Ⅰ
白狐の上の空は、司旦の目から見て明らかだった。人前にいるときは上手く取り繕っていたかもしれないが、ふと寝る前に一人になったとき、気を抜いたときそれは顕著に表れた。
些細な変化、と思ったそれは徐々に振れ幅が大きくなって心を浮き沈みさせる。初めは、徒に心をくすぐらせる淡い恋心。やがて、寝る前に頭を悩ませる、将来への期待と不安と渇望へ。
在り来たりな恋の過程で自らの心を弄ぶ余裕はあっただろうか。恋は時折訪れる春のようなもので、成就させるようなものではない、と。しかし坂道を転がり落ちるような情緒の暴走に、儲君としての矜持や体面がどれだけ抑止になるか司旦には疑わしかった。そしてそれは結局、白狐の心を真っ二つにする深いひび割れとなるのである。
「で、あの姫のどこがいいんだ?」
文通を再開してからというもの、他人の色恋沙汰ほど面白いものはないとばかりに、顔を合わせると千伽は専らその話題を持ちかけてくる。一体どこからそれを聞いたのか、少なくとも千伽の耳に入る程度には噂になっているという事実に司旦は気が気でなかった。
「どこがいいと言われましても」
皇城の廊下を幼馴染と歩きながら、白狐は困ってしまう。自分が触れるのは紙面に綴られた神経質な細い字だけで、筆跡を通じて彼女の気配を感じ取るしかない。例えばきめ細やかな白い肌とか、冷ややかで斜めに構えた眼差しとか、細くて透き通った声とか、浮かんでくるのはそういった他愛もないものばかりで、きっと恋とはそういうものなのだと白狐は思う。
彼女のことを想うと胸の奥が穏やかに疼いた。灼けつくような激しさはなく、しかし確かに、どこか息苦しい。恋は病とは、よく言ったものだ。
千伽とてこの件が大事になればどうなるのか想像がつかない訳ではないだろう。しかし、幼馴染が元気を取り戻した喜びがそれを上回っているようで、実際浮き沈みがありながら白狐の生活に活気が戻ったのは事実だった。
「まあ、せいぜい怒られない程度にやれよ」
一言二言軽口を叩いた後、さり気なくそう言い残した千伽の、下品ともとれる忠告にはやけに実感がある。女遊びとはほとんど無縁に生きてきた白狐には、そこで初めて自分が幼馴染と同じ視点に立ったのだと気付いた。
三女が都に留まっているせいか、冴家に関する噂を耳にすることも増える。これ見よがしに入ってくることもあれば、千伽が意気揚々と運んでくることもあった。何故、とは思わない。主の文を届けるために、どれだけ時間や道順に気を遣おうと秘密はいつか漏れるものである。
初夏が訪れる。
白狐とさゆが文を通じて懇意にしているという噂が静かに広まっても尚、父親に何かを問われることはなかった。影家の当主にとってはやはり、冴家の三女はその血筋を以てしても息子が関わるに値する存在には足らなかったのだろう。そのことを裏付けるように、父親が用意した奥向の中に冴家の血縁の者は一人もいない。
覚束ない日常に何か鋭いものが刺さったのは、ある夜のことである。いつものように御渡を終えた白狐を迎えに行ってすぐ、司旦は異変に気付いた。というのも白狐が見るからに青褪めた顔をしていたのである。
「白狐様……?」
薄暗い廊下に洩れる明かり。声を潜めたのは反射だったが、白狐は首を横に振り、そのまま自室に向かって歩き出した。何か不愉快なことがあったのだろうというのは否が応でも分かった。
結局、司旦に出来るのは待つことだけで、白狐が口を開かない限り事実を問いただすことは出来ない。床でのことは白狐の自尊心にも関わるし、少なくとも以前のように泣かれたわけではなさそうだということだけは分かった。
「……」
寝所に入る前、ふと白狐が見せた固い無表情が気にかかる。口数が少ないのは不貞腐れているというより、何かに気取られて他のものを考える猶予がないと言ったところか、ともあれ目の前に鋭い刃を突き付けられた気分だった。このまま逃げ続けることなど出来ないと、最初から分かりきっていたのに。
──幸せになろうと望むことさえしない? というさゆからの問いに、白狐は何と答えたのだったっけ。
***
「残酷な人ね」
情事の後に、そう言ってきた女の顔と声が頭から離れなかった。女は泣いていなかった。目元が赤く、怒っているのだと少し遅れて分かった。
地に足がついていない自覚はある。雲の上を歩くような、どこか現実味のない感覚。恋に浮ついている自分と、義務を果たそうとする自分が同時に存在していることが不思議だった。器用だな、と他人事のように思うほど。
白狐の日常にさゆはいなかった。時折気まぐれにやり取りする文だけが白狐と彼女を繋ぐ唯一の接点で、それゆえに日々過ごしていて彼女のことで頭がいっぱいになることはなかった。しかし頭の隅には常に彼女のことがあって、そんな状態でも別の女を抱いている自分は確かに残酷に違いない。
そのときふと、あれは別の世界のさゆなのではないかと気付いた。朏家に側室として嫁いださゆ。巫にならなかったさゆ。もしも、という形で道を違えた、別の世界の彼女の末路。
現実のさゆは、自ら道を選んで歩き出した。だが、選ばなかった女たちを、選べなかった女たちを愚かだと誰が責められよう。それとも自分は期待しているのだろうか。相反する感情を抱え、矛盾した二重の立場に生きる虚しさを、さゆが「仕方ない、そういうものよね」と諦めたように言ってくれることを。
そう思うと、胸の奥に澱が溜まっていくようだった。己の酷く汚らわしく狡い部分が、さゆの目を通じて際立つ。自分はあなたが思うような高潔な人間ではないのです、とあの夏言いそびれたことを白狐は今になって後悔していた。
もし伝えていたら、再会しても見向きもされなかったのかもしれないが。
心にささやかな亀裂が幾つも入ったまま、父親と向かい合うべきではなかったかもしれない。突然呼び出された時点で、白狐は気が向かなかった。七月の半ばのことだった。
白狐の父親は頑固で、良く言えば分かりやすい男だ。決して息子を怒鳴ったり威圧するなど器の小さいことはしないが、何事も淡白で余計な修辞がない。生きることと仕事は同義で、息子と接するときも親としての熱を感じたことはなかった。自分もいつか当主の名を継ぎ、こうなるのだと白狐は幼い頃から思っていた。いや、今も思っている。父親はまさしく未来の自分だ、と。
外に控える司旦を尻目に、父親の自室に通される。影家の正邸の中心でありながら、人々の往来がやけに少なく錯覚される場所。張り詰めた静けさが物音を吸収するように、父親の気配が人々の呼吸さえも沈黙の内に消してしまう。そういう室。
「……白狐が参りました」
両袖を合わせ、膝を折って頭を下げた。いつものように、努めて平静を装う。「ご機嫌よう、父上」
「顔を上げろ」
父親は長椅子に腰掛けていた。ゆっくりした瞬きは頷きのようで、辛うじて白狐の挨拶に応えたのだと分かる。機嫌は悪そうではない。無駄なものを好まないだけだ。
肩に垂らした長い白髪は、加齢ではなく生まれつきのものだと白狐は知っている。自分と同じ、無彩色な色白の男。しかし弱々しさを感じないのは、年月を経た貫禄だろう。
「冴家の三女と懇意にしているというのは事実か?」
白狐は黙って頷く。単刀直入な物言いに、思考を挟み込む余地がない。
「今朝、朏家から申事があった」
「朏家?」
思わぬ名前に小声で反芻するが、すぐにひやりと胸に触れる何かがあった。奥向の娘たちの中には、朏家の分家の姫がいたのではなかったか。
「冴家の三女は巫になることを理由に、朏家の側室入りが決まっていたのを断った過去があると聞いた。お前があの姫と文通することで朏家の当主が少なからず心証を悪くすることは想像に難くあるまい?」
「……はい」
苦情が入った、ということだろう。傍流であれ自身の血縁の姫をそっちのけで別の女とやり取りしていれば、誰だって自分の家を蔑ろにされたと思うはずだ。それも相手は朏家にとって数年前に大恥をかかされた冴家の娘では、白狐とさゆの関係が鼻につくのは当然と言える。
そこで、父親の目の光が若干色を変えたように見えた。
「ところで」空気の色も変わる。「念のために言っておくが、影家の意向として冴家の娘を奥向に迎えることは後にも先にもない。──分かっているな?」
「……」
「奥向以外の女と文を交わすことも情を交わすことも、責めるつもりはない。お前の分別を私は信用している。この家の品格を下げるような真似はしないだろう」
白狐の頭に幼馴染の顔が過る。身分に関わらず様々な女と関係を持ってしまうあの男のことを、父親は疎ましく思っている。
「だが、もしあの三女を正式に奥向に迎え入れたいと望むなら話は別だ。それはお前が決めることではないし、朏家だけでなく私が不要な懸念をしなければならないことも考えられる」
目線を感じ、白狐は微笑んだ。自分がそう出来たことが不思議で仕方なかった。
「まさか。ご心配には及びません」
空気が緩んだ気がした。その穏やかさが肌に沁みるにつれ、突然心が脆く砕けるような痛みを覚えた。黒々と口を開けた傷の断面が、そのざらついた表面が指で触れるほど生々しく、白狐を混乱させる。
「分かっているなら良い」父親は満足したのかしていないのか、感情の窺えない声で付け足す。
「冴家の娘と文を交わすのはこれっきりにしておけ。向こうの外聞にも関わる」
「……」
はい、と答えた実感がなかった。気付けば室を持していた白狐は、隣の司旦に顔色を窺われて我に返る。疲労感が押し寄せてきた。俯かぬよう顔を上げ、ゆっくりと息を吸う。
「司旦」
「はい」
「今日、さゆに文を出して最後にします。もうこれからは冴家に届けに行かなくて結構です」
「……」
司旦が何かを呟いた。返事だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。ともあれ白狐は聞き取る耳を持たず、ただ廊下を歩いた。昼間にも拘らず薄暗い廊下は、着物の裾を引き摺る音さえも神経を逆撫でするような静寂に満ちていた。
白狐は唇を噛む。心臓が忙しなく肋骨にぶつかり、何かを考えないと溢れてしまいそうだった。
父親との会話はいつもこんな調子だった。分かっていることを念押しされる。自分の意見を持とうにも、口に出す前に相手が正しいことを認めさせられる。そんな道順の分かり切った会話に徒労感を覚えることも少なくない。
興味ありません。
さゆにそう告げた日のことを思い出す。人生の半分も生きていない癖に人生の幸福に拘っていた彼女は、青臭くて幼かった。彼女は無力な大人に腹を立て、見下していた。あのときの彼女がここにいたら、何と言うだろう。興味がない、嘘だ。だが、それ以外に何と答えれば良かったのだ。




