの肩を撫でている。

「パティ様……」

 微かに顔を上げたシャスタに、パトリシアは無言のまま優しく微笑んだ。言葉は無いけれど悲しみに揺れるシャスタに無言で頷く。それだけでパトリシアが言葉を促しているのが分かった。パトリシアは人の悲しみに寄り添い、悲しみを和らげることが出来るようだ。

 堅く唇を引き結んで拳を振るわせていたシャスタが、小さく息をつき、呟いた。だがそれは諦めのため息では無く、自らを蔑むような吐息だった。

「僕は……あなたの臣下だ。エドワード殿下の命ならば臣下であり騎士団に入団した僕は命令に従うのが当然です」

 そういうとシャスタは顔を上げた。その目は真っ直ぐにエドワードを見つめている。その視線を逸らすこと無くエドワードは真っ直ぐに受け止めた。でもリッツは彼の中に、何らかの緊張感が走るのを感じた。

 何だか嫌な予感がする。

「でも僕はあなたの弟のつもりです、エドワード様。あなたが王太子宣言をした時点で僕と兄弟の縁を切ったならば、僕は臣下として命令を受けます。でもさっきは、僕を弟だから戦いから遠ざけたいと言った。違いますか?」

 目の前のシャスタは追い詰められたような顔をしている。彼の言葉は一種の賭だろう。兄ではあるが、王太子であるエドワードに、命令にシャスタを従わせることは、兄弟の縁を切ることだというのだから。

 エドワードも分かっているのか、眉が微かにしかめられ、結ばれた唇を微かに、噛みしめているのが分かった。

 公を取るか、私を取るか。

 万が一にもエドワードが公の立場を取れば、もうエドワードとシャスタの関係がただの王太子と臣下になってしまう。やはり嫌な予感は的中だ。このままでは兄弟げんかじゃ済まなくなる。

 見つめ合ったまま動かない兄弟を前に、リッツはおずおずとシャスタに声を掛ける。

「おい、シャスタ、これ以上は辞めといた方が……」

「リッツさんは黙っていてください。覚悟の上です」

「シャスタ……」

 こう言われてしまうと、リッツにはどうしていいか分からない。リッツが気付くぐらいだ、口に出す前からシャスタは分かっているのだろう。パトリシアが助けを求めるように視線を送ってきたが、出来たことと言えば、小さく首を振ることぐらいだ。

 沈黙を破るように、シャスタがまたエドワードにくってかかった。

「母が望んだ未来のためにも、あなたを守るためにも、僕だって近くにいたいんです。この気持ちはリッツさんとパティ様と一緒です。なのにどうして僕だけ遠ざけようとするんですか!」

 怒りに燃えるシャスタの瞳が、エドワードに据えられて止まった。シャスタの言葉の語尾が消えて、息が詰まるぐらいの沈黙が天幕に満ちる。その沈黙を静かに破ったのは、エドワードだった。

「パティ」

「何、エディ?」

「シャスタと剣を交えてくれないか?」

 思いも寄らぬ言葉に、リッツは愕然とエドワードを見つめ、ゆっくりと名指しされたパトリシアを見た。パトリシアは目を剥いて、動きを完全に止めている。しばらくしてもエドワードが言葉を発しないから、パトリシアは確認するようにエドワードに問いかける。

「本気なの?」

「ああ。そこまで言うのなら、どう役に立つのか見せて貰おう」

 鋭さに満ちた水色の瞳が、微かに細められた。

 エドワードは本気だ。本気でシャスタをパトリシアの前に敗北させ、シャスタを公の立場に置こうとしている。

 やばいよな、とリッツは心の中で冷や汗を掻く。

 そういえばエドワードは自分の身内が、自らの立場を利用して事を進めるのは、革命の中に混乱を起こすと考えている。まさかとは思うが、シャスタを切り捨てる気なのだろうか。

「リッツ、テーブルを動かして場所を作るぞ」

 何か妙な事になってきた。さっさと立ち上がったエドワードに身を寄せ、その耳に囁く。

「本気か?」

 エドワードは振り向きもせず小さく頷く。

「シャスタは、パティに勝てない」

「だけど……」

「これで納得するだろう」

 呟きの中にあるエドワードの妙に冷たい言葉に、リッツはため息をついた。

 もしここでパトリシアが完全にたたきのめして、シャスタをグラントに弟子入りさせたなら、もう二度とシャスタとエドワードが兄弟として笑い合えなくなる。

 シャスタにだってプライドはある。剣技が徹底的に向いていないなんて、認めたくはないだろう。でももしここでパトリシアに負けたりしたら、そのプライドが砕けてしまう。それはまだ十代の彼にはかなり酷だ。

 シャスタに剣技を教えたのは、リッツだ。剣技が下手だと言うことを分かっているシャスタは、暇な時間リッツに習いに来ていたのだ。教えた身として、そしてエドワードと同じように、シャスタを弟のように思っているリッツにも出来ることはある。

 例えそれが、自分自身を傷つけたとしてもだ。

 不意に閃いたアイディアを、実行することにした。何だかこれ以外あり得ないような気がしたのだ。

「はい!」

 リッツは手を上げていた。重苦しかった雰囲気にその行動は思い切り不釣り合いだが、今が一番のチャンスだ。

「……何だ、リッツ?」

 鋭いままの瞳でエドワードに振り返られた。その瞳がいくら鋭くても、どれだけ不機嫌であったとしても、自分の方が正しいと感じれば絶対に引かない。それが配下ではなく、友のリッツなのだから。

「このままじゃ、エドとシャスタの兄弟の縁が切れる。俺はそれが嫌だ」

 きっぱりと言い切ると、分かっているだろうエドワードがリッツから顔を背け、シャスタは俯いて唇を噛んだ。

「それでもリッツ、革命軍の今後を考え、グラントに最大限の能力を発揮して貰うためには、重要なんだ。それぐらいお前にも分かるだろう?」

「うん。無政府状態になったら、自治領区が荒れて領民が苦しむんだろ? だから国が動いていた時と同様の仕組みを維持しないと、駄目ってことだよな? そのために人の手がいるんだろ? んでもってシャスタはその才能を見込まれた」

「そこまで分かっていて、お前は何を言い出した?」

 冷たいエドワードの言葉と視線にめげること無く、堂々と友に向かって胸を張る。

「俺、グラントの弟子になるわ」

 きっぱりと言い切ると、エドワードが唖然と口を開けた。何かを言いかけて、意味も無く口を開け閉めしてから目を丸くする。シャスタも同じような顔で愕然とこちらを見ている。パトリシアも同様にあきれ果てている。

「グラントは嫌がるだろうけど、ま、しゃあないよ。俺だって半年で字が書けるようになったし、ちゃんとお金の計算も出来るようになったんだ。また半年ぐらいみっちりグラントに仕込んで貰えれば、もしかしたら俺にだって、そういう才能があるかもしれないじゃん?」

 すらすらと言葉を並べ立てると、ようやく立ち直ったエドワードに正面から両肩を掴まれた。

「お前、何を言ってるんだ? お前が政務官になれるわけ無いだろう?」

「馬鹿にしやがって、エド。分かんないじゃんか。最初は俺に誰が剣技の才能があるって思ったよ? おっさんに剣を持たされた時、おっさんだって俺の才能を見抜いたわけじゃ無い。だから可能性はゼロじゃ無いじゃん」

「だがリッツ……」

 エドワードの目が本気で焦り出す。でも言い出した以上リッツもここで辞められない。リッツに取ってもこれは賭だ。シャスタがリッツの望む行動に出てくれない限り、本当にグラントに弟子入りするしか無くなる。それでも、エドワードとシャスタの絆が切れるのは嫌だ。

 セロシア家にいた時の、あの家族の温かさを失うなんて、絶対に嫌だ。近くにいるのに失った絆を見るなんて、そんな辛いことは無い。

「安心しろよ、エド。俺は別にグラントの所に行ってもお前との友情が切れることは無い。お前がどう判断しようと、俺はずっとお前の友だ」

 多少嫌みを込めた一言に、エドワードが息を呑むのが分かった。シャスタ相手だというのに、自分が兄弟の絆を切ろうとしていたことに、そのあまりに冷たい態度にようやく気がついたのだろう。

 エドワードは自分の立場故、周りにも自分にも厳しすぎる。厳しいが故に、たまに本当に基本的な事を見失う。

「待て、ちょっと落ち着こう、リッツ」

「落ち着いてるよ俺は。俺、結構、セロシア家の三兄弟っていわれんの気に入ってるんだ。でもこのままじゃセロシア家の元の兄弟が駄目になりそうじゃん。俺はそんなの嫌だね。俺が嫌だから俺が解決策を考えて、そうするって言ってるんだよ。文句あるか?」

 権力を笠に着て士気を下げる人が出ることを心配する前に、シャスタに兄弟として、立場を超えたところでぶつかればいいのに。

 公私で選ぶのでは無く、ちゃんと『グラントに望まれたし、お前に剣の才能が無いと聞いてるし、戦場に出てもお前が心配で指揮を執れなくなる。俺のためにも軍のためにも、グラントの元に行け』と正直に告げていたならば、シャスタは反発しつつも納得しただろうに。

「近くでは守れなくなるけど、お前を守るってのは絶対だからいいじゃん? 直接的には傍に入れなくなるけど……後ろを固めて安心して戦えればお前を守ることになるよな?」

 真っ直ぐ、迷い無く見つめると、エドワードが微かに頬を緩めた。自分の過ちに気付き、その上でリッツに合わせようとしてくれているのだと分かった。不思議だ。エドワードのほんのかすかな表情で、そんなことまで分かるようになってきた。

 案の定真剣な表情のまま、エドワードは普段なら口にしないことを言い出した。

「俺を見捨てると?」

「見捨てる?」

「王太子として戦場ただ中に立つ、俺の傍を離れるつもりか?」

「馬鹿いえ。俺はちゃんとお前が大好きだ。だからなシャスタ、お前死にものぐるいで俺の役を務めろよな。お前にと望まれた場所に俺が行くんだから」

 いいながら騎士団の制服から剣を下げている太いベルトを抜き取り、剣ごとテーブルの上に置いた。最初の頃に使っていたのよりも、戦いを経て更に研ぎ澄まされた剣に変えているから、かなりの重さがある。何だか妙に腰回りが軽くて落ち着かない。

 シャスタが微かに身動きするが、止める気は無いようだ。止めないのなら、本気でグラントに弟子入りするまでだ。書類仕事が苦手なリッツであっても、もしかしたらグラントの手ほどきを受けたら、出来るようになるかもしれない。

「シャスタ、命令書をよこせ。エド、これを俺に書き換えろよ」

 身動き一つしないシャスタの手元から命令書を取り上げてエドワードに手渡す。

「……書き直して置くから、先にグラントの所へ顔を出してこい」

「了解」

 さて、これで本当に政務官になる修行をするしかないようだ。小さく息をつき、天幕を出ようとすると、シャスタが呟いた。

「……何の猿芝居ですか、これ」

 足を止めて振り返ると、燃えるような目でシャスタがこちらを睨んでいた。

「精霊族の戦士が……ダグラス隊に鍛えられた遊撃隊長の副官が、あっさりと自分の立場を捨てられるわけ無いでしょうに!」

「さあ、どうかな?」

「僕が止めるの前提の芝居なんでしょう!? あまりに見え見えです。僕が止めなくたって、リッツさんがその立場から離れられるわけが無い!」

「そんなのやってみなけりゃ、分かんねぇだろう」

「分かりますよ! あなたに政務官が務まるわけが無い! 人には適材適所があるんだから!」

 自分で口にしたくせに、その言葉に打たれるようにシャスタが立ちすくむ。

 適材適所。シャスタもちゃんとそれを分かっている。自分が戦場に向く人間か、そうで無いかなど、彼の中ではもう、はっきりと分かっているのだ。

 それでもシャスタは、兄であるエドワードと共に行きたかった。そうなのだ。これは元々シャスタの我が儘では無い。シャスタが弟としての特権を振り回したのでも無い。兄が好きだから、だから傍で役に立ちたかったのだ。

 それだけのことを、エドワードが公私を持ち出したから大事になりかけている。兄弟故に、近しい故に厳しく出なくてはならないエドワードだから、こうするしかないのだと思い込んでいるのだ。

 でもリッツには、それが唯一の選択肢だとは思えない。リッツのような馬鹿でも、エドワードの傍にいることが許されるのに、兄弟として育ったシャスタが許されないなんて、そんなのおかしいだろう。

 だからシャスタに……いや、シャスタとエドワードの兄弟にだめ押しをする。ここで引くわけにはいかない。他人であるリッツを受け入れてくれた二人には、ちゃんと理解し合っていて欲しい。

「うるせえよ! 適材適所で兄貴に指示された立場を、兄弟特権で拒否っといて俺に文句を言うな!」

「……兄弟特権?」

「違うのかよ? そんでエドは馬鹿だから、お前の心のもやもやみたいなのを、我が儘だって決めつけて、兄弟の縁を切ろうとしてるしさ」

「そんなことは……」

「ないとは言えないだろう、エド」

 言葉に詰まるエドワードから目をそらす。兄弟だから、自分と同じだけの厳しさを要求してしまうのかもしれない。リッツに甘いのは、リッツが他人だからだ。

「だから兄弟なんて名ばかりの俺を使って、兄弟平和に解決しろよ。それで役に立つなら、まがい物の兄弟でも満足だよ、俺。所詮俺は他人だもんな」

 言い切ると、エドワードが顔色を変えた。青ざめた顔でリッツを苦しげに見たのだ。すでにリッツの態度が、演技でも何でもないことに気がついたのだろう。でも口から飛び出した感情を抑えられない。

「いつも俺に馬鹿馬鹿いうくせに、兄弟で馬鹿やってんの、見たいもんか! 他人の俺に兄弟げんかの仲裁をさせるな!」

 目の前でセロシア兄弟が目を瞠り、こちらを見ている。そうだ。三兄弟と言われるけれど、本当は違うのだ。この二人が兄弟で、リッツはこの兄弟の中に間借りしているだけの立場なのだ。

「他人の俺が真ん中に立たなきゃ、兄弟の大切さが分かんないのかよ。肉親に厳しいのはいいけど、切り捨てんのは違うだろう!」

 何だか目頭が熱くなってそれを堪えたら、鼻水が垂れてきた。久々に自分が他人でしか無いと実感したら、何だか妙に空虚だ。こんな感情になるなんて思ってもみなかった。

 ただシャスタに、自分の言っていることの間違いに気がつかせようと思っただけなのに、それなのに。

……何故こんなに苦しいんだ?

 もう泣かないと決めたのに、ここでぐずぐずしてるのは嫌だから、リッツは思い切りきびすを返した。

「エドの馬鹿野郎! シャスタの分からず屋! 俺が賢くなってもびびるなよな!」

「リッツ!」

「奇襲作戦はマルヴィルに任せる。マルヴィルは作戦全部を把握してくれてるから、俺がいなくても何の問題もないさ。あとよろしく!」

 捨て台詞を吐いて天幕を飛び出す。後ろからエドワードとシャスタ、パトリシアの制止の声が聞こえてきたが振り向かずに大股で進む。

「馬鹿エド、馬鹿シャスタ」

 恨み言なのか、悲しいのか分からないままに、ぶつぶつと二人の名を繰り返す。冷静に二人の間に立つはずだったのに、何でこんなに感情的になっているのか、自分でもよく分からない。これだからまだ未熟だと、ギルバートたちに笑われるのだろう。

 ずかずかと立ち並ぶ沢山の天幕の前を突き進み、森の中に入ったところでようやく肩の力を抜いた。

 森の中が一番落ち着く。いつも一人でいる時は、緑の香りと風の奏でる木々のざわめきを感じていれば、心が静まるのだ。

 誰も見ていないのを前提に、目の前の木の幹の抱きついた。森は変わらない。木々はいつも人を拒否しない。長く続く時間の中で、ただそこに立ち続けている。だから安心感があるのかもしれない。元々森は、リッツの故郷だった。

「俺の選択は間違ってたのかなぁ……」

 抱きついたまま、木に語りかける。

「なあ、木の精霊。もっと世間を知ってれば、上手く間に立てたのかなぁ……」

 風がふわりと髪を揺らし、暖かな何かが頬を撫でる。そういえば母が、見えないし操れないのに、リッツの周りには精霊がよくまとわりついているといっていたけれど、本当なのかもしれない。

 誰にも会いたくなくて木に登ろうと手をかけた時、後ろから声が掛けられた。

「私の天幕に来るのでは無かったか、リッツ」

 意外な声に振り返ると、グラントが立っていた。痩せた腕を組み、こちらへ落ちくぼんだ瞳から静かなまなざしを向けている。

「グラント……」

「血相を変えて飛び出していったシャスタが気になってな。悪いがお前たちのやりとりを聞いていた」

「そっか。じゃあ、俺で我慢してくれる、秘書?」

 小さく俯きながら尋ねると、グラントはため息をついた。

「正直に言えば、君ならば秘書はいらない」

「……だよね」

 出会った時からグラントには、散々役立たず扱いされてきたし、呆れられてきた。当然のことだろう。

「じゃあ俺、ダグラス隊のフェイに戻っちゃおうかなぁ~」

 精霊族のリッツ・アルスターでなければ、エドワードの近くにいられない。だったら離れるための口実として、そうなるのが今ならとても楽だろう。

「楽な方へ逃げるのか」

「うっ……」

 見透かされている。先ほどのやりとりを聞かれていた上に、この物言いだから当然だろうが、グラントの言葉は冷たい。

「それもいいだろう。王太子殿下は一流になり得るが、君は一流にはほど遠い。君が離れるのならば、よりよき臣下を迎えられるだろう」

「ううっ……」

 正論過ぎて言葉が出ない。確かに臣下としてのリッツは、民衆が思い描く英雄像とはほど遠い。

「じゃあ俺は、どこに行ったらいいんだよ」

 多少八つ当たり気味に睨むと、グラントは涼しい顔でリッツを見据えた。

「逃げねばいい。君には君のいるべき場所がある」

「だけど……」

「それは間違いなく私の元では無いし、ダグラス隊の中でもないはずだ」

 暗にエドワードの元にいろと、いわれているのが分かった。言葉も無く俯くと、グラントは珍しく口元を微かに綻ばせた。

「君を秘書に貰うぐらいなら、騎士団の見習いを五人ほど育てた方がましだと、殿下にお伝えしてくれ。その方がまだ楽に違いない」

「……シャスタは?」

「嫌々ながら仕事を覚える者は、その道で頂点を極めることなどできん」

 何事にも動じない、真実の言葉だった。地下牢に繋がれ、暴力を振るわれながらも、決して国民に仇なすことは認めなかったグラントの強さは、このどこまでも厳しい正論にあるのだろう。

「何でシャスタなのさ」

「彼ならば適正もあり、今後も有望だと思ったからだ。私の世話をしてくれている時に、二、三政治がらみの質問をしてみたが、バランスの取れた回答が返ってきた。これを持っているものは少ない」

「でももう、シャスタはいらない?」

 当たり前のように聞くと、グラントは残念そうに小さく首を振った。

「彼自身が拒否するならばいらん。彼は彼の望む道を行けばよい」

 自由とは責任を持つことだと、どこかで聞いたことがある。なるほど責任を持てない人柄の人間は必要ないらしい。

「私が望むのは、共に国政を担える希望と思考を持った若者だ。その上で殿下に対しての変わらぬ忠誠と親愛の情を持っていればなおよしと思ったが、私が甘かったようだな」

「シャスタがやっぱりやるって言ったら、グラント、どうするんだよ?」

「本気でないのならば不必要だ。あれだけ拒否をしたというのに、口ばかり謝られても受け入れがたい。人の信頼を積み上げるとは、そういうことだ」

 淡々と当たり前のことのように、重く告げたグラントの言葉には重みがあった。そういえばグラントは、ジェラルドよりもギルバートよりも年上だ。考えてみれば元宰相であり、誰よりも国を担うという仕事に対して、長く責任を負ってきた人なのだ。

「見習いは出来るだけ、剣技よりも計算が得意で、視野の広い人間を頼む」

「俺と反対だな」

「そうだ。君はこのままでいい。殿下と共に、殿下の心と体を守り切ることが君の役割だ。君には君にしか出来ないことがある」

 愚かだとか、軽率だとしか言われたことが無かったグラントの温かな言葉に、リッツは言葉も無く佇んでいた。どうしてかは分からないが、グラントには存在を認めて貰えたようだ。

「俺は……このままでいいの?」

「立ち位置はな。お前はどうやら、唯一の立場のようだ」

 意味が分からずに眉をしかめると、グラントは一瞬だけ笑い、すぐにいつもの渋い顔に戻った。

「願わくばもう少し頭を鍛えて欲しいものだ。殿下の片腕ならば、少しは政治も心得ろ」

「……努力するよ」

「殿下への伝言、頼んだぞ」

「うん」

 小さく頷いてから顔を上げると、すでにグラントはリッツに背を向けて、自分の天幕に戻るところだった。どうやら伝言を伝えるという名目で、エドワードの元に戻る口実を作ってくれたようだ。

 小さいながらも、真っ直ぐに伸びたその背には自信が垣間見える。厳しく、冷静な表情しか見た事が無かったし、呆れられたことしか無かったけれど、グラントはやはりイライザの兄なのだ。同じように心の底は優しく、心遣いに溢れている。

 何となくその場に座り込み、木にもたれかかって空を仰いで目を閉じる。

 今頃、エドワードとシャスタは、ちゃんと仲直りしただろうか。ちゃんと兄弟であるからこそ、伝えなければならない言葉を伝えられただろうか。

 それでシャスタは、どうするつもりなんだろうか。もうグラントがシャスタをいらないと言ったのだから、再び騎士団に戻って、騎士見習いを続けるのだろうか。それではグラントにも認められた才能を、無駄にすることになるだろうに。

 しばらくぼんやりしていると、下草が踏みしめるる気配がした。目を開けると、パトリシアが立っていた。

「……パティ……」

「やっぱり森の中ね。エディの言ったとおり」

「……うん。落ち着くんだ」

「そう」

 それ以上何も言わずに、パトリシアがリッツを見下ろしている。座ったまま見上げて、へらっと笑ってみた。

「グラント、ここに来たんだ。シャスタの代わりになるかって聞いたら、いらないって。その代わり騎士団の新人を貰うってさ」

「ふうん」

「エドに伝えなくていいの?」

 問いかけに答えるでもなく、パトリシアは小さく息をつく。

「エディとシャスは、サウスフォード伯に謝りに行ったわよ。天幕から見られていたのに気がついてね」

 言いながら戸惑うことなく、パトリシアは下草に腰を下ろした。騎士団の制服を身に纏った、まだ短い髪の彼女からふわりと甘い香りが漂う。

 それは微かな胸の痛みを伴った。

「グラントに気付いてたの?」

「いいえ。リッツが飛び出してから彼が、天幕を覗いたのよ。ものすごく冷静な顔でね。何だか非難されているようで、エディとシャスは肝を冷やしていたわ」

「え……?」

 となるとわざと顔をさらして、彼らに何かを分からせようとしたに違いない。リッツには親切だったのに、一体どうしてだろう。

「本当にあの瞬間は、心臓が痛いぐらいに緊張したわ。何か言われると当然覚悟をしたんだけど、グラントは何も言わないで天幕を出て行ったの」

「何も?」

「ええ何も。でもため息を一つつかれたから、その方がどんな叱責よりもエディは堪えたみたい。せっかく得た大切な人材に呆れ果てられたら、王太子として問題ですものね」

 なるほどそんな態度の示し方が、何ともグラントらしい。リッツのように分からない人には言って聞かせるが、エドワードに対するには、それだけで十分なのだろう。それでエドワードがグラントの溜息の意味を分からねば、本当にグラントを失望させてしまう。

 当然エドワードは、それに気がついたのだ。

「グラントらしいや」

「ええ。その瞬間にシャスも我に返ったみたいね。突然青ざめて『僕にリッツさんの変わりは無理です』ですって」

「当たり前だ」

 ダグラス隊に鍛えられた、地獄のような時間を思い出してぼやく。あの時間があって初めて、リッツは今のリッツになっている。それにエドワードの友は自分だけだ。誰にもリッツの代わりは出来ないだろうという自負はある。

「エディはもっとうちひしがれてたわよ。『リッツに辛いことを言わせた。友失格だ』って。あなたすぐ泣くから」

「泣いてない! ちょっと、俺……家族とか認めてくれてるけど、本当は居候なんだよなって思っちゃただけだ」

「ええ。リッツに他人だと言わせたって、落ち込んでたわよ、エディ」

「……だって……他人じゃん」

 友達だけど、兄弟のようなものだけど、でも他人だ。他人だから、セロシア家の三兄弟といわれて嬉しかった。

 エドワードとシャスタは本当に兄弟だから、そう呼ばれることを嬉しいとか悲しいとか感じはしないだろう。それを当然のことだと、受け止めているからだ。

「馬鹿ね。友達だって夫婦だって最初は他人よ。私とアリシアなんてれっきとした他人じゃないのよ」

 きっぱりと言い切られて戸惑う。アリシアはパトリシアの義母だ。もう他人じゃ無い。でも義母になる前、ジェラルドの愛人だった時は他人だったのかといわれると、きっとそうじゃない。 

「それでも家族になってくの。友達だって血のつながりは無くても他人じゃないわ。他人だったら友達って言う名称、いらないでしょう」

 よく分からないけれど、小さく頷く。何も言えないリッツをたたみ掛けるように、パトリシアは持論を確信を持って展開していく。

「他人だって言い切ると、自分も空しいけど、言われたエディも傷つくわよ。シャスだって心を痛めるわ。あなたたちは三兄弟なんだから。それに私もあなたの友人のつもりよ? 私も他人だとでも?」

 真っ直ぐなアメジストの瞳に見つめられて俯く。他人だと言えば怒るだろう。だけどやはり他人だとは思っていない自分に気がつく。

 エドワードたちと同様に、大切な大切な仲間だ。そして大切な存在だ。

 そっと恐る恐る手を伸ばして、パトリシアを抱き寄せた。ふんわりと柔らかくて、暖かくて……やっぱり華奢だ。それなのに強い心が宿っている。先ほどの甘い香りが、彼女の髪の香りだと気がついた。

 好きだな、やっぱり。彼女が誰を好きでも。

 そう思うも、彼女の想い人がエドワードでは分が悪すぎる。エドワードと張り合う気は更々無い。

「他人じゃ無くなりたいよ」

 抱きしめたまま耳元で囁く。抵抗されるかと思ったが、パトリシアは何の抵抗もせず、黙ってされるがままになっている。

「だってみんなみんな大切なんだ。だから俺みたいに価値も無い男が、大切なみんなのために自分を利用できるなら、それがいいなって」

 奇襲で身を危険にさらすことも、兄弟二人のために、望まぬ仕事に就こうとすることも、それも全部大切な人たちのためだ。

 ぼそぼそと告げると、不意にぴくりとパトリシアが腕の中で反応した。

「……誰の価値が無いの?」

 冷静に問われたから正直に答える。

「俺だけど……」

「あのねぇ……」

 深々とため息をつきつつ、パトリシアに見つめられた。かなり至近距離から目が合う。その目はひたと真剣な表情でリッツを見据えていた。綺麗な目をしている。本当にパトリシアは綺麗だ。時々その射貫かれるような強さに、身動き出来なくなる。

「リッツ」

 名前を呼ばれたと思ったら、顔を引き寄せられて額に口づけられていた。暖かくて柔らかな感触に、胸の鼓動が跳ね上がる。

「えっ、えっ?」

 パトリシアはエドワードが好きなのに、何故だろう。軽く混乱していると、腕の中からパトリシアが冷静な表情で立ち上がる。

「今のはこれからすることのお詫び。後からじゃ出来そうに無いから」

「え?」

「だから今後、この件に謝りっこはなしよ」

 見上げた瞬間、思い切り左顔面に拳を叩き付けられていた。ものすごい衝撃と激しい痛みの不意打ちに、受け身も取れなかった。頬を押さえて思い切り横に転がる。

「いってぇぇぇぇ! なにすんだよ、パティ!」

 起き上がりつつ叫ぶと、今度は反対側にもう一撃入れられた。一撃目と同じように、無茶苦茶痛い。意味が分からず、抵抗も出来ずに両頬を押さえて呻くことしか出来ない。

 涙目で見上げると、滲んだ視界で、パトリシアが痛そうに両手を振りながら、怒りもあらわにリッツを見下ろしている。

「自分が無価値だとか言うんじゃ無いわよ! 価値のないものを、エディや私やシャスが頼みにするわけないでしょう! エディの前でそれ言ったら、今度は風の精霊をけしかけて、ズタズタに引き裂いてやるからね!」

「パティ?」

「本当に馬鹿なんだから! コネル様がぶっ飛ばす前に私がぶっ飛ばしちゃったわ」

「へ? コネル?」

「こっちの話。いいことリッツ。私たちの大切にしているものを、無価値呼ばわりしたら、ただじゃ置かないからね!」

 そういうと、最初の宣告通り、リッツに詫びることもなく、肩を怒らせてパトリシアは立ち去った。呆然としながら痛む頬をさすっていて、ようやくパトリシアの言葉を噛みしめる。

「そうか。俺って、ちゃんと価値があるんだ。大切なんだ」

 だからエドワードはリッツの命を預かり、リッツが死ぬことを許さなかったのだ。ちゃんと価値があるから、大切に思ってくれていたから。

「俺も、エドとシャスタに謝んなきゃじゃんか」

 一人呟きながら、リッツは立ち上がった。


 シャスタがグラントに謝罪を受け入れて貰い、弟子入りして政務官を志し、グラントの秘書となるのは、その三日後だった。 

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