第三十七話 男の恥
俺、愛洲来寿は口を「へ」の字に曲げていた。ミアの寝室から追い出されてしまったからだ。その事実を遺憾に思う。しかし、当の本人から拒絶されている。その上で粘ろうと思えるほどの執着は、俺には無い。
今は、そっとしておこう。
俺自身、ミアの変調で心が乱れている。それを落ち着けるべく、俺は魔王城に設けられた剣の鍛錬場にやってきた。
樹木網で造られた十畳ほどの広間は、神社仏閣のような清々しい空気で満ちていた。この状態を保つため、毎朝換気と掃除を心掛けている。
掃除がし易いよう、床の上には物を置いていない。鍛錬用の道具は、殆どが押し入れの中だ。
例外的に置きっ放しのものは、西壁に掛けられた五本の棒だけ。それらは壁に水平に張り付いて、上下に並んでいた。
棒を支えている物は、壁から生えた十本の小枝だ。それぞれ上下二列、等間隔で並んでいる。その様子は、俺に乳牛や雌山羊の乳を彷彿させる。
その横並びの二本の枝に、刀身一メートルほどの棒、木刀が掛かっている訳だ。
それぞれの木刀は、俺、土人形、それから――ミア用だ。上から順に、ミア、俺、土人形用と決めている。
俺は何気なく木刀を見た。下から順に視線を上げて、最上位の木刀が視界に入った。その瞬間、俺の口が「へ」の字に歪んだのを意識した。その理由が、俺の脳内に閃いていた。
ミアは「魔王に剣術など無用」とか言ってたよな。
鍛錬場で活動を始めた頃、この場を利用する者は俺一人だけだった。
度々ミアが顔を出すことも有った。しかし、それは所謂冷やかしだ。
ミアは嫌味を言うだけで、一度も鍛錬に参加しなかった。俺も「あいつは魔王だから」と割り切っていた。
そもそも、俺は一人きりで良かった。邪魔さえ入らなければ、それで良い。剣を生き甲斐にする俺は、剣を触れるだけで満足だ。だからと言って、他者に技を伝えることが嫌という訳でもなかった。
剣を学びたい者には、遠慮なく教えよう。
そもそも、俺にも剣の師匠がいる。我が養父は、俺に剣を教えることを厭わなかった。その弟子である俺が、厭う訳にはいかない。
剣の師への敬愛の念。その想いに、意外な連中が応えてくれた。
或る日、俺が鍛錬場で素振りをしていると、三つの人影が乱入してきた。そいつらは土人形だった。
一体、何をしに来たのか?
俺は素振りしながら、横目で土人形達の様子を観察した。すると、彼らは俺を真似て素振りをし出したのだ。
もしかして、剣を習いたいのか?
以降、俺は土人形達に剣を教えるようになった。そこで、彼らの学習能力の高さ、剣の素養の高さを思い知らされた。
土人形達は、俺が教えた技を直ぐに使い熟した。しかも、強くなっても慢心しない。俺が教えた剣士の中で、三本の指に入るほどの優等生だ。教えることが楽しくなる。その事実に加えて、俺自身にとっても基礎基本の復習となった。一人きりでの鍛錬では気付かなかったことも多い。
俺は「今後も四人で鍛錬し続けていこう」と考えていた。門下生は土人形達だけで充分であった。
ところが、ミアから横槍が入った。
「気が変わった。私も付き合おう」
ミアは俺に稽古を付けるよう頼んできたのだ。尤も、当時のミアの態度を「頼む」と表現して良いものかどうか。
「剣に興味は無い。私には無用である。だが、臣下の皆が身に着けている技術を、主君である私が身に付いていないのは体裁が悪い」
体裁。その言い訳を想起する度、俺の口許が歪に吊り上がるのを意識する。
誰が俺達を見ていると? 魔物の評判でも気にするというのか?
そもそも、この世界には俺達以外の人間はいない。今のところ見たことが無い。ミアの言い分は支離滅裂だ。これは先の話に限ったものではない。
ミアの言葉を額面通りに受け取ると、俺の首が傾いだまま戻らなくなりそうだ。
こいつ、本当に――ややこしいな。
俺にとって、ミアは命の恩人である。その恩は返すつもりだ。それまで付き合うつもりだ。
しかし、ミアの面倒な言動には度々閉口させられる。その出来事や言葉を想起する度、俺の心が騒いで落ち着かない。イライラする。俺にとっては不快以外の何物でもない。
雑念を這うには剣を振るのが一番。
俺は西壁に移動した。そこに立てかけてある木刀群の中から、俺用のものを取り上げた。続け様に、剣を正眼に構えた。
俺は――剣。
視線と意識を木刀の刀身に集中する。その一点に俺の心を重ねた。その瞬間、俺は剣、木刀そのものと錯覚した。
木刀に迷いなど有るはずが無い。心も――無い。
俺の心は無になった。それを直感した瞬間、木刀を上段に掲げて振り下ろした。刹那、両手に空気が裂ける感触が伝わった。
何千、何万回も繰り返した行為だ。僅かな変化でも、手に取るように分かる。
先ほど覚えた感触は――歪み、濁っていた。その変調から、原因を特定することは容易であった。
未だ雑念が残っている。
俺は改めて木刀を正眼に構えた。再び刀身に心を重ねた。その上で、心の深奥に潜む雑念の正体を考えた。
その瞬間、俺の脳内に甘い女性の声が響き渡った。
「来寿様、好き」
「!?」
幻聴だ。しかし、実際に聞いた言葉だ。それも、ミアの口から出たものだ。その事実を想起して、俺は思わず息を飲んだ。
俺にとって、ミアの言葉は額面通りに受け取るべきものではない。全て裏が有る。しかし、例外もあるのではないか?
あのときの言葉に、どんな裏が有ると言うのか?
ミアの意図を考えると、古くから伝わるアシハラの諺が閃いた。
それが、俺の口からポロリと零れ出た。
「『据え膳食わぬは男の恥』――か」
据え膳。既に用意されたもの。アシハラの武士にとっては勝負事に他ならない。たとえそれが恋愛であろうともだ。
武士の勝負事は特別な意味を持つ。そこに融通は利かない。
挑まれたならば、絶対に受ける。受けねばならない。それを違えれば、俺のように武士を辞めて国を出る羽目になる。
尤も、例え武士でなくとも、他者の真摯な想いを無碍にすることは恥ずべき行為だろう。その不義理、俺には受け入れ難い。
あのときの言葉に対しても、叶うならば即断即決したい。保留はしたくはない。
しかし、俺の直感が「待て」と強く反発する。
今のままの俺とミアであれば、俺の答えは拒絶、或いは否定的なものにしかならない。俺とミア、双方に問題が有るからだ。
今のままの俺達では、自分も含めて誰も幸せにできない。少なくとも、今の俺は自分の幸せを望めない。
しかし、それは飽くまで「今の」という条件付きの話だ。
ミアは変わろうとしている。人として成長するよう努力している。その姿を、俺は毎日目にしている。その度に、俺の胸が熱くなる。
俺も――変れるかもしれない。
ミアに負けてはいられない。俺も、人として成長するよう励みたい。自分の幸せを願えるようになりたい。そう思えるようになったとき、俺の答えは変わるだろう。
「また、借りができたか」
返さなければならない。それを叶える為に、「ミアの想いに応える」という答えを出せるよう、これからも精進しよう。




