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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
一対の英雄
46/179

<6>

 リッツがギルバートとファンに連れられて、初めて貴族の妻たちに会いに行ったのは、十二月の中旬だった。

 今までは夫人との交渉を総てファンとソフィアが行っていたのだが、作戦の実行日が近づいてきたため、顔合わせのためにリッツとギルバートが赴くことになったのである。

 いつも変装をさせられるリッツは、今日は妙に派手な格好をさせられている。耳が隠れるようにと被されたシルクハットには、彩り鮮やかに染め上げられた羽根が付いている。服装は黒のフロックコートで、中に着ているベストは紫色のサテン地だった。

 その上、片眼鏡を付けさせられた。鼻にフックを掛ける様に装着する金の片眼鏡にはまっているのは、磨き上げられたレンズではなく、ただのガラスだった。それだけでも何だか視界に違和感がある。

 それに鼻とは逆側に垂れている、金の鎖が邪魔で仕方ない。

「いつまでこれつけんの?」

 邪魔っ気な片眼鏡をいじりながら、ため息混じりに着付けてくれたソフィアに尋ねると、ソフィアは煙草をくわえたまま満足げに笑った。

「いつまでだって構わない。似合っているよ」

「……やだよ。これじゃあまるで、遊び人じゃん」

「娼館の女と遊び暮らしているお前には、お似合いだろう?」

「……」

 確かに毎晩のように女遊びをしているリッツには返す言葉も無い。ここでの生活も五ヶ月半。最初の頃とは違って、暇な娼婦が何も言わなくてもリッツを相手にしてくれるようになってしまった。

 当然疲れ切って一人で寝たいこともあるが、それ以外の日はありがたく共に夜を過ごす。それが当たり前になりすぎて、リッツは内心困っている。

 グレインに帰って、元の生活を取り戻せるのか、少し不安なのだ。何しろグレインでは毎日女と過ごすなんてあり得ない。おそらく一緒に過ごすのはエドワードやジェラルド、パトリシア、シャスタあたりだ。

 それを考えると、今のうちから節制した方がいいかなと思ったりもするのだが、娼婦に遊びに来られると断れない自分がいて情けない。

 でも娼婦たちと過ごすよりも、友や仲間と過ごす方が、精神的には何十倍も幸せであることも内心理解している。

 ここでは体が満たされても、心が満たされない。いつも足りない何かを求めている。

 ごくたまに、グレインの夢を見る。その夢にはシアーズのきらびやかな生活など出てこない。ラフな格好で馬に乗りエドワードと遠乗りしていたり、シャスタと麦の刈り入れをしていたり、パトリシアに娼館遊びを責められて追いかけられていたり、ローレンが勉強を見てくれていたりする。

 目が醒めると、グレインへの郷愁で胸がいっぱいになってしまう。何となくベットから立ち上がって、窓の外をじっと眺めてしまうのだ。

 煙突から立ちのぼる煙で霞んだ空であっても、この空はグレインと繋がっている。エドワードは、仲間たちは、今どうしているんだろうなと思うのだ。

「リッツ、行くぞ」

 ぼんやりしていたリッツは、ギルバートに呼ばれて我に返った。

「うん」

 腰に手を当て、フロックコートの下に身につけた剣を確かめる。何があるか分からないから、自分の身は自分で守らねばならない。

 エドワードのために、仲間のために、リッツは今死ぬわけにはいかないからだ。

 先に階下へ降りていくギルバートとファンを追って、リッツは階段を下りていく。その後ろに、いつの間にか支度をしていたソフィアが続く。まだ午前中と言うこともあって、娼館は静まりかえっていた。夜に働く娼婦たちにとって、この時間は休息の時だ。

 大枚はたいて泊まり込んだ客たちも、朝一番にここを発ち、静かな気配だけが館に残っている。深夜の内に楽器を演奏する人々も帰っていて、ホールは妙に空虚だ。

「リッツ、こっちだ」

 裏口に回ろうとしたのに、呼び止められてリッツは驚いた。娼館の入り口に、いつの間に用立てたのか、少し大きめの馬車が止められていたのだ。幌付きの布馬車ではなく、貴族が使うような、黒塗りの木で出来た立派な馬車だ。

「へえ……ずいぶん立派じゃん」

 呟きながら馬車に乗り込むと、少し大きめの馬車には、大量の派手な服と大量の帽子入れが積まれていた。

「すっげぇ。これみんな持ってくの?」

 リッツは手近な箱に手を伸ばして開けてみた。その中には大きな羽根飾りと、目だけを隠す怪しげな仮面が入っていた。

「……何これ?」

「勝手に触ると、怪我するよ」

 穏やかなファンの声に、反射的に手を出すと、飛んできたナイフを掴む。幅はわずか二センチ、長さは二十センチもない小さなナイフだ。当然怪我をしないよう、指で挟んだのだ。

「あっぶねえなぁ。狭いとこでナイフ投げるなよな」

「おや、やっぱりもう、君にこれは効かないね」

 ファンが軽く肩をすくめる。ファンは燕尾服にシルクハットという出で立ちだ。

「あったりめえだろ。ナイフごときで俺が殺れるかっての」

 ナイフを投げ返して舌を出すと、二本の指だけでナイフを受け取ったファンは肩をすくめた。

「やれやれ。ナイフじゃなくて飛刀っていうんだって事も覚えて欲しいものだね」

「名前なんていいじゃんか」

 リッツが文句を言うと、ファンはナイフをすっと胸元に戻した。

 ファンの胸元には、飛刀と呼ばれるナイフの鞘がある。この飛刀、一つの鞘の中に十二本も同じ物が入っているのだ。その鞘をいつもファンが幾つ仕込んでいるのか、リッツは知らない。

「まったくもって可愛げがなくなったね、ギル」

 ため息混じりにファンが首を振る。

「近頃じゃ、隙を突いても殺されてくれない」

「あったりまえだ。俺は誰にも殺されねえもんね」

 コネルに覚悟を問われてから約二ヶ月、リッツは今まで以上に激しい傭兵たちの攻撃にさらされた。鍛錬場ではもちろん、毎朝の襲撃も今までのような遊びの枠を越えて、本気で命を賭けたものになっていったのだ。

 まずベネットの矢が、大弓ではなく連弩という、連続して打ち込める物に変わった。その攻撃を身軽さを生かして交わし、ベネットを逆に体術で床に押し倒し、その隙に部屋から出る。

 廊下ではタガーを投げてくるだけだったジェイは、扉を開けると同時に、二刀流の構えで突っ込んでくるようになった。それをほとんど条件反射で剣を抜いて対峙する。

 剣をしまって階段を下りながら複数のナイフを避け、投げた本人と体術で向かい合う。

 そしてようやく朝食の部屋にたどり着くと、ソフィアに投げ飛ばされるのだ。

 ありがたいことに、ヴェラの毒の攻撃は無くなった。そのことから、リッツはギルバートがリッツに必要な事だけを鍛え上げようとしてくれているのが分かる。

 それでも一応、ヴェラがいた間だけは、出てくる飲み物、食べ物には気を配った。ヴェラとベネットが作戦のためにシアーズを発ってからは、普通に食事をとれるようになったが。

 ギルバートとラヴィは、相変わらず鍛錬場でしか攻撃を仕掛けてこないが、鍛錬場に立つと更に攻撃は激しさを増し、本気で命の危機を感じるようになった。

 未だにラヴィとギルバートには一度も敵わないが、ギルバートの剣とラヴィの槍を受け止められるようになっただけ進歩だ。

 そのお陰でエンの世話になることもなく、反射神経も、危険を察知する能力も、無意識であっても攻撃をかわせる技を身につけた。

 今やリッツは、ダグラス隊の面々にとって『簡単には動じない、可愛げのない奴』呼ばわりされるまでになった。それはリッツに取って、褒め言葉以外の何者でもない。

 飛刀をしまったファンの目の前で、箱から先ほどの飾りを取り出してみた。飾りは全面がメインで、後ろには結べるように紐が付いていた。その紐も飾りで少し隠されている。

「これって、頭に被るの?」

 仮面の目を自分の目に宛がって尋ねると、ファンは笑みを浮かべてシルクハットを脱ぐと、眼鏡を外した。

「こうやるのさ」

 リッツの手から仮面を受け取り、手慣れた様子でファンはそれを身につけた。顔の上半分が羽根で飾られたマスクに隠されて、目しか見えていない。まるで顔だけが鳥になってしまったようにも見えるが、それ以上に妖しいことこの上ない。これが女性だったらさぞかし妖艶だろう。

「どうだい、リッツ」

「なんかすげえけど……ファンだとちょっと変」

「変って言うなよ。これは貴族たちが仮面舞踏会に使ったりする正式な仮面なんだぞ? 高価なもので一ついくらすると思う?」

「え……? 二千ベルセぐらい?」

「金銭感覚ないねぇ。一つ五万ギルツだよ」

「五万!?」

 ベルセはギルツの十分の一だ。リッツのグレイン騎士団での給料が年間で百五十ギルツで、一月十二ギルツちょっとだ。つまりこの羽根飾り一つで、リッツの月の給料の約半分ということになる。

「それがこんなにあるのかよ! 誰が金出すんだよ!」

 リッツがわめくと、ギルバートが笑った。

「ジェリーに決まってるだろうが」

「おっさんが出すの!?」

「ああそうだ。サラディオと同盟を結んだようだから、今後金の心配は一つ減ったしな」

「サラディオと?」

 そんな話は初耳だ。というよりもリッツはここに来てから一度もグレインの話を聞いていない。

「そうだ。パティとエドワードがサラディオと同盟を結んできたようだな」

「……エド……パティ……」

 久しぶりに名前を聞いて、その上自分でも口に出したリッツは、心の中にこみ上げる懐かしさに言葉を失った。

「会いたいか?」

 笑いながらギルバートに尋ねられて、リッツは幾度も頷いた。

「会いたい。俺、やっぱエドの隣がいい」

 ティルスのエドワードの小屋で、差し向かいに酒を飲んでいた時のこと、モーガン邸で書類をこなすエドワードの向かいで新聞を見ていた時のこと、真剣に剣を交えた時のことが、つい昨日のことのように浮かんできた。

 グレインの事を聞いただけで、封印していた自分の思いが、不意に溢れだしてきたような気がする。

「俺たちのように、エドワードは命を狙ったりしないしな」

 からかいを含んだギルバートに、リッツはむくれながら反論する。

「……そんなんじゃないよ。ただ、俺の場所はやっぱあっちなんだ」

 エドワードの隣にいる自分の方が、自分の中でしっくりくる。それが自分の本当の姿だと、心の底から実感した。

「だから俺、エドの隣がいい」

「お前は本当に、エドワードの犬だな。飼い主の話を聞いたとたん生き生きしやがって」

「だからエドの友だっていってるだろ。犬じゃねえってば!」

 最近は無かったやりとりに、何だか心がすぐにでもグレインに飛んで帰りそうだ。でもリッツにはちゃんと分かっている。役目を果たさずには、グレインに帰れないのだと言うことを。

 懐かしさと溢れ出しそうな望郷の思いを、リッツは小さくため息をつくと心にしまい込んだ。

「で、その五万ギルツの仮面をどうするんだよ」

 仮面をしたまま口元を緩めているファンに尋ねると、ファンは仮面を外しながらリッツに笑いかけた。

「当然のことを聞くね、君は。楽しい新祭月のパレードで被るのさ」

 ファンがゆっくりと丁寧に仮面を箱に戻す。いつも思うことだが、飛刀使いのファンの指は長くて、女性のように綺麗だ。この手のどこにあれほどの攻撃力が眠っているのだろう。

「じゃあこれ、みんな貴族のご婦人用ってことか」

 呟きながらリッツは他の箱も開けてみた。今度は真っ青に染め抜いた大きな翼のような物が現れる。一個一個ものすごく派手だ。

「君も被るんだよ?」

「俺も!?」

「そうさ。最も劇的なタイミングで投げ捨てるまではね」

 最も劇的なタイミングの意味が分からない。リッツはここ数ヶ月で激しい肉体的な訓練を積んできたが、未だに作戦の全貌を説明されていないのだ。

「……いつ俺に作戦を教えてくれるんだよ?」

 ギルバートとファンを交互にみながら尋ねると、ギルバートが笑った。

「決まってるだろ。今日これから行く場所で、ちゃんと貴族の女房たちも含めてお前に説明してやる」

 どうやらその為にリッツが今日着いてきたようだ。ならばそれまで大人しく待っていよう。

 馬車はこうしている間にも、がたがたと古い石畳の上を動いていく。しばらくしてか道はゆっくりとした坂道を登り、緑の濃い住宅街に入り込んでいった。そこに壁で囲まれた巨大な施設があった。馬車を動かしていた馭者は、何の躊躇いもなく馬車をそこへ進みいれた。

「ギル、ファン……大丈夫なの?」

 尋ねると二人は黙ったままリッツに沈黙を求めた。リッツも慌てて口を塞ぐと、馭者の声に耳を傾ける。馬車は門の中程で止められた。

「ここは前線の兵士たちの家族が泊まっている宿泊施設だ。何用か」

 厳しい詰問の声に、馭者が何事かを応え、中にいるファンを呼ぶ。その声に応えるように、軽く肩をすくめたファンは扉を開けて馬車から降りた。

「はいはい。お役目ご苦労様でございま~す」

 馬車から降りたとたん、ファンは手もみをしながらへらへらと笑い出した。馬車の中から見ていたリッツは、あっけにとられた。今までのファンから想像が付かないような卑屈な態度だ。

「手前どもは、カーニバルやパーティを専門とする衣装屋でございまして、こちらの奥方様たちからご注文頂きました洋服を仕立ててお持ちしたんでございますよ、はい」

 揉み手しながらファンがそういうと、馬車の中を振り返った。そのファンの視線がリッツに向けられている。

「こらフェイ。見ていないでこちらの軍人様に商品をお見せしなさい」

「へ?」

「すみませんねぇ。図体ばっかり大きくて、気の利かない弟でして。ほらほらフェイ、仮面とドレスをとってくれ」

 リッツを見つめるファンの糸目は笑っているけど笑っていない。言われるとおりにしないと、間違いなく殺られる。

 リッツは慌てて大量に掛けられているドレスを一着と、先ほどファンが箱に戻した仮面を取り出して、ファンに差し出した。

「ありがとう、フェイ。こちらでございます、軍人様」

 笑顔で軍人に向かうファンを見て、ホッと胸をなで下ろし、リッツはまたファンと兵士のやりとりを観察した。ファンはドレスを片手にさっと広げ、仮面を自分に宛がった。

「ご覧くださいませ。見事な物でしょう?」

 ファンの手から流れるように広がるドレスには、無数の刺繍が施されていたり、ビーズがちりばめられている。娼婦たちの色っぽく、脱がせやすいドレスしか見たことの無かったリッツが初めて見るようなドレスだ。

 目を見張ったのはリッツだけではなかった。目の前でそのドレスを見た兵士も、深々と感嘆のため息を漏らす。

「これは……すごいな。かなり高級品だろう?」

「さようで。なにしろこちらの奥様方は、今旦那様方が戦地へ赴いていらっしゃるとかで、新祭月のカーニバルでは、旦那様方の無事と勝利を願って派手な仮装をするらしいですよ。そりゃあもう、えへへへ。稼がせて頂きます」

 商人特有のへらへらとした笑みを浮かべながらファンが兵士を見上げてる。ファンは大柄な方ではない。もともとタルニエン人は、小柄なタイプが多いらしく、もしかしたらソフィアの方が大きいかもしれない。

 目の前に黙ったまま座っているソフィアをちらりと見る。ソフィアは黙ったまま馬車の外を見ている。きっと煙草が吸えないから不機嫌なのだろう。

 ソフィアは今日、いつものようにパンツスタイルだが、いつもとは違って、髪を上に結い上げて眼鏡を掛け、体のラインが綺麗に出るシャツを身につけている。少しでもかがんだら、胸が零れて見えそうだ。

 ソフィアの裸はギルバートと出会った時から幾度か見ているから今更動揺する事もないが、一体どういう役回りなのかよく分からない。

 やがて話が付いたのか、ファンが馬車の中に戻り、馬車は施設内を動き始めた。

「ファンって、役者だな」

 戻ってきたファンに感心しながら言うと、先ほどまでの卑屈な笑顔はどこへやら、いつもの穏やかな微笑みを浮かべられた。

「そうでなくては、ダグラス隊の交渉役は務まらないだろう?」

「……そうなの?」

 リッツは大あくびをしていたギルバートに尋ねる。ダグラス隊の首領は、大きく伸びをしてリッツを見返してきた。

「当たり前だろうが。はったりと演技力無くして、正攻法だけで交渉が進むと思うなよ」

 確かに正攻法では、何も進まないことはある。それはリッツもグレインに来てから実感していることだ。不始末をしでかしたリッツを庇ったジェラルドの作戦も、半ばはったりだった。

 ジェラルドもギルバートも、よくこんなに色々と思いつくなと思うと、感心しきりだ。

 やがて馬車は、大きな館の前で止まった。ファンに促されて馬車を降りると、言われるままに馬車に積まれていた沢山のドレスと、沢山の仮面の箱を館の玄関ホールに運び込む。

 そこには既にソフィアが陣取っていて、先ほどまでの馬車の揺れで傾いてしまったドレスを直したり、飾り入れを直したりと忙しく動き回っていた。

 何をしていいのか分からないリッツが、荷物を運び終えて右往左往している内に、ソフィアとファンの手によって、色とりどり、形も様々なドレスと、箱を開けた状態で綺麗に展示された仮面が並び、あっという間に玄関ホールの片隅が派手な洋装屋に変わってしまった。

 それを確認したファンが、大きく息を吸うと、二階に向かって叫んだ。

「奥様~、イライザ・サウスフォード子爵夫人様ぁ~ファン&フェイ商会でございますよ~」

 大声は館じゅうに響き渡り、しばらくすると、数人の女性が階段の上に姿を現した。

 中心に立っているのは、物静かだが何処か気の強さを秘めた美しい人で、ソフィアと同年代の女性だった。

 柔らかそうな濃茶の髪を緩やかに巻いて、垂らしている。長いスカートをはいてはいるが、貴族と聞いてイメージするドレスなどではない。この寒さだからか、暖かそうな編み物のショールを肩に掛けている。

「イライザ様。お持ちいたしました」

 ファンが胸に手を当てて膝を折る。ソフィアも同じように膝を折り、ギルバートは気取ってシルクハットを胸に会釈する。

 ぼんやりと立っていたリッツは、階段の上の夫人の厳しい視線にさらされて、ハッとした。

 交渉ごとには演技が重要だと言われていたのに、ぼんやりしている場合ではなかった。慌てて膝を折ろうとすると、厳しい声が階段の上から響いた。

「そなた、一介の商人にして、何故貴族の前に頭を下げぬ?」

 顔を上げると、そこには冷たい目でリッツを見下ろすイライザ・サウスフォードの姿があった。焦ってファンとソフィアを見たのだが、二人とも跪いたまま何も身動きしない。

「あ、あの、すみません……」

 慌てて頭を下げたのだが、夫人の冷静な瞳はリッツを見据えたまま動かない。

「申し訳……」

「謝られても手遅れですのよ。礼儀知らずの無礼者には、それ相応の礼儀を教えて差し上げますわ」

 そういうとイライザは優雅に片手を上げた。そのとたん、どこに隠れていたのか、剣を構えた男たちが出てきた。全部で十人ほどだ。

「え……? ええっ!?」

 その格好はシアーズに来てからよく見るユリスラ軍の軍服とは違う。おそらくグレイン騎士団と同じように、貴族が抱える私兵集団だろう。

 焦ってギルバートを見ると、立ったままシルクハットを抱えていたギルバートが、気取った仕草でそれを被った。

「おっと、俺にまで類を及ばすなよな。てめえの不始末はてめえで付けろ」

「そ、そんな……」

「今のお前なら、やるべき事が分かるだろう?」

 謎かけのようなギルバートの言葉に、リッツは剣の柄に手をかけながら唾を呑んだ。

 今のリッツになら分かること……。

 それって何だろう。

 目の前の男たちを見ていると、その構えも姿も素人ではないことが明らかだった。今の実力でたたきのめせと言うことか?

 だが……それでいいのか?

 これから脱出させるべき対象の前で、この場を血の海にしていいのか?

 額を嫌な汗が流れる。何かを間違えれば、とんでもないことになりそうだ。ふとリッツを見下ろし、信用できないと言い切り、不信感と猜疑心を直接ぶつけてきたコネルのことを思い出した。

 そして目の前にいる女性に目をやった。この人はコネル・サウスフォードの妻だ。ということはコネルの不安感をそのまま持っているのかもしれない。

 つまり、リッツが彼の妻子を守れるのかを、信じられずにいるのだろうか。となると、あっさりと敵を夫人たちの前で斬り殺したりしたら、大変なことになったりするかもしれない。なんと言ってもこの男たちはイライザの護衛たちだろう。

 それに事情を聞くために殺してはいけない時もあるのだということは、以前のダネルの従者殺害でいたいほど身にしみている。

 隣でひざまずくファンとソフィアは、そのまま動こうとしない。

 もしもこれが本当に敵襲だったなら、この二人が動かないことはあり得ないし、ギルバートがこんな風に貴族の権利を振りかざす女性に、手を貸すわけがない。

 リッツは覚悟を決めて剣の柄から手を放した。

 これを使うのはきっと間違っている。イライザの護衛を殺さずに、実力を示して無力化する。リッツにとれる手段はこれしかない。

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