<4>
宿のベットに寝転がりながら、リッツは天井を見上げていた。
隣のベットでは、エドワードが黙ったまま同じように寝転がっている。
安宿に泊まったことはあるが、こんなに高級な宿に泊まったのは初めてだ。
時間も空間ももてあまし、リッツはただただぼんやりと今日のことを思い返している。
王宮でイーディスに謁見して厩舎に帰ってからすぐに、侍従と侍女たちがやってきた。
彼らは大量の荷物を引いていて、その中には彼自身の荷物もあった。
彼らのほとんどがグレインの者たちで、ジェラルドの家に関係する人々だったのだ。
ルイーズが王宮に召し上げられる時、せめてもの支度にと召使いたちを、彼女のために見繕って付けたとジェラルドが説明してくれた。
その後代替わりをしたものの、従者たちはみなグレイン出身者だったのだ。
だがルイーズの死によって、彼らも王宮でのつとめを終えてグレインに戻るのだという。
やがて荷物は彼らに任せても大丈夫だと判断したジェラルドは、彼らと騎士たちの大半をその場に残し、リッツとエドワードを連れて王宮の霊廟に向かった。
霊廟は更に王宮の奧にあった。
王宮の中にあっても別世界のように静まりかえった、木々の多い庭園の小道では、誰ともすれ違うことがない。
ジェラルドを先頭とした一行も、重苦しい雰囲気の中で誰も口を開くことなく黙々と木漏れ日の揺れる小道を歩く。
のどかに鳥の声が響き、風が吹く旅木々のざわめきが人々を包み込む。
ここが霊廟へと続く道でなければ、そして向かう理由が友の死んだ母に面会するためでなければ、きっと心地よい空間だっただろう。
だがそう思うにはリッツの気分も重すぎた。
小道はやがて立派な石造りの建物の前で途切れた。
重たげな扉は開かれ、そこに年老いた男が一人、こちらに頭を下げて立っていた。
彼が霊廟の墓守だった。
墓守はジェラルドに説明をすると、入り口に置かれていた幾つかのランプを指さした。
幾つ持って行っても構わないらしい。
刺客に襲われる事を考慮に入れて、先頭を行く騎士とリッツ、最後尾の騎士がランプを手にした。
そして残りの騎士三人を、霊廟の見張りに立てた。
全員で霊廟に入り、扉を閉ざされればお終いだからだ。
先ほど通ってきて分かるとおり、この霊廟に閉じ込められたら、誰にも気がつかれずに終わる。
準備が出来た一行は、墓守によって建物の中に誘われた。
霊廟は建物の中に入ってすぐ、先が全く見えないような大きくて長い下りの階段になっていた。
霊廟というものを初めて見たリッツは、何だかその空間が、異世界のような気がして一瞬身震いする。
だが隣のエドワードを見て平常心を取り戻した。
リッツに取っては気味の悪い異世界かも知れないが、この奧にはエドワードの母ルイーズがいるのだ。
ランプを手に乾いた靴音を高く響かせながら、立派な彫刻に彩られた地下への階段を下りると、徐々に空気が変わっていく。
外の空気と違い、霊廟の底には、ひんやりと冷たい空気が満ちていた。
季節はもう春で、柔らかな暖かさが広がりつつあるというのに、まるで季節が逆戻りしたようだ。
警戒しながら階段を下りきったその先には、大きな木の扉があった。
墓守が難なく開けたその扉の先は、ほこり臭い地下室だった。
今までよりも更に冷たい空気と、埃っぽい空気が流れ出してきて体にまとわりつくような気がする。
思わず足を止めたリッツだったが、ジェラルドは迷いなく中へと入っていく。
リッツも慌てて後を追った。
その地下室は、思ったよりもずっと広かった。
歴代の国王の棺が奧から順繰りにずらりと並んでいる。その棺の前には銘々墓碑が立てられていた。
リッツは手にしていたランプを掲げて手近にあった棺と墓碑を眺める。
その総てに死んだ年齢と、王の名、王の諡、そして王の実績が記されていた。
隣に並べられているほとんどが、王妃の棺だ。
王妃の棺の前には、墓碑があるものとないものがある。
その棺の一番手前、そして次の王が入るであろう順番の場所とは離れた片隅に、まだ埃をかぶっていない真新しい棺が安置されていた。
美しく飴色に輝く木製の棺は、ランプの明かりを柔らかく反射している。
墓守はその棺を指さしてルイーズの棺だといった。
王妃の命により、棺は霊廟に安置するが歴代の国王や王妃と同じようには、おけないとこの位置になったそうだ。
死んだルイーズでも国王から離しておきたいらしい。
墓守に案内されて棺の前に立ったジェラルドは、ゆっくりと墓碑に書かれていた名前に触れた。
リッツもそのジェラルドの指先を見つめる。
ルイーズ・バルディア……。
グレインを守った女性で、エドワードの母の名がそこにあった。
それを確認してからジェラルドはおもむろに金貨を数枚握らせて、墓守へ出て行くように命じる。
墓守も心得たもので丁寧に金貨を受け取ると、恭しく霊廟を出て行った。
墓守のランプの明かりが消えて、完全に姿を消したのを確認してから、騎士たちの手によってゆっくりと開かれた棺には、死に化粧をされた美しい女性が花に囲まれて眠っていた。
花はもうしぼんでいたり枯れていたりしたが、もう二週間以上経っているというのに、まるで眠っているように綺麗だった。
ジェラルドの半歩後ろからのぞき込んだリッツは、その美しさに息をのんだ。
国王がイーディスではなくルイーズを選んだ理由が、分かるような気がする。
顔の美しさはおそらくイーディスもルイーズもそれほど変わらないだろう。
だがルイーズの眠っているようなその表情は、限りない優しさに満ちていて、引き締められた唇は意志の強さを感じさせられた。
ルイーズの美しさには、無理がなかった。
イーディスから感じられるような妙な違和感を感じない。
人は死してもなお、人格が表に出るのかも知れない。
まじまじとルイーズを見つめ直して、リッツは気がついた。
ルイーズとエドワードは、かなり似ている。
エドワードは間違いなくルイーズの子だ。
誰もが一目見てそう思うだろう。
ジェラルドがリッツとエドワードの髪を染めさせた理由がよく分かった。
確かにエドワードが金髪のままでいたなら、確実にルイーズの子だと気付かれていたに違いない。
リッツは視線を隣のエドワードに向けた。
揺らめくランプの明かりの中で一瞬立ち尽くしたエドワードは、ジェラルドに促されるように棺の横に立った。
リッツとジェラルドは棺から更に一歩下がる。
騎士たちは更に後方へと下がり、霊廟の入り口に待機した。
ここにいる騎士はみなエドワードの事情を知っているのだろう。
ジェラルドもエドワードも騎士たちには何もいわない。
リッツはエドワードの後ろで、友の事を見つめていた。
エドワードの心境を思うと、リッツには声の掛けようがない。
じっと棺の中を見つめていたエドワードは、やがてそっとルイーズの頬に触れた。
確かめるように指先がルイーズの頬を撫でる。
これがエドワードとルイーズの二度目の対面だ。
一度目はルイーズがエドワードを産み落としてからの一週間だった。
こんな形でしか再会できなかった親子の姿を見ていると胸が痛い。
しばらくそうしていたエドワードだったが、不意にルイーズの元にかがみ込んで、美しい死に顔の母にそっと顔を寄せた。
エドワードが小さく呟いた声を聞いたのは、隣にいた特別に聞こえのいい耳を持ったリッツだけだったろう。
息をのむリッツが聞いたのは、エドワードが本当に優しい声で『母さん、来たよ』と言った寂しげな声だった。
そんな姿に、リッツはただ黙って立っているしかなかった。
たった一言。
でもその一言にエドワードはどれだけの感情を込めたのだろう。
その本当の気持ちを推測することなど、リッツには出来なかった。
だからただただ悲しくて辛かった。
本当はエドワードとルイーズ二人だけにしてあげるのが親切なのかも知れない。
でも命を狙われるかも知れないからそれも出来ない。
しばらくの対面の後、沈み込んでしまったリッツを気遣い、エドワードから『戻ろう』と言われて頷いた。
そして黙ったまま霊廟を出て、小道を通り、荷物の積み込み現場を確認し、騎士たちと共にジェラルドが定めた宿へと戻ってきたのだ。
それから何となく、リッツとエドワードは言葉を交わすでもなく、与えられた部屋に寝転がっている。
何を話したらいいのか、どういう顔をしていいのか分からないのだ。
エドワードだって、リッツに慰めて欲しくないだろうし、同情して欲しくもないだろう。
でもこの状況で何も無かったように別の馬鹿話をする気にもなれない。
せめてエドワードの好きなチェスでもあれば気が紛れるのだが、そういったものは、ティルスにおいてきてしまった。
リッツは寝返りをうつふりをして隣を伺ったが、エドワードが起きているのか寝ているのかも、はっきりしない。
エドワードから話しかけてくれればと思ったりもするのだが、一番辛い思いをしているのはエドワードだ。
エドワードに気を遣わせたくない。
明日の早朝には、この街を出ることになるだろうから今日はこのまま休んだ方がいいかもしれない。
黙ったまま目を閉じて本当に寝てしまおうかと思った時、部屋の扉が叩かれた。
騎士団の誰かだろうかとひょいと身軽にベットから飛び起きる。
リッツと同じように、エドワードも身を起こした。
やはり起きていたらしい。
振り返りざまエドワードに尋ねる。
「なんか約束あったっけ?」
「俺はない。お前こそあるか」
「ある分けねえじゃん。シアーズに知り合いなんていねえもん」
「それはそうだな」
軽口をたたきながらも、リッツはベッドサイドに置いていた剣を手にする。
今日の今日だから用心するに越したことはない。
もしかしたら、イーディスに何かを仕掛けられたりする可能性もあるのだ。
「出ていいかな?」
小声で確認すると、エドワードも剣を手にして頷いた。
「でなくても怪しまれる」
「だな」
「用心はしろよ」
「はいはい」
警戒しつつものんびりとそういってから、リッツは部屋の扉をゆっくりと小さく開いた。
もし知らない奴らが数人いたら扉を閉めた方が良さそうだ。
隙間から扉を叩いていた人物を確認して、心の底から安堵する。
そこにいたのは、ジェラルドだった。
王城に行ったときとは打って変わってかなりラフな格好をしているジェラルドは、貴族というよりもこの街の平均的な紳士といった出で立ちだった。
頭にはしゃれた帽子をかぶっていて、ぱっと見ると遊び慣れた社交的な大人の男に見える。
「なんだ。おっさんかよ」
「ああ。立ち話も何だから、お前たちも着替えてすぐに出てこい」
「え?」
予想外の言葉に一瞬黙ると、ジェラルドは中のエドワードにも聞こえるように声を掛ける。
「カフェにいる。支度が出来たら降りてこい。いいな」
この言い方は断れない言い方だ。
案の定エドワードも小さく肩をすくめて頷いた。リッツも頷いて返事をする。
「了解。カフェね」
「そうだ。着替えはパティが誂えたのを着てくれればいい。それぞれの荷物に入っている」
それだけ言い残すと、ジェラルドは部屋を出て行ってしまった。
わけが分からず、リッツはエドワードを振り返る。
「……パティが、なんだって?」
「服を誂えたといっていたな」
いいながらも、エドワードは既に自分のトランクを開いている。
リッツも急いで自分のトランクを開く。
このトランクも、ジェラルドたちが用意したもので、リッツたち個人の持ち物ではない。
トランクの中には、きっちりとアイロンを当てられた折り目正しい服が入っていた。
両手で広げてみると、少し濃いめの枯れ草色をしたベストと同色のパンツ、臙脂のリボンタイに白くて真新しいシャツだった。
確かにリッツは、騎士団の制服以外に、こんなにちゃんとした服を着たことがない。
「うわぁ……着たことないや、こんな服」
いいながら振り返ると、エドワードが自分のトランクから服を取り出しているところだった。リッツと全く同じデザインのその服の色は、グレイで、リボンタイは深い青だった。
「エドはずいぶん地味だな」
「そうか? お前もずいぶん明るい色だな」
「そうかな?」
ジェラルドを長く待たすわけにはいかず、お互いに初めて見る自分の服に袖を通す。
総てを身につけたがリボンタイが結べず、リッツはエドワードに結んで貰った。
驚くほどにぴったりのサイズの服で、背が大きくて服は総て誂えなければならないリッツは感心した。
いつの間にサイズを測ったのだろう。
制服を作った時と同じだろうか。
総てを身につけてから、改めて鏡を見たリッツは、見慣れない自分の姿にため息をついた。
「この格好さ、何か俺、すっげー軽薄に見えねえ?」
鏡の中には上から下まできっぱり黄色系統で統一された格好の自分が立っていて、それが妙に浮かれて見えておかしかった。
「そうか?」
自分のリボンタイを結び終えて振り返ったエドワードを見て、リッツはため息をついた。黒髪にグレイのベストのエドワードは、普段のエドワード以上に、とてつもなく落ち着いた知的紳士になっているのだ。軽薄な印象のリッツとはまるで真逆だ。
「エドはすげえ落ち着いちまってるな」
「そうだな。まあ、この髪では仕方ないさ」
「髪? ……あっ……」
言われて初めて気がついた。
この服は、お互いの普段の髪色に合わせて選んであるのだ。
つまりパトリシアはこの服を今日のためではなく、リッツとエドワードそれぞれに見繕っていたようだった。
金髪では軽薄な男に見えるリッツだが、黒髪になればこの服でも違和感がないだろう。
「そっかぁ……。俺てっきりまだパティに『軽薄な女好きめ』とか嫌がられてるのかと思ったぜ」
「そう思ってるなら、パティは直接お前に言うさ」
「そりゃあそうか。じゃいいけどさ」
そういえば給料が出るようになって、幾度かグレインの街の娼館や、女性のいる飲み屋で遊んだりしたが、そのたびにパトリシアから嫌味をたっぷり言われたり、怒られたりしていた。
直接言わないパティではない。
それにリッツは最近、パトリシアから小言を言われるのが嫌でもなくなってきた。
というよりも嫌味を言われないと、ちょっとつまらない気もするのだ。
パトリシアが自分を認めてくれたから、少し安心して彼女と接することが出来るようになったからなのか、それともただ単に小言に慣れたからなのか、それは分からない。
「パティが気になるのか?」
唐突に言われたエドワードのからかいを含んだ口調に、リッツは言葉に詰まった。
一瞬その言葉の意味を捉え損ねたのだ。
「パティが、なんだって?」
「だからお前はパティに気があるのかって聞いているんだ」
意味が分かった瞬間に心臓が跳ね上がって、リッツは焦った。
「そんなわけないだろ! 何言ってるんだよ!」
「そんなに慌てて否定することでもないだろ?」
「そうだけど、違うって!」
何故だか焦る理由が自分でも分からない。
なのに鼓動はむちゃくちゃ早い。
「エドだって、俺と一緒になって遊んでるから、パティに小言、いわれまくってんじゃん」
「パティは妹みたいなものだからな。お前みたいに動揺はしないさ」
「動揺してねえもん」
小声で言うと口を尖らせたまま、ベルトに取り付けられた金具に剣を取り付けた。
何だかこのままエドワードと話していると、話が変な方向に行きそうだ。
ちらりとエドワードを窺うと、エドワードもリッツと同じように剣を取り付けていた。
その表情は穏やかで静かだ。
霊廟から帰ってきて一度も話をしていなかったことを思い出して、少しほっとする。
これでいつも通りになりそうだ。
パトリシアの話題に少し感謝してもいいかもしれない。
だがパトリシアの顔を思い出してリッツは慌てて打ち消した。
何だか今彼女の顔を思い出すと、妙な気分になる。
「行くか?」
エドワードに問われて、リッツは頷いた。
部屋を出ると、柔らかなカーペットの続く廊下を歩いて行く。
この階に騎士団全員が宿泊しており、この上の最上階にジェラルドが部屋を取っている。
自室に引っ込む前に見せて貰ったのだが、広いリビングと寝室がある大きな部屋で、リッツから見ると無駄に広かった。
この宿に一部屋しかない特別室なんだそうだ。
やはりジェラルドはお金持ちの貴族なのである。
普段のジェラルドの生活からすると、何だか信じられない思いだ。
大理石が敷き詰められた階段を並んで降りていくと、宿の一番下の階は広いロビーになっていて、ゆったりとしたソファーが沢山置かれている。
そこでくつろぐ人々がくゆらせた煙草の煙が、ゆっくりと空間を漂う。
部屋の隅には大きなピアノが置かれ、静かな曲がこの空間を満たしていた。
何だかそれだけでものすごく贅沢で、リッツには自分が場違いに感じる。
多くはない客たちの間を、宿の従業員たちが飲み物を持って廻っている。
スマートなその姿はリッツから見ると、ものすごく都会の人といった感じで、自分にはこんな仕事は勤まりそうにない。
帽子を取り、長い足をゆったりと組んでグラスを傾けているジェラルドを見つけるのに時間はかからなかった。
きょろきょろしていたところを、ジェラルドから見つけてくれたのだ。
リッツとエドワードがそちらに向かおうとするのを手で制したジェラルドは、テーブルにのせられていた帽子を片手でかぶると、二人に歩み寄ってきた。
「似合ってるじゃないか。では行こう」
リッツとエドワードの間に入ったジェラルドが、二人の肩を叩くと、そのまま一歩前を歩き出した。
その背中にリッツが話しかける。
「服、ありがとう」
「ああ。どうだ、パティの見立ては?」
「あ、うん。いいと思うよ」
先ほどのエドワードとのやりとりを思い出しながらちらりとエドワードを見ると、笑いをこらえているのが分かった。
何だかそれが妙に恥ずかしくて、リッツはジェラルドに並んで話しかける。
「これ結構高価だろ。俺が貰っても本当にいいの?」
「もちろんいいさ。お前はまともな服を持っていないだろう?」
「持ってるよ。普通の服ならさ」
「お前の普通は、街や改まった場に出るのも、これから行くところにも不似合いなのさ」
「そうなの?」
「そうだ。特にここシアーズではな」
「ふうん……」
リッツは頷いた。
確かにいつも通りの格好では、宿泊先にいても場違いな気がして、何だか少し自分をもてあましてしまった。
きっと場所には場所に合う格好というのがあるのだろう。
そんなことも初めて知った。知ることが多すぎて大変だ。
「で、どこいくの?」
「着いてのお楽しみだ」
ジェラルドはそういうと、笑みを浮かべた。
何だか妙にエドワードっぽい表情だ。
どうやらジェラルドはリッツを驚かせる魂胆らしい。
血が繋がっていないのに妙に似た印象を受けることがあるのは、ジェラルドがエドワードの教育者だったからかも知れない。
今日あったことをあえて口には出さず、雑談をしながら街の雑踏を抜ける。
話ながらでもジェラルドの歩調は緩まない。エドワードも慣れているのか普通に歩いて行く。
リッツだけが人混みの中で人とぶつかり、慌てふためいている。
こんなに人が多いところを歩くのは初めてだ。
しかも建物と建物の間に境目がない。
総ての建物がひしめき合うように三階、四階建てに連なり合っていて、切り取られたかのように空が狭い。
一階は店らしいが、上の階にはバルコニーや、窓がたくさんあって、植木や洗濯物がかかっているところもある。
こんな街中でも、生活圏なのだ。
何でこんなに人がいるのかと、ため息をつきながら歩いていると、ジェラルドは大きな道から少し細めの道に入っていった。
細めといっても両側にはカフェやバーが建ち並び、賑わいは衰えない。ただ人の数は少しだけ減った。
それだけでリッツはほっと息をつく。
この街の雰囲気は、とても疲れる。
森や野原の方が格段楽だ。
でも人が多く集まっていると言うことは、ここにはそれなりに人が集まる理由があるのかも知れない。
道をしばらく歩いて、また少し人通りが少なくなってきたところで、ジェラルドは足を止めた。
そこには立派な石造りの建物があり、しゃれたアーチ状の扉があった。
「ここ?」
指さしたリッツを無視して、ジェラルドは数段の階段を上がって、扉を押し開けた。
「おっさんってば……」
慌てて追いかけると、扉の中から柔らかな光が漏れ、静かな音楽が流れ出ている。
ピアノと何かの楽器の音だ。
完全に扉を開けたジェラルドから呼ばれ、エドワードには後ろから軽く小突かれて、リッツは言われるままに扉をくぐった。
そこは今までの暗い石畳の道とは、全くの別世界だった。
沢山のシャンデリアが掲げられて明るい正面ロビーには、ピアノとバイオリンを演奏している人がいる。そしてその前では、音楽に身をゆだねるようにして数組の男女が体を揺らして踊っていた。
だがその踊りは妙に密着度が高くて、艶めかしい。
そして踊っている男女が、体を密着させたまま微笑みあって何処かへ姿を消していく。
ものすごく怪しい印象だ。
「……うわぁ……何ここ?」
感嘆の声と疑問の言葉が同時に飛び出した。
今までこんな店に来たことがなかったのだ。
だがエドワードは苦笑しながらジェラルドに話しかけた。
「何故、娼館に?」
エドワードの言葉にリッツは声を上げた。
「娼館!? ここが?」
今まで見てきたグレインの数件の娼館とは、全く印象が違う。ダンスホールなんて無かったし、こんな風に男女が踊って、それから部屋に消える何て事もなかった。
「つうかなんで娼館?」
思わずエドワードに聞いてしまったのだが、エドワードは肩をすくめた。
「俺に聞くな」
確かにそうだ。リッツは正直にジェラルドに向き直った。
「何で娼館なんだよ?」
「事情があってな」
そういうとジェラルドは二人にも座るように促してから、ダンスホールに置かれた身近なテーブル席に座ると、軽く手を上げた。
すぐに美しい女性が寄ってくる。
「いらっしゃいませ。今日はご指名がおあり?」
艶やかな笑みに、大きく胸の空いたドレス、切り込みの入ったスリットから美しく見える白い足。
この女性も娼婦だ。
リッツは思わず唾を飲み込む。
グレインもすごい女性が揃っていたけれど、ここは更に女性がすごいレベルだ。
こんなところで遊ぶ気だろうか?
きっとリッツの給料では、払えない額になるのだろう。
だがジェラルドは、穏やかに女性に微笑みかけた。
「マレーネはいるかい?」
「あら、マダムのお客様なの? 残念。こんなに素敵なのに……」
娼婦の指がゆっくりとジェラルドの手の甲を這う。
ドキドキしながら見ていると、娼婦の後ろから来た女性が、ゆっくりとした動作で娼婦の肩に手を置いた。
「そう、素敵なの。残念ね。他に客を探しなさい」
「もう、マダム、意地悪ね。御用でない時は、また寄って」
「ああ。機会があれば」
「待ってるわ」
色っぽく片目を瞑った女性が、笑顔で去っていく。
代わりにその場に残ったのは、ジェラルドと同じぐらいか少し若い年齢の女性だった。
スマートながらも魅力的な体つきの女性で、先ほどの女性と比べると露出は決して高くない。
両肩を出しつつも、ハイネックの黒いドレスを身にまとっている。
スカート丈も長くスリットは入っていないのに、全体的には妙に艶めかしい。
紅い口紅に彩られた三日月のように形の良い唇が、ジェラルドに向かって楽しげに綻びた。
「久しぶりじゃない、ジェリー」
「ああ。ご無沙汰をしてしまったね」
「シアーズに来ることもあるのに、ずいぶんと足が遠のいていたわね」
「知っていたのかい?」
「好きな男の事は知っていて当然だろうジェリー」
「はは。参ったな。さすがはマリーだ」
どうやらマレーネの愛称はマリーのようだ。
二人は気心が知れた中なのか、穏やかに親しげに言葉を交わしている。
二人の会話を聞きながら、リッツはエドワードの耳元に口を寄せた。
「な、おっさん、ここの常連?」
「さぁ。前に一度連れてこられたけど、詳しくは知らないな」
「来たんだ。いいなぁ、いい女と当たった?」
リッツが興味津々に尋ねると、エドワードは小さく息をついてリッツの頭を小突いた。
「馬鹿」
「いて。冗談だって」
小突かれた頭を軽くさすると、リッツは再びジェラルドとマレーネに目をやった。
二人は親しげに言葉を交わしている。
何だかそれがいい雰囲気で、リッツとエドワードは所在なく黙っているしかない。
ため息混じりに両肘を付いたリッツに、エドワードがそっぽを向いたまま小さく呟いた。
「かなりいい女に当たったぞ」
「ホントか!? いいなぁ~」
「……お前、やっぱりただの女好きだろう?」
エドワードに呆れられた。
確かに女性と関係することはそれなりに侘びしい思いもするし、心が満たされることもない。
相変わらず心の中の空虚さを自分の中に見つけ出してしまうことも多々ある。
でもそれを自分の中で噛みつぶしてしまうことが出来たら、得られる快楽と暖かなぬくもりは、何にも代え難い。
甘えてるのかも知れないが、やはり人の温かさは、孤独と恐怖を包み込んでくれる。
それが好みの綺麗な女性だったら文句なしだ。
「どうせ女好きだもんね~だ」
「開き直るな。全くお前は」
エドワードのため息にリッツは視線を逸らす。
そんなリッツをエドワードが心配しているのは、重々承知している。
リッツの中では一番大切なものが、エドワードとセロシア家の一家、ジェラルドとパティなど、リッツに近い身内だ。
広く言えばいつも相手してくれる騎士団の隊長たちも、ティルスのマルヴィルやその家族も同じく大切な人たちになっている。
暖かくリッツを迎え入れ、今は村の若者として普通に接してくれるティルスの人々だって大切だ。
でも大切な物の中に、リッツ自身の命は含まれていない。
仲間たちを守るためならば、別に自分の命はどうでもいいのだ。
自分が生き残っても彼らが生きなくては仕方ない。
リッツ自身が見いだした自分の居場所である彼らが生きているから、自分が生きていられるのだから。
そんなリッツがぬくもりを求めて甘えられるのは、娼館の女性だけだった。
身内に甘えて、自分の居場所を自分で壊してしまうのは嫌なのだ。
だから大切な人たちに甘えるのではなく、必要とされる存在であり続けるために役に立ちたい。
エドワードたちの役に立ちたいし、みんなと共ににいたいから、一生懸命に頑張る。
エドワードはそんなリッツに、ため息をついて甘えてもいいんだというのだが、リッツと同じように自分を律しているエドワードに言われたって困る。
エドワードこそ、リッツに我が儘言えばいいのにと思ったりもするぐらいだ。
なにせ未だにリッツはエドワードに命を預けっぱなしにしているのだから。
というよりも自分で自分の命を管理しているよりも、エドワードに預かっていて貰う方が、長く生きて行けそうな気がする。
何しろ勝手にのたれ死ぬことは許されないのだから。




