高校二年の夏休み
あれから、しばらくは何事もない日々が続いていた。
実家から持ち帰ったカードは、数百枚。さすがに鞄には収まりきらず、今は自宅の書斎机の引き出しにしまってある。
時折引き出しを開けては眺め、また閉じる。それを繰り返しているうちに、季節はいつの間にか移り変わっていた。
あの夢のことも、遥の写真のことも、拓也の何気ない一言も、日々の忙しさに紛れて薄れかけていた。
そんなある夜、残業を終えて帰宅した渉は、風呂上がりに、いつものソファでビールを飲みながら、テレビを眺めていた。明里も娘も、とうに寝室で眠りについている。テレビの音だけが、静かな部屋に流れ続けていた。
だんだんと酔いが回ってきたのか、まぶたが重くなり、意識がゆっくりと沈んでいく。
・・・
セミの声が、やけに近くで聞こえた。
目を開けると、そこは見慣れた通学路――ではなく、地元の商店街だった。日差しは強く、じっとりとした熱気が肌にまとわりつく。
渉は自分が制服ではなく、Tシャツにジーンズという夏休みらしい格好をしていることに気づいた。
(また、この夢か……)
しかし、前回とは、時期も雰囲気も違う。渉はゆっくりと辺りを見回した。商店街の掲示板には、地元の夏祭りのポスターが貼られている。日付を見るに、どうやら2002年夏祭りの頃らしい。
しばらく歩いていると、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「――遥」
声をかけると、遥はゆっくりと振り返った。だが、その表情はどこか硬い。いつもの屈託のない笑顔ではなく、どことなく気まずそうに目を逸らす。
「あ……渉。おはよう」
「おはよう。今日、何か用事でもあるのか?」
「ううん、別に。ちょっと、買い物」
会話が続かない。
渉は妙な間を持て余しながら、記憶を辿ろうとした。
2002年のこの時期の自分たちは、高校二年生。現実の世界なら、高校二年生で同じクラスになってから五ヶ月ぐらい経っており、仲の良い友達関係になっていたはず…
まして、夢の続きなら一年生の頃からの付き合いで、気心の知れた仲になっていてもおかしくない。
それなのに、目の前の遥は、まるで何かを気にしているかのように、どこかよそよそしい。
(何かあったのか……? いや、それより――)
渉の意識が、ふと昨日の記憶へと引き寄せられていく。まるで映画のフィルムが逆回転するように、景色が滲み、書き換わっていく。
・・・
昼休みの教室、渉は何の気なしに遥に声をかけ、特に気負うこともなく、思いついたままの調子で口にした。
「なあ、今日の夏祭り、一緒に行かないか」
深い意味はなかった。ただ、なんとなく誘ってみただけだった。
だが、遥は一瞬、目を見開いて、それからやけに嬉しそうに頷いた。
「……うん、いいよ」
その反応の大きさに、渉は少しだけ首を傾げたが、深くは考えなかった。
一年以上も一緒にいる気安さの延長――渉にとっては、それだけのことだった。
夜、夏祭りの参道には提灯が連なり、屋台の呼び込みの声が絶えず飛び交っていた。
浴衣姿の遥が、人混みの中で渉の袖を軽く引いた。
「渉、はぐれちゃうから、ちゃんとついてきて」
「わかってるって」
二人は屋台を巡り、リンゴ飴を分け合い、金魚すくいでは二人揃って失敗して笑い合った。
遠くの屋台からは、当時人気のあったガールズバンドの曲が流れていたが、渉はその曲を、もっと後の時期、大学一年生の時に夏の甲子園で流れていたと、ぼんやり違和感を覚えていた。
だがその違和感も、目の前の賑やかさに、すぐにかき消されていった。
人混みを抜けたところで、遥の友人らしき二人組とすれ違った。すれ違いざま、片方が遥に耳打ちするのが、渉の耳にも微かに届いた。
「花火、一緒に見ると両想いになれるんだって。頑張って!」
「ちょっと、聞こえるから!」
遥が慌てて友人たちを追い払う。
渉は「何の話だ?」と聞き返したが、遥は真っ赤な顔で「なんでもない、気にしないで」と早口に誤魔化した。
「渉…来年もこの夏祭り、一緒に来る?」
不意にそう聞かれて、渉は言葉に詰まった。
「そうだな……来年も…来たいな」
柄にもなく素直に答えてしまった自分に、内心少し驚く。遥は一瞬きょとんとした顔をして、それからふっと笑った。
「じゃあ、約束ね」
人混みを抜けた土手で、二人は並んで座り込み、花火を見上げた。
夜空に咲いては消える光を眺めながら、どちらからともなく、会話が途切れる瞬間があった。気まずさではなく、むしろ心地よい沈黙だった。
渉はその時、隣にいる遥の横顔を、ただじっと見つめていた。何かを言おうとして、結局、何も言えなかった。
花火が終わり、人混みに紛れて帰路につく途中、渉は何気なく、遥の手に触れそうになった。指先が触れる、その一瞬ーー
遥が足を止め、渉の方をじっと見つめた。何かを待っているような、そんな沈黙だった。
だが渉は、その視線の意味に気づかないまま、照れ隠しのように顔を逸らしてしまう。
「……そろそろ帰るか。門限、あるだろ」
「……うん、そうだね」
遥の声から、微かに落胆の色が滲んでいたことに、渉は最後まで気づかなかった。
・・・
景色が、ふたたび「翌日」の商店街へと戻ってくる。
渉は、はっと我に返った。
目の前には、相変わらずどこか気まずそうな遥が立っている。
(そうか……あの時、俺は――)
昨夜の記憶が、今ようやく鮮明に蘇ってきた。花火の後、遥が何かを待っていた、あの沈黙。友人たちの、あの意味ありげな一言。
渉は今更ながら、そのすべてが一本の線でつながっていくのを感じた。
「渉? どうしたの、急に黙り込んで」
「……いや、何でもない」
誤魔化しながらも、渉の中には拭いきれない違和感が残っていた。よそよそしい遥の態度。ようやく思い出せた祭りの夜の続き。そのどちらもが、同じひとつの答えを指し示しているようで、渉はもどかしさに歯をかみしめた。
(これが、あの声の言っていた「普通と違うところ」なのか? それとも――)
考えがまとまらないまま、視界が唐突に白く塗りつぶされた。
・・・
気がつくと、渉はまた、あの何もない真っ白な空間に立っていた。
(今回は、何を答えればいいんだ……)
夏祭りの夜のことなのか、遥のよそよそしさのことなのか、それとも、もっと別の何かなのか。渉は迷いながらも、口を開いた。
「違うところは……遥の様子が、いつもと違ったこと、か?」
自信のない声が、静かな空間に虚しく響く。案の定、何の反応もない。
「……相変わらず、答え合わせにはなってないんだな、これ」
ぼやきながら、渉は白い空間の中でひとり、立ち尽くしていた。
・・・
「――あなた、風邪ひくよ。こんなところで寝てたら」
肩を揺すられ、渉は目を覚ました。
テレビはいつの間にか消えていて、明里が呆れた顔で見下ろしている。
「……ソファで、また寝ちまったのか」
身体を起こしながら、渉はぼんやりと天井を見上げた。頭の奥に、夏祭りの夜の熱気と、遥の横顔が、まだ鮮明にこびりついている。
(あいつ、もしかして――)
答えの出ない問いを抱えたまま、渉はのろのろと寝室へ向かった。
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