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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
一対の英雄
50/179

<10>

 色々と重ね着をして、最後に派手な衣装を身にまとったリッツは、小さく息をつくと光沢を放つ美しい緑の羽根で装飾された仮面を身につけた。

 その姿は道化そのものだ。派手で大きな仮面、色とりどりの布を無造作にまとったようなスカート、そしてその中に密かに隠れた剣。

 まあいい。精霊族として認められない罪の子が英雄を演じること自体、既に道化を演じるようなものだ。

「リッツ、準備は出来てるな」

 同じように道化の姿をしたギルバートに呼びかけられて、リッツは振り返った。そこには似たり寄ったりの格好をした、ダグラス隊の姿がある。

「出来てる」

「よし。それじゃあ、お前にダグラス隊の指揮権を貸してやる。受け取れ」

「ありがとうギル」

 リッツは頷いてから、ダグラス隊の面々を見渡した。ずらりと居並ぶ幹部、そしてこの間伸してしまった若手、それに中堅、合わせてたった二十数人の傭兵部隊だ。

 だがこの部隊は、ギルバート曰く大陸最強の傭兵部隊だった。

「ほら、何かいえ」

 ギルバートにせっつかれて、リッツは困った。

「えっと、なんっていうか……」

 傭兵隊を前にして、リッツは考え込む。何かをいわなきゃならないと思うのだが、何を言ったらいいのか分からない。だが何も言わないのも絞まらない。

 小さく息をついてリッツは頭を掻きながら、全員を見渡した。

「あのさ、俺、まだひよっこじゃん? 実戦経験なんてないに等しいし、ギルみたいにものすごく強いわけじゃないし、ファンたちにいわせれば、どっちかっていうとへたれだし。だからさ、力を貸して欲しいんだ。助けてくれるとすげえ嬉しい」

 いいながら、どうしようもない自分に思わず笑ってしまう。今までエドワードの一歩後ろにいて、威厳あるエドワードを見ていればよかっただけだったから、こんなのは柄じゃない。

「ユリスラのために戦ってくれとはいわない。だけど俺、英雄になんなきゃならないらしいんだ。みんな歴戦の傭兵なんだよな? 俺も一生懸命、英雄って奴になる努力をするんで、俺をフォローして欲しいんだ。だから短い時間だけどさ、俺に……」

 リッツの頭の中に、エドワードが浮かんだ。それだけで何だか落ち着いて、気持ちが楽になる。

「俺に、命を貸してくれ」

 頭を下げると、ギルバートに背中を叩かれた。

「部下に頭を下げるなよ、隊長殿」

「た、隊長はギルだろ! 俺はどっちかっていうと……依頼人?」

「アホか。指揮権を渡したんだから隊長格だろうが」

「えっ? ええっ!?」

「シアーズ出たら指揮権を返せよ」

「あれ、じゃあ俺の指揮権って数時間の命?」

 リッツとギルバートのやりとりに、傭兵たちがどっと湧いた。打ち合わせで伸してしまった傭兵だけでなく、まだ顔を見たこともない傭兵たちも、何故かリッツを信頼してくれているらしい。

 これもすべてギルバートの人格なのだろう。みんなギルバートを信用しているから、リッツを暖かく迎えてくれるのだ。

「じゃあ、号令をかけて貰おうか」

 ギルバートに言われて、リッツは表情を引き締めた。動き出したらもう止まれない。このままシアーズを脱出するしか手がない。

 再びリッツは傭兵たちを見渡した。

「盛り上がるのは最後の脱出のところだと思うから、それまでは道化で楽しんで欲しいんだ。しばらくシアーズに来られないし」

「そりゃあそうだ。さらば、きらびやかな女たち」

 ギルバートが笑う。リッツも笑ってしまった。確かにこの六ヶ月はものすごいただれた生活をしていたと思う。

「隊長さん、俺たちの報酬はどうなんだい?」

 今日も道化ではなくシルクハットの伊達男を演じているファンに尋ねられて、リッツは笑う。

「グレインのワインは美味いんだ。飲み放題ってのはどうかな? 俺の計算だと、今年は当たり年だと思うよ」

「そりゃあいい。ではワインのために頑張るとしようか」

 再び全員が沸き立つ。これなら樽でワインを用意しなくてはならないだろう。

「各自、持ち場に付いてくれ。決して中の夫人たちを傷つけないよう、護衛して欲しい」

 リッツの指示に、傭兵たちが思い思いの返事をして散っていく。その様子を見てリッツは、肩の力を抜いた。歴戦の傭兵たちを指揮するなんて無謀だ。

 だがやるしかないのならやる。

 目の前にあるのは、たっぷりの布でまるで劇場の舞台のように装飾された乗合馬車並みに大きな馬車だった。

 馬車の屋根には大きな花が大量に飾られ、その上に人が立つことが出来るようになっている。

 色を変えた布を使って装飾された馬車は四台だ。これに六十人ほどが乗り込める計算になる。子供も含めれば更に乗り込む人数は増えるだろう。

 傭兵隊は二十人。その中の女がソフィアを含めて五人いる。この女たちは皆、露出の高い服を着て、馬車の上で踊りながら花を捲く。

 貴族の夫人たちは、馬車の窓から身を乗り出して、沿道の人々に、祝いの菓子を捲くのである。

 他の傭兵たちは、道化の格好で馬車の周りを練り歩き、鳴り物をならして踊り歌うのだ。

 新祭月で貴族の夫人が、このような祝いの馬車を出すことは珍しくない。夫が好きに遊ぶ間、妻たちはその鬱憤を晴らすかのように、金に糸目を付けず、煌びやかなドレスや仮装をして、街に繰り出すのだ。

 今日もきっと他の馬車も出ているだろうから、悪目立ちすることもあるまい。

 派手な装飾の馬車が、ゆっくりと建物を後にする。仕事で立ってはいるが、やる気の見られない門番が、軽い敬礼で笑みを浮かべて一行を見送ってくれた。

 貴族の道楽に、庶民は決して口を挟まない。

 馬車の隣を歩いていたリッツは、笑顔で門番に声をかけられてしまった。

「行ってらっしゃいませ」

「行ってきます」

 仮面の下で苦笑しながら、明るく答える。

 これから脱走するのに見送られるというのも妙な気分だが、子供たちや貴族の夫人は楽しげに門番に手を振り、傭兵たちも門番をからかうように声をかける。

 疑われているそぶりはまるでない。このまま平穏無事に王都を出られれば一番いいのだが。

 でもそれだけでは、リッツがここにいた意味がない。シアーズの大門を通り抜ける際には必ず城壁を守っている守備隊を小競り合いになるから、その時にリッツはやらねばならないことがある。

 大門から脱出後、傭兵の半数は最後尾の馬車に乗り、半数は馬に乗る。馬は大門の近くにある厩舎場にあらかじめ繋いでいた。リッツがグレインで乗っていた馬もそこにいる。

 馬車はざわめきあい、笑い合う声だけを乗せ、貴族の住む高級住宅街をのんびりとぬけていく。

 空は恐ろしい程に澄んだ青さで、降り注ぐ太陽の光は、冷たく冷えた石造りの町並みを柔らかく暖めている。

 まさにカーニバル日和だ。

 新祭月であっても、貴族の邸宅が集中するこの地区では、鳴り物や派手な騒ぎは禁じられている。貴族は自らの生活を他人に侵されることを好まない。騒音であっても同じ事なのだ。

 高級住宅街には、大きな建物と立派な庭のある邸宅がならんでいる。一つ一つがグレインのモーガン邸よりも少し小さい程度の大きさをしているのだから恐れ入る。

 生け垣の長さや壁の高さ、鉄柵の高さから、一軒の家の大きさが分かる。その大きさは、シアーズの中央大通りよりも西側にある、一般住宅とはえらい違いだ。

 だが高級住宅街も、道を下るにつれて少しずつ家の規模が小さくなっていく。上にいけば行くほど位の高い貴族が住み、下るほど爵位が低くなっていったり、爵位を持たぬ富裕層が住んでいるからだそうだ。

 そしてこの高級住宅街には、一般住宅街ともう一つの違いがある。この高級住宅街には、物乞いや浮浪者が一人として存在しないのである。

 前に散歩がてらこちらまで来た時、一緒にいたヴェラが教えてくれたのだが、貴族の住むこちらに浮浪者が迷い込むと、問答無用に斬り捨てられ、そのまま放置されてしまうのだという。

 死体の処理は浮浪者とそんなに変わらない、低賃金労働者の死体処理屋が行っているらしい。

 同じ人間なのに、斬り捨てて捨てられる者がいる反面、その痛みを感じられない人間もいる。そしてそれを憂い、歯を食いしばる人間がいれば、人を踏みにじることを当然とする者もいる。

 リッツはそっと自分の耳に手をやった。

 精霊族は皆、同じ価値観で生きている。多様性を認めてくれはしない。

 だがリッツのような例外がない限り、彼らの世界は平等で公正だ。

 多様性を持ち、色々な考えを選べる人間社会と、違いを認めてくれないが差別のない精霊族。

 一体どちらが幸せだ?

 仮面で押さえつけられ、羽根に隠されている耳は、人間とはやはり違う形をしている。

 娼婦たちに珍しがられて、よくいたずらをされたが、マレーネの店の娼婦たちは、決してリッツの素性を聞いてきたりしなかった。長い間体を重ねてきたプロの娼婦たちの、そんな心配りがありがたかった。

 穏やかに進んできた一行は、貴族や富裕層の住む高級住宅街と、一般民衆の住む住宅街の間にある、中央大通りへとさしかかった。

「リッツ」

 呼ばれて振り返る。

「何、ギル?」

「これからが本番だ。英雄になる覚悟は出来てるな?」

「そんなの、エドと離れた時から出来てる」

「よし」

 ギルバートが満足そうに笑って、リッツの肩を叩いた。リッツはエドワードと共に茨の道を歩むと選択した時から、命を預けた友のためにいつでも死ぬ覚悟が出来ている。

 エドワードのために英雄になれというなら、なってみせる。

 彼が望むように命を使う覚悟なんてずっと前から決まっている。

 だから自らの役割を躊躇ったりしない。

「俺たちの前みてえに、へらへらするんじゃねえぞ」

「わーってるって。人に対する精霊族としての態度は、子供の時からずっと見てきた。親父が人間との交渉役だからさ」

「……へぇ……」

「それに精霊族としての態度なんて、身にしみて分かってるよ。いつも俺が向けられていた目をすればいいんだからさ」

 自分でも嫌な笑みを浮かべているのは分かったのだが、どうにもこの皮肉は納められなかった。

「リッツ」

「なんだよ?」

「いい夢をみろよ。お前が望むようなな」

「了解」

 頷くと、リッツは馬車に歩み寄った。中にはイライザ・サウスフォードの姿がある。美しいイライザは両手に一人ずつ子供を抱いていた。十歳ぐらいの男の子と、まだ幼い女の子だ。

「サウスフォード夫人」

「……イライザと、お呼びになってくださいませ」

「ええっと、イライザさん。俺たちが精一杯護衛しますんで、よろしくお願いします」

 頭を掻きながらいうと、イライザは楽しげに笑った。

「よろしくお願いするのはわたくしたちですわ。よろしくお願いしますね、アルスター様。あの人の元へ、私たちを届けてくださいませ」

「はい」

 リッツは力強く頷いた。ちゃんと守るとコネルに誓った。自分の命も賭けている。守り抜いて当然だ。

「密告に行くことになった者は五人でした。家族を合わせると、十一人になります」

「はい」

「申し訳ありませんが、追っ手をお願いいたします」

「了解しました」

 深々と頭を下げると、リッツは先頭の馬車に歩み寄った。四頭立ての馬車を動かす馭者は、傭兵たちである。

「いいですかい、隊長」

 手綱を握る傭兵に楽しげに言われて、リッツは時計を見た。現在午前九時。高級住宅街の中にある巨大な円形劇場で、国王主催の新祭月の祭が始まった頃だろう。

 計画実行だ。

 懐中時計をポケットに突っ込み、リッツは傭兵に頷いた。

「ああ。行こう」

「了解」

 ゆっくりと、馬車が中央大通りに向かって動き出した。四台の馬車がゆっくりと、人の溢れる大通りへと乗り入れていく。

 先触れに、仮装をした数人の傭兵たちが走り出し、花を捲きながら大声を上げた。

「ご婦人方からの祝福だ!」

「さあ、新祭月の祝福だよ!」

 人々の視線が集まり、わっと歓声が上がった。

 ゆっくりと人々の中を進む馬車の横を、リッツはのんびりと歩いて着いていく。

 馬車の先頭を歩いていたギルバートが、派手にラッパを吹き鳴らした。

 よく張れた冬の空に吸い込まれていくかのように、新祭月の活気に溢れたシアーズの街に、高らかにラッパの音が鳴り響いた。

「さあ! 新祭月の祝福が始まるぞ! 新たな年の祝福を得たい者たちは、ご婦人方の白き慈悲の手より、祝福を受けるといい!」

 シルクハットの伊達男、ファンが大仰な仕草で民衆に声をかける。

 人々の目がこちらを向いた。

 人々のざわめきが、歓声に変わる。

 カーニバルの始まりだ。

 子供たちが歓声を上げながら馬車に走り寄ってくると、馬車から仮面を付けた麗しい貴族の夫人が、白い手袋越しに菓子を振る舞う。

 石畳に小さく揺れる馬車の上からは、肌も露わな傭兵たちが妖艶に踊りながら花を捲いていく。

 無機質な石畳が、作り物の花びらに被われて、極彩色の文様を描く。

 女たちに見とれて鼻の下を伸ばす男に、子供たちがぶつかっては歓声と怒声が上がっている。

 お菓子を取り合う子供たちに、夫人たちが優しくもう一つ取りにおいでと誘う。

 その穏やかな夫人たちの顔にも、羽根飾りが付いた妖艶な仮面が施されていて、太陽の光にきらきらと光を瞬かせる。

 近くで太鼓が打ち鳴らされた。大きな体のラヴィが、似合いの太鼓を抱えて陽気に体を揺すっている。

 ファンは道を歩きながら、女性たちの手を取り、気障な仕草で手の甲にキスをする。唇が触れたところにバラの花がポンと咲き、女性たちが歓声を上げている。

 飛刀使いのファンは指が器用だ。

 小柄なジェイは、タガーの代わりにピエロの持つロットをもって、それを空中で舞わしている。歩きながらなのに、見事な手さばきだ。

 その姿を見た子供たちが、楽しげにジェイについて歩いて行く。

 エンはといえば、相変わらず酒瓶を抱えて赤ら顔をしながら、馭者台で踊り子を演じる傭兵に下品な歓声を上げていた。

 元は男爵であったギルバートの見事な演奏に、他の楽器を抱えた傭兵たちが合わせている。演奏はどんどんと盛り上がっていく。

 街のカフェにいた楽団も、楽しげに音を合わせてきた。即興での共演が始まる。

 その曲がよく知ったメロディーに変わったと思ったら、街の人々もそれを口ずさみ始めた。リッツも知っている曲だから、道化の格好で大げさに長い足を降り出して歩きながら、大声で歌う。

 長身のリッツに興味を抱いたのか、遠慮深げに近くに来た子供には、ポケットから取り出したあめ玉を投げ渡した。

 嬉しそうに受け取った子供たちに、ポケットに隠し持っていた造花の花びらを捲いてやると、歓声を上げて子供たちが逃げていく。

 見事なスタイルのソフィアに、投げキッスをされて、リッツは大げさな仕草で投げキッスを返した。片目を瞑ったソフィアが、大量の花びらをリッツの上に投げ下ろして、花びらまみれになってしまう。

 おちゃらけるリッツに、街の人々が笑う。

 夫人たちはみな馬車から身を乗り出して、お菓子を振る舞う。

 取りに来る人々は様々だ。

 普通の子供、浮浪者、孤児、中には商人の子らしい子もいる。

 でも例外なくみんなが、楽しそうな笑顔をしている。

 青空に花が舞い、人々が楽しげに菓子を頬張る。

 音楽は空気と共に充ち満ちて、人々を踊らせる。

 踊り子は益々妖艶に踊り、身をくねらせ、人々の声が熱狂を帯びる。

 みんながみんな、楽しげで、影なんて感じられない。

 ギルバートは影を隠すために盛り上がるのだといっていたけれど、ここにいて、ただ笑っている人々はきっと、今を楽しんでいるのだ。

 明日どうなるのか、この先どうなるのか、そんな不安を抱えつつも、今、この瞬間を楽しんでいるのである。

 リッツはふと足を止めてしまった。

 歓声の中で中で気がついたのだ。

 影があるから楽しむのは本当の幸福じゃない。

 人々がいつもこうして、毎日の生活の中で幸せで楽しく笑えるようになればいいのだ。

 どんな子供であっても関係なく、どんな大人であっても差別されることなく、日々を楽しめる。

 きっとそれが幸福なんだ。

 それが……エドワードが目指す世界で、ローレンが望んだ世界なのだ。その世界を作り出すために、リッツは英雄にならねばならない。

 人々の希望をエドワード・バルディアに集め、共に自分たちの幸福を自らの手でつかみ取るために。

 立ちつくしてしまったリッツは、後ろからラヴィに肩を叩かれて我に返った。

 そうだった。ここでぼんやり考え事をしている場合ではない。まだまだ作戦は始まったばかりなのだから。

 歓声と、嬌声と、そして笑顔を振りまき、大いに盛り上がったまま隊列は、やがて中央通りを真っ直ぐに北上し、その終着点へとたどり着いた。

 そこはシアーズと旅人の街道を隔てる、巨大な北門がある場所で、通称大門広場と呼ばれるところだ。

 あと少しで、シアーズと別れられる。

 そしてグレインへ戻れるのだ。

 こっそり懐中時計を見ると、時刻は午前十時。もう中央大通りに入って一時間だ。密告にいった人間も、一時間あれば軍に報告できただろうか。だとしても、ギルバートの考えでは、当分の間追っ手はかからないはずだった。

 このままシアーズを出られるか。そう思った時だった。

「そこの隊列、待て!」

 馬車の後方から声がかけられた。

 振り返ると、そこにはユリスラ軍の姿があった。先頭に立っているのはどっぷりと太った男で、その軍服にはやたらと色々な紋章が付いている。

 ギルバートが演奏をやめ、音楽が止まり、踊りが止まった。今まで盛り上がっていた人々も、言葉を失ったように、馬車から遠巻きに離れていく。

 人々が下がったことによって出来た空白に、花びらが静かに舞っている。誰もが黙りこくる中、シルクハットのファンがゆっくりと前に出てきた。

「何でしょう?」

 ファンが物腰低く男に歩み寄ると、男はうさんくさげな顔で、こちらを一瞥した。

「イライザ・サウスフォード、および現在軍の家族保護施設に収容されている将官の夫人および、家族がグレインへの脱出を計ろうとしているとの旨、先ほど密告があった」

 リッツは顔をしかめた。軍はこれほど早く動けないのではなかったろうか。

「おやおや。これは異な事を。私たちは、ちゃんと許可を得て行ってるんですがねぇ」

 ファンがゆっくりとリッツを振り返る。リッツはそっと馬車の前方を盗み見た。大門を守る警備兵たちが、この騒ぎに気がついてゆっくりと隊列を取り囲み始めている。

 リッツはファンに小さく頷いた。ファンの口元が微かに緩む。

「許可があっても、脱走を見逃すわけには……」

 男は最後まで言い切ることが出来なかった。男の喉元には、深々と飛刀が突き刺さっていたのである。

 黙ったまま口から血の泡を吐き、ゆっくりと男が倒れた。息が苦しいのか、激しくもがき苦しんでいるが、喉が裂かれているから、空気が漏れるだけだ。

 そんな男の首から、飛刀をあっさりと抜き取って、ファンがリッツを振り返る。

「指示を、隊長」

 頷くとリッツは剣を抜いた。

「大門を閉められたらお終いだ。大門の開閉を確保しろ」

 リッツの言葉に、傭兵たちが剣を抜き、馬車前方に向かう。一瞬のうちに悲鳴と、怒声がこの場を支配した。

「ファン、ソフィア。城門の上の弓兵を片付けてくれ」

「了解」

 ファンが穏やかな笑顔のから一変、傭兵としての残虐さを滲ませながら、身軽に馬車の上に駆け上がった。燕尾服の胸元に入れた手には、一瞬にして大量の飛刀が握られている。

「ソフィア、お先に失礼」

 ファンの飛刀が、見事に城門の兵士たちに当たった。兵士たちがばたばたと倒れ、弓矢が止んでいく。

 だが倒されても変わりの者がいる。彼らが矢を打ち込んでくる前に、ソフィアは胸元から煙草を取り出して火を付ける。

「燃えさかれ、炎」

 ささやきにも似た低い声で呟いたソフィアの手の中に、無数の小さな火の玉が生まれ、火矢のように城門を焼く。

「城門は確保できたか!?」

 大声で問いかけると、ゆっくりと歩み寄ってきた人物が楽しげに答える。

「おう。余裕だ」

 ギルバートだった。ゆっくりと仮面を取ったギルバートは大剣を抜き身でぶら下げている。その大剣からは血が滴っていた。

「ギルが出る事もなかったんじゃねえの?」

「俺は働き者なんでね」

「へえ……」

 軽口を叩きながらも、リッツは剣を構えた。目の前の兵士たちが数を増やしていくのだ。

「余裕でシアーズを出れるんじゃなかったっけ?」

 小さくギルバートに文句を言うと、ギルバートは口元を緩めた。

「さあてね。優秀な軍人もまだ残っていたんだろ」

 余裕の笑みを浮かべるギルバートを見て気がついた。ギルバートにとって、これだけ早く軍が動くことは織り込み済みだったのだ。

「俺に嘘ついたんだろ?」

「人聞きの悪いことを言うな。お前に気を遣ったと言え」

「でも……」

 まだ文句を言い足りないリッツに、ギルバートが笑う。

「より多くの軍人に、未来の可能性を残した方が親切ってもんだろう?」

 その一言で気がついた。ギルバートは寄り多くの軍人に、リッツの演じる英雄を見せようとしているのだ。

「……そうか……」

 それならばやるしかないだろう。

 後方の状況を伺いながら、リッツは矢継ぎ早に指示を飛ばす。

「城門を突破する。ジェイ、ソフィア、他の傭兵を連れて馬車の援護を頼む」

「了解」

「ファン、夫人の護衛をしてくれ」

「はいはい」 

「ラヴィ、後方の援護を頼む」

「了解した」

 全員が動く気配を感じながら、リッツは剣を構えたまま隣のギルバートに笑いかけた。

「ギルは、俺と一緒でいい?」

「おいおい、俺には命令しないのかよ」

「だってさぁ、何か違う気がするし……」

「ったく、情けない指揮官だぜ」

「それに、ここを食い止めるのってさ、俺とギルとラヴィで十分じゃねえ?」

 見渡しながらリッツは尋ねた。指揮官を一撃で殺された兵士たちは、数を増やすものの、警戒しているのかなかなか近寄ってこない。

「そうだな」

 ギルバートは軽く剣を振るった。長さ百五十センチ、重さ十キロ以上もある大型の大剣が風を切った。兵士たちの間に、ざわめきが生まれた。

「ダグラス中将だ!」

「ダグラス中将がいるぞ!」

 兵士たちの動揺がここまで聞こえてくる。

「ギル、大人気」

「あほう。さっさと終わらせるぞ」

「へーい」

 リッツは兵士たちの中で、わめく人物を発見した。わざとらしく取り付けられた勲章の数々。なるほどあれが貴族だ。その人物が、兵士たちをけしかけているのである。

 ギルが、音もなく兵士たちの中に躍り込んだ。

 一瞬にして兵士たちの間から、血しぶきが上がった。だがいつも一撃で仕留めるはずのギルバートの剣が、決して人を殺していないことに気がつく。

 兵士たちを広範囲に薙ぎ、戦意を喪失させているのである。

 それを見た時、リッツはギルバートの意図を理解した。恐怖を植え付けながらも、兵士を生かして、彼らの目にこれからリッツが演じる英雄の姿を焼き付けさせようというのだ。

 そのことによって、生かしたこの場の兵士たちが、仲間を連れてグレイン・オフェリル連合に投降しやすくなる。

 やはり今回のギルバートの目的は、貴族への反感を植え付け、共に戦う兵士を増やすことなのだ。

 それならばそれなりの動きがある。

 ゆっくりと剣を構えて、リッツも兵士たちの中に突入する。

 ギルバートに比べれば討ち易しと思ったのか、兵士たちがリッツに殺到する。

 恐怖を浮かべて斬りかかってくる兵士を切り伏せ、リッツは何の迷いもなく、貴族に走り寄った。

「こら、お前たち、私を守れ、私の盾にならんか!」

 及び腰で逃げる兵士たちの首を捕まえて、貴族の男がわめいている。だが兵士たちは恐怖に動けなくなっていた。

 リッツはそんな兵士たちをギルバートと同じように殺さない程度に斬りつける。広範囲を斬りつけることで、致命傷を受ける人間は少ないはずだ。

 やがて貴族とリッツの間に、障害がなくなった。

「き、貴様! 私が男爵と知っての狼藉か!?」

 うわずった声で叫んだ男に、リッツは笑いかける。

「うん」

「な……」

「俺、人の命を平気で盾に出来る貴族って、大嫌いなんだ」

 いうと同時に、リッツは軽く剣を振るった。風を切る音と共に、いとも簡単に男の首が飛んでいく。

「だからさ、あんまりみっともないことしゃべるなよな」

 男の首が、花びらの舞う地面に転がり、花びらまみれになる。恐怖と驚きで見開かれた目に、自分の姿が写ったような気がする。

 最初に人を殺した時は、地面に座り込んで吐いた。その恐怖に怯えた。

 でも今は、何の感慨もない。

 きっと平和主義で、殺人など起こることのない精霊族がリッツを見たら、狂ったと思うのだろう。

 そうだ。確かに狂ってる。

 もうリッツは精霊族とは言えない。

 なのに精霊族を演じる自分は、なんと滑稽だろう。

「あんたら、貴族好き? そいつらと一緒に俺と戦う?」

 笑顔で尋ねると、兵士たちは数歩退いた。

「もしそうなら俺は手加減しない」

 静かに告げると、兵士たちはじりじりと後ずさりを始めた。だが数人が気合いの声を上げながらリッツに向かって突っ込んできた。

 ため息をついてリッツは軽く腰を落とし、兵士の剣を受け止めた。触れ合った剣の刃を滑らせ、その勢いのまま目の前の男の腹を横凪にする。

 倒れた男の隣の男の後ろに回ると、慌ててたたらを踏んだ男をその場に切り伏せた。

 返す刀で、一瞬足と留めてしまった男を下から斬り上げる。

「き、貴様!」

 後ろからの声に、リッツは振り向きざまに、剣を振るう。剣は風を切り、鈍い光を反射させる。

 一瞬後には男はゆっくりと傾いでいく。

 斬られたと気がついていないのか、目を大きく見開き、自分の体を不思議そうに撫でながらも、男の体が重たい地響きを立てて地面に倒れ込んだ。

 息を切らすこともなく、リッツは軽く剣を振るう。剣を流れ落ちていた血が、滴となって落ちていく。体が考えられないぐらい軽かった。

 思った以上に体が動き、剣を振るう。

 ギルバートたちとしか戦っていなかったから全く気がつかなかったが、実力は考えた以上に上がっていたらしい。

 リッツは静かに周りを見渡した。

 遠巻きにしている沢山の人々も静まりかえり、兵士たちも言葉をなくして後ずさる。

 リッツの後ろにギルバートが剣を納めて立つのが分かった。

 頃合いということだ。

 リッツは剣を納めて、ゆっくりと仮面を取った。 仮面で押さえつけていた、特徴のある耳が窮屈だった仮面から解放されて、短い髪からすっと伸びて小さく揺れる。

 人々の中に、動揺の声が交じった。

 リッツはゆっくりと周りを見渡した。

 英雄になるんだ。エドワードを救国の英雄とするために。

 リッツは小さく息を吸った。

 大丈夫。友のためだ。自分なら出来る。

「人間よ」

 リッツは大きく呼びかけた。

 その声はリッツが考えた以上に、青く澄んだ空によく響いた。

 人々が息を呑み、打たれたように黙り込む。

「つまらぬ身分に縛られ、愚かにも無為に傷つけ合う人間よ。お前たちに我々は警告を与える。私はリッツ・アルスター。一族を守り、戦うべく運命づけられた精霊族の戦士だ」

 心の中でリッツは『うそつけ』と呟いた。

 どう考えても罪の子であるリッツにはそんな役目も運命もない。でも精霊族を知らない人々は目を見開いてリッツを見ている。

 その視線はきっと、この耳に注がれているのだろう。人は違う者を恐れる生き物であり、精霊族もまたそれからは逃れられない。

 これはリッツの母の言葉だ。だがここでこっそり自嘲している場合ではない。リッツは真っ直ぐに前に立つ人々を見つめる。

「お前たちの愚かさは、やがてユリスラを混乱へと導くことになるだろう。

 我らには国の痛みが聞こえる。我らには精霊の嘆きが聞こえる。この国が辿るべき未来に暗雲が立ちこめているのを感じ取ることができる」

 広場が水を打ったように静まりかえる。リッツは静かに周りを見渡し、そして再び口を開く。

「我らが遠い過去に人の王と交わした契約を忘れてはいないか。建国の時、人間は我々に幸福なる世界を誓ったはずではなかったのか。ならばこの怒りに満ちた精霊の気配はいかなることか」

 後方から馬車の気配が消えていく。上手く大門から逃げられたみたいだ。だとしたら長々と演説するのは無用だろう。そろそろたたみ時だ。

「人間が誓った国家の幸福が破られたのならば、我々は再びこのユリスラを、一族が共に生きられる地にするために戦わねばならない」

 リッツは大きく息を吸い込んだ。一番重要なことを言わねばならない。

「私は、我らと人とが共に暮らすこのユリスラの未来のために、私の選んだユリスラの誠の王と共に戦う。人間よ、それを肝に銘じておくがいい」

 リッツはそういうと、きびすを返した。後ろからギルバートと、少し離れて護衛をしてくれていたラヴィを従える。

 人々の息を潜める気配だけが広場に満ちていた。思った以上の効果に、リッツは全身に冷や汗を掻いた。

 このことが一族の長老にでもばれたら……リッツはきっと抹殺されるのだろうなと思う。

 まあ自分の父親しか人間の世界に関わっていないし、父親がまさか息子を密告するはずもないから大丈夫だろうけれど。

 馬車が通った後に、沢山の人々が倒れているが、動ける人間ですらリッツの言葉に動くことが出来ずにいる。

 そんな人々の間を、真っ直ぐに前を見ながらリッツは、静かに歩いて行く。痛いほどの視線を感じているが、リッツは決して振り向かない。

 振り向いて人々を見る事は決して許されない。精霊族の英雄を演じるならば、人間らしさは不要だ。

 リッツは傭兵たちが引き出してきた馬に、颯爽と跨がると、一度も振り返ることなく、悠々とシアーズを後にした。

 追っ手がかかる可能性もあるから、このまま離れて馬車の後を着いていくのが正解だろう。

 馬を走らせ、シアーズの大門が少しずつ小さくなっていくのを確認して、リッツは馬のたてがみに突っ伏した。

「無理……無理無理無理……。俺、英雄とか本当に無理……絶対に絶対に無理、本当に無理……」

 呪文のようにぶつぶつと唱えると、ギルバートが爆笑した。

「何を言ってるんだてめえは。俺でもお前の演説に鳥肌が立ったぜ? なあラヴィ?」

「ああ。人外だったよ、リッツ」

「……それって褒めてんの? 貶してんの?」

「当然褒めてる。いつものリッツとは全く雰囲気が違っていて……何だか少し怖い気がしたよ」

 巨体のラヴィの言葉に、リッツは隣で馬に乗るラヴィを黙ったまま見つめていた。そんなリッツにラヴィは穏やかに笑う。

「リッツ、僕たちも人間なんだ。あの時君が醸し出していた雰囲気は、どこから見ても人間じゃなかった。人間とは異なる者が、愚かな人間を見下ろしているみたいだったんだ。やはり君は精霊族なんだね」

「何だよぉ……」

 リッツは俯いて唇を噛んだ。自分が精霊族であることがリッツは嫌で堪らない。人間でありたいのに、無意味に長い寿命を持っているのが耐え難い。

「ラヴィは、俺がいない方がいいのかよ……」

 ぼそりと呟くと、ラヴィが目を見張った。

「待ってよリッツ。僕がそんなこと言ったかい?」

「だって人間ってみんな、異端者は嫌いだろ。俺、精霊族で、思いっきり異端者じゃん」

 ラヴィから前方へと視線を移して、リッツはポツリと呟く。でもそんなリッツを豪快に笑い飛ばしたのは、ギルバートだった。

「てめえは馬鹿だな」

「な、なんで笑うんだよ! 俺真剣に……!」

「てめえの世界は狭すぎる。何も世界を知っちゃいねえ」

 リッツは黙るしかない。自分の世界が狭いのは百も承知だからだ。言葉の出ないリッツに苦笑しながら、ギルバートが言葉を続ける。

「シュジュンをねぐらにしてる傭兵ってのは、ユリスラの奴らと亜人種の捉え方が違うんだよ」

「そうなの?」

「戦場で相手にするのは人間だけじゃねえんだ。巨人族や小鬼族、そしてその指揮官は闇の一族だ。俺たちは亜人種を見慣れている」

 リッツは目を見開いた。今までずっとユリスラのことしか知らなかったから、亜人種は人間と関わってなどいないと思っていたのだ。

「それにシュジュンへ行く前に必ず通る街、スイエンには、蒼海族がわずかだが住んでいる。蒼海族ってのは、水の精霊を使う一族だ」

「蒼海族……」

 自分たちが光の一族だから、水の一族がいて当然だろう。でもリッツは他の亜人種のことを考えたことなんてなかった。何も言えないリッツに、ラヴィが笑いかけてくる。

「僕の出身地サーニアの特別自治区はタシュクルっていって鳥人族が住んでる。風使いだ。人間を受け入れてるから混血が多い。ものすごく山の中だけど、一度は行きたい観光名所だ」

「観光名所!?」

 シーデナの森のことを知っているリッツからすれば、そんなこと考えられない。

「フォルヌの火の一族の女戦士は、傭兵として腕を磨く者も多くて、戦場にいると時々見かける。リュシアナの獣人族は、岩塩抗で働いていると聞いた。つまりね、特別に人間との関係を閉ざしているのは、精霊族だけなんだよ」

 リッツは絶句してしまう。特別自治区に住む亜人種は皆、精霊族のように人間との接触を断ってひっそりと暮らしているわけではなかったのだ。

「僕は君と一緒に過ごした半年、すごく楽しかった。君は人間の若者と変わらなかったからね。だけど今日の君を見て、やっぱり精霊族なんだなと、思っただけなんだ。事実として認識しただけで、そこに含む意味はないよ」

「でも……」

「君が精霊族だと認識したことで、僕たちに何か不都合でも?」

 そう言われると言葉がない。リッツが何であろうと、傭兵たちからすれば、からかい甲斐のある若造でしかないのだ。

 リッツは大きく息をついた。亜人種だからといって、差別しない人も存在するのだ。そんなことも知らなかった。

「俺、まだまだ世間知らずなんだなぁ……」

 天を仰いで呻くと、ギルバートが笑った。

「世間知らずさ。精霊族だからってびくびくするな。堂々と英雄を演じていろ。さっきみたいにだ」

 リッツは先ほどに人々の前で宣言した自分を思い出して、再び馬のたてがみに突っ伏した。

「もう、忘れたいよぉ……」

「阿呆。てめえの演説から、歴史が動き出すんだよ。お前が付き従うことによって、エドワードを、精霊族の加護を受けた誠の王にできるんだからな」

「だけどよぉ……」

「覚悟は決まってたんじゃないのか、リッツ」

 ギルバートの冷静な言葉に、リッツは黙り、しばし考えてから口を開いた。

「決めてた」

「それなら貫け」

 リッツは唇を噛む。そうだ。決めたのだから、エドワードのためにその覚悟を貫かねばならない。

「……ギル」

「何だ?」

「グレインまでどのくらいかな?」

「そうだな。急ぐ旅だ、長くても五日で着く予定にしてる」

「……そっか……」

 リッツは小さく呟いた。

 もう運命が動き始めてしまった。

 エドワードは今頃どうしているのだろうと思うと、不意に寒さが身に染みた気がして、リッツは防寒具をかき合わせた。


「ねぇ、逃げちゃったわよ、彼。追わなくてよかったの? 大好きなんでしょ、金髪と黒髪の坊やたち」

 女がのんびりと屋根の上で足を揺らして言った。今日はいつもの戦士の格好ではなく、ごく一般的なシアーズの女性の格好をしている。

「いい。捕まえろとも、追えとも命令されていない」

「そりゃあそうよ。あなた、彼らが侵入していることも報告していないじゃない」

「命令されていないからな。彼らを見張るのは俺の趣味だ」

 命令には絶対服従であっても、命令されていないことをする自由は与えられている。

「でもあんな風に演説されちゃったら、火種になるわよ? いいの、アノニマス?」

「構わない。俺はどちらかと言えば、くすぶっている火種よりも、燃えさかる劫火が好みだからな」

 アノニマスは静かに冷笑した。

 こうなるだろう事は分かっていた。軍の改革派を人質に取ってグレインにぶつけると成れば、確実にその家族を救い出そうとするはずだ。

 あの民衆を大切にしている、エドワードとリッツというコンビならば。それにモーガンとダグラスが加わっているのだ、不可能はないだろう。

 だがアノニマスはそれをイーディスに忠告したりはしなかった。ティルスを焼き討ちし、彼女を欺した二人の身内を殺して悲しみを植え付けたことで満足しているイーディスは、もうあまりグレインに興味がないように見えた。

 邪魔なバルディア夫人を殺し、たてついた二人に仕返しをして、それで満足なのかも知れない。

 所詮、深窓の姫君だ。大局でものを見る事が出来ず、自らの感情でしか動けない。

 今もイーディスは、グレインの戦力を軽く考えすぎている。たった二千の軍勢で、しかもその大半が改革派で、どうやってグレインと戦うのか、そんなことも考えていないのだ。

 爵位も持たぬ騎士団や、オフェリル軍に負けるわけなどないと、頭から信じて疑わない。

「命令されるまで、じっと待つんだ?」

「ああ。だがそれもまあ……遠くはあるまい」

 アノニマスは微笑んだ。

 国王の体調は相変わらず悪い。少量ずつ与えられた毒によって、もはや国王に意識はなく、眠ったまま徐々に死へと導かれている。

 イーディスとジェイドの話を小耳に挟んだが、国王はもう、春を迎えられないだろうという。

 もしもエドワードが、イーディスが恐れるように現国王の血を引く、バルディア夫人の子供だったなら、イーディスの子スチュワートが新たな王として立つ時、何かの行動を起こすだろう。

 その時は、アノニマスにとって、再戦のチャンスとなるのだ。

「楽しそうね、アノニマス」

 女に微笑まれて、アノニマスは自嘲した。そう、アノニマスは楽しくて仕方がない。イーディスに命じられたとしても、あの二人と戦うことは、面白いのだ。

 記憶もなく、名もないアノニマスにとって、戦うことだけが命だった。戦うことだけが生きている証だった。

 ならばより面白く戦える者を求めて当然だ。それに今日の戦いぶり。リッツは益々強くなっている。今度会った時に、戦うのが楽しみだ。

「そういえばお前はいたずらをしていたな、グレタ。楽しかったか?」

 話を振ると、グレタが本当に嬉しそうに笑った。

「もう、最高。前にティルスで会った時は、子供みたいだったのに、すっかり大人の男だったわよ。体もよくできてたし、それなりの手管もあったわね。でもまさかあの子、天敵の仲間を抱いたなんて気がついてないでしょうね」

「だろうな」

 グレタには妙な趣味がある。敵であろうが味方であろうが、気に入った男に惹かれて、関係を持ってしまうのだ。時にはそれで本当に相手に惚れて、裏切ることもある。

 グレタには、職業的な倫理観が存在しないのだ。気に入った人間にはとことんまで付き合うのだが、気に入らない人間であれば、上司でさえも金で売る。

 そんな妙な性癖から、ユリスラ軍にいられなくなったことを、アノニマスは知っている。グレタは元々、ユリスラ軍の国王直属部隊である査察部にいた女なのだ。

 その性癖を除けば、グレタは剣技、探査共に人並みはずれた実力を持っている、恐ろしいまでの腕利きの査察官だった。

「妙だったけどね。ふざけながら女を抱いてるくせに、目が全く笑って無いの。きっと心は金髪の坊やのことでいっぱいなのかもね。それにしても黒髪の坊やはともかく、金髪の坊やはガードが堅くて私じゃ刃が立たなそうだわ」

 クスクスとグレタが笑う。グレタが娼婦のふりをして関係を持ったのは、リッツだった。今彼女はアノニマスと同じように、リッツとエドワードに興味を持っているのである。

 狩るべき標的は同じだ。目的は違っても。

「気に入るのはいいが、俺たちを簡単に裏切るなよ、グレタ」

 笑みを浮かべてグレタに告げると、グレタは楽しげに笑って足を揺らした。

「裏切らないわ。だってアノニマス。あなたといると退屈しないもの。ね、今度はいつ、あの坊やたちを困らせるの?」

「……さあな。命令次第だ」

「命令ねぇ……。でも、諦めてないのね」

「当然だろう。あれは俺の獲物だ」

「素敵」

 ざわめく大門広場に、今頃になって応援の兵士たちが殺到している。だが広場は既に血にまみれていて、彼らにはなすすべがない。

 数十人が馬に乗り、彼らを追跡すべく大門を出て行ったが、おそらく全員が返り討ちになるだろう。

 ギルバート・ダグラスは強い。アノニマスでも刃が立たない。だが、リッツも強くなっていた。

 次に戦うのが楽しみだ。

「新祭月を楽しまないか、グレタ」

「賛成。まずは踊りましょうよ、アノニマス」

「喜んで」

 アノニマスは、屋根の上からゆっくりと立ち上がった。

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