姫宮の涙 2
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「姉様っ」
部屋に入るなり、ぱあっと顔を輝かせて綾女に駆け寄ってきた脩子内親王は、甘えるように綾女の腕に抱きついた。
脩子内親王はとても人懐っこい性格をしているようだ。
彼女を追いかけてきた女房が慌てているのがちょっとおかしい。身分は脩子内親王が上でも、年上の内親王である綾女に失礼があってはと焦っているのかもしれない。
すすっと静かに近づいてきた脩子内親王の女房が、そっと綾女に耳打ちする。
「突然申し訳ございません。昨日、主上が姫宮様のことを脩子様にお話しされまして……。その、遊んでもらえというようなことをおっしゃったため、昨日からずっと脩子様が落ち着かないご様子で……」
今日連絡が来て今日のうちに突撃してきたのはそのためか、と綾女は笑った。
自分が遊んでやれないから、帝は綾女を娘の遊び相手に指名したらしい。事前に教えてくれればいいのに。
綾女は「かまわないわよ」と軽く首を横に振って、用意していた編つきを取り出した。
「姫宮は漢字はどのくらい覚えられましたか? 編つきをご用意したのですが」
「たくさん覚えたわ姉様! 漢字も、琴も、お歌も、たくさんたくさんお勉強したの! お父様に褒めてもらうの!」
無邪気な幼子の笑顔が眩しい。
このくらいの年の頃は、綾女も父に褒められるのが嬉しくていろんなことに挑戦したものだ。残念ながら音楽も歌もてんで才能がなかったが、頑張ったには頑張った。あの当時は。
「行成がお手本を書いてくれたから、字のお勉強もしているのよ!」
「まあ、素敵なお手本を手に入れられたのですね。行成様は字がとてもお美しいと評判ですから」
「そうなの!」
花が咲くような笑顔で、「それでね、それでね」ととりとめのない話をあれやこれやとする脩子内親王に、近くで聞いている命婦も顔をほころばせている。
きっとたくさん話がしたかったのだろう。
けれど養母となった御匣殿は末姫にかかりっきりで、幼子がいるから局で騒ぐわけにもいかない。
ましてや内裏の中は暗い雰囲気になっていて、脩子内親王もその雰囲気を感じ取っていたのだろう。まるで堰を切ったかのように、これまでため込んでいたものが溢れ出したように見えた。
あれやこれやと半刻ほどお喋りを続け、脩子内親王が疲れてきたようなので命婦に頼んで白湯と、それから棗が残っていたのでそれを用意してもらう。
棗を見た脩子内親王は嬉しそうに笑って、小さな口にまるまる一つ入れると、もごもごと頬を膨らませながら咀嚼した。
(本当に可愛い。顔立ちは兄様のほうに似ているのかしら? ふふ、頬がぷっくりしてる)
脩子内親王と一緒についてきた女房も、始終姫宮が機嫌がよさそうなので安堵しているようだった。彼女も、昨日のことがあったので心配していたはずだ。
棗を食べて休憩したあとで、ようやく編つぎをはじめることができた。
漢字の偏と旁に分けられた札が、命婦とそれから女房の手で畳の上に広げられる。
子供と遊ぶときは、大人が本気になってはいけない。脩子内親王が真剣に札と睨めっこしているのを微笑ましく思いながら、適度に札を取りつつ勝負心に火をつけて、最終的に勝たせてあげるのがいいだろう。
三回ほど編つぎで遊んで、そのあとは双六をすることになった。
双六が終わるころには、昼八つの鐘が鳴って、楽しい時間もそろそろ終わりだと教えてくれる。
日が暮れる前に夕餉が用意されるため、そろそろ局に帰してあげなくてはならない。
「まだ遊びたいわ」
ぷくっと頬を膨らませて脩子内親王が女房を見たが、彼女はやんわりと首を横に振った。
「また今度になさいませ。遅くなると御匣殿が心配なさいますよ」
「叔母様は媄子ばっかりじゃない!」
「妹宮様はまだ赤子でございますれば……」
女房が必死に諭そうとするも、今日までによほど鬱憤がたまっていたのか、脩子内親王は頬を赤く染めて大声で叫んだ。
「媄子はお母様を連れていって、今度はお父様を連れていくんだわっ! 媄子のせいで、わたしはひとりぼっちになるのよっ!」
「そのようなことはございません」
「だったらどうしてお父様は寝込んでいるの⁉」
気が高ぶったせいなのか、ぽろぽろと脩子内親王の大きな目から涙が零れ落ちた。
「お父様はいつお元気になるの⁉ いつ遊んでくれるの⁉ わたしはいつまでお父様に会えないの⁉ 敦康にだって、会えないのはどうして⁉」
五歳の幼子相手にいくら道理を説いたところで理解されない。
脩子内親王は寂しくて寂しくて仕方がないのだ。むしろこれまでよく我慢していた方だろう。
女房がなんとか脩子内親王をなだめようとするのを綾女は片手で制して、泣きじゃくる姫宮をぎゅっと抱きしめた。
「主上は……お父様は、今、姫宮に会うために戦っておいでです」
ぽんぽんと、脩子内親王の背中をあやすように叩く。
「大丈夫。主上のおそばには晴明様もいらっしゃいます。きっとすぐによくなって、姫宮と遊んでくださいますよ」
「でも……」
「ええ、それでも、寂しゅうございますね。わたしも父がおりませんので、姫宮の寂しいというお気持ちはよくわかります。けれど、もう少しだけ待って差し上げてくださいませ。お父様は今頑張っているのですから、姫宮もお父様を応援して差し上げましょう? 頑張って元気になってと姫宮が願えば、その願いはきっと力になりますよ」
脩子内親王がぎゅっと綾女の衣を握り締める。
幼い子には飲み込めないこともあるだろう。いくら周りが言ったところで、納得して我慢しろと言うのは酷なことだ。
綾女はそっと脩子内親王の頭を撫でる。小さく震える肩が、必死に理解しようと努めているように見えた。
「大丈夫、もう少しの辛抱ですよ」
「少しって、どのくらい?」
「そう、ですね。……桜が、咲くまでには」
以前、紫苑に言われたことを思い出して、気が付けばそう答えていた。
「お花見の時期まで、もう少しだけ待っていてくださいませんか?」
脩子内親王は綾女の腕の中で顔を上げ、それからきゅっと唇を引き結ぶと、こくんと大きく頷いた。
ほっと安堵した様子の女房が脩子内親王を促して立たせる。
女房はぺこぺこと何度も綾女に頭を下げながら、脩子内親王を抱きかかえて梨壺から退出していった。
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