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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
冀求の種子
33/179

<12>

 これほどの災害にかかわらず、ティルスの大火によって、命を落とした者は、十人足らずだった。

 その大半は、岩盤破壊によって出来たすり鉢の中から脱出する際に突然燃え広がった炎と激しい突風で炎に捲かれたという。

 岩盤破壊での地震と、災害で命を落とした者はいなかった。

 これは総てマルヴィルとローレンによって村人たちがまとまって避難し、パトリシアに守られた結果だ。

 怪我人は数十人に及んだが、第一、第三騎士団の的確な指示と場慣れしたソフィアの卓越した技術の元、村人のほとんどは無事に村を脱出し、追いついてきた後発部隊の医者や馬車によって収容された。

 彼らは皆、言葉も無く焼け落ちた故郷を見つめて立ち尽くしていたと、後にエドワードは疲れ切ったマルヴィルに聞いた。

 降り出した強い雨に打たれて、翌日からは体調を崩す者が続出した。

 この村で生まれ育った人々にとって、精神的な打撃も大きかっただろう。

 そんな村人たちを案じて、ジェラルドは再建のめどが付くまでと、村人たちを全員グレインの街で避難生活をさせる事に決めた。

 当然のことながら第三騎士団はティルスに残り、その家族数人もティルスに残った。

 そしてギルバートとソフィア、エドワードも村に残った。

 残らざるを得ない事態が発生していたからだ。

 エドワードと同じ理由で残りたいと主張したパトリシアは、怪我を負っていたためにジェラルドに連れ帰られた。

 第一騎士団とジェラルドに先導されて村を出て行く人々を見送りながら、エドワードはすすけた村の光景を見つめていた。

 穏やかで静かな農村は、一夜にして焼け落ち、さわやかな緑の香りを感じられた風は、今や焦げ臭く変わっている。

 村の中を歩きながら、エドワードはずっと後方にみえる、大樹に目をやった。

 初夏の緑に彩られた大樹は、柔らかくの葉を風に揺らしている。

 村の炎は運良くセロシア家の建物と大樹に及ぶことがなかった。同じように村の中心から離れていたいくつかの農家も無事だ。

 だが焼け落ちたこの場所に村を再建するかどうかは、まだ決められずにいる。村人たちが受けた衝撃と故郷を失った悲しみはそれほど深い。

 幸いにも、サリーは大やけどを負いつつ、命に別状はなかったし、マリーとエリーは翌日には意識を取り戻した。シャスタも軽傷を負ったが元気だ。

 ローレンが望んだとおり、子供たちはみな助かった。

 エドワードは小さくため息をついた。

 昨日、村人たちが村を去る前日に、亡くなった村人たちの合同葬儀が行われた。

 その中には当然、ローレンの亡骸もあった。

 後発部隊と共にティルスにやってきたアルバートは、まだ息があるうちにローレンとの再会を果たしていた。そしてローレンはアルバートを待っていたかのように、その腕の中で息を引き取ったのだ。

 エドワードにとって母であったローレンの死は、心に深い痛みを与えた。実の母であるルイーズを失い、間を置かず育ての母ローレンを失った。

 その心の喪失は大きい。

 だが悲しみ嘆くのは後でも出来る。ルイーズとローレンが望んだように、エドワードは彼らの夢を、願いを、希望を叶えなければならない。

 人々を苦しめる権力を倒さなければ、このような悲しみは国全体に広がり、悲しみは国を滅ぼす。

 それをせずに悲しみに沈んでいては、命を賭けて彼女たちが守ってきた未来を失うことになりかねない。

 苦しみや悲しみは、痛む胸に静かにしまっておかねばならないのだ。

 エドワードには、そうして自分を奮い立たせる大義名分があった。悲しみを置き換える怒りや、未来がある。だがそれが全くない者もいる。

 再びエドワードは大樹へ目をやった。

 そこにエドワードが村に残らざるを得なかった理由がある。

 ローレンは、親友であるルイーズと共に、大樹の下に葬られた。ルイーズの遺体は無いが、形見の金の髪が丁寧に埋葬されていたのだ。その隣に新しくローレンの墓が出来た。

 仲の良かった親友同士が、こうして隣に並び、死者の国で今頃再会を喜んでいるのかも知れない。

 その墓の前で、リッツはあの日からずっと膝を抱えたまま座っていた。

 食べることも寝ることもせずにそうして座り続けてから、もう三日になる。

 リッツはひたすらに自分を責めていた。そしてエドワードやシャスタ、アルバートの顔を見ることが出来ずにいる。

 だれもリッツを責めてなどいない。あの状況では仕方なかったし、リッツがいなければ子供たちを全員救うことも出来なかった。

 ローレンがあの場でリッツに命を借り、子供たちを助けるという責務を果たしてその命を返した。

 誰もがそう思っている。

 むしろアルバートは、リッツに手を借りなければならない状況だったことを申し訳なく思っている。

 子供を助けるために死ねなんて、ローレンはひどいことを言ったと、アルバートは苦笑しながら死んだ妻に文句をいう。

 だがアルバートにも分かっていたのだ。ローレンは初めからリッツの命を犠牲にする気などさらさら無かったことを。あれしか最善の方法が無かったのだと言うことも。

 子供を助け出すのに手を借りた後、もしリッツに何かがあれば、ローレンは命を賭けてリッツを生かそうと考えていただろう。

 そして現実にリッツは危機に陥り、ローレンはリッツを助けるために命をかけた。

 ローレンはきっと後悔などしていない。子供たちを救えたこと、大切な人たちを助けられたことに満足をしているに違いない。

 ローレンとは生まれた時からの付き合いだから、エドワードには死しても彼女が死者の国で微笑んでいるのが分かる。

 そしてもう一つ分かることがある。

 ローレンはここでリッツが、廃人のようになってしまうことを決して望まない。

 死の直前に言い残したように、ローレンはリッツにこの国の未来の希望を託し、リッツ自身の幸福を願った。

 たった二年の付き合いであっても、ローレンにとっては生きる意味を見いだせないリッツが心配な存在だった。

 立場故に心の奥底を閉ざすエドワードと共に生きられるリッツの存在を、大切に考えていた。

 自分の命を軽く考えるリッツに、自分を大切にして欲しいと願っていた。

 それなのにリッツがこんな風に自分自身を責め続け、顔を上げることが出来なくなったのを知れば、ローレンは心の底から悲しむだろう。

 黙って自宅への道を歩いていると、自宅前の古びたベンチにギルバートが座っているのが見えた。

 ギルバートもエドワードに気がついて片手を上げる。

「散歩か、エドワード」

「村人を見送ってきた」

 言葉少なにそう言ってから、エドワードはギルバートの隣に腰を下ろす。

「騎士団の作業はどうだ?」

「もうほとんど終わってたよ。ソフィアがいてくれてよかった」

「相棒がお役に立てて光栄だ」

 今第三騎士団は、戦場に散らばったオフェリル貴族たちの死体の処分をしている。

 これから暑くなる季節に死体をそのままにしておく訳にはいかず、深い穴を掘って一カ所に集めてソフィアが高温で焼いているのだ。それしか安全に処理する方法が無い。

 それに境界を侵し、進入してきた侵略者を丁重に弔う事を、誰も望まなかった。

「やるか?」

 エドワードの前に差し出されたのは、筒に入れられた紙巻きの煙草だった。

 器用に新聞に捲かれた煙草を一本一本巻いているのはソフィアだ。その煙草の燃えさしはギルバートの足下に散乱している。

 黙ったまま一本取り咥えると、ギルバートが火を付けてくれた。

 小さく煙草を吸い込み、煙を吹き出した。

 軽い酩酊感に青空を仰ぐ。

「お前も吸うんだな」

「ティルスで吸ったことはなかった」

「いい子ぶってたわけだ」

「まあ……そうかもしれないな」

 この村にはエドワードの正体を知らずに、ローレンの息子として接してくれていた、たくさんの暖かな村人がいた。そんな彼らに心配をかけたくはなかったのだ。

 でもみな村を出て行った。

 深く煙草を吸い込み、肺一杯に満たした煙を細く吹き出すと、エドワードは自嘲めいた笑みを浮かべてギルバートを見た。

「意外かい、ギル」

「いや。お前さんの方があのガキよりも抱えているもんな。女も煙草も気休めぐらいにはなるだろ」

「気休めか……」

 このぐらいでは気休めにはならない。

 いや、ほんの二年ほど前までは、グレインの街で自分を知らない人たちに紛れて歓楽街で過ごし、一人の男として何も考えずにいることが、エドワードに許された唯一の気休めだった。

 でも今は違う。

 リッツが目の前に現れて、時に無邪気に騒ぎ、時に孤独の陰りを見せる。

 その姿を見て、自分との共通点を見つけ、共に一人の人間として接することが自分が自分でいられる時間となった。

 時には言い合い、ふざけ合い、喧嘩をしながら過ごすこと。

 それが重い荷を背負ったエドワードにとっては何にも代え難い心休まる時間だった。

 そのリッツがいない。

 エドワードが自分を責めるなと言ってもリッツは自分を責め続ける。

 周りにいる人々なら、自分でも笑えるぐらいたくさんの対処法を持っているが、唯一の親友を沈んだ心の縁から引き上げる手段が分からない。そんな自分が情けなかった。

 ため息と共に煙を吹き出すと、ギルバートに頭を掴まれた。

「ギル!?」

「考える前に突っ込め。これはあの馬鹿ガキの専売特許だ。だがお前は思案しすぎるんじゃねえのか」

「……」

 黙ったままエドワードは煙草を再びくわえて俯く。

 そんなエドワードの頭をわしわしとギルバートがかき回す。

「なあエドワード、年を経るってのは面倒だなぁ。お前だって生まれた時は無邪気にニコニコと俺の指掴んで笑ってたじゃねえか」

「赤ん坊はそんなものだろう?」

「ああそうだ。お前は正直だった。楽しければ笑い、泣きたきゃ泣く。そうやってこの世に生を受けたのにな。それが年を経て、荷物を背負い込んで、泣きたくても笑い、苦しくても微笑むようになっちまった」

 ギルバートはそう言うと、エドワードの頭から手を放して、隣に置かれていた瓶に口を付けた。

 ワインのボトルだ。

「だがな。あの馬鹿ガキは、そのまま来ちまったんだ。気に喰わなきゃ絡んでくるわ、すぐにふて腐れるわ、信頼した人間にはコロコロ犬っころみたいに懐いてじゃれる。まあお前と出会うまでは、自分を表せなかったらしいから、たががはずれてるのかも知れねえがな」

「何が言いたいんだ」

「簡単なことさ。あの馬鹿ガキがお前の大切な友ならば慰めるな」

「な……」

 あまりに意外な言葉にエドワードは絶句した。

「お前が頭を悩ませ、あいつを引き上げようとするな。お前はあいつの何だ? 飼い主か?」

「違う!」

「確かにお前の立場は重いし、それを支えようと躍起になるあいつは特殊だ。はたからみりゃあ、お前が主で馬鹿ガキは下僕だ。大人にとってお前は王位継承者だ。例えお前とどんなに親しくても無意識にそれを意識して、お前にリッツへ助言させようとしてしまうだろうよ。お前も長年の習い性か、無意識にそう考えている」

 胸を突かれた思いだった。

 エドワードはどうやって相手を引き上げてあげられるのかと、そればかりを考えていた。

 自分の浅い考えを見透かされたような気がして、エドワードは黙ったままギルバートを見上げた。

「考えろエドワード。あいつは自分を責めることで、心の恐怖に悲鳴を上げている。お前が慰めて気を遣うほど、あいつは追い詰められる。何しろ死んだのは他でもないエドワード、お前の母親だ」

「……」

「それがどういうことか分からんお前ではないだろう?」

 エドワードはじっと目の前を見据えて考え込んだ。

 ローレンの死はエドワードにとって母親の死だった。

 だがエドワードは悲しんでいいはずなのに悲しまずにリッツを引き上げようとしている。

 それはリッツからすれば重荷になるだろう。母親を自分のせいで失ったエドワードに無理をさせていると、余計自分を責めることになりかねない。

「エドワード。あいつが一番大切なものは何だ?」

「大切な物……」

 リッツが一番大切なもの。それは自分の居場所。

 親友であるエドワードの傍らにして、心を許しあえる唯一の場所。

「そうか……」

 顔をゆっくりと上げながらエドワードは呟いていた。

 ようやく気がついた。エドワードにとっても大切な物は同じだった。

「俺はあいつの飼い主じゃない。俺が気を遣う必要は無いんだな。俺もぶつかればいいんだ」

 呟くと、ギルバートが笑った。

「そうだ。一発入れて、目を覚まさせてやれ」

 楽しげにそういってワインボトルを煽るギルバートに、エドワードは問いかける。

「ギルは何故俺とリッツの事が分かるんだ?」

 みな一様に、どうしたらいいかを悩むばかりで、解決策を示されることはなかった。だがあっさりとギルバートは答えを示す。

 ごく真面目に尋ねたエドワードの言葉に、ギルバートは笑った。

「簡単なことさ。俺はお前やリッツを特別な目で見ていねえ」

「どういうことだ?」

「お前も馬鹿ガキも、立場と種族っていう薄皮一枚剥けば二十代の若造だ。世の中の若造ってのはな、お互いに大切だった人を亡くした時に、どちらかが相手を引き上げてやろうなんてこたあ、思わねえよ」

「……そうか」

「叫んで泣いて殴り合って酒でもかっくらって、その辺の道ばたで酔いつぶれて寝ちまえ。それで前を向くほかねえ」

「豪快だな」

「そうさ。そんなことを後悔したり、懐かしがったりして、みんな男になってくんだろうよ」

「……ギルらしい」

 エドワードは微かに笑った。つい自分の立場に縛られてしまった。リッツは違うと分かっているのに、無意識に自分をリッツの目上においていた。

 そうだ。今後どんな状況になっても、リッツは部下ではなく友だ。ならば普通に、リッツに言いたいようにいいあえばいい。

 たった二年足らずの期間であっても、親友として築き上げてきた絆は、それで崩れるほど脆いものではない。

 エドワードは顔を上げると、かなり短くなってしまった煙草を落とし、立ち上がりながら靴でもみ消した。

「行くのか?」

「ああ。ありがとう、ギル」

 エドワードは見送るギルバートを振り返らず、視線をまっすぐに大樹に向け、そこにうずくまる友を目指して歩き出す。

 何を話せばいいのか、何を言えばいいのか、すぐには決まらない。でも他の人々が言うように、大義名分を持ち出してリッツを慰めることはしない。

 ぶつかり、成長していく。それが友として最も必要なことだ。

 リッツはエドワードの部下にはならない。

 きっとどんな状況にあっても友であり続けるだろう。

 ならば揺るぎない絆を築くことが、いまのエドワードには必要だった。

 戦乱の足音はすぐ近くまで迫りつつある。戦乱の中で迷い戸惑うならば、その絆は崩れる。

 大樹の下までたどり着くと、さわやかな風が吹き、木々で鳥がさえずる声が聞こえた。

 ここだけは大火の前も後も何も変わらない。

 リッツはローレンの墓の前で相変わらず膝を抱えて座っていた。顔は膝に伏せたまま上げようともしない。

 焼けて縮れた髪と、火傷の治療をした後の傷だらけの姿は痛々しい。

 リッツの背後に歩み寄ると、声を掛けた。

「リッツ」

 風がエドワードの髪を柔らかく撫でていく。だがリッツは何の反応も示さない。

「リッツ」

 強く呼びかけると、リッツはのろのろと顔を上げた。やつれた顔で濁った瞳をエドワードに向ける。

 だが言葉は何も出てこない。

「いつまでそうしているつもりだ。そうしていればローレンが帰ってくるのか?」

 まっすぐにその瞳を見つめて詰問すると、リッツは俯いた。リッツの口から言葉は全く出てこない。

 エドワードはそんなリッツの襟首を掴んだ。襟首から持ち上げられるような姿勢で、リッツの手が力なく垂れ下がって揺れる。

「いつまでそうしているつもりだと聞いているんだ! 答えろ!」

 至近距離からかけられる厳しい口調に、リッツは一瞬窺うようにエドワードを見た。

「……分からない」

 一言そう呻いたリッツは、エドワードの強い視線から目を避けるように顔を伏せた。

 エドワードは静かに息をついた。今まで感情は完全に自分のコントロールの元にあった。

 だが今その必要を感じない。

 ここにいるのは王位継承者であるエドワードが心を配らなければならない同志や、部下ではない。

 エドワードという一人の男の友だ。配慮し、遠慮し、心の距離を取るべき相手ではない。

「顔を上げろ、リッツ。いつまでもそんなふざけた態度でいるなら殴る」

 襟首を掴んだまま宣告すると、リッツは初めて視線をエドワードに向けた。

「殴れよ……殴ればいいじゃんか。俺があそこで一歩引いたから、俺が一瞬遅れたからローレンが死んだんだ。俺が……ローレンを殺したんだ……」

 淡々と感情のこもらない言葉だった。エドワードを見ているようで何も見ていない。 

「俺が死ねば良かったんだ……」

 そう呟いたリッツを、エドワードは遠慮無く殴り倒していた。地面に仰向けに叩きつけられたリッツに馬乗りになって、更に一発殴りつけた。

 だがリッツは死んだような目をして動こうとしない。

 生きながらにして生を諦めたようなリッツに、エドワードは怒鳴った。

「ローレンがお前なんぞに殺されるか! 俺の母親だぞ、軽々しく自分のせいで死んだなんていうな!」

「……エド……?」

 リッツが面食らったように目を見開いた。

「ローレンがお前に付いてこいといった時に、お前は命を差し出す覚悟をしただろう? そこが馬鹿野郎だ! ローレンはな、最初からお前の命を取るつもりなんか無かったんだ。最初から必要なところでお前の手を借りたら、お前を絶対に生かすつもりだった。あの状況で最もたくさんの命を救う方法がそれしかなかったからだ!」

 いいながらエドワードは、動かないリッツの襟首を両手で掴んで持ち上げると締め上げた。

「ローレンが感情で人を分けるか!? 分けるわけ無いだろう! あれは考えた末で最善の選択肢を選んだんだ。あの場でお前の命が一番軽かったからなんかじゃ絶対に無い!」

「……エド……」

「お前には分からないだろう! あの時、自分の命を軽んじるお前の命だから借りたんじゃない。それだけのためにローレンが俺の唯一の友の命を借りるもんか! あの時ローレンがお前を選んだのは、この先の未来を救う唯一の方法だったからだ!」

 リッツの目に、少しづつ光が戻ってくる。

 大丈夫だ。エドワードの気持ちは届いている。

「ローレンが助けたのはお前の命じゃない! ユリスラの未来だ! それなのに母さんの覚悟と希望を、お前の責任なんていう、ちっぽけなもので汚すな!」

「汚す……?」

「俺の母は、そんなことで自分の命を犠牲になんてしない。母さんはそんなことで命を落とすような、小さな人間じゃない! ローレン・セロシアも……ルイーズ・バルディアもだ」

「エド……」

「自責の念を抱えて死にたいなら勝手に死ね! だがな、その自責の念は見当違いだ! お前の勝手な思い込みだ!」

「違う! だって俺のせいじゃないか!」

「お前のせいなんていう、ちっぽけなもののために母さんは死なない。お前の都合よく話を持って行くな!」

「だけど!」

 なおも言いつのるリッツを、エドワードはじっと見据えると、リッツの口元が怯えるようにきつく引き結ばれる。

 そんなリッツを見据えたままエドワードは告げた。

「これ以上母さんの覚悟を貶めるのなら、俺はお前を絶対に許さない!」

 リッツを締め上げる自分の手のひらに、ポツリと暖かいものが落ちた。頬を伝い後から後からこぼれ落ちる涙に自分で気がついた。

 見据えていたリッツの瞳が、驚きで大きく見開かれた。その直後にリッツはきつく唇を噛みしめる。

 そんなリッツを、エドワードは揺すぶった。

「失って悲しいなら、そう言って泣け! 後悔するならしろ! でも無様に墓の前で弱りくさって、母さんの死をお前の物にするな! 誰もが後悔して、誰もが泣きたいんだ。お前がここで悲しみを自分だけの物であるかのように抱え込むな!」

「エド……俺……」

「お前がこんなじゃ、誰も泣けないだろう! お前は悲しみに涙することすら俺たちから奪うのか!?」

 いいながらエドワードは気がついた。

 ああそうか。自分は泣きたかったのかと。

 本当に悲しくて、ただただ泣きたかったのだと。

 だが立場がそれを許さなかった。

 リッツと同じように、シャスタも自分を責めている。自分があの時、子供たちが村に行ったことに気がついていれば。すぐに連れ戻すことが出来たら、こんな事にはならなかったと。

 幼いマリーとエリーはまだよく分かっていないかも知れないが、サリーはシャスタと同じように自責の念にかられ、あれ以後一言も口を利くことが出来ないでいる。

 だからエドワードはそんな彼らを暖かく見守り、悲しみを胸に秘めたまま穏やかに彼らを慰めなければならない。それが年長者として、自分の立場として正しい選択だった。

 だが一度感情のたがを外してしまうと、どうしようもなく感情はあふれ出してしまう。

「そんなつもりじゃ……無かった……」

 リッツが呻くように呟いた。

「俺……そんなことにも気がついてなかった……」

「だからお前は馬鹿なんだ!」

 エドワードは乱暴にリッツの襟首を放してリッツの上から降り、リッツから顔を背けてその場に座り込んだ。

 力が抜けたように、リッツが仰向けのまま倒れ込む。

 鼻をすすり、流れた涙の後を乱暴に手の甲で拭ったエドワードは、無意識にローレンの墓に目をやった。

 真新しいローレンの墓には、偶然なのか青々と葉を茂らせたままの大樹の枝がのっていた。艶やかな花ではなく可憐な野草でもない。その力強く天を示す青い枝がローレンらしかった。

 エドワードはじっとローレンの墓を見つめたまま独り言のように言葉を続ける。

「ローレンが救ったのは、シャスタやサリー、マリー、メリーたちが幸せに笑って暮らせる未来だ。そのために必要なお前を助けただけだ。何故だか分かるか?」

「……」

「お前が俺にとって必要だからだ。トップは孤独であれと人は言うが、俺には耐えられない。俺だって普通の人間だ。誰もが望むような聖人君子になどなれない。だがそうなれと総てに望まれる。ローレンはそれに苦しむ俺を知っていた。だからお前に言ったろう。未来を頼むって」

 リッツは知らない。

 ローレンが何故リッツに色々な物事を教えたのか。

 文字を学ばせ、金銭計算を教え、新聞を読ませ、歴史を学ばせようとしたのかを。

 ローレンは遠くない未来、王位の道を歩み出すエドワードが、息苦しさを抱えたままでは自滅することを悟っていた。

 だから信頼できる部下ではなく、友を連れてきたことを喜び、それこそ自分の子のようにリッツを可愛がった。

 きっとローレンは、たった一人でも自分が自分でいられる信頼できる友を持てたなら、人は自滅しないことを知っていたのだ。

 その上で寿命の長いリッツが幸せに生きられるよう、様々なことを教え、習慣づけさせた。

 どことなく生きることに危ういリッツが、人と共に生きられるように。

 皆の望む夢をかなえた後も、リッツがずっと幸福でいられるように。

 ローレンの願う未来は、ユリスラの未来であり、シャスタや、エドワード、リッツが幸福に生きられる時代のことだった。

「なのにお前は、ここで死んで俺の道を閉ざす気か? 俺の野望は俺一人では拓けない。お前が必要だと言ったはずだ。お前は俺の進む戦乱の道に付き合うといっただろう」

 視線を向けると、寝転がったままリッツが自分の目を両腕で覆っていた。

 肩が小さく震えている。

「どうするんだ。ここでローレンの希望を打ち砕いて死ぬのか? それとも立ち上がるか? お前の未来だ、お前が決めろ」

 静かに語りかけると、しばらく黙ったままいたリッツが両腕で顔を隠したまま大きくしゃくり上げた。

 リッツはローレンが死んでから初めて泣いていた。大の男が子供のように号泣している。

 エドワードは小さく笑った。泣ければ大丈夫だ。まだ感情は壊れていない。

「死なないっ……」

 しゃくり上げて泣きながらリッツが怒鳴った。

「死なないっ! ローレンの……夢を叶えるまで……俺は死なないっ! みんなに俺が死ねばよかったとか、そう思われたって、俺、死なないで頑張る」

 しゃくり上げながらも答えたリッツの頭に、ギルバートがしてくれたように手を乗せてワシワシとかき回す。

「馬鹿だなお前は。お前はお前だろう? ローレンの代わりに死ねばよかったなんて、誰も願わないよ」

「だけどっ……!」

「だけども何もないだろ。確かにローレンは俺の母親で俺の大切な人だ。だけど俺は、お前も大切なんだ。シャスタも、アルバートも同じ思いだ。お前もセロシア家の家族だろう?」

「家族……?」

「そうだ。お前もローレンと同じく、家族だ」

 柔らかくエドワードが言い切ると、リッツは大きくしゃくり上げた。

「……うっ、うえっ……」

 必死でそれを止めようと、リッツは乱暴に両腕で涙を拭っている。だが一度こみ上げてしまった激情は抑えようがなく、リッツは号泣し続けている。

 大樹からの木漏れ日を浴びながら、エドワードは空を見上げる。

 穏やかな時間は長くは続かない。エドワードは今後どうなっていくのか、既に分かっている。

 ジェラルドとはオフェリルがグレインに再び侵攻した場合を想定して、今後の展開を決めていたのだ。

 自治領区の境界を侵され、村人を殺された今、グレイン自治領区は黙っていない。

 先に仕掛け、罪もない村人たちを絶望へと追いやったオフェリルに攻撃する大義名分は手に入っている。

 ならばグレイン騎士団と義勇兵は、決して自らの領地を犯したオフェリル領主を許さない。

 だが私怨によって戦いを展開することは出来ない。

 この機を一つの転機と捉え、自らの足場を固めるべく、勢力の拡大を図らねばならないのだ。

 エドワードがリッツを連れてグレインへ戻ったところから、新たな作戦が展開される。

 その後、グレインとオフェリルの対自治領区戦が始まるのだ。

 エドワードにとっては無くてはならない親友は、新たな作戦においても役割を与えられている。

 リッツをここで失えないのは、エドワードだけではない。ローレンが言い残したとおり、未来がリッツの存在を必要としている。

 流れゆく雲を見ていると、やっと泣き止んだリッツが起き上がった。感情のはけ口が出来たお陰で、ようやく気持ちが落ち着いてきたようだ。

「ごめん……エド……」

「いいよ」

「迷惑かけちゃったよな……」

「まあな」

 頷きながら見ると、リッツの焼けた金の髪が、ふわふわと巻いていて、涙と鼻水を拭くリッツが妙に面白かった。思わず口元が緩んだ。

「仕方ないさ。お前はなんと言ってもプディング頭だからな」

「……プディング頭っていうなよ。すっげぇ馬鹿になったみたいだろ」

 鼻をすすりながらリッツが抗議した。

「仕方ないだろう。お前は馬鹿なんだから」

「何だよエド……今日は容赦ないな……」

「ああ。お前に容赦するのはやめた。馬鹿には馬鹿とはっきり言うさ」

 もう無意識の立場を意識して、妙な距離を開けたりはしない。

「ひっでぇ……」

 むくれるリッツの頬を両手で引っ張った。

「い、いたひっ! エド、いたひっへ!」

「ひどいのは誰だこの馬鹿が! 全員に心配かけておいて、自分は馬鹿じゃないとでもいうのか?」

 きっぱりとそう言うと、リッツはつままれたまま目を伏せて落ち込む。エドワードはつまんでいた手をそのまま引っ張って外すと、返す手でリッツの額を人差し指で弾いた。

「いって~っ!」

 悶えるリッツを尻目に立ち上がる。

「ギルバートもソフィアも心配してる」

「……うん」

「グレインではジェラルドとアルバートも心配してる。パトリシアは怒り狂ってたな」

「うわぁ……」

 小さくため息をついたリッツの背中を勢いよく叩く。思いの外いい音が出た。

「ほら、謝りに行くぞ。焼プディング頭」

 エドワードは立ち上がった。みなリッツの事を気にしているのをエドワードは知っている。

「焼って……」

 はれぼったい目をしながらも、むくれて頭に手をやったリッツは、焼かれてちりちりになった自分の頭に軽くショックを覚えている。

「……うわぁ……焦げてる……」

「いい焼け具合だな。美味しそうな焼プディングじゃないか」

 肩をすくめてそういうと、リッツは口を尖らせた。

「……切ってやる。絶対に髪を刈り上げてやる……」

「そうしろ……みんなに謝ったらな」

 いいながらエドワードはまっすぐにリッツを見つめて拳を突き出した。リッツもエドワードの目を見て、エドワードの拳を拳で叩き返した。

「行くぞ」

「おう」

 頷いたリッツが立ち上がる。二人で同じ空を眺めた。動き始めた時代の流れとは違って、ゆっくりと雲が流れていった。 

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