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セレスティア人の手記  作者: 五月雨
時の潜航者  ~第三暦28年~
122/210

静かな朝だった。

 静かな朝だった。


 雲は毎日ひとつもないが、今日は風も凪いでいる。


 ここは高い空の上。彼女が生まれ育った――しかしようやく人生の半分未満となった場所は全く違う。そのことを、ウルスラは最近はっきりと思いだした。


(わたしが生まれたのは四十二年前。旧世紀の、スオミという国の田舎だった。そこで軍人の父と、外国の仕事であまり家に戻らない母の娘として)


 経済的に豊かで、モノがあふれ、水は無限にある。でも少しだけ寂しい家。ウルスラが物心ついた四歳のときには、もう最後の戦争が始まっていて。家の外に安らぎや楽しみを求めることもできず。やがて少しずつ豊かさもなくなってしまった。


 だが、その頃からだったと思う。父と一緒にいる時間が増えたのは。どこへ行くときも傍を離れず、外で食べる乾パンや焼いた魚が美味しくて。


 ここに母さんもいれば、もっといいのに。そう何度、思ったか知れない。でも母は、帰ってこなかった。今思えば、帰ってこられなかったのだと思う。最後の攻撃に巻き込まれて死んだか、凍れる時間の中に閉じ込められて今も遠い死を待っているか……


 そして父さんもいなくなった。飛行艇に乗せられて一緒に飛び立ち、激しい爆発で気を失い。目が覚めたら、知らない街の道路の上。軽い打ち身をしたらしく、湿布か何かで簡単な手当てがされていた。父さんとは、それきり会えていない。


 しばらくは、人が多いところへ捜しにいった。でも、そのうち諦めて港から空を眺めるようになった。待っているけれど待っていない、信じているけれど信じていない――そんな目をした子が、時には彼女の他にも何人かいた。


 そうして何もかも諦めかけたとき、ウルスラはリクと出会った。


 リクは、時間の流れが遅い雲の中で水を探す潜航士だった。一応軍の所属であり、端々にそれらしい仕草が。でも粗野じゃない、優しそうな人。最初はそんな印象だった。


 彼はウルスラに頼みたいことがあると言った。アパートの留守番――普通は大人に頼むものなのに。それを口実に助けようとしてくれているのが分かった。憐れまれるのは嫌だったから、すぐ出てゆこうと思ったけれど。そういう感じはなく。ああ寂しいんだ、この人も……そう考えて初めて、自分が寂しかったことに気がついた。


 彼には、たくさんのものを貰った。食べるもの。着るもの。寝るところ。浮島で暮らす知識。学校に通うための戸籍。学校で仲のよい友達もできた。穏やかな時間。楽しい時間。嬉しい気持ち……悲しい気持ち。


 一緒にいて分かったことがある。二か月とちょっと、三度目はウルスラが拗ねてわざとすれ違いの生活をしていたゆえ実質一か月。リクの病的な精神構造について。


 確信したのは、リクが行方不明になった後よく訪ねてくるようになった二人の話を聞いてから。いつも冷静で、作戦中は特に無駄な行動が少ない。あらかじめ危険を避けるのは得意だが、それでいて命がいらないのかと思うようなことをするときもある、と。


 まるで心がないみたいな?――そう訊いたとき一人は喉が詰まったような顔を、もう一人は困ったような苦笑いを浮かべるだけだった。


 言われてみれば思い当たる節も。他人のことには気が利いて、そのくせ不器用というか自分の願望は口にしない。最初は父に似ているような気もしたが、全然違う。彼は虚ろだった。彼の心の中には、絶望がない代わり希望もひとかけらもなかった。


 そして父さんと同じように、リクは突然消えてしまった。ウルスラを助けるための口実だったはずの、両親の形見であるアパートまで彼女に遺して。


 それから半年。ウルスラはブラント親方の養女になった。


 これもリクがくれた縁。浄水塔へは休みの日ごとに朝早くから通い、現場の知識を教わっている。学校がある日の早朝は時間が空くため、こうして港まで散歩に来る。出会ったその日にリクが買ってくれたような白いワンピース姿で。


 もちろんあの頃とは、身長や雰囲気も違う。四年前だって違うけれども……成長した自分を見てほしかった。あなたのおかげなんだと。だから何もないなんて思わないで。人々の暮らしを最前線から支える英雄のひとりなのに、満たされるどころか潤される様子もない彼には些細なことかもしれないけれど。


「いけない。リクの悪い癖が伝染ってた」


 今朝も一輪、南の海がよく見える場所に青い花を。昨日は黄色い花だった。一昨日は白い花、その前は赤、その更に前はまた黄色い花……特に決めていない。たまたま配給所に置かれているものを、その日の意味合いや気分次第で。


 そういえばウルスラは、地上の海を見たことがなかった。そこだけは一緒なんだと、今更のことながら。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…昨日はね、リッカ達をおうちに呼んだの。毎年記念日は、いつも気を遣って押しかけてくるから……」


 口にしておいて、変な言い回しだったと苦笑い。


 こうして報告するのが日課になっていた。週に五度、浄水塔へ行かないときは毎日。


 そして翌朝には、昨日の花が吹きさらされてどこかへ行ってしまう。


 ウルスラは気にしなかった。むしろ彼女の想いを地上へと運んでくれるから。


「じゃあ、行くね。そろそろ準備しないと」


 学校の時間だ。かなり早いが、これから食べて着替えないといけない。


 それからお寝坊さんのイルヤを迎えにいって、のんびり屋さんのカタリーナと合流して、怒りんぼさんのレンピと彼女を宥めるリッカとの待ち合わせ場所に向かう……


 気持ちを切り替えて立つ。もう一度だけ、南の空の遠くを見つめて。


 帰るつもりだった。そこであるものを見つけるまでは。


(…何だろう、あれ)


 飛んでいる。さほど珍しいモノでもコトでもないが。旧ライン連合王国製のAB06S型だとか何とか、ガソリンエンジン愛好家という意外な側面を持つ浄化塔のライネが熱く語ってくれた。音は高く張りつめているけれど、細長い形は似ている。


 珍しいのは、この時間帯であることだ。浮島は一応全てユラネシア共和国だが、割と独立性を保っている。モノも水も足りないご時世、いつ裏切られるか分からない。だから警察や入国審査など治安に関わることだけは、互いに口を出さないのが暗黙の了解。


 そのルールに基づけば、ヴァルハラへ入国できるのは午前七時。今はまだ六時半だから、入管の宿直が起きてきて受付の準備を始めたところ。すぐ撃ち落とされたりはしないにせよ、気が早いにも程がある。


 港の詰所は、まだ気づいていないようだ。


 ある意味怠慢だが、それは仕方ないかもしれない。浮島を治めるのは、どこも元が同じ国の軍隊同士。敵が存在しないこの世界で、助け合わなければ明日の生活もままならない今の時代に。全員がそこまでの緊張感を保てない。


「………っ!」


 ウルスラが身を固くしたのは、別の理由によるものだった。


 本当に似ている。彼女が八年前乗ってきたものと。そして六年前、リクと一緒に出掛けたとき偶然修理工場で見かけたものと。機種だけではない。外装も焼け焦げていた。悪意の熱を浴びて、絶対行かせないと。思うようにはさせまいと。


(まさか。まさか)


 近づく飛行艇を何回も見上げて、その都度確信する。自分を追いかける視線に、パイロットも気がついたようだ。敵意のないことを示すためか、ウルスラの傍に着地しようとして失敗。また上空へ戻る。そして少し離れるようにハンドサインを送って寄越す。


 駆け寄ってゴーグルとヘルメットの下を確かめたい気持ちを抑え、従う。そうだ――何度も頭の中で練習したはず。もし彼が帰ってきたら、どんなふうに声をかけるか。無駄と分かっていながら、四年間飽きもせず。ずっと。ずっと。毎日、ずっと。


 まず謝らなくては。さすがにあの態度はなかった。危険な務めを終えて戻った家主に対し、子供扱いをやめろだの手を拭けだの。


 「ごめんね、てへぺろ☆」何か違う。「出ていくから許してください」そうしたくないから困ってる。いろいろ飛ばして「ウルスラだよ。見違えた?」こんなところで大人を気取っても。素直に「おかえりなさい」――考えに考えて、ようやく出た結論がこれ。謝るのも大人を気取るのも、全てはそれから。


 飛行艇の着地は、お世辞にもお粗末だった。世辞を言って粗末なのだから、もう酷い。パイロットが怪我をしなかっただけでも上々。港の舗装を激しく削り、身体を前につんのめらせてどうにか止まった。滑走路も飛行艇も、当分壊れて使えないだろう。


 降りてきたパイロットがゴーグルとヘルメットを窮屈そうに外す。現れたのはウルスラが思い描いたとおりの顔で。どれくらい経ったものか四年前と全く同じ。


 一瞬ふるっと震えた後、僅かな涙と一緒に笑顔を浮かべる……はずだった。それから落ち着いて「おかえりなさい」。そう頭の中で準備してきたはずなのだけれど。


「リク!」


 飛びついていた。台詞も段取りもみんな忘れて。彼にそんなことをしそうな女の子は、どうやら一人しかいなかったらしく。


「ウルスラ、か……?」


「……………」


 赤面してしまう。ここで「うん。見違えた?」などと返せるほど太くはない。ただ黙って頷く。それから……懐かしい水の香りがする頬にキスをした。


 リクは相変わらず。幼子のように抱きつく少女を、しっかり受け止めて。


「…ただいま。ウルスラ」


「お、おかえり……なさい。また上手にできなかったぁ……」


「そんなことないよ。ここまで迎えにきてくれたじゃないか。帰れるかどうかも分からなかったのに……ウルスラは本当、すごいな」


 近くなった頭を撫でようとして迷う。それで一か月前に怒られたばかり。ウルスラはその腕を両手で摑むと、自ら頭の上に載せた。二人の顔に同じ色の笑みが浮かぶ。


「話したいことが、たくさんあるんだ。聞いてくれるか?」


「もちろん。でも、その前に手を拭いてね」


 もう一度、笑った。今度は悪戯っぽく。


 まだ十年ある。幸せになるには、十分な時間だった。

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