caseA-Last number
「依頼者が、とても感謝していらっしゃいましたよ」
静かな声が、高い天井に反響する。
広さはさほど無い礼拝堂だが、天井がべらぼうに高い。天に向かって円錐形に伸びていく壁には、お決まりのようにステンドグラスがはめ込まれている。外からの陽射しが照らせば、色とりどりの影が床を飾る。
さほど広くない床をほぼ占拠する長椅子は、今は虚しく、空白と俺一人だけを抱えている。最前列のど真ん中に陣取った俺の前には、ちょうど一番大きなステンドグラスが見えるようになっていた。聖母マリアを型取るそれはかなり高い位置にあり、真下には小さなキリストが壁に磔になっていた。神父は教壇ではなく、そのキリストの傍に居る。
「貴方が、とても良い仕事をしてくれたと。奥様は何も気付いていないそうです」
「そうかよ」
俺の気の無い返事を、神父はキリストを見上げたまま、少し笑ったようだ。
「…アンタ、来るものは本当に拒まないな」
正直、今朝の寝覚めは最悪だった。大概仕事を終えた次の日は良い気分ではないが、今回は特別悪い。
「ちょっとは俺の身にもなれよ」
「何を言いますか。貴方は仕事を終える度に感傷に浸るつもりですか?」
肩越しに少しばかりこちらを振り返る。その目には、数日前に見せた悲哀は微塵もない。ただ冷えた眼差しがあるだけだ。
「まあ、この職についてまだ半年経つか経たないか…新米としては、仕事の出来は上々です。潰れない程度ならば、多少の感傷も今は許しましょう」
神父に褒められて喜べたことは、今のところない。
「今回は…私もあまり依頼されたことのないケースだったことですし」
再び、神父の目元は見えなくなる。僅かに悲哀が戻ってきたのだろうか。
背中は、何も語り掛けてこない。
−−数日前。
「彼女の腹には、子が居ます。その子を殺してください」
喫茶店の客達が他人の事情に興味を持たないとはいえ、神父は声帯を使うことなく呼気だけで、早口に囁いた。
「………胎児を、殺すのか?」
戸惑いが疑問に変わる。
思わず、小さいが声を立ててしまった俺を、神父が鋭い眼差しで咎めた。
聞かれるのがまずいのだから、この店を打ち合せ場所に選ばなければ良いのだが…−−以下、神父曰く−−教会を訪れる者には、まっとうに礼拝の為に来る者も居る。俺のアパートには一秒でも長く居たくないし、店のマスターや従業員の中には、神父の裏の商売を知っている奴も居た。協力を得る時は手っ取り早い。
「…浮気相手の子です。母体には極力負担を掛けないでください。万が一彼女まで道連れにした場合、失敗となります」
「……医者の仕事だぜ、そりゃあ。俺に−−アンタに依頼するようなことじゃない」
疑問符に頭を取り囲まれた心地だが、神父につられて俺も声を低める。
幸い、店に居る客は暇を持て余す耳の遠い爺さんや、雑誌に夢中な不良少女くらいだった。時間帯による客入りや顔触れも神父は把握済みらしい。
「良いですか。まず彼女と浮気相手に、堕胎の意志はありません」
「旦那と別れる絶好のチャンスってわけだな」
「そこまで首を突っ込まなくて宜しい」
ぴしゃりと撥ね付けられ、思わず押し黙る。早く本題に入りたいのか、どうも声が苛ついたように感じた。
「要するに、当人に堕胎の意志が無いならば、胎児を消す方法は二つ。不慮の事故か、当人の意志を無視した第三者の介入です」
そこで一息つき、カップを傾けて喉を潤す。そこから先は、ゆっくりと、出来の悪い教え子に噛んで含めるように続けた。どうやら本題のようだ。
「貴方は、後者の方法で、前者を装って始末しなくてはなりません。幸い、彼女には初めての事で、妊娠期間もまだ一ヵ月以内と日が浅い。“不幸”におさめることは、十分可能です」
神父の目が、少なからず輝いていた。見た目はかなり落ち着いていて聖職者に似付かわしい穏やかな態度だったが、その碧の瞳孔だけが昂揚をちらつかせている。案外、人目のある場所で打ち合せをするのは、自らが好んでいる為なのだろうか。
「……わかったよ…」
疑問符から変化した“釈然としないもの”を抱えたままだったが、仕事にはとりあえず支障はない。
内容はともかく、楽に済みそうな仕事ではあった。これだけ条件をつけられれば却って方法も限られる。
所詮、ドーベルマンが獲物噛み殺すのに、獲物の事情を知っている必要はほとんど無いのだ。
神父は短い返事でも満足したのか、紅茶を飲み干してゆらりと立ち上がった。
「方法が決まったら、連絡してください」
テーブルに紅茶とコーヒー代を置き去りに、聖書を胸に抱くようにして立ち去りかける。
「アンタ、」
冷めた碧の瞳に一瞬でも浮かんだ悲哀を確かめよう、アイスコーヒーで冷えた腹の中をもやもやと彷徨う“釈然としないもの”が、俺をそんな気にさせた。
「赤ん坊は嫌いじゃないはずだな?しかも、生まれていないんだぜ」
まだ汚れていない、貴重な存在だ
俺の真横で、漆黒の法衣が立ち止まった。
「だからこそ、消し去りたいですね」
罪に汚れる前に
あの悲哀は、結局何に向けられたものだったのか
「今日は、夕日が観られそうにありませんねぇ」
目の前で、聖母と救世主の真下で、神父は西と思しき方角を向く。
夕暮れ時の教会は、正直、美しいものだ。ぐるりと見下ろすステンドグラスが強烈な西日を透過させ、礼拝堂をオレンジ掛かった光で埋め尽くす。
(あいつが見たら、喜ぶだろうな)
神父もどうやら、その光景が好きらしかった。
だが今日は生憎の曇り空。教会が輝くのに十分な西日は得られそうにない。
それを知っている神父は、ひどく残念そうに、位置的に西日をまともに受けるガブリエルを見つめるのだ。
(…変なトコで、無邪気な神父サマだ)
まだまだ雇い主の性格を見極められないまま、俺は祈るでも恨むでもなく長椅子から立ち上がり、礼拝堂を後にする。これ以上訴えることも聞くこともない。
ドーベルマンには、獲物の事情も、その後の影響も、知る必要も権利もない。噛み殺す獲物はドーベルマンの獲物であってそうでないからだ。
明日にはまた、新しい獲物の話を引っ提げて、神父がおんぼろベルを鳴らすだけだ。
教会の重い扉を、ゆっくりと開いていく。
神父は、まだ、放たれぬ西日を願っているようだった。
caseA…END