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あの頃の夢

『30年前のトレーディングカードゲーム。発売当時のカードが、いま高額で買い取られています――』


 テレビの中では、若い男が当時のカードを自慢げに見せている。


 谷神渉(やがみ わたる)はビールを飲みながら、リモコンで音量を上げた。見覚えのある当時のカードだ。渉が中学生の頃、放課後に友人たちと何度も対戦していたカードである。画面の隅に表示された査定金額を見て、渉は口の中のビールを吹き出しそうになった。


「……嘘だろ、そんなに高いのかよ!」


 当時遊んでいたカードが、実家に何百枚もあった。引っ越しのたびに荷物は減っていったが、それでも大事にしていたものはいくつか残っているはずだ。今どこにあるのかは、正直よく覚えていない。


「はぁ……今も持ってたら、人生変わってただろうな。それにしても、あの頃は今みたいに何か縛られることもなく、毎日が楽しかったよな。」


 誰に言うでもなく呟き、渉はソファに深く沈み込んだ。窓の外はすっかり暗くなっていた。41歳、平凡な会社員。役職はついたが、出世の道が開けているわけでもない。妻の明里(あかり)と、小学校低学年になる娘との三人暮らし。

 特に不満があるわけではないが、誇れるものもない。そんな自分の人生を、こういう瞬間にふと思い返してしまうのだった。


 キッチンの方から、娘のはしゃぐ声が聞こえてきた。


「ママ、すごい! 夢の中で空飛べるの!?」


「そうだよ〜、自由にスイスイどこへでも飛べるよ〜」


 明里の声だ。渉は苦笑しながら耳をそばだてた。


「どうやったら夢の中で飛べるの?」


「まず、夢の中で『あ、これ夢だ』って気づかなきゃダメなの。気づくと、好きなように動けるようになるんだよ」


「気づくって、どうやって?」


「違和感、っていうのかな。いつもと違う感じがしたら、『あ、これ夢だ』って分かるの。ママの場合はね、ピンク色のカーテンが空にかかっていて、朝になると可愛いキャラクターがそのカーテンを開けて『朝だよ』って教えてくれるの。それを見ると『あ、また夢だ』って分かるんだ」


「へ〜そうなんだ!私も夢で飛んでみたい!」


 娘は無邪気に納得しているようだったが、渉の中では小さな疑問符が浮かんでいた。明里の話していた夢は、明晰夢(めいせきむ)というやつだろう。

 だが、渉自身は、そんな都合のいい夢を見たことは一度もない。見られるものなら見てみたいが、いざ見られたとして、自分に何ができるというのだろう。空を飛ぶくらいしか思いつかない自分の想像力の乏しさに、内心少し呆れる。


 そんなことを考えているうちにビールが回ってきたのか、まぶたが重くなってきた。二人の話し声が遠くなっていく。渉はソファに凭れたまま、眠りに落ちた。


――どれくらい経っただろうか。


 真っ暗な意識の中に、声が響いた。姿は見えない。男とも女ともつかない、ただそこに「ある」としか言いようのない声だった。


『――やあ、谷神渉』


「……誰だ?」


 渉は暗闇に向かって問いかけたが、返事の代わりに、くすりと笑うような気配だけが返ってきた。


『今から、少し不思議な体験をしてもらおうと思ってね。心配しなくていい、悪いようにはしない』


「不思議な体験って、なんだよ」


『これから、ある世界に案内する。そこで過ごしてもらうだけでいい』


「それだけ? なんか裏がありそうだな」


『察しがいいね。ひとつだけ、条件がある』


 謎の声は、そこで一拍置いた。


『これから行く世界で、普通と違うところを見つけるだけ…』


 その先で、声はラジオのノイズのように乱れた。ザッ、とノイズが走り、肝心の後半が聞き取れない。


「……なんだそれ。それだけでいいのかよ」


 渉は思わず声に出していた。だが、不思議と恐怖はなかった。


(さっき聞いていた明晰夢の話が影響したんだろう。いつもの夢とはずいぶん印象が違うし、これが明里の言っていた明晰夢なのかもな)


 どうせ夢だ。失うものは何もない。


「まあ、面白そうだし乗ってやるよ」


『そろそろ時間だ。普通と違うところを見つけて、ザッ……を言えば、――ザッ…世界が…ザザー……変わっていくよ……ザザザー』


 またノイズに邪魔されて、後半はうまく聞き取れなかった。


(なんかノイズで聞き取りにくかったな。まあいいか――その世界で、普通と違うところを見つけたらいいんだっけ。何かクイズみたいで、悪くないな)


 すると、急に視界が真っ白に染まった。


*


 目を開けると、そこは見慣れた――いや、見慣れているはずなのに、どこか懐かしい部屋だった。勉強机の上には当時使っていた参考書が積まれ、壁には覚えのあるアイドルのポスター。窓から差し込む光はやけに眩しい。


「……高校の頃の、俺の部屋か」


 渉は呟いた。夢とは思えないほどよくできた再現だと思ったが、すぐに思い直す。夢というのはそういうものだろう。細部まで作り込まれていて当たり前だ。


 そのとき、階段下から母の声がした。


「渉、もう出ないと、学校に遅れるわよー」


(母さんまで、リアルだな)


 考えている暇はなかった。渉は慌てて通学カバンを手に取り、玄関へ向かいながら、ふとカバンの中をのぞいてみる。そこには、見覚えのある銀色のMDプレイヤーが入っていた。


(MDプレイヤーかぁ、懐かしいな。この頃って、何を聴いていたっけ)


 当時と同じようにケースに入ったディスクを取り出し、イヤホンを耳に挿して、家を出た。


 通学路を歩きながら、流れてくるのは、2002年にテレビドラマの主題歌になってから、学校でも流行ったBUMP OF CHICKENの曲だ。懐かしいはずなのに、なぜか今しがた発売されたばかりのようにみずみずしく耳に馴染む。


(この曲、確かあのドラマで毎回かかってたな……何回も聴いてたっけ)


 文房具屋の前を通りかかると、軒先には当時流行っていた犬のキャラクターグッズが並んでいる。制服姿の生徒たちが談笑しながら渉を追い越していく。渉は場違いな気恥ずかしさを覚えながらも、どこか懐かしさに胸が締めつけられた。


「――渉、何聴いてるの?」


 不意に、横から声をかけられた。


 振り返ると、一之瀬遥(いちのせ はるか)が並んで歩いていた。同じ高校の同級生だ。物静かな女の子で、目立たない方だった。高2で同じクラスの隣の席になったとき、当時流行っていた音楽バンドが好きだと分かって、そこから意気投合して、仲良くなったんだった。


「え、ああ。BUMP OF CHICKEN」


「……ちょっと聴いていい?」


 返事をする前に、遥はすっと手を伸ばしてイヤホンの片方を取った。無防備な距離だった。しばらく二人は並んだまま、同じ曲を聴いて歩いた。


「この曲、いいよね。あのドラマ、見てた?」


「見てた。毎週、見逃さなかった」


 勝手に会話が続いていく。登校の間ずっと、遥は隣にいた。


 校門の前で、遥は少し離れた下駄箱へと向かいながら、振り返った。


「私の教室こっちだから、また昼休み一緒にご飯食べようね」


「……ああ、分かった」


 見慣れたはずの校舎を眺めながら、渉の中で小さな引っかかりが生まれていた。


(遥とは高2と高3が同じクラスだった。遥が別のクラスに行ったということは、今は高1のはず。高1の頃は、遥とほとんど話したことがなかったんじゃ……)

 (それとも、自分の記憶がどこかで間違っているだけなのか。)


渉は小さく首を振り、1年2組の教室へと入った。


 午前の授業を終え、昼休み。約束どおり遥が教室へやってきた。二人は購買でパンを買い、人けの少ない中庭のベンチで並んで座り、まるで長年の友人と久しぶりに出会ったかのように話は盛り上がった。


 放課後、下駄箱の前で偶然一緒になり、二人はなんとなく並んで校門を出た。音楽の話やその年に開催された日韓ワールドカップの話、そんな他愛もない会話が、途切れずに続いていく。


「渉ってさ、案外聞き上手だよね」


「そうか? 別に、普通だと思うけど」


「ううん、なんか話しやすいんだよね。前からそう思ってた」


 その何気ない一言に、渉は柄にもなく胸が跳ねるのを感じた。夕暮れの住宅街を並んで歩きながら、この距離感にすっかり馴染んでいる自分に気づいた。


――と、そこで頭の隅の引っかかりが、ふいにはっきりと形を変えた。


(やっぱりおかしい。高1のこの時期は、今から二十五年前、2001年だ。日韓ワールドカップは2002年の開催。あのドラマも、その少し後に放送だったから、時系列が合わない)


(それに、俺の記憶では、高1のこの時期の二人は、まだお互いをほとんど知らない、ただの同級生だ。イヤホンを取り合って曲を聴いたのも、昼休みに一緒にご飯を食べたのも、すべて高2の記憶だ。それなのに、目の前の遥はまるで長年の友人のような雰囲気で隣りを歩いている)


(これが、あの声の言っていた「普通と違うところ」か!)


 そう思った瞬間、視界が唐突に白く塗りつぶされた。


*


 気がつくと、渉は何もない真っ白な空間に立っていた。


(答え合わせ、ってやつか)


 謎の声の意図を察して、渉は口を開いた。


「分かったぞ。違和感は――俺と遥が、まだ仲良くなっていないはずなのに、もう仲良くなっていたことだ」


 しばらく待ってみたが、何の反応もない。正解とも不正解とも言われないまま、白い空間はただ静かなままだった。


「……なんだよ、答えぐらい教えてくれてもいいだろ」


 ぼやいた声が、誰もいない空間に虚しく響いた。渉が歩き出そうとした、その瞬間――


*


「ねぇ、起きて!」


 肩を揺さぶられ、渉は目を覚ました。隣には呆れた顔をした明里が立っている。


「ん……あれ…ソファで寝てしまったのか」


「もうそうだよ。起こしても全然起きないんだもん」


「…………」


「どうしたの?」


「いや…何でもない…」


 頭を掻きながら身体を起こす。さっき見た夢の感触が、まだ残っているような気がした。


「そういえば、 来週の帰省、お義母さんには帰る時間ちゃんと伝えた?」


「え、あ、ああ。覚えてる。後でメールしとくよ」


(そういえば、そんな約束をしていたな…)


 渉は寝ぼけた頭でスケジュールを思い出すが、頭の中はさっき見た夢のことで頭がいっぱいだ


(リアルな夢だったな……あれが明晰夢だったのか……)

 

 夢で見た遥のあの笑顔がちらついている。


 (そういえば、高校の卒業アルバムは、まだ実家に残ってるよな。)


 週末の実家帰りに、ちょっとした楽しみがひとつ増えた気がした。渉自身はまだ気づいていない。それが、長い旅の始まりだということに…

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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