第六話「加速」
新しい工場は、旧工場から車で四十分の場所にあった。
廃業した漬物工場だった。塩と酢の匂いが染み付いていたが、設備は使えた。大型のステンレス槽。温度管理システム。排水設備。
坂口は新しい工場を一通り見て、「前よりいい」と言った。
「すぐに動けますか」大島は言った。
「三日あれば」
「二日でやってください」
坂口は少し大島を見た。
「急ぎますね」
「いつも急いでいます」
新工場での最初の製造は、問題なく終わった。
しかしその翌週、坂口が来なかった。
連絡もなかった。
橋本に確認すると、三時間後に返事が来た。
「坂口、飛んだ」
「飛んだ」
「姿をくらました。金を持って」
大島は少し間を置いた。
「いくらですか」
「先払いで渡していた分が三回分。合計百五十万」
「わかりました」
「怒らんのか」大島はん、と橋本は言った。
「怒っても坂口は戻りません」大島は言った。「次の技術者を探してください」
「そう簡単に見つからん」
「見つかるまでの間、坂口が書き残した製造メモがあります。俺が工程を勉強します」
「あんたが自分でやるつもりか」
「やれるかどうか、試してみます」
製造メモは、A4で十二枚あった。
大島は三日間、それを読み込んだ。
化学の知識は、大学時代の基礎だけだった。しかし手順を理解することと、実行することは別の話だった。
四日目の夜、一人で工場に入った。
蒸気釜の前に立った。
メモを見ながら、手順通りに動いた。
エタノールの量。加熱温度。抽出時間。濾過の方法。
五時間かかった。
結果は、純度が坂口の半分以下だった。
使えなくはないが、値がつかない品質だった。
大島はその結果を見て、一つだけ結論を出した。
やはり、技術者が必要だ。
橋本が次の人間を連れてきたのは、一週間後だった。
西田という女だった。
三十代後半。小柄。白衣を着ていた。
大島は少し驚いた。
「女性ですか」
「問題あるか」橋本は言った。
「ありません」大島は言った。「経歴は」
「元大学の研究員や」橋本は言った。「有機化学の専門家やったが、研究費の横領で懲戒解雇になった」
大島は西田を見た。
「工場を見てください。使えるかどうか、判断してもらえますか」
西田は無言で工場に入った。
設備を一つ一つ確認した。十五分で戻ってきた。
「できます」西田は言った。「ただし、設備を一部改良させてください」
「何が必要ですか」
「リストを作ります。明日までに」
「わかりました」大島は言った。「報酬は坂口の倍払います」
西田は少し大島を見た。
「前払いで」
「半分前払い、半分は納品後です」
西田は少し考えた。
「わかりました」
西田は有能だった。
坂口より純度が高く、製造時間が短かった。改良した設備は、抽出効率を三割上げた。
しかし西田には、一つ問題があった。
金遣いが荒かった。
報酬を払うたびに、すぐに使い果たした。そして追加の報酬を要求してきた。
最初の一回は、大島は払った。
二回目の要求が来た時、大島は言った。
「次の製造が終わってから払います」
「今必要なんです」西田は言った。
「理由は」
「借金があります」
「いくら」
「五百万」
「誰に」
「それは関係ないでしょう」
大島は少し考えた。
「誰に借りているか教えてもらわないと、払えません」
西田は顔色を変えた。
「なぜですか」
「あなたの借金の相手が、この商売に関係している可能性があるからです」大島は言った。「そうであれば、リスクになります」
西田はしばらく大島を見た。
「竹内組です」西田は言った。
大島は橋本を見た。
橋本は黙っていた。
その夜、大島と橋本は二人で話した。
「竹内組や」橋本は言った。「また出てきた」
「西田を竹内組が送り込んだ可能性がありますか」
「ある」橋本は言った。「ただ、本当に借金があるだけかもしれん。竹内組は金貸しもやっとる」
「どちらにせよ、西田は使い続けるのが難しい」
「そうなるな」橋本は言った。「ただ、今切ったら製造が止まる」
「止まります」大島は言った。「でも、竹内組とつながっている可能性がある技術者を使い続ける方が、リスクが高い」
「山田の兄さんに相談する」
「早くお願いします」
山田の返事は翌朝来た。
橋本を通じてではなく、山田から直接電話があった。
「大島はん」
「はい」
「西田の借金、俺が肩代わりする」山田は言った。「そのかわり、西田は俺の人間として動く。あんたに協力させる」
「竹内組との関係は」
「切らせる」山田は言った。「俺が話をつける」
「信用できますか、西田は」
「できるようにする」山田は言った。
大島は少し考えた。
「わかりました。お願いします」
「ただ、大島はん」山田は言った。「一つだけ聞いていいか」
「どうぞ」
「あんた、何のためにそこまで急いどるんや」
大島は少し間を置いた。
「個人的な理由があります」
「言えんか」
「今は」
山田はしばらく沈黙した。
「わかった」山田は言った。「聞かん。ただ」
「ただ」
「いつか話してくれ」山田は言った。「俺には、話せる」
電話が切れた。




