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「社長、よろしいですか」
伝票を片手に眉間に皺を寄せていた白崎は、声をかけられて顔を上げた。
社長室のドアは、白崎の意向で、来客がない限り開け放しにしてある。戸口に立っていたのは、経理を任せている畑山良智だった。白崎より十以上も年上の、絵に描いたような生真面目な男だ。役職は経理課長だが、実際の所は、人手不足をうめるべく社内のあらゆる事務と雑務をこなす、何でも屋である。
「予算の見直しができたので、見ていただきたいのですが」
「もうできたんですか。じゃ、そちらで見せてください」
デスク前に据えられた応接セットのソファを勧めると、畑山は一礼して入ってきた。向かいに腰を下ろすと、畑山がテーブルの上に書類を置く。受け取って目を通すと、再び白崎の眉間に皺が寄った。
「……一人増えただけでも相当厳しいですね……」
「現状ではこれが精一杯です。もっと厳しく見てもいいのかもしれませんが、それでは本当に成り立たなくなってしまうので」
畑山の容赦ない言葉に、白崎はうなだれるしかない。予想はしていたが、新人が一人増えただけで、これほど経営を圧迫するとは。
「やっぱり人を入れるのは無理がありますよね……」
「本音を言えば、あと二年は待って欲しいところですが」
畑山はいったん言葉を切って、部屋の入り口を見やった。開け放したままのドアの向こうで、蔵石が受話器を持って応対している声が聞こえる。畑山が見ているのは、そのさらに向こうにある開発研究室だ。ドアは閉め切られていて、部屋の主の様子は分からない。
「主任はもう決めてしまわれたようですから、仕方ありません」
「……すみません」
白崎は思わず謝った。
畑山は苦笑した。
「決して責めているわけではありませんので。社長も、恩師の頼みでは断りづらいでしょうし」
「頼みというか、罠にかかったというか……」
気づいたら一人抱えることになっていたという事実をどう伝えたらいいだろうか。会話の魔術というのは存在するのだ。宮崎教授恐るべしと、白崎は恩師への畏怖の念をさらに深めていた。
「予算のデータはいつも通りにファイルにあげておきましたので、ご活用ください。私個人の意見を述べさせていただければ、数字は厳しいものですが、そろそろ新しい風を入れてもいいと思います。蔵石さんも、後輩ができればやりがいが生まれるでしょう。それに、主任ではありませんが……確かに興味深い方のようですからね」
暗雲立ちこめる予算書から目を離して、白崎は新たにテーブルの上に置かれた書類に目を落とした。一行目を読んで、畑山を上目遣いに見る。
「……やっぱり、在りませんでしたか?」
畑山は頷いた。
「在りませんでした。豊原テックは去年の春に倒産、その後、工場敷地はすぐに売却されて現在は高層マンションの建築予定地として整地されています。現状は、社長もご覧になっているはずです」
畑山の言うとおり、白崎の記憶にあるのは、簡易な柵に囲まれた何も無い更地だ。工場があったなごりも何も見えなかった。
書類には、豊原テックの大まかな歴史が印字されていた。工業用機械部品のメーカーとしては、中堅どころだったようだ。従業員は多いときには三十名を超えるほど。しかし、不況のあおりをまともに受けて、倒産前は七人にまで減っていた。
「そちらが、在りし日の工場の写真です」
どこから手に入れたのか二枚目には、写真が数枚、カラー印刷されている。門から敷地内を写した写真は、琴美から聞いたとおりの配置だ。
「従業員の名前なんて、わからないですよね」
「そちらの三ページ目が、倒産前までいた社員の一覧になっています」
白崎は慌ててページをめくった。社長を筆頭に、七名の従業員の氏名が並んでいた。
「畑山さん、探偵になれますね」
「ご期待に添えなくて申し訳ありませんが、私は調査会社に依頼しただけですし、その調査会社を紹介してくれたのは峰岸さんです」
畑山はうっすらと微笑んだ。
「峰岸さんが?」
営業担当の峰岸美和子は独自のネットワークを作り上げている。そのおかげか仕事が途絶えることはなかったが、本人か出社するの日が数えるほどしかないというのは、少々頭の痛い問題だった。いずれ解決しなければならない案件の一つとして頭の片隅に止めておいて、白崎は書類の先を読み進めた。軽い衝撃が、白崎の中に走る。
「――畑山さん、これは」
「ええ、早くに調べが付いたのは、その事件があったからなんです」
倒産する一年前の日付だった。事件は深夜に起きていた。
その日、一人の従業員がプレハブの事務所で遅くまで仕事をして、そのまま仮眠を取っていた。そこに侵入者があった。事務所荒らし目的の侵入者は、仮眠をとっていた従業員と鉢合わせし、もみ合いの末、持っていた刃物で従業員を刺殺。証拠隠滅を計ったのか、事務所に火をつけて逃走した。
亡くなった従業員の氏名は、西山幹雄。当時、三十二歳。新聞にも載ったようで、記事のコピーが付いていた。残念ながらモノクロの顔写真では、身長まではわからない。
「犯人は、捕まったんですね」
後日、別件逮捕された男が犯行を自白した。この男は他にも同じように事務所荒らしを繰り返していたため、余罪が数十件以上もあったようだ。
「ですが会社が受けたダメージは減らせなかったようです」
従業員を一人と事務所を失った豊原テックのその後は、惨憺たるものだ。『階段を転げ落ちるように』と、書いてある。もともとぎりぎりの経営だったようで、工場は残ったものの、それだけでは立て直しがきかなかったらしい。
「経営困難が理由とありますが、主に経営者の心的理由が大きかったようですね」
「気持ちは、わかる気がしますよ」
白崎は従業員一覧をもう一度取り出した。七人目の従業員に、針田孝の名があるのを確認する。琴美が預かった伝言は、虚言でなければこの針田孝宛てのものだろう。
「畑山さんは、今回の件、どう思いますか?」
「興味深いと思っています」
「どういった点で?」
突っ込んで問いかけると、畑山は少し考え込んでから口を開いた。
「鎮森さん個人の言動については、社長が一番ご存じのとおりですね。現実には存在しない建物を見て、存在しない人と話をしています。ですがその裏付けはこうして取れていますから、いわゆる霊感があるということで片付けるのか、それとも豊原テックと何らかの関わりを持っていたかのどちらだと思われます」
そういう考えもあったのかと、白崎は唸った。過去に豊原テックのことを知っていれば、詳しく語ることも可能だ。目から鱗が落ちた気分の白崎は、しかしすぐに眉を寄せた。
「いや、待ってください。そもそもあの場所に行ったのは、立原があり得ないシステムの反応を知らせてきたからだったはずです」
「そうです。余計なこととは思いましたが、鎮森さん本人についても調査をしてもらいましたが、豊原テックとの関連性は何も見えませんでした。それに、あの一件が鎮森さんの芝居だとしたら、我が社のシステムにまで干渉できる何らかの手段を持っていたと考えなくてはいけません」
「そんなこと立原に言ったら大変なことになりますよ」
苦笑混じりに言うと、畑山も頷いた。
「門外漢の私には何とも言えませんが、主任が外部からの干渉は不可能だとおっしゃってますから、それを信じるほかありません。となると、システムの反応と鎮森さんの言動も何の関係もないとなります」
「そうするとやっぱり、霊感、なんですかね……」
「頭からそう信じ込むのも問題ですが、理屈と数字で割り切れないことが存在するのも確かです」
「畑山さんの口からそう聞くと説得力がありますね」
「そうですか?」
怪訝そうな畑山に微笑みで返してから、白崎は言った。
「畑山さん、その調査会社にもう一度お願いできませんか」
「今度は何を?」
白崎は三ページ目の最後の行を指した。
「針田孝さんの連絡先を、お願いします」
あり得ないづくしのこの騒ぎの行く末を、見てみたいと思った。