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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
冀求の種子
23/179

<2>

 月明かりが眩しいせいなのか、それとも生まれてこの方会ったことのない母の訃報を聞いたためか分からないが、エドワードは寝付けずにいた。

 体の中がざわつく。

 何かが体の中で自分の心の中を掻きむしる。

 母の死を聞いた瞬間から、感情が小さく波を立て、今は大きなうねりとなって、苛立ちや焦りに近い感情に変わっていた。

 エドワードは髪を掻きむしった。

 子供の頃から自分の感情をコントロールする術を教え込まれてきたし、自分でも心がけてきたが、この感情のざわめきは、どうにも止めようがない。

 ベットから起き上がり、隣のベットで寝ているはずのリッツに目をやった。

 真っ黒な髪を不本意にも美しい金髪にされてしまったリッツは、ベットに入っても往生際が悪く、ぶつぶつと文句を言っていたのだ。

 そのリッツはすっぽりと布団をかぶってしまっていて、頭すらも全く見えない状態になっている。

 これならば気がつかれないだろう。

 エドワードは枕元に護身用においてある自分の剣を手にし、扉のそばにかかっていたランプを手に取るとそっと物音を忍ばせて小屋を出た。

 静かな夜の中で、やけに大きく自分の足音だけが響いて聞こえる。

 窓から差し込む月明かりがあれほど明るかったから、外は更に明るい。

 満月だろうか。

 例えそうではなくとも、満月に近い月が出ているのだろう。

 空を見上げるとほとんど雲もなく、満点に広がる星もこの漆黒の夜空に光を与え続けているのが分かった。

 そんな美しい空に見とれることもなく、エドワードは小さな馬小屋に向かった。

 ここには騎士団から支給されたエドワードとリッツ、両名の馬と、アルバートが所有し、グレインとの行き来に使う馬が繋がれていた。

 ここへ来た時にはジェラルドも馬を繋ぐのだが、今はジェラルドの馬はいない。

 ジェラルドはエドワードたちの髪を染めるのを見ることもなく、足早にグレインへと戻ったのだ。

 明日の午前中、騎士団の第一隊を率いて、共に王都へ向かうべく準備するとのことだった。

 国王の愛妾の遺品整理ともなれば、馬車の隊列が必要だろう。

 母ルイーズのことを思い出して、エドワードはこぶしを握った。

 確かに一度もあったことのない母だった。

 だが他に血縁者を持たないエドワードにとってはたった一人の母だった。

 苛立ちのままに、エドワードは愛馬の前に立った。

 栗毛の愛馬はエドワードの気配を察していたのか、黒くつぶらな瞳でじっと主人を見つめている。

 グレインは一大農業地帯であるだけではなく、畜産も盛んで、特に北西部では優秀な馬が数多く産出されている。

 エドワードに与えられている馬もその地域産の馬だった。

「夜駆けに行かないか?」

 馬を撫で、繋いである紐を解きながら小さく語りかけると、馬は鼻をすりつけてきた。

 馬には人の気持ちが分かるという。ならばこの心をざわつかせる苛立ちの事も察しているのだろうか。

 おとなしくしている馬に使い込んだ鞍を乗せて、小屋から引き出し、馬上に飛び乗った。

 どこに行きたいのか、どうしたいのか、自分でもよく分かっていないが、とにかくこの苛立ちを何かにぶつけたかった。

 だがそれは身内や友であってはならない。

 自分でも理解できない苛立ちを大切な人々にぶつけることは出来ないのだ。

 ティルスの村は寝静まっている。

 災害や防犯に備えて、数本のオイル灯だけが一晩中灯ってはいるが、最低限のため村全体がかなり暗い。

 静かな夜だ。

 春の冷たい風すら心地よいほどに。

 でもその心地よささえ、何故か自らの心に届きそうにない。

 こんな真夜中に馬を走らせては、村人に迷惑がかかってしまうだろう。

 静かに馬を歩かせながら村の集落を抜ける。

 幸い、誰にも見とがめられることはなかった。

 止まることなく歩を進めていくと、村人の家が徐々にまばらになり、街道へと続く細い道の両側は、畑になっていく。

 暗い中で、エドワードのランプが頼りなげに暖かな光を灯している。

 まだ緑に茂っている麦畑をエドワードは黙々と前だけ見据えて進んでいった。

 時折吹くまだ冷たい風は、染められた重たげな印象の黒髪を揺らし、麦畑の葉を揺らしてサワサワと一斉に音を立てる。

 こんなにも静かな中にいるのに、心の中はいっこうに醒めてこない。

 麦の葉がたてる音のように、ざわめきつづけている。

 エドワードは、母や叔父のことを思った。

 二人が農家の子として生を受けた時から、この村は変わらないに違いない。

 同じ景色を見て、同じように季節を感じ、静かに時を過ごしていたのだろう。

 だがティルスに生まれた普通の兄妹は、決して逆らうことの出来ない強大な権力という名の力によって人生を狂わされ、そして命を奪われた。

 そしてその強大な権力は、遙か遠くにありながらも、エドワード個人の前にその力の一端を差し出した。

 エドワードは甘んじてそれを受け入れる。

 例えそれが、自分の肉親を奪い去った権力であるとしても。

 そう決めた。

 もう決意は揺るがない。

 それなのに、何故心がざわめくのだろう。

 グレイン街道から村への入り口には、ほんのわずかな林が残されていて、木々が茂っている。

 ここを抜ければ街道だ。

 街道をグレインかオフェリルか、どちらに行くか決めなければ。

 そう思った瞬間だった。

「勇ましい格好でどこ行くんだよ、エド」

 不意に頭上から、はっきりとした声が聞こえた。

 意表を突かれて振り仰ぐと、そこに密集する木々の中でも、ひときわ大きい木の上に人影があった。

 月の光が逆行になって、人影を後ろから照らしている。

 金の髪が冷たい月の光を反射して淡く輝き、人とは違う尖った形の耳が影となってはっきりと透けて見える。

 木の枝に腰掛け、長い足を揺らしているその姿は、まさに世間一般に知られている幻想的な精霊族そのもので、エドワードは一瞬見とれた。

 まだほんの幼い頃にローレンに読んで貰った童話の中に出てくる精霊族の挿絵を思い出させるような、そんな光景だった。

 柔らかく揺れながら月の光にけぶる金の髪と、そのしなやかな体の線が、まるで絵画のようだ。

 それが誰だか分かっているのに、月を背負い逆光の中にいる姿は人間離れしていて美しかった。

 まるでこの世の生き物ではないかのように。

 やはり彼は精霊族なのだなと、エドワードは納得した。

 納得したからと言って何かが変わるわけではない。

 それでもやはりエドワードはその時に初めて実感したのだ。

 リッツはやはりシーデナの精霊族なのだと。

 今までの苛立ちや、心のざわめきは、神秘的なリッツの姿にかき消されるように静まっていく。

 言葉もなく見上げていると、リッツは今座っている枝に両手で捕まり、一回転してから見事にエドワードの前に着地した。

 言葉も出ないエドワードの元に歩み寄ったリッツは、何も言わずにエドワードの剣をすらりと抜いてしまう。

「あのさ」

「何だ?」

「復讐ってんならやめとけよ。今行っても絶対に意味ないぞ」

 エドワードの剣を振り回しながら言ったリッツの淡々とした一言に、エドワードは絶句した。

「復讐……?」

「違うのか? こんな夜中に剣を持って、しかもものすごい険しい顔してさ」

 エドワードの剣をすっと構えてリッツはわざとらしく顔をしかめて見せた。

 自分では気がついていなかったが、どうやらひどい顔をしていたようだ。

「……復讐しようとしてたのか」

「……? 違うの?」

「そうか……」

 リッツに言われて初めて、心の中のざわめきと苛立ちが、王妃を僭称するシュヴァリエ夫人への憎しみであることに気がついた。

 自分でも気がつかなかったが、エドワードは母を殺したシュヴァリエ夫人に復讐したかったのだ。

 だがエドワードには分かっている。

 そんなことをしても無意味だ。

 リッツの言うとおりだし、自分でもそう思う。

 だからこそ爆発的な怒りと、自己の中の常識がせめぎ合い、心をざわつかせていたのだ。

 そのことがエドワードを極端な行動に走らせたのかも知れない。

 いつものように無意識に感情を押し殺していたようだが、母の死はかなりの衝撃だったようだ。

「ま、どうしてもってなら俺も行くけど」

 あっさりとそういったリッツは、笑みを浮かべて自分の腰に手を当てた。

 そこには愛用の剣が吊られている。

「お前……」

「だってエド一人で行かせられねえもん」

 あっさりとリッツはそう言って、いつものようにへらへらと笑う。

 復讐に行くエドワードに付いてきたら、同様の罪に落ちる。

 まだ国王が生きており、表向きは平穏なこの国で今それをすれば命はないだろう。

 なのにリッツはあっさりと、付いてくると言う。

 思わずエドワードはリッツの顔を見つめていた。

 驚くほどその瞳には迷いがない。

 前に騎士団第一隊の隊長に『リッツはまるで、エドによく懐いた子犬だな』と称されたことを思い出した。

 リッツはむくれて『子犬じゃねえ!』と隊長に噛みついていたのだが、周りの隊長たちは大笑いをしていたのだ。

 エドワードはリッツを慣れた子犬だとは思わない。

 今まで表面上は人当たりよく接しつつも、いつも冷静に相手を判断し、必要ならば切り捨てていかねばならなかったエドワードが初めて得た、気の許し合える友である。

 だがリッツは自分の命にあまりに無頓着で、それが気に掛かっている。

 自分の命よりも、エドワードやジェラルド、パトリシア、シャスタ、ローレンの命の方が大切だと思っている節がある。

 故郷にも人の中にも居場所を見つけられなかったリッツが初めて見つけたい場所が、エドワードの隣で、ティルスの村で、セロシア家なのだ。

 だから大切に思うのは分かる。

 だがあまりにもリッツは死に無頓着だ。

 そんなリッツだ。

 もしエドワードが自分本位で無意味な復讐を企てたりしたら、間違いなくリッツは率先して敵のただ中に躍り出て、死んでいくことになるだろう。

 いくら剣の腕が立ったとしても、ユリスラ軍は甘くない。

 だからこの気持ちは封印しよう。

 リッツを巻き込んではいけない。

 いや、そもそも今後は国主となるために戦うこの身を危険にさらしてはいけない。

 この体はエドワード自身の物ではあるが、周りの人々にとっては、国を正すために必要な器でもあるのだ。

 エドワード自身もその事を、きちんと理解している。

 理解していたはずだった。

 母が殺されたと一報を受けるまでは。

「リッツ」

「ん?」

「俺の剣を返せ」

「いいけどさ。どうすんの、エド? もし剣持って突っ走ったら、俺、着いてくよ」

「走ってか?」

「いくら俺でも馬には追いつけないだろ。馬を出してくるまでちょっと待ってよ」

 本気でそんなことを言い出したリッツから、自分の剣を受け取ったエドワードは、剣を納めながら苦笑した。

「待つぐらいなら、復讐しようと焦らないだろ」

「そりゃそうだ。じゃあエド、後ろに乗せてくれよ」

「馬鹿か。馬が潰れる」

「そっか。駄目か」

 深々と頷いたリッツに、エドワードは肩をすくめた。

 リッツは本気だ。

 本気でエドワードに付いて行く気だ。

 こんな風に何があっても着いてこようとする相棒がいる以上、エドワードは今後もずっと勝手な行動を出来ない。

 勝手な行動を起こせば、リッツはあっさりとエドワードに着いてきて、命を落とす羽目になりかねないのだ。

 リッツはそういう男だ。

 今まではそういう存在を鬱陶しいと思ってきたのだが、今は正直にありがたいと思える。

 一軍の将は孤独であれというが、打算もなにもないリッツに対しては、エドワードも身構えずにすむ。

「リッツ」

「ん?」

「もう行かない」

「本当に?」

「ああ。頭が冷えてきたよ。お前のお陰だな」

「そうなの?」

「ああ。お前に付いてこられて、しかも命を落とされたら困るからな」

「んなドジしないって」

「ドジをするとかしないの問題じゃないさ」

「じゃあなんで行かないって決めたんだよ」

 口を尖らせるリッツに、エドワードは空を見上げながら呟いた。

「なんでだろうな」

 目の前には綺麗な月が浮かんでいる。

 月明かりが世界を青く染め、何もかもが美しく銀色に輝いていた。

「月が……綺麗だったからかな」

 あまりにも幻想的で綺麗だった月明かりの中のリッツを見た時に、エドワードの頭は少し冷えた。

 リッツの孤独と苦悩を思い出したからだ。

 それは総てリッツが美しき精霊族であることに起因している。

 だがリッツには同族を恨み、怒りをぶつける気が無いようだった。

 それが何故なのかはわからない。

 諦めなのか深い悲しみなのか、未だ彼は話してくれないからだ。

 合わせ鏡のように似たような孤独を抱えるリッツを思い出すと、心の中のざわめきが、静かなさざ波へと変わっていき、やがて収まっていく。

 リッツには背負うものも、決められた運命も何も無い。

 だからこうして自分の命に無頓着に、思うままに生きることが出来る。

 だがエドワードには背負うべき大きな荷があるのだ。

 だから大望を果たすまでは、決してこの体を損なうことは出来ない。

「リッツ」

「何?」

「何で俺がこうすることに気がついたんだ?」

 馬から下り、ゆっくりと馬を引きつつ自宅へ向かって歩きながら聞くと、リッツが馬を挟んで隣に並んだ。

「エドさ、冗談言って笑ってんのに、笑ってないんだもん。俺の方見てるみたいで見てねえし、シャスタに微笑みかけてんのに目が笑ってねえし」

「そうだったか?」

「うん。だからお前がウトウトしかけてた時に、こっそり毛布丸めて布団に身代わりにいれて家を出たんだ」

 馬のたてがみをさすりながら、リッツは静かにそういった。

「どうして俺が復讐に向かうって分かった?」

「だってさ、俺だったら母さんを殺されたら怒り狂うもん。絶対に許さねえし」

 妙に真面目な口調でリッツがそういった。

 リッツの母は闇の一族だったはずだ。

 噂ではあるが、闇の一族の脱走者は、同族に命を狙われることが多いのだそうだ。

 だからリッツにはエドワードの母が殺されたことを我がことのように感じたのかもしれない。

「リッツ」

「俺さ、だいたい一人でいたろ? だから子供の頃から母さんっ子でさ」

 そう言いながらリッツは月を振り仰いだ。

 まるでそこに母親がいるかのように微かに微笑む。

「母さんが辛い目にあってんのを身近で見てきたんだ。なのに母さんは、いつも分かってるのか分かっていないのか、ニコニコ笑ってて、俺に『怒るな』っていうんだ。人はみんな自分と違う物が怖い生き物だ。でも信じられるようになれば変わっていけるって」

 リッツが孤独に苛まれて生きてきたのに、妙に真面目で素直なのは、この母親に愛されてきたお陰なのだろうと、エドワードでも推測できた。

 きっとその母がいなければ、リッツはもっと荒んで、人のことなど考えられない暗く冷たい男になっていたに違いない。

 小さく息をついてから口をつぐんだリッツは、先ほどまでとは少し口調を変えて呟いた。

「そんな母さんだから、殺されたりしたら俺は許さねえ。母さんはみんなを許そうとしていたのにさ」

 静かな中にも、リッツの怒りの感情がふと滲んだ。

 光の一族には母共々辛い目に遭わされてきたから、それを思い出したのかも知れない。

 だがリッツはそんな怒りの表情をかき消して、静かにエドワードの方を向き直った。

「何か話聞いてたら、エドの母さんも、そんな感じの人なのかなって思ってさ。そしたらやっぱ、やりきれねえじゃん? 無理矢理連れ去られたのに、国王を案じたりしてた人だっておっさんいってたし」

「だからお前は、俺が復讐に走ると思ったのか?」

「う~ん。半々かな。俺みたいに感情じゃなくて、冷静に考えるかもって思ったし。でもこっちで正解だった」

 きっぱりとそう言い切るとリッツは笑った。

「俺、ちょっと冴えてたな」

「そんな偶然もあるさ」

 あえて澄ました口調で答えると、リッツはむくれたように口を尖らせた。

「どうせ偶然ですよ」

 あまりに子供っぽいリッツに、エドワードは吹き出した。

「そうむくれるな。褒めてるんだから。ただそんなにむくれてると、かえるになるぞ」

「ほっとけ」

 子供のようにそっぽを向いて歩き出したリッツに苦笑して、エドワードは再び前を向いた。

 暗闇の中に、ぼんやりと残されたオイル灯の火が浮かんでいるように見える。

 しばらく黙ったまま歩いていると、リッツが遠慮がちに声をかけてきた。

「エド」

「何だ?」

「……エドの母さんってどんな人だったの?」

 迷ってからリッツがようやくひねり出した言葉はこれだった。

 リッツの方を向くと、リッツがエドワードの方を見るでもなく、前を向いたまま歩いていることに気がついた。

「ええっと、聞いちゃまずかったら言ってくれよ」

 一生懸命に気を遣っているつもりなのだろうが、それがすべて分かってしまう。

 そんなリッツの気遣いがありがたかったし、エドワードも自分の気持ちを整理するためにも、少し母について話したかった。

「……聞いてくれるか?」

 ポツリと呟くと、リッツが力強く頷いた。

「もちろん」

「そうか」

 エドワードは一度も会ったことのない母を思い出しながら口を開いた。

「俺は物心ついてからずっと、母と会ったことがない。幼い頃はローレンを実の母だと思っていたしな」

 ローレンは、エドワードを実の息子のように育ててくれた。

 だから幼い日のエドワードにとっての母はルイーズ・バルディアではなく、ローレンだったのだ。

 幼いエドワードに真実を伝えることで、秘密が漏れることを恐れていたから、このような状況になったのだろう。

 事実、エドワードは自分がローレンの子ではなく、国王の血を引いた存在であることを知ったのは、シャスタが生まれて一年経った十二の時だった。

 そろそろ自分の将来を考えねばならない状況になった時、週に一度は遊びに来ていたジェラルドによって、真実を告げられたのである。

 漠然とジェラルドの騎士団に入って騎士になり、家族やグレインを守る存在になろうと思っていたエドワードにとって、それはかなりの衝撃だったが、同時にその事をごく普通に納得してしまった。

 ごくたまにローレンやアルバートから感じる、微かな違和感や、ジェラルドの厳しくも優しい指導から、自分が特殊な位置にいることを、薄々感じていたのだ。

 ジェラルドに真実を告げられた夜、ローレンが大量の手紙の束をエドワードに手渡した。

 幾度も読み返しただろう古びた封筒は、ルイーズ・バルディアという女性からローレンに宛てた手紙だった。

 その手紙を意味も分からないままにエドワードは自室に持ち帰り、上から順に読み始めた。

 その手紙にはルイーズが今何をしているか、どんな状況にあるのかを簡単に記してあり、それ以後は親友ローレンの息子、エドワードの成長を楽しみに見守っている内容になっていた。

『エドワードは元気に育っていますか?』

『今頃は歩いているんでしょうね』

『言葉を話すんですって? 声が聞いてみたいわ』

『学校に行っているんですってね。何の勉強が得意なの?』

『剣術を領主に習い始めたようですね。怪我をしないように気をつけてあげてね』

 ルイーズは一言もエドワードを自分の子であるとは書いていない。

 それどころか徹底的に親友の子として手紙には記されている。

 それでも全部を読み終えたエドワードは、自分がこの女性の子供であることを、言葉だけではなく、感情で理解した。

 そして同時に彼女がずっと王宮に捕らえられていること、エドワードの存在を決して知られないように心がけていることも分かった。

「それから何年かして、母の細密画が描かれたロケットが送られてきた。鏡に映る自分とよく似ていて、親子であることを実感したよ」

 そういって言葉を切ると、リッツを見る。

 無言でエドワードの話を聞いていたリッツだったが、馬越しにエドワードの方をじっと見つめている。

「どうした?」

「なんでエドの母さんは国王の側室になったの? グレインと王都って、すごく離れてるのに」

 正直な疑問だ。

 真剣なリッツの目を見て、エドワードは再び口を開いた。

「国王は年に一度、自治領区の中心都市を訪れる。自治領区は全部で十あるから、国王は十年ごとに自治領区を廻るんだ。まあこれは、今の国王が女狩りをするために作った決まり事だがな」

「ふうん。噂通りの女好きなんだな」

 あっさりとそういって頷いたリッツに、エドワードは苦笑する。

 国王のことなのにリッツにかかれば、たちまちそこいらにいる男の話のような印象に変わってしまう。

 国民と違って、リッツにとっての国王は、権力者として存在していないのだ。

「国王って、王都からでないと思ってた。それでどうしたの?」

 軽く聞いてくるリッツに、エドワードは小さく息をつくと答えた。

「母が側室として国王の元に召し上げられた年は、ちょうどグレインだったんだ」

 もしあの年がグレインでなければと、ローレンは酒に酔うとたまに呟いている。

 あの年でなければ、もっと変わった未来があったかも知れない。

「でもエドの母さんって、普通の人だろ? 国王に会うこともないじゃん」

「まあな。でも母の兄、つまり俺の叔父が当時騎士団第一隊にいたんだ」

「いたって、今は?」

「もういない。自殺した」

「……え……」

 絶句するリッツから目をそらし、エドワードは前を見つめた。

 いつの間にか街を通り過ぎ、自宅が間近に来ている。

「どうして自殺なんて……」

「叔父のグレイグは、騎士になってまだ数年の若い騎士だった。だから国王がこの自治領区に来ると聞いて、舞い上がってしまったんだ。そして滅多にない機会だからと、こっそり妹のルイーズを騎士団の宿舎に呼んでいたんだ。その騎士団の宿舎は、ジェラルドの館の敷地内にあった」

 そして国王は、ジェラルドの館に滞在していた。

 どんな運命のいたずらか、十五歳だったルイーズは、ふらりと迷い出たジェラルドの館の中庭で、国王に遭遇してしまったのだ。

 国王は、一目惚れをしたルイーズを、その場から護衛の部下たちに命じて自室へと運ばせた。

 つまり国王は、ルイーズを拉致したのである。

 グレイグがルイーズがいないことに気がつき、ジェラルドに相談した時には、既に遅すぎた。

 国王の女癖の悪さを知っていたジェラルドがすぐに国王の自室を訪れたのだが、扉の向こうにあったのは、陵辱されて呆然と目を見開いたままベットに肢体を投げ出しているルイーズの姿と、満足げな国王の姿だったのである。

 必死で抗う幼いルイーズを、国王は犯したのだ。

 平然と、しかもさもルイーズが幸福であるがごとく、笑みを浮かべて宣言しつつ。

 その後、国王はルイーズを愛妾として王都へ連れ帰ることをジェラルドに宣告した。

 ルイーズの状態と、自分を責め、憔悴しきったグレイグを見ていたジェラルドは、それを拒絶したのだが、国王はルイーズを差し出さなければ、グレインに高い税をかけると通告してきた。

 農業と畜産業を中心とするグレインにとって、それは死活問題である。

 あまりに身勝手な物言いではあるが、国王の権力は絶対であった。

 仁義にもとるその提案は受け入れがたいが受け入れねばグレインそのものが苦しい立場になる。

 だがグレインのために、何の罪もない領民を国王に引き渡すことは決して認められない。

 グレインの領主の座に着いたばかりであったジェラルドは苦悩した。

 ジェラルドは前領主の実の子ではない。

 子のできないモーガン夫妻が年をとり、跡を取らせるために養子にした、遠縁の子だった。

 年をとり領主を引退した養父母は、北部の湖水地方に居を移しており、ジェラルドにはその苦悩を相談できる相手もおらず、今のように柔軟に対応できる老獪な思考力を持ってもいなかったのである。

 思い悩むジェラルドの前に、毅然とした顔で現れたのは、とうのルイーズだったという。

「母は、国王に、今後のグレインの安泰を願い出たんだ。もちろん自分の自由と引き替えに。そして母は国王の寵愛を受ける最愛の側室となった」

「……ひでぇ……」

「ああ。ひどいさ。そして叔父はルイーズが国王と共に王都へ帰ってからしばらくして命を絶った。自分を責め過ぎて心の病にかかっていたんだそうだ。命を絶つ直前は、一日中酒を浴びるように飲んでいたらしい」

 淡々と語り終えると、エドワードはリッツを見た。難しい顔で前方をにらみ据えている。

「なんか腹立ってきたなぁ」

「何がだ?」

「あまりにひどいだろ、国王。そんなことが許されるのかよ?」

「許されるさ」

「何でだ?」

「決まってるだろう。国王だからだ」

 断言すると、リッツは絶句した。

 しばらく黙ってから、再び口を開く。

「人間は納得して無くても、唯々諾々と従うの?」

「まあ、そうだな」

「……変だ。何かそれって、ものすごく変だ」

 顔をしかめながらリッツが呻いた。

 確かにリッツのような存在から見れば、不思議なのかも知れない。

 だがユリスラ国民はその変なことに、もう一五〇〇年も従い続けてきている。

「そうかもな。だから時代時代で戦争が起きるんだ。それが人間社会さ」

「戦争?」

「そうだ。現国王を倒し、新たな国王を迎えるために戦うんだ」

「新たな国王?」

「言い換えれば、新たな時代、だな。よりよい時代を迎えるために、国民は戦うんだ」

「ふうん」

 納得したのかしてないのか、リッツはゆっくりと頷いた。

「エドも?」

「……俺も、新しい時代を拓きたいと願ってる」

「そっか」

 リッツは小さく頷いた。

「エドなら大丈夫だな。変な国王にならないさ」

「そうか?」

 人は変わる。

 もしかしたら権力の座に着いたら、エドワードだって変わるかも知れない。

 何しろ幼い少女を陵辱し、自治領区を脅迫して手に入れる男の血を引いているのだ。

「リッツ」

「何?」

「お前長生きだろう?」

「うん。それがどうかした?」

「俺がもしも国王になって、年を経てお前が変だと感じたら、俺をただせよ」

 足を止め、馬越しにまっすぐにリッツを見つめて言うと、リッツもエドワードを見返した。

 印象的なダークブラウンの瞳が、じっとエドワードの瞳をのぞき込んでいる。

 強い風がぼんやりとともるランプの光に照らされた、リッツの金の髪を揺らすが、リッツの表情は変わらない。

 しばらく何かを考えていたのか黙り込んだリッツだったが、ようやく口を開いた。

「俺はエドをたださないよ」

「……」

「だってエドは絶対に変にならないからさ。俺が保証するって」

 リッツは信頼に満ちた顔で、無邪気に笑った。

 思わずリッツから目をそらし、麦畑へ視線を向けた。

 リッツはもしかしたら、気がついたのかも知れない。

 エドワードが、ルイーズが国王に犯された時に出来た子供かも知れないと。

 そしてその狂気の瞬間にルイーズに宿った自分が、国王と姿を重ね合わせて、将来を不安に思っていたことを。

 だからこそこうしてわざと無邪気にエドワードに保証してみせるのかも知れない。

 小さく息をつくと、リッツを見ずに呟く。

「お前はまた、何の根拠もなく……」

「しょうがねえじゃん。俺がそう思ってるんだから」

 きっぱりとした断言にリッツを見ると、信頼に満ちた瞳に見つめられた。

 そんなに信頼されると、変になりようがない。

 友にこの表情を浮かべていて貰うためにも、エドワードが道を踏み外すことは許されない。

いや、リッツのこの顔を忘れずにいれば、踏み外すこともないだろう。

 エドワードにとって、ただ一人の友は大事な存在なのだから。

 フッとエドワードは口元を緩めた。

「それでは時期が来たら、せいぜい立派になるように努力をしようか」

「おう。頑張れよ~」

 人ごとのように、へらへら笑いながらリッツは再び歩を進める。

 それからはお互い黙ったまま夜道をのんびりと歩いた。

 肌寒い風が心地よく髪を揺らしていく。

 少しだけ気が楽になった。

 話せる相手がいるというのは幸福だ。

 抱え込む荷物がほんの少し軽くなる。

 いつの間にか二人と一匹はセロシア家に戻っていた。

 馬を繋ぐエドワードから離れて自分の馬を撫でていたリッツが、ふとエドワードの方を振り向いた。

「な、剣技の稽古しようぜ」

「唐突だな」

「こういう時には体を動かすのが一番だって!」

「……こんな夜中に?」

「うん。だってエドさぁ、こんな中途半端に止められたら、イラッとしねえ?」

「イラッと?」

「そ。だったら俺を憎いシュヴァリエのおばさんだと思って、かかってくればいいだろ? もちろんエロじじいだと思ってもいいぞ」

 自国の王妃をおばさん、王をエロじじい呼ばわりして、リッツが笑う。

「そしたら気が晴れるって」

 ニコニコしながらそういったリッツをまじまじと見て、エドワードは吹き出した。

 リッツは本当に正直だ。

 正直で、そして人間の社会に縛られない分、色々と自由で、それがエドワードには新鮮だ。

「何だよ。何がおかしいんだよ」

 むくれるリッツに、エドワードは笑う。

「悪い。お前は単純だなと思ってさ」

「単純~!?」

「苛立ちをぶつければすっきりするって、あまりにも単純すぎだろ」

「別にいいじゃんか! 単純なことほど本当のことなんだからな!」

 また子供のようにむくれて怒鳴るリッツに、ますますおかしくなって、エドワードは笑うしかない。

 笑顔で説明する言葉の裏で、微かにリッツの目が泳いでいるのには最初から気がついている。

 リッツは一生懸命、エドワードに元気を取り戻させようと気を遣っている。

 言いづらい話をさせてしまった分も、なんとか発散させて元気になって欲しいと願っているのだ。

 その気の使い方が、素直ではない。

 普通の人々なら、辛いだろうけど、元気を出せとか、きっと母は死んでも空から見守っているから、などと気休めのようなことを言うだろう。

 でもリッツは母親の特殊な立場や、孤独であろう状況を理解できるから、気楽な慰めの言葉など口に出来ない。

 それでもリッツはおそらく、エドワードに気を静めて欲しいのだ。いつものようにいて欲しいのだろう。

 だから一所懸命に気を使って、それがこの『剣技の稽古をしよう』になったのだ。

 それがリッツらしくて、エドワードはありがたかった。

「いつまで笑ってるんだよ、エド!」

「悪い」

「何だよ、俺がせっかく……」

「悪かった。せっかく気を遣って誘ってくれたのに笑ったりして」

 笑いを引っ込めながらそう言うと、リッツが言葉に詰まった。

 窺うようにこちらを見てくる。

「俺、別に気を遣ってなんか……」

 いいわけをする子供のようにそっぽを向いて呟いたリッツに、微笑みかける。

「お前は隠し事が出来ないな」

「うるせぇ」

 完全にむくれたように口を尖らせるリッツに、エドワードは真面目に呼びかけた。

「リッツ」

「何だよ!」

「ありがとう」

 お礼を言っただけなのに、リッツの表情がみるみる焦る。

 そういえばお礼を言われるのが苦手なのだ。

「べ、別に俺何もしてねえよ」

「そうか? でも俺はお陰で少し楽になった」

「……あっそ。それならいいけどさ」

 再びそっぽを向いたリッツは、今度は完全に照れているのが分かる。

 リッツは自分では捻くれているとか、どうしようもない男だと思っているようだが、エドワードから見れば、本当に普通の、かなり正直で素直な青年だ。

 確かに時折暗い影がよぎる。

 居場所を求めて不安そうな顔をしていたり、自分の命の価値を感じることが出来ず、死に無頓着ではある。

 だがエドワードはリッツが素直な部分を持ち合わせていることを、今までの付き合いから知っている。

 そんな自分自身に、リッツは本人が気がつくことはあるのだろうか。

 小さく息をついてから、エドワードはリッツの肩を叩いた。

「やるか、剣術の稽古」

「え? 本当に?」

「ああ。迷惑にならないように、大樹まで行くのはどうだ?」

 提案してみると、リッツは嬉しそうに笑いながら自分の剣の柄を叩いた。

「やるからには負けねえからな!」

「俺も負けてやるつもりはないぞ」

「望むところだ」

 子供のように早足になったリッツの向こうで、月が静かに草原を揺らしている。

 でもそのさざめきは、もう心のざわめきに重なることはなかった。


 グレインを発ったのは、ジェラルドが来た翌日だった。

 ジェラルドは早朝、数台の馬車で隊列を組んで、ティルスへとやってきた。

 隊列の周りにいるのは、グレイン騎士団第一隊の面々だ。といっても第一隊全員ではない。半分といったところだろう。

 国王の愛妾の遺品を引き取りに行くのに、騎士団第一隊全員を率いていったならば、相手に警戒感をもたれるからだ。

 馬車三台と馭者六名、騎士団第一隊十五名、そしてジェラルドとエドワードとリッツの合計二四人が王都まで共に旅することになる。

 ティルスを警備する第三隊からの参加者は、一人もいない。

 それはティルスの村を危険だと考えているからに他ならない。

 なにしろティルスはルイーズの出身地であり、エドワードがいる場所だ。

 ルイーズが死んだ理由が理由だから用心するに越したことはないとジェラルドはいう。

 万が一の場合を考えて、ジェラルドはグレインの街を第二隊と辺境警備部に守らせ、ティルスを第三隊に守らせていた。

 同じ理由でパトリシアが付いてきていない。

 ジェラルドに何かあった時のことを考え、跡取りであるパトリシアをグレインに残したのだ。

 つまりジェラルドは、この遺品を持ち帰るだけのこの旅がかなり危険ではないかと踏んでいるようだ。

 事情がよく飲み込めないリッツは、呆然と話を聞いていただけだったが、エドワードもジェラルドの考えに賛成だ。

 国王の意志が不介在だと思われる、王妃の即位。

 そして最愛の側室であったルイーズの死。

 関係がないとは考えられない。

 緊張感に満ちた王都への旅立ちであったが、一行の心配や不安など無駄だったかのように、馬車の旅は順調だった。

 そしてティルスを出てから六日後。

 最後の宿営地で馬車総てに喪章を表す布を張り、騎士団の制服の腕に黒い喪章を付けた一行は、王都シアーズへと入った。 

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