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お華の髪飾りⅡ  作者: 本隠坊
9/65

⑨時代の呼び鈴

(1)


 双子が生まれ、桜田家は大騒ぎとなった。

 同時に年も変わっているので、例年の如く浩太郎は、新年二日に朝早く奉行所で、新年の挨拶、同時に子供が生まれた事を報告し、登城する奉行を片膝着いて送った。 そして、脱兎の如く屋敷に戻り、子供達の世話にとりかかる。

 彼は殆ど眠っていなかっただろう。

 夜中に赤子は泣く。しかもダブルだ。

 出仕は明け方前だから、当然、眠る暇など無い。

 しかし、彼は嫌な顔など一切しない。それ程嬉しかったのだろう。

 元旦は、お華の他、女ばかり集まる。

「かわいい~」

 と、声を上げるおゆきも一緒だ。

 浩太郎は、帰るとすぐ、貰い乳に一人抱いて出掛ける。

 まだ、昨日の今日であるおさよは、一人を授乳するのがやっとである。

 お華はその大変さを見て、

「優斎先生? あんなんで大丈夫なの?」

 心配そうに聞くのだが、優斎は笑って、

「今は仕方ありませんよ。でも、こういう事が子供を育てると言う事です。暫くすると慣れますよ」

「そうですか……」

 翌日は、浩太郎が新年の挨拶で八丁堀を回った。

 今年は浩太郎一人となってしまったが、こういう事の後なので、今回に限っては嬉しそうに回っている。

 新年というよりも嫡男誕生で、お祝いされるばかりだからだろう。

 一方、お華はそれには付き合わなかったが、彼女は彼女で挨拶並びに、報告に上がらなければならない場所が結構ある。

 北町の奥方くま、南町のけい。そして、大奥の姉小路だ。

 しかも、この三人は挨拶だけには止まらず、祝いのお礼もしなければならない。

 皆、身分も何も上。お華は、済まなそうに、

「申し訳ありません。折角お祝い頂戴致しましても、我が家は三十俵二人扶持。どうかお許し下さい」

 と言い回らなくてはいけない。

 もっとも、どちらもそんな事は承知しているので、笑顔で頷く。


 さて、それから三ヶ月ほど立った、弘化五年二月二十八日。

 昨年即位された、孝明天皇による代始の改元が行われた。

 これにより、元号が「嘉永」となった。

 とうとう、孝明天皇の世となった。

 本格的に幕末の時代の始まりを告げたと行っても良いだろう。

 これにより、双子も、誕生日が弘化から、嘉永元年正月元旦と変わった。

 祖父の甚内とお久は、

「目出度い、目出度い!」

 と大喜びである。


 居間の正面壁に、二枚の命名紙が貼られている。

「長男、新之助」

 そして、もう一枚には、

「長女、小春」

 であった。

 お華は、

「これ、いつまで貼っとくもんなの?」

 それには、体調が戻りつつある、おさよが、新之助にお乳をあげながら笑い、

「父上が、目出度いから貼っとけって言うからね」

 するとお華が、

「これって、何時までも貼ってて良い物なの?」

 お華にしては、あまり過ぎると縁起が悪いのでは? と思ったようだが、

「ああ。別に決まって無いんだって。それに元号も変わったでしょ。良い記念じゃってね」

 それにはお華も笑い出し、

「まあ、そうよね。元年・正月・元旦生まれなんて、そうは居ないからね」

 などと、二人が笑っていると、突然、小春が泣き出した。

 その泣き声の中、おさよが、

「お華ちゃん。悪いんだけど、今、おきみが買い物で居ないからさ、代わりに貰い乳お願い出来る。お腹が空いてるのよ」

 お華が大きく目を開けて、

「私が? ど、どこに?」

「あのね、あなた、同心の田中さんのお宅、知ってるよね」

「ああ、あの例繰方の? あそこならよく知ってるよ」

 

 例繰方という役職は、各裁判を記録する係である。御仕置裁許帳といった判例集を作成し、これを前例として、それ以降の裁判に役立てる。

「そう。あそこ。あそこの若奥様も去年末お子さんお生まれになってるから、うちの旦那様がお願いしているのよ」

 お華は素直に頷き、

「そう。分かった。挨拶がてら行ってくるよ」

 と言う訳で、お華は小春を抱き上げ、屋敷からそう遠くない、同心田中の屋敷に向かった。

 たまに新年の挨拶をしたり、幼い頃から知っていた屋敷であった。

「ごめん下さいませ」

 と、挨拶すると、若い奥方が子供を抱きながら迎えに出てきた。

「あら。お華さん」

 笑顔で迎えられた。

 お華は、

「申し訳ありません。この子にお乳。お願いできますか?」

 その奥方は頷き、抱いていた赤子を侍女に預け、早速、小春に乳を上げ始めてくれた。

 お華は、

「本当に申し訳ありません」

と頭を下げるが、その奥方は笑顔で、

「良いのよ。でも、おさよ様も双子じゃ大変でしょ」

「そうみたいなのです。もう一人には間に合うんですけど、どうも足りないようで……。でも、こちらにも赤子がいらっしゃるのに、申し訳ありませんねぇ」

 それには奥方が笑って、

「こればっかりは、人それぞれ。おさよ様でも、どうしようも無い事はありますよ」

 彼女もおさよが剣の上手である事は知っているが、それとこれとは別。と言いたいらしい。

「そうなんですか~」

 お華が答えると、隣の侍女が、

「今日は、お華様が手伝いにいらっしゃったのですか?」

 と聞くと、お華は手を前に振り、

「いやいや。私は子供達の様子を見に来ただけなんだけど、人手が足りなくて手伝えって言われてさ。まあ、田中様は昔から存じ上げてたから、それならってね。だけど、奥様」

 と、お華は、

「私はこれでも芸者ですからね。赤ん坊連れて乳貰いなんて、人には見せられませんよ~。でも小春は、どうも重湯が飽きた様で、乳を飲ませろって泣くものだがら、おばさんとして仕方無く。全く誰に似たんだか」

 などと言っていると、奥方が突然、大笑いとなった。

「ど、どうなさいました?」

 と、侍女が聞く。

 お華が首を傾げていると、奥方は空いている手で、授乳中のお春を指差し、

「ちょっと、ちょっとお華さん。姪っ子が怒ってるよ」

 確かに、口に乳首を含みながら、小春は、手をバタバタ奥方を叩いている。

 顔も幾分膨れているようにも思われた。

 それを見た侍女もさすがに笑い始め、

「あはは、お華様の文句が分かったのかしら。でもまだ半年でしょう? もうそんな事分かるんだ~」

 お華は、眉を寄せ、

「もう。この子は。静かに飲まなきゃダメでしょう」

 と叱ると、奥方は、

「ほら、また」

 小春。今度はパチパチと、自分の足を叩く。

「大したもんね~。お華さんに喧嘩売ってるわよ、この子」

 二人とも大爆笑だ。

 お華も驚いて、頭を抱えている。

 


(2)


 八丁堀から戻って来たお華は、おみよから、

「姉さん。急で何だけど、今日お座敷が入ったのよ」

お華は笑って、

「あ~助かるよ。もうそろそろあたしが芸者だっての忘れるところだったもん」

 おみよも、子供の騒ぎだろうと承知していたので、

「まあ、そうですね。私もここのところそうでしたから」

 するとお華が今日の小春の件を愚痴ると、おみよは大笑いだ。

「それじゃ、姉さんそっくりじゃないですか」

「そうかな~? いずれにせよ困ったもんよ」

 

 さて、夕刻。

 お華とおさよは、いつもの様に柳橋に向かった。

 この日は、神田川沿いに立つ、水月屋という料理茶屋であった。

 川沿いにあり、如何にも柳橋らしい粋な店である。

 二人は、座敷襖の前に並んで座る。

「失礼致します」

 と、お華とおみよが襖を開き、座敷のお客二人に向かい平伏して、お華が、

「本日はお招き頂きまして、誠にありがとうございます。私はお華太夫。そして」「同じくおみよにございます。お待たせしまして誠に申しわけありません」

 二人、再び深く頭を下げた。

 すると、町人らしい旦那が、

「おうおう、よく来てくれた。さ、こちらへこちらへ」

 の言葉で二人は立ち上がり、頭を下げながら前に近づいた。

 すると旦那は、

「儂は、材木商を営んでおる伊左衛門。そして、こちらはお旗本、勝麟太郎様じゃ」

 そう、後の勝海舟。その人であった。

 勝も笑顔で、うんうんと頷く。

 するとお華は、少々驚いた顔を作り、

「これは、お旗本様でございましたか。本日はわざわざお呼び頂きありがとうございました」

 と、重ねて礼をいい、「さ、どうぞお一つ」笑顔でお酌をする。

「うん。そうか、お前さんがお華か~」

 勝は、繁々とお華の顔を見る。お華は、

「嫌ですよ、なんか珍しい物でも見るような」

 などと笑うと、横の旦那が、

「お前さんを是非と、勝様がお頼みになられての」

 それには、お華も驚く。お華には初めてみる旗本だったからである。

「それは嬉しい事を仰います。柳橋には若い子もおりますのにお珍しいですねぇ」

 と笑うと、勝は笑いながら、

「何言ってやがる。伊左衛門。このお華。どういう女か知ってるかい?」

 などと、旗本とは思えない、がらっぱちな声を上げる。

「い、いえ。深川から来た有名な芸者としか……」

 すると、勝は盃をグッと空け、

「こいつはな、千代田のお城じゃ、知らん者はおらん。それこそ、留守居から大奥。挙げ句の果てにゃ、ご老中や、恐れ多くもお上でさえご存じじゃ」

 自分の事とは言え、お華も目を大きく開け驚いている。

 一方、おみよは顔を伏せ、笑っている。

「お上もご存じって、芸者をですか?」

 勝は大きく頷き、

「そうじゃ。北と南の奉行なんざ、お華の手下だって言うぞ」

「ひえ~」

 伊左衛門は驚愕する。

 そこまで言われると、さすがにお華は笑いながら手を振って、

「嫌ですよ勝様。確かに大奥は、ちょっとした事があって存じ上げてますが、お奉行様が手下なんて、私が無礼打ちになってしまいます。私の兄が、奉行所同心ですから、ちょっとお手伝いしているだけですよ」

 勝は、大笑いだ。

「よく言うよ。こんな女だから一度、顔を見てみたかったんだ。それに武芸もかなりの物と小姓の高坂様が仰っておられて、それで、お上から褒美を貰ったってのは本当か?」

 と、勝が聞くから、お華は苦笑して、

「あれは、御本城が火事になったおり、たまたま大奥にお邪魔していて、避難するのを少し、お手伝いしただけです。大した事ではございません」

 勝はニコニコしているが、伊左衛門は余りの話に、驚愕から、恐れおののいた様子に変わっている。

 お華は、この話を続けると、さすがに芸者としては都合が悪いので、酒を注ぎながら、

「まあまあ、勝様。それより今日はどういったお席なのですか?」

 と話を変えようとしたのだが、勝は姿勢を正し、

「お。お取り調べかい? さすが評定所で筆頭老中阿部様をやり込めただけあるのう」

「ひ、評定所? 阿部様?」

 それには、もう伊左衛門の方が仰天し、慌てて、姿勢を正し、

「勝様。私は他にも所用がありますので、今日はこれで。どうか、お華様。あとはよろしくお願いします」

 と、後ずさりして、席を立ってしまった。

「え、もうお帰りですか~」

 と言って、お華は溜め息をつく。

「おみよちゃんお見送りを」

 と、申し訳無い様子で頼む。

 そしてお華は勝を少し睨み、

「もう、勝様。旦那様。怯えてしまったではありませんか」

勝は大笑いして、

「仕方あるまい。本当の事だろ?」

「それはそうですけど……」

 すると、おみよが戻って来て、

「伊左衛門様。もの凄い勢いでお代払って、走って行きましたよ」

「でしょ。あんなに脅したら、そりゃそうよ」

 お華は首を振る。

 すると勝は、

「ところでお華。高坂様も武芸を褒めていたが。儂も直新陰流なのだが、そなたの武芸とは何じゃ」

 聞いてきたので、お華も今日は芸者は駄目だと観念し、

「私は剣ではありませんよ」

 と、いつものお華に戻り、

「ご無礼ながら、私はこれです」

 いきなり頭に挿している簪を、取ったと同時に、スパッと飛ばした。

 それは勝の耳に音を残し、後ろ花瓶にあった花の茎に突き刺さった。

 勝は、振り抜き驚愕する。

「早ええな!」

 耳を撫ぜながら驚く。

 そして、

「なるほど。これなら高坂様が言ってた事もよう分かる」

 お華は立ち上がり、壁と花に刺さった簪を抜いて、その花を簪と一緒に頭に戻し、戻って来た。

「勝様。あんまり言わないで下さいよ。高坂様が、あっちこっちで言うから、みんなが怖がってしまって大変なんですから」

 それには大いに笑って、

「儂はな、小才で上ばっかり見てる奴は嫌いでな。技を持って仕えている奴が大好きだ。うん。お上が褒美を与えたってのも分かる気がするよ」

 お華は恥ずかしげに笑いながら、

「これはこれは。ありがたいお言葉ありがとうございます」

 頭に花飾りの、お華は微笑みながら、また酒を注ぐ。そして、

「ところで勝様? 言って置きますけど取り調べではありませんよ……」

 と笑い、「お目付ではありませんから。今日は何のお座敷なのです?」

 勝は笑い、

「いやな、あれ(伊左衛門)に頼んでな。ちょっと我が家を改築して貰ったんだ」

「改築?」

「ああ。儂は旗本と言っても、四十石の貧乏旗本でな。御役にも着いてないから、塾でもやろうと思ってな。だがな塾をやろうと思っても、借家だし部屋が狭い。そこで増築を頼んだんだ」

 お華は、些か、眉が上がる。

 ところで、四十石といえば、三十俵二人扶持の浩太郎とそれ程の違いは無い。

 いやむしろ、奉行所勤務の利点を考えると、実質的には、浩太郎の方が上と考えても良い。


「へ~塾ですか。すると、湯島のような朱子学ですか?」

 勝は、目を大きく開け、

「お前さん、朱子学なんて知ってるのか? 大した芸者だな~」

 盃を傾けながら、少々驚いていた。

 そして、手を振り、

「いやいや。ありゃ(たい)()が一杯居るし、それに今の時代には役に立たない。儂が教えようとしてるのはな。外国情勢じゃ」

 その言葉には、お華やおみよも、ポカーンとしている。

 お華がやっと、

「外国情、勢……ですか?」

 勝は笑って頷き、

「お前さんも、奉行所に関わりがあるのなら、最近、英国やアメリカが、江戸周辺に来てるのを知ってるだろう」

 お華は頷き、

「はい。何でも、交易を目的にやって来たとか」

「そうじゃ。そもそも交易とは言っても、相手がどういった国か。また底では何を考えているのかどうかも我々は一切知らぬ。実は、唯一、交易している蘭国でさえ、我々はだれも国自体見たことも無い。これは、大変な問題だと思うのじゃ」

「はぁ~」

「先頃、清国と英国で戦争が起こった。清国も我々と同じで、何も知らんから、無謀にも戦い初めてしまった。しかし、結果は清国のボロ負けじゃ。金を取られ、領土まで取られてしまった。少なくとも我々は、そういう間違いを犯してはないかん。清国は、敵を知り己を知れば百戦危うからずという、昔からの教えを忘れてしまっていた。だから儂はまず、他国が一体どういう国なのか、どういう力を持っているのか知らなければいけないと思うのじゃ」

 ここまで言われると、お華とおみよは圧倒されていた。

 しかし、おさよは、

「ありがとうございます。何か、少しだけ。今どうなっているのか分かる様な気がします」

 と、頭を下げる。

 彼女は、すでに優斎の所で、今で言う看護師の真似事をしているので、何となく感覚を理解したのだろう。

 するとお華は、姿勢を正し、

「勝様。こんな場所で何ですが、一つお願いがございます。お聞き下さいますか?」

 それには、おみよが目を大きく開けて、少し驚く。

 しかし、勝は笑顔で、

「ん?何じゃ」

「あの、その塾は、お旗本のお方だけの塾と言う事でしょうか?」

「いや。別にそんなこたあねえ。誰でも良いよ」

 すると、お華は少し前に出て、

「実は、私の実家。つまり八丁堀で一人若い侍を預かっております。その子を先生の塾に入れて頂く訳にはいかないでしょうか?」

「ほう。そいつは幕臣かい?」

 お華は首を振り、

「いえ。実は、伊達様の勘定方を務める。いや、まだ見習いなんですけど、素直で割と頭の良い男です。そんな者でも構いませんか?」

 おみよが横から、囁く様に、

「裕三郞様の事?」

 と聞くと、お華は頷く。

 すると、勝は、

「へ~伊達様か。意外な名前を出したな。構わないけど、なんで伊達様の勘定方が?」

「はい。実はその者。ご主君から、大砲を学んで来いと言われてまして」

 それには勝は驚き、少し考えニヤついた。

「大砲とはな」

「ええ。でも家の兄も外回りですから、どう調べてもそんな塾など有りはしないと言う事で、そのままになってるのです」

 勝は大いに笑って、

「そりゃそうだ。下手するとお咎めになるからな。確かにお上の勘定方、江川さんが韮山でやってるが、まだまだこれからだし、今言っても、他家じゃ断るだろうからな」

 すると勝は、思いついた様に、

「あれかい? その大砲ってのは、水戸様の影響かい?」

 それにはお華も驚いて、

「さすがよくお分かりですね。それで困ってしまって。でも、それだったら、その外国情勢ってのをまず、習うのも一つの手かなと思うのです」

 勝は大きく頷いて、

「そうじゃ。大砲なんざ、鉄を新たに作る事から始めねばならん。しかもそれは、我々が知ってるのとは違う方法と材料で作らなければならん。これに大変な金がかかる。いくら伊達様と言えども、そう簡単な事じゃねえよ」

「なるほど」

 とお華が頷くと、

 勝は酒を飲み干し、

「塾はまだ来年からと思っていたが、お華さんのお言葉では嫌ともいえめえ。来てくれて構わねえよ」

 お華は笑って、

「これは早速のお許し誠にありがとう存じます」

 と、挨拶したが、勝は、

「但し」

 と言って、頷き、

「仙台というなら、この言葉。「墨田の水はテムズ川に通ず」これは誰の言葉か答えよ。これが条件じゃ」

 お華は、この時、月謝かと思ったが、

 意外な事を言わ慌てて、

「おみよちゃん! 紙と筆」

 と叫ぶ。



(3)


 翌日、優斎は朝から八丁堀に行っていて不在だった。

 お華は、それを追っかけるように八丁堀に向かう。

お華が庭から入っていくと、

 それまで泣き声が聞こえていた赤子達はピタッと、声が止まった。

「先生。いらっしゃったわね。兄上、姉上、おはようございます」

 と、笑顔で居間に入ってきた。

「おう、お華どうした?」

 と浩太郎が言うのだが、それには答えず、お華は庭に向かい、

「サブちゃん! こっちおいで!」

 などと、大声で叫ぶ。

 優斎が少し驚いて、

「どうしましたお華さん」

 するとお華は、

「あのね。兄上と先生、サブちゃんに考えて欲しい事があるのよ」

 と言うと、裕三郞が頭を掻きながら、庭から上がってきた。

「あ、兄上。それよりお華さん何です?」

 些か、警戒気味に言う。

 すると浩太郎が、

「そう言えばお前。昨日、田中さんの所でやってくれたそうじゃないか」

 少々不機嫌気味で、お華に文句を言う。

 それには、おさよが、

「何です? 田中様って」

 浩太郎は、田中本人から聞いた一部始終を、おさよと優斎達に話す。

「それは本当ですか? お華さん」

 お華も恥ずかしげに頷く。

 すると、二人の横で面倒を見ている、おきみも驚いた様に、

「お嬢さんが、怒ったんですか?」

 不思議そうにお華を見る。

「全くお前って奴は、貰い乳で漫才やってどうするんだ。俺は田中さんに聞かされて、本当、恥ずかしかったよ」

 浩太郎は、続けて優斎に、

「小春がお華を叱ったって言うんだけど、まだ三ヶ月だぜ? 本当に分かるもんなのかい?」

 それには、さすがに優斎も首を傾げ、

「いや~、まだ目も見えない時期ですからね~。確かにもう耳は聞こえるとは思いますけど、聞き分けるなんて……。奥様の声ならお腹の中から二人とも聞いてるから、理屈としてはあり得ますけど、お華さんに? しかも手を叩いて? ちょっと信じられませんな」

「そうだよな~」

 すると、おきみが、

「でも旦那様。今だって、お華姉さんが来た途端、この子達の泣き声がが止まってしまいましたもん」

 それには、裕三郞が笑い。

「分かりますよ。その気持ち」

 などと言うものだから、おさよが加わって、

「この子達は、何か危険を感じているのね」

と、大笑いだ。

 お華は天井を見上げ、

「全く、優しいおばさんに連れてって貰ったくせに、兄上にそっくりよ」

 すると浩太郎が、苦笑して、

「おい。その優しいおばさん。三郎さんまで呼んで、何しに来たんだ」

 と、やっと本題に戻った。

「全く。手間が掛かる家だこと!」

 お華は少々口を尖らせるが、気を取り直し、

「あのね。サブちゃんの塾の話なのよ」

 これには、裕三郞は勿論、浩太郎・優斎も驚いた。

「え? 塾?」

 優斎の言葉にお華は頷き、昨日のお座敷の話を始めた。

「ほう。お旗本で海外事情か?」

 浩太郎は意外な言葉に驚いた。

 蘭方医の優斎は、蘭方の専門家として医者をしている訳だから、何だか嬉しそうに聞いている。

 お華は続けて、

「サブちゃんが大砲を学ぶ為ってのは私も聞いてみたんだけど、仙台では難しかろうって事なのよ」

 浩太郎が、

「難しい? どういう事だ」

「その人はね、大砲を学ぶのならば、韮山の江川か高島様しかいないけど、高島様はあの妖怪に捕まって、危うく死ぬところだったし、江川は幕府に命じられてやってはいるが、まだ緒に就いたというところで、完成までは時間が掛かる。仮に教えて貰ったとしても、仙台では、すぐには無理だろうと仰ってたよ」

 今度は、優斎が、

「お華さん、それはどういうことです?」

 お華は頷き、

「え~っとね。今それをやろうとしてるのは、今も言った韮山の江川様、あとは佐賀の鍋島様だけなんだって。北町のご本家様ね。結構、昔からやってるんだって。あそこは長崎が近いし、蘭国からの指導も受けられる。でも仙台は、教えて貰っても最初から始めなければならないでしょ。大体、鉄そのものを作るのだって、今、この国にある鉄とは、せ、成分? なんかそんなのが違うから、それに相当なお金が掛かるんだって。昔からやってる鍋島様やお上の江川様ならともかく、いくら大きいとは言っても、伊達様が今からとなると、家が傾く程になるだろうって」

 優斎は腕を組み、

「なるほど、そもそもお上がどうと言う事ではなく、お金が掛かると言うんだ」

 と、大きく頷く。彼は一時、勘定方も囓っていたので、その感覚は分かる。

 そしてお華は、

「んでね兄上。その人。その大砲って話は、水戸様の受け売りか? って言うのよ!」

 それには、浩太郎驚いた。

「え? そんな事も分かるのか」

「私も、びっくりしちゃってさ。でね。私は今更大砲云々より、そう言った国の事を理解して、交渉できる人がまず必要なんじゃないかと思ってね。このサブちゃんなら、あってる様な気もするしさ」

 それには、優斎も頷き、

「そうですよ。おそらく仙台では、いざ外国人が来ても蘭語が出来る者なんぞいないから。さぞ混乱するでしょうしね」

 そしてお華は、

「どう? サブちゃん。殿様にお願いしたら」

 裕三郞は笑顔で頷いて、

「私もその方が良いですよ。大砲学ぶより、そういう知らない国を学ぶ方がおもしろそうだもん」

「でしょ?」

 すると、浩太郎が、

「その人、旗本と言ったが、どういう人なんだい?」

 お華は頷き、

「貧乏旗本よ。四十一石の勝様っていうの」

 それには、浩太郎は首を傾げ、

「四十一石の勝……。どこかで聞いた事あるなぁ~」

 するとお華は、

「あの遠山様に似て、べらんめい調でさ。とても旗本って言う感じじゃないけど、凄く頭の良い人よ」

「勝ね~」

 浩太郎が引き続き、頭を傾げる。

 するとお華は、懐の紙を取り出して、

「先生。これって入塾試験なのかしら、仙台なら、この言葉が誰の言葉かわかるだろうって、聞いてきたの」

 それには裕三郞が、不思議な顔で、

「私にじゃないんですか?」

それにはお華は笑って、

「分かるなら良いけどさ。多分、わかんないと思うよ。私は今でもわかんないもん」

 優斎が笑って、

「で、何です?」

 お華は頷いて、紙を読み上げる。

「隅田川の水は、ロンドンのテムズ川に繋がっている……だって」

優斎と浩太郎は仰天した。

「ろ、ロンドン? テムズ川……ですか……」

「サブちゃんわかる?」

 とお華が聞くと、裕三郞は恥ずかしげに、手と首を振り降参している。

 そしてお華は、

「先生。先生なら分かるでしょ。あの人、仙台ならって言ってたからさ。当然、仙台の人の言葉なんだよ」

 しかし、優斎は頭を抱え、

「せ、仙台にそんな事言った人が居たかな~」

 お華は、笑って、

「じゃ、サブちゃんはお許しを貰って、先生は答えを見つけてくださいね」

 言うのだが、優斎はまだ、珍しく蹲って悩んでいる。



(4)


 それから勝の指定した五日後。

 お華は、裕三郞を連れ、その当時勝が済んでいた、本所の屋敷に向かった。

 その頃、勝が住んでいたのは本所入江町。

 本所入江町。と言うと、時代劇ファンなら、ある人を思い出すかも知れないが、この頃は勝麟太郎であった。


 さて、後ろから、普段着の浩太郎と優斎も付いてくる。

 お華は、後ろの浩太郎に 、

「優斎先生は分かるけど、なんで兄上まで付いてくるのよ」

 と、文句を言う。浩太郎は、苦笑して、

「やかましい。俺も三郎さんを預かってる身だ。確認するのは当然だろ」

 などと言い返すのだが、お華は、

「何言ってんの。海外のことって聞いて、ちょっと興味が湧いたからでしょ」

 言われて、優斎が笑う。

「それは仕方有りませんよお華さん。浩太郎さんだって町方だから、色々知っておきたいんでしょう」

 浩太郎はうんうんと頷く。するとお華が、

「先生。そう言えば分かったの?」

「え?」

「あの隅田川の話よ」

 それには優斎も、困惑した顔になり、「それは……」と言葉が詰まる。

「大丈夫? せっかく、サブちゃんはお許し貰ったのに」

 優斎は再び、頭を抱え、

「わ、わからん……」

 と、また肩を落とす。


 そんなこんなで、一行は勝の屋敷に着いた。

 そこは本来、旗本・岡野孫一郎の屋敷であるのだが、勝はこの頃、そこに一緒に住んでいたのだ。

 勝が言っていた、増築された部屋に通され、四人は勝の正面に並んで座る。

 すると、お華が、

「勝様。この度は、私の我が儘をお聞き下さり誠にありがとうございます」

 と、一同、一緒に深く頭を下げ、隣の裕三郞に手をやり、

「こちらが今回お願いした、秋月裕三郞でございます」

裕三郞も、頭を下げながら口を開く。

「私、伊達家、勘定方を務めます。秋月裕三郞にございます。この度は、このお華さんが無理矢理お願いした様で、誠に申し訳ありません」

 勝は笑みを零しながら、

「お華様が仰る事を無下に扱うと、千代田の怖い姉さんに叱られるからな」

 それには、お華意外、一同笑っている。

「勝様。別に姉様は怒りませんよ」

 と、お華も笑い出し、脇の二人に手をやり、

「そして、こちらは、私の兄、北町の町回り同心の桜田浩太郎。そして裕三郞さんの兄。蘭方医、優斎さんです」

 二人とも、一斉に深く頭を下げる。

「なるほど。しかし大勢付いてきたな」

 勝が笑いながら言うと、お華は、

「そうなんですよ。最初は二人だけと思っていたのですけど、海外の事と聞いて、付いて来ちゃったんですよ」

 勝は頷き、

「まあ、今は色々と問題になってるからな。分からなくはないよ」

「で、勝様。この裕三郞様は、直接、伊達のお殿様からお許しを頂戴し、是非にもお願いしたいとの事です」

 そう言うと、優斎が手を着き、

「申し訳ありません。条件の問題についてでございますが、私にもサッパリ分かりませんでした。どうかお許し下さり、裕三郞の入塾の件、お願いできませんでしょうか?」

 と、申し訳無さそうに謝っている。

 しかし、勝は不思議な顔で、

「条件? 儂が何か言ったかのう?」

 お華に言うと、お華は少し怒った様に、

「勝様! 仰ったではありませんか! 入塾の条件は、てむず川の水は隅田川って!」

 それには慌てて優斎が、

「お華さんそれは逆。隅田川の水はテムズ川に通ず」

「あ! そうそう、それよ」

「ああ、儂はそんな事言ったか?」

 と勝は大笑いだ。

「忘れてたんですかぁ勝様!」

 怒るお華に、

「すまんすまん。いや、伊達公がお許しなら、それで良いのじゃ。入塾を許す。ただ、まだ始めたばかりで、塾生はこの者だけだけどな」

 と言って、

「その隅田川の水だが、仙台の者と聞いて、ちょっと試したかったんじゃ。江戸に居る伊達の者なら分かるのかとな。むしろそこの、お華の兄の方が知ってるんじゃないか?」

 それには、今度は浩太郎が慌てて、手を振り、

「い、いえ。私も一向に分かりませんでした。どういうことでしょうか?」

 すると勝は、

「もう、だいぶ前だが、寛政の頃じゃ。仙台の者であった林子平という人物が書いた言葉じゃ。たしか……「海国兵団」と言う書物に書かれた言葉での。世界は海でどこまでも繋がっている。だから隅田川の水だって、ロンドン、これは英国の都じゃ」

 優斎が、

「英国ですか?」

「そう。遙か遠くの英国にある川に繋がっている。という意味で、いずれ、先頃のような船で我が国にやって来ると言う事を意味した言葉じゃ」

 優斎は驚いた顔で、

「林様……そんな方が、仙台にいらっしゃったのですか。驚きました」

 勝は笑いながら、

「実は、そなた達が知らない。いやむしろ隠されたのだろう。だから知らないのはある意味当然じゃ」

 すると、浩太郎が、

「では、なぜ私が……」

 それには、勝が再び笑い。

「その頃は、寛政の御改革の頃じゃ。林殿が書いた海国兵団は、お上に危険な思想と発行禁止になったのじゃ。恐らく、お父上辺りの時代に書肆などから全て回収して、版木も燃やされてしまったからな」

 今度は、浩太郎が、

「あ、あの、御改革で……。私もそこまでは知りませんでした」

 と頭を下げる。

「気にする事は無い。そなた達は関わりない事だからな。ただ、今はあの林殿が書かれていた様な事態になってしまった。結局、今頃になって慌てる始末になる。まったく情けない事だよ」

 すると、勝は、

「そう言えば、先年の改革は、お華がぶっ潰したんだって?」

 さすがにお華は、それには慌てて、

「いやですよ勝様。私の様なか弱い女に、そんな事出来る筈はありませんよ」

 それには、三人とも大笑いとなり、裕三郞などは突っ伏して笑っている。

「何言ってんだ。知り合いの目付が言ってたぞ。妖怪を一位様の着物で地獄に突き落としたて」

 お華はあわてて、

「あれは、この人に言われたからですよ」

 と、浩太郎を指差し、

「まあ、あの時は私も危なかったですから、仕方無く……」

 声が小さくなってしまった。

 勝は笑って、

「いや。あれは大したもんじゃ。優斎さんもあの折は大変じゃったろう?」

 優斎は大きく頷き、

「はい。蛮社の獄なんてものがありましたから。この浩太郎さんにも助けて貰いました」

 二人は顔を見合わせて笑う。

「それは助かったな~。まったく、あの妖怪が、海外の物、人をとことん潰そうとしていたから。あれで、大砲の高島も牢にぶち込まれるし、大変な時代だった」

 優斎は、

「はい。それで今回の事も大砲を学ぶ所など江戸にはありませんので、困っていた所です」

 それには、

「あれな」

 勝が笑い、

「あんな物、今更遅いわ。ありゃ水戸の夢物語と思った方が良い」

 と言い放つ。

「あの御改革のそもそもの始まりは、中国の清国と英国の戦争が一つの原因だと知っているか?」

 それには全ての者が驚き、お華が、

「え~そうなのですか?」

 勝は頷き、

「そう。清国はそなた達も知っているだろう。我が国より、国土も大きく、そして兵力も我が国より上だ。が、しかし、何故たった二十隻の船に敗れ、国土まで征服されたのか。これが理由の一つらしい」

 優斎は大きく頷く。

「しかし、一緒に組んだのが最悪だったな。どんどん改革が違う方向に行ってしまった。妖怪なんぞその最たる者じゃ。結局、お華に潰されてしまった」

 と、勝は大きく笑う。

「嫌だな~」

 お華は恥ずかしげに頭を抱える。

 すると勝は、

「実は、水野様はあの折、蒸気船と蒸気機関車を輸入しようと考えておられたんだ」

 それには、優斎が驚愕した。

「それは、誠の事にございますか?」

 しかし、お華は何の事か分からない。

「どういうこと? ですか?」

 勝は頷いて、

「蒸気船という船は既に、我が国にも来ておる。英国やアメリカがそうだ。この船は風の力で動くのでは無く。蒸気の力で動く。だから天気がどうであろうと、更に風で動く船より強力だから、早く走れるのさ」

優斎も頷き、

「私もそれは学んだ事があります。機関車というのはその陸上版ということですよね」

 勝は大きく頷き、

「そうじゃ。これも蒸気の力で車輪を廻し、驚異的な速さで、大地を走るのじゃ」

 

 これらは、明治維新の象徴として有名だが、実はもっと以前にその構想はあった。

 ただ、水野は将軍の日光参拝などに金を使い過ぎ、沙汰止みとなってしまう。

 もし、その通りとなっていたら、もしやすると明治維新は別の形になっていたかもしれない。

 お華は、ますます分からなくなった様で、

「ねね、蒸気ってなんです?」

 と、勝に聞いたが、その時、勝の奥方が茶と菓子を運んで来た。

 お華は、奥方に笑みを向け、

「これはこれは、奥方様自ら。誠に持って恐れ入ります」

 頭を下げると、浩太郎達もそれぞれ感謝の言葉と共に挨拶をした。

 すると、勝は茶を取り上げ、指を指す。

「お華。蒸気とはこれじゃ」

 と言った。お華は驚き、

「湯気ですか?」

 すると優斎が、

「お華さん。お湯を沸かしすぎると、ヤカンの蓋が飛んじゃったりするでしょ。あの力ですよ」

 お華は驚き、

「へ~。そんなもので……」

 と、茶を啜る。

 奥方が下がって行くと

「折角じゃ、今日は、少しばかり授業をやろうか」

 優斎と浩太郎は、目を輝かせて喜んでいる。

 浩太郎に至っては、その様な経験があまりないから余計に嬉しいかも知れない。

 勝は、皆を見回し、そして優斎と裕三郞に目を向けた。

「特に君たちに聞こう。我が国は今は鎖国の中だから一度も無いが、しかし我が国はそれまで海外に使節を送った事がある。知っているかな?」

 それには優斎が、え~と言いながら、

「確か、平安の頃に遣隋使と遣唐使でしょうか?」

 勝は頷いたが、

「それは正しい。しかしそれだけかい?」

 それには、途端に困った顔の優斎だった。当然ながら裕三郞はもっとわからない。

「申し訳ありません。私にはそれぐらいしか学んでおりません」

 と優斎は頭を下げる。すると勝は、

「まあ、そうだろうな。仙台だしな。実はな、時代は天正十年。ちょうど本能寺の変の年じゃ。その頃は九州にキリシタン大名と言うのが居て、その名代として、ローマに渡った日本人がいた。ローマというヨーロッパの国に行っている。まあ、これはキリスト教の更なる布教の為だと言われる」

 これは、大友宗麟や大村純忠、有馬晴信らが送った使節で、これにより、世界に日本という国が認知される事となる。

 浩太郎が、

「キリシタンとは……その頃は、問題が無かったのですか?」

 勝は頷き、

「キリスト教が禁止になるのはもう少し後の、太閤の時代だ。だから、この者らが帰ってきても処刑されてしまう事になる」

 浩太郎とお華は、なるほどと頷いている。

 しかし勝は、

「これは悲惨な結果になったと言って良い。しかしその後、同じ様な事はもう一つ起きている。蘭方医の先生。ご存じかな?」

 さすがに優斎は首を振る。

「あなたと裕三郞君が、これを知らないと言うのは問題だ」

 勝が、思いも寄らない事を言うので、優斎、裕三郞は驚き、裕三郞が、

「申し訳ありません。どういう事でございましょう。私にはとんとわかりません」

と言うと、なんとお華が、

「優斎先生やサブちゃんに言うんだから、きっと仙台の話ですよね? 勝様」

 そう指摘してしまう。しかし、どう考えても仙台に外国の使節など聞いた事がない優斎は、またもや深く頭を下げ、

「先生。申し訳ありません。裕三郞が言うように、私にも全く分かりません。どうかご教授を……」

 と言うと勝は、

「まあ、これも先程のテムズ川と一緒で、伊達殿の家中で秘密にしているのかも知れないな」

 と苦笑し、

「しかし、これは仙台の先達に対する不孝と言っても良い。お華の言う通り、最後の一つは、正に仙台の家中じゃ」

 これには、やはり二人とも驚愕したが、浩太郎も驚いていた。

 すると勝は、

「慶長の頃じゃ。権現様も正宗公も生きてらっしゃた頃の話じゃ」

「そんな前……あれ? その頃って大坂の陣とかあった頃ですか?」

 それには勝が驚き、

「お華よ! よくそなた知っているな?」

 と声を上げる。

 浩太郎、お華に取っては、その頃は先祖と一番関わっている出来事。

 だから、たまたま知っていただけだが、

「いえ~ちょっとそこだけ知っていたんですぅ」

 と誤魔化したが、この繋がりには二人とも驚いている。勝は続けて、

「正宗公は、戦国のお人だからな。徳川に天下を取られるのが許せなかったのか。単に交易をしたかったのか分からんが、一応、権現様のお許しは頂いて、仙台の家臣をメキシコとスペイン。そして先程と同じ、ローマに使節を出しているのじゃ」

「え~!」

 と裕三郞は声を上げた。

 優斎も少々大声で、

「いやしかし、その頃はもう禁教令が出ていたのでは?」

 と言ったのだが、勝は、

「丁度、それが出る前だったのだ。だから同じ様に、帰ってきたら大変な事になった。しかも交渉は不首尾だったらしい」

「なんと!」

「正宗公には気の毒な事じゃが、その頃、権現様も忍びの者の情報で、帰ってきたのは掴んでいた様じゃ。しかし、公にはしなかった。まあ、豊臣もまだ滅んでいた訳ではないからな。下手に騒ぎ立てるのは得策では無いと思ったのだろう。しかし、同時にそれは正宗公も同じで、何とか闇に葬りたかった。だから、そなた達が知らないのも不思議な事では無い。とは言え、そなた達が今しようとしている事は、実は二百年以上前にとっくにやっていた事なのじゃ。これを忘れない様にな。それに仙台に帰る事があれば確かめてみるといい。それも先祖供養の一つになるかも知れん」

 さすがにこの事は、彼らには驚きの事実だった。

 優斎はショックを隠しきれない。


 そして、勝は話題を変えた。

「さて、皆に聞く。お前さん達は、米国がどこにあるか知ってるかい?」

 これには、浩太郎が得意げに、

「はい。八丈島の先にあるものと聞いております」

 と言うと、優斎とお華も先日話し合って居たばかりだから、大きく頷く。

 勝は頷き、

「遠島の八丈の方向というのは正しい。ただ、先なんていう簡単な距離ではない」 それには、優斎が目を丸くして、

「それはどういう意味にございますか?」

 すると勝は、

「奉行所の兄さんに聞こう。日本橋から京都まで何里だい?」

 浩太郎は突然の指名に少々驚いたが、これは簡単な質問だったので、

「はい。三百里と」

「そうじゃ。では、九州博多から清国までの距離はわかるかい?」

 これにはさすがに、浩太郎は首を振り、優斎も記憶をひっくり返してもそんなこと知らないから、

「申し訳ございません。勉強不足で……」

 頭を下げる。

 すると勝は笑いながら、

「清までは大体七百里じゃ」

 と言い。更に、

「それでは米国は。米国はな。江戸から一万里だという」

 それには、さすがに皆、目が点になり、お華は、

「い、一万……」

 裕三郞は、何が何だか分からない。

 優斎が身を乗り出して、

「と、と言うことはですよ、我が国までどのくらいかけて来たのでしょう」

「そうじゃな。さっきも言った蒸気船でも、ひと月以上と言う事だそうだ」

「ひと月……」

 浩太郎は驚愕する。彼は奉行所所属だから、八丈までの距離は何となく想像出来る。しかしそれは帆船での事。確かに「ちょっと先」どこの話では無い。

「そういう連中じゃ。英国なんぞ。もっと遠い。蘭方医の先生の蘭国も同じ位じゃ」

「そうなんですか……」

 優斎もそう言った方面から蘭学を見る事が無かったから、正に虚を突かれたという思いだっただろう。

 すると、勝は、

「今日は記念すべく塾の初日じゃ。特別に皆にみせてやろう」

 と立ち上がり、押し入れから布を被せた物を取り出し、お華と裕三郞の前に置いた。

 裕三郞が、

「これは何でございます?」

 勝は、妙に嬉しそうに、

「皆に世界を見せてやろう。そなた達は、大地が丸く出来ているのは知ってるか?」

 優斎はさすがにそれは知っていたが、お華は大きく首を振る。実は浩太郎もだ。

「はい。存じております」

 と優斎が言うと、

「では、それは後でお華に教えてやりなさい」

 と言って、勝は布を外した。

 それは、地球儀であった。

 優斎は話だけは聞いていたようで、

「これは、まさか?」

 勝は大きく頷き、

「そう、地球儀というものじゃ。要するに世界の地図じゃ」

 四人は一斉にそこに集まり、目を皿の様にして色々眺めるが、

「勝様! 我が国はどこに書かれておるのでしょう」

 と浩太郎が聞くと、勝は笑いながら、地球儀を廻し、有る地点で指差した。

「ここじゃ」

 それにはお華が、大層驚き、

「こんな、ちっちゃい島ですか~」

 如何にも情け無さそうに聞くと、勝は頷く。

 そして勝は、ゆっくり動かし、

「これが米国。そしてここが英国。そして先生の蘭国はここ。そしてさっきの使節の話にあったローマなんかはここじゃ」

 これには、優斎は更なる衝撃を受けた。

 するとお華は、

「では、おろしあって国はどこなんです?」

 と、彼女が知っている国を挙げる。

 再び、勝は少し地球儀を廻し、

「ここから、ここまでがロシアじゃ。そして、ここが清国じゃ」

 お華は驚き、

「こんなに大きいのですか?」

 勝は頷き、

「米国も大きい国であったろう。ロシアはもっと大きい。我が国なんぞ比べものにならぬ。兵力だけでも、何十、何百倍じゃ。簡単に打ち払えなんて戯言に過ぎん」

 この言葉には、皆、頷いた。そして勝は、指差しながら、

「ちなみにこの頂点は北極と言い、反対に下は、南極という。ここには人は住んでいない様じゃ。いや、住んでいないと言うより、人は住めない場所の様じゃ。何でも、万年氷で埋め尽くされているらしいから、住もうと思っても我々では無理なのじゃ。太陽が少ししか当たらないらしい。逆にこの真ん中の中心線は太陽が通る道らしく、えらく熱いらしく、広大な砂漠地帯が多いらしい」

「なるほど……」

 と優斎が、感嘆すると、突然、裕三郞が、

「先生。拝見すると、英国は、我が国とそれ程変わらない様に思いますが、何故、清国に勝ってしまうのです?」

 その質問には、勝も頷き、

「よい質問じゃ。国も大きければ良いというものではない。これに対抗するのは技術じゃ。英国は、国はそれ程大きくは無いが、技術は世界一番じゃ。兵器もどの国より勝った物を作り上げている」

 そして、お華を見て、

「お華は、一遍に何人も打ち抜いてしまうようじゃが、それと一緒じゃ」

 お華は、褒められているのか何か分からなかったが、嬉しそうに頭に手をやり、

「あら。お褒め頂きありがとうございます」

 などと微笑んでいる。

 勝は笑って、

「昔、織田信長公は三千の鉄砲で、無敵と言われた武田騎馬隊を完膚なきまで叩きのめした。技術が進むと、少ない人数でも、倍以上の兵を倒すことが出来る。そして今。外国の鉄砲は、我が国の火縄銃より距離が飛び、しかも今は五連発も出来るという話じゃ。お華に似てるが、さらに強力じゃ。だから清は簡単に負けた。聞いた話によると、船二十隻で一万九千人、清は二十万人で戦い、清は二万人討ち死に、英国はなんと、六十九人だったそうな。馬鹿馬鹿しい強さだよ」

 さすがに浩太郎と優斎はその数に仰天した。

「六十九人って、二十万と戦ってですか?」

 裕三郞初め三人は、途方もない差に、言葉を失った。

 しかし、お華は、

「我が国は大丈夫ですよね」

 と聞くが、勝は、

「今の旗本、そして各家中の武士がそれほど強いと思うかい? たぶん結果は変わらんよ」

 そう言われると、お華も浩太郎も頷かざるを得ない。


「まあ、たぶん戦うことにはならんと思うがな。向こうも戦えば金が掛かる。それに我が国を占領しても、獲れるのは米ぐらいだからな」

 と、勝は笑う。お華は、

「あとは、お上がどう動くのかってことですか……」

「まあ、そうだがな。阿部様がどうなさるかと言う事じゃ」

 


(5)


 お華は、裕三郞に、

「伊達様のお許しは頂いているのでしょう? 塾代、割り増しでお払いするようにね」

 裕三郞は困った顔になり、同時に勝が笑い。

「あんた、すげえな~。悪党にもなれるぞ」

「いえいえ、何と言っても伊達様だし、外国の事は勿論、お上の事も教えて頂けるだろうし、それぐらいは当然ですよ」

 それにはさすがに浩太郎が口を出し、

「おいおい、お華。言い過ぎじゃ」

 と、叱りつける。

 お華は、肩を萎ませて、

「そうですかぁ~」

 と、下を向く。

 勝は、笑顔のまま、

「それは、世間並みで構わぬ。それより、同時に言葉も学んだ方が良いぞ。まずは蘭語じゃ。これは儂も、そなたの兄もいる。ある程度はそれで良かろう。ただな、将来は英語を学んだ方が良い」

 それには優斎が驚き、

「これからは英語と仰るので?」

 と興味深そうに聞く。勝は頷き、

「そうじゃ。しかし、これはさすがに分かる者が居ない。今、御公儀では長崎に英語研修所を考えているらしい。その事も含め、頭に入れといた方が良い」

 長崎の英語伝習所は、この後、安政五年に、通訳養成の為に設立される事になる。 そこには、後の早稲田大学設立者、大隈重信もそこで英語を学んでいる。

しかし蘭方医の優斎は、内心少し不機嫌だった。

「では勝様。これからは英語が大事だと」

 勝は頷き、

「英国と米国は、英語を使うからじゃ。それに英国は強大だから、英語が出来れば、かなりの国で通じると言われている。実は蘭国でもそうじゃ。だからかなり便利だからな」

 優斎は、少しガッカリした。

 彼は彼で、蘭語を懸命に覚えたが、世界の情勢からは置いてきぼりになったと思ったかも知れない。

 すると、勝は更に衝撃的な事を話す。

「そなたは、シーボルトを知っているだろう」

 優斎は、すぐ頷き、

「はい。私は長崎には行ってませんが、お名前は存じております。確か、鳴滝塾という……」

 その時首を捻っていた浩太郎が、

「あ!」

 と、声を上げる。

 勝は和やかに、

「そなたも知っているだろうな。事件起こしたからな」

 そう、俗に言うシーボルト事件である。

 帰国となった時に彼の船は難破してしまう。しかし、その時、彼は日本地図を所持していて、それも自国に持ち帰ろうとしていたのが発覚し、渡した者が罰せられ、本人も、国外追放となってしまう事件である。

「まあ、事件の事はともかく。それまで、シーボルトの様な医者が、長崎で医学を教えていた。しかし、実はその医学者。すべて、蘭国の人間では無かった事。知っているかい?」

 それには、優斎には人相が変わる程の衝撃だった。

「え? 誠でございますか?」

 勝は頷き、

「実はな、あれらはすべて」

 と、傍らの地球儀のその場所を指差し、

「このドイツと言う国の者達じゃ」

 優斎には、仰天どころでは無い。

「では、私たちが学んだ医学は、全て間違いだったと」

 それには、勝は首を振り、

「医学自体は間違いではない。何しろ蘭国の船に乗ってくるのだから、どこの国だろうといい加減な者は載せられないからな。面白い事に、医学はドイツの方が優れていると言う事じゃ。だが、ドイツは我が国と交易をしていない。だから、蘭国と偽って来ている訳じゃ」

 優斎は、勿論の事。お華と浩太郎も。そして裕三郞も驚きの話である。

 これまで蘭方と言って信じていたのが、実は違う国だったなど、まるで落語だ。

 優斎は、さすがに肩を落とし、ガックリとしている。

 しかし、お華は、

「優斎先生、元気出して。別に間違った事、学んだ訳じゃないんでしょう。仕方無いからこれからは洋学とか言っとけば? これなら間違いじゃ無いし」

 などと優斎を励ます。すると、勝は笑って、

「ほう、お華。良い事言うじゃ無いか。そう。これからは西洋医学の者としてやっていけば良いのじゃ」

 しかし、優斎は相当ショックだったようで、

「はぁ」

 と、元気の無い返事だ。

 すると、勝はまた立ち上がり、書庫から一冊の本を持ってきた。

「実はドイツだったとしても、蘭国、ドイツ、そして英国、フランスは重要じゃ。すべての技術を学ばなければ我が国は追い付かん。だから、この本をお前さんに貸してあげよう」

 と、優斎にその本を渡した。

 優斎は、その本をじっと見て、飛び上がる様に驚いた。

「こ、これは、ドゥーフ・ハルマでは?」

 勝は、頷く。

「このような貴重な物、お貸し頂けるので?」

「それはな、儂が若い頃、筆写した二冊のうちの一冊じゃ。我が家は見ての通り、貧乏じゃからな。二冊写して、一冊を売ったんじゃ」

 浩太郎が、ズルズル寄って、その本を見て、

「優斎さん。この本は何だい?」

 ドゥーフ・ハルマは、オランダ商館長・ヘンドリック・ドゥーフが著作の日蘭辞書である。

 もともと仏蘭辞書だったのを、フランス部分を外し、日本語に置き換えた辞書で、初めてのオランダー日本語である。

 余談ながら、ドゥーフ・ハルマは、あの、大坂にある緒方洪庵の適塾では一冊しか無く。この本専門に「ドゥーフ部屋」をわざわざ作って学ばせている。

 後の慶応大学創設者、福沢諭吉もこの部屋で学んでいる。


 勝は、和やかに、

「こりゃ、高い本でな。儂に手が出る筈も無い。仕方無いから、年十両で借りて写したのじゃ。これを写しとけば、裕三郞さんも助かるはずじゃ」

 十両と聞いて、お華は目が大きくなる。

「借りるだけで、年十両? 何だかよくわかんないけど、そんなに貴重なものなの?」

 優斎は、大きく頷き、

「これは助かりますよ。私だって前から知ってましたが、何しろ高い。諦めてましたから……」

 と言って、

「勝様。すぐ筆写致します。どうもありがとうございました」

 と裕三郞と一緒に深く頭を下げる。

 すると勝は、

「裕三郞さん。それで勉強し、もし仙台に外国船が来たらな……」

 裕三郞は「はい」と頷き、

「こう言ってやれば良い。アイ トーク ダッチ。ってな」

 それにはお華が、

「それは何です?」

 当然、不思議そうに聞く。

 勝は頷き、

「これは、私はオランダ語を話します。という英語じゃ。先日、米国が来た時に、長崎通詞がそう言って、蘭語の分かる奴と話が出来たらしい」

 それにはお華が、

「あ、あい、とーく、だっちって、英語なんですか? サブちゃんすぐ書き取りなさい!」

 と、お華が偉そうに命じているから、裕三郞は、「はい、はい」と呆れながら、腰から筆を出す。


 すると浩太郎が、

「勝様。また、あの外国船はやって来ますでしょうか」

 と質問した。

 勝は笑い、

「よし。そなたにも土産をやろう」

と言うので、浩太郎は恐縮して、

「いえいえ、そういう積もりではなく。同心として覚悟した方が良いかどうか、ご意見を賜りたいと、本日はお邪魔したのです」

「なるほど。これは、お上でさえ機密事項だが教えてやろう。一切、他言無用じゃ。良いな」

 この機密という言葉には、浩太郎や優斎も背筋が伸びる。

「そなたは、毎回オランダ商館長が長崎に入港する度に、お上に対し、諸外国の動静を伝える風説書を提出しているのを知っているか?」

 それには、浩太郎は慌てて手を振り、

「私の様な、一同心がその様な事。知っている筈がございません」

 と笑い、すると優斎が、

「そんな物、毎回、お上に提出されているんですか?」

 勝は頷き、

「そうじゃ。我が国は鎖国が建前じゃが、意外にもお上の上層部は、誰よりも世界の事を知っているのじゃ。おかしな話だがな」

 優斎も意外な話に、興味を持ったらしく、真剣に言葉を聞く。

「そ、それには何か、気になるような事が書かれているのですか?」

 勝は頷き、

「前回の報告書では、世界がそう言った動きになっているので、用心が必要とな」

この風説書は、通常、オランダ風説書と言われる。

 それには他国の細かな様子が伝えられ、アヘン戦争もこれにより日本に伝えられた事によって、警戒感が増し、改革が進んだとも言われる。

 そして、このところ、他国に対する注意情報が寄越されているらしい。

 これは、オランダが唯一の取引国と言う事もあって、自国の利益の為もあるだろう。

 しかし、これから数年後、今度は「別段風説書」という特別な書類が寄越され、一転、開国を勧める意見が寄せられる事となり、上層部は大混乱となる。

 

 そして、勝は、

「必ず、また来るさ。もう、この動きは止まらないと思った方が良い。まあ、お前さんは、気にする事はないよ。何があっても、庶民を落ち着かせる事。これが重要だ」

 それは、それほど遠い事では無く、現実として浩太郎の前に現れる事となる。

 そして勝は、

「我が国は、太閤の時代以来、他国との大きな戦争は一度も無い。江戸の御代でも二百五十年近く平和であった。しかし、これからどうなるかな。だから、今のうち出来る事はしておかねばならん。まあ、最後の手段は、お華さんに頑張って貰うしか無いな」

 これには、お華以外大笑いだ。

 すると勝は、

「さて、それでは今日の最後は、折角紹介してくれたお華姉さんの為の話じゃ」

「え~私ですかぁ~」

 と、お華は目を細め妙な顔をしている。

 勝は再び、地球儀を指差し、

「さて、お華。この大きい海の名前知ってるか?」

 お華は、首を振る。

「ここは、パシフィックオーシャンと英語では言われている。しかし、我が国では、この海を……」

 勝は空間に、文字を書きながら、

「太平洋と翻訳したと言われる男がいる」

「はぁ~太平洋ですか……」

 お華には、言っている事は分かるが、何を意味するのかサッパリ分からなかった。

 勝は続けて、

「その男の名前は、岩瀬肥後守忠震と言う旗本じゃ。知っているかい?」

 お華は、全く知らなかった。頭を大きく振る。

「この男は、儂もまだ会った事は無いが、何でも公儀の間では、開国派として通って居るようじゃ。そしてここからが、お華に関わる事じゃ」

 それには、お華ばかりで無く、浩太郎も首を前に、興味深そうな顔をしている。

 勝は、些か笑って、

「実は、この男。あの大学頭、林述斎の孫なのじゃ」

 この言葉には、お華達も驚愕した。お華は震える声で、

「で、では、あの妖怪と同じなのですか?」

 勝は頷き、

「そうじゃ、岩瀬殿は、あの男の甥じゃ。しかし、おかしいじゃろ。あの儒教の頂点の男の孫で、さらに、大の西洋嫌いの甥が、江戸一番の開国派ってのは」

 お華は何度も頷き、

「それは驚きました。ここに居る人は、それぞれ何らか、妖怪の被害に会ってますが、甥御様はむしろ裕三郞殿のお味方と言う事でしょうか?」

「その通りじゃ。どちらも林述斎の血を引いているのに、まるで逆というのは誠に面白い。桜田殿。双子が出来たからと言って、どちらも一緒だと、安易に思ってはいかんぞ」

 と大笑いだ。

 浩太郎は、いきなり子供話を持ち出されて、頭を掻いて頷いている。

「妖怪の方は、お華姉さんが地獄に突き落としたが、もうあれは、二度と表に立つ事はあるまい。普通、ああなっても、誰か上様に「もうそろそろ」と赦免の話を出すもんだが、奴には一切無い。仕方が無い事だがあのままで終わりだろう。しかし、一方で、新しい者も現れている。世の中とは面白いものよ」

 お華は、深く頭を下げ、

「本日は、私まで色々とお教え頂いて誠にありがとうございます。今後は、このサブちゃんや、甥と姪をしっかり私が見張る事にします」

 などと言うものだから、裕三郞は慌てた顔で、

「お華さん。どうかそれだけは。どうかご勘弁下さいませ」

 と平伏するものだから、一同、大笑いとなった。



~つづく~


 今回もお読み頂きありがとうございます。

 

 さて、時代はとうとう嘉永。

 孝明天皇の世となり、いよいよ幕末の幕が上がりました。

 お華達も、知らないうちに時代の変革に身を投じていくことになります。

 何故か、場面一つの芝居が、短編並みに長い小説になってしまいました。

 どうぞ、ごゆっくりお読みください(笑)


 今も続く(?)英語の呪縛がこの頃から始まります。

 オランダ語だって大変だったでしょうに、その上英語とは、裕三郞さんは本当にお気の毒です。

 

 さて今回から、いよいよ勝海舟が登場しました。

 この塾は、後年、あの坂本龍馬も通った塾です。

 勝海舟は、明治維新以後も生きておりますので、今後もちょくちょく出てくると思います。

 まあ、個人的に言えば、私はこの人の父上、勝小吉の方に魅力を感じているのですが、残念ながら時代的に、登場させる事は出来ませんでした。

 そして、岩瀬忠震。

 この人は、文中で書いていますが、林述斎の血統では異色の存在。

 当時、弱腰の外交と長州などでは言われていましたが、実のところ、アメリカとの交渉は、一歩も引かない強気の交渉をしていたとの話もあり。鎖国の国の官僚としては、出色の存在ではなかったでしょうか。

 しかしながら、この人はつまらない事で、しくじった。

 それは本当に気の毒な事でしたが、それはまた、今後書いていきたいと思います。


 最後は、やはり「慶長渡欧使節団」の話でしょうか。

 そう、支倉常長です。

 その頃は、船も帆船で、来日したスペイン船に載っての旅。

 まずは塩竃からメキシコ・スペイン・ローマの旅である。

 メキシコまで三ヶ月というから、さぞ大変だった事が想像出来ます。

 最近、NHKで特集をやっていましたから、ご覧になった方もいらっしゃるかも知れませんが、主君の命とはいえ、実にお気の毒。

 結局、帰ってきても闇に葬り去られる訳ですから、優斎達が知らないのも無理はありません。

 

 それでは今回もありがとうございました。

 次回もよろしくお願い申し上げます。

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