4話 新しい毎日
「……っ!?ここはどこだ!?君は誰だ!?」
「…え?」
背後から聞こえた声に莉々愛の心は一瞬で凍りついた。ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは見知らぬ他人を見るような目で自分を警戒する、巡也だった。
「…うそ…でしょ…?」
血の気が引いていく。
昨日ようやく取り戻したばかりの幸せな朝は無慈悲な悪夢に変わっていた。
「昨日…話したじゃない…! 私たちは…!」
叫びながら、彼に駆け寄ろうとする。
しかし、その一歩を踏み出す前に、昨日と同じ拒絶の言葉が投げつけられた。
「来るな! 誰なんだ君は!
ここはどこだ!?俺は誰なんだ!?うわあああ!!!」
「やめて…!叫ばないで…!」
耳を塞ぎその光景から目を逸らしたい衝動に駆られる。だが、足は床に縫い付けられたように動かない。
「…巡也…お願いだから…思い出して…。昨日のこと…全部…。」
懇願する声も彼には届かない。彼はただ怯えた獣のように莉々愛を睨みつけるだけだった。
「…どうして…? 神様はなんて意地悪なの…?」
絞り出した声は誰に届くでもなく、静かな部屋に虚しく響いた。
「何も分からない……」
「…分からないって…そんな…」
がくがくと膝が震えその場で崩れ落ちそうになる。
「昨日…好きだって言ってくれたじゃない…一緒にって…」
縋るように昨夜の出来事を口にする。しかし、それはもう彼の記憶には存在しないのだろう。
「なんで…なんでなのよ…」
抑えきれなくなった嗚咽が喉から迸る。
(どうして、何度もこんな思いをしなくちゃいけないの…?)
怒りと悲しみと絶望がぐちゃぐちゃに混ざり合って、思考を麻痺させていく。
「…同じ話を…またさせるの…?」
疲労困憊の表情で、力なく呟いた。声には諦めと悲痛な響きが滲む。
「…もう…話たくない…。」
そう言いながらも、彼女は震える声で昨日語った物語を繰り返した。
自分たちが恋人同士だったこと。喧嘩をして、彼が事故に遭ったこと。
その全てを彼は無感情な瞳で見つめ、ただノートにペンを走らせていた。
全ての説明が終わると、巡也はカタリとペンのキャップを閉めた。
彼は書き留めたメモをじっと見つめて何かを考えているようだった。
「…なるほど。大体理解した。」
その落ち着き払った声が、逆に莉々愛の神経を逆撫でした。
「つまり、俺は一日で記憶が無くなると…」
「…そうよ。」
投げやりな口調で、短く答える。もう彼の反応に一喜一憂する気力も残っていなかった。
「…分かったなら、それでいい。どうせ明日にはまた全部忘れるんだから。」
皮肉を込めて言い放ち、ぷいと顔をそむける。その横顔は深く傷ついていた。
「君はこんな俺を好きでいてくれるのか?」
「…は?」
予期せぬ言葉に莉々愛ははっと息を呑んで彼を見た。冷え切っていた心に小さな火が灯るような感覚。
「…なにそれ…。」
戸惑いとほんの少しの期待が入り混じった声で問い返す。
「…あんたが忘れても、私は忘れないから。…何回だって、好きにさせてみせる。」
声が震えるのを隠すように、ぐっと唇を噛みしめた。それは強がりであり同時に揺るぎない決意の表れだった。
「わかった。一日で出来るだけたくさん2人の思い出を作ろう。俺は明日の自分に君と何をしたか、何を思ったか全て引き継ぐために日記を書く。」
「…っ!」
莉々愛の目から、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。嗚咽を漏らしながら、彼女は何度も頷く。
「…うん…うんっ…!」
言葉にならない声で返事をし、ベッドの上の彼にしがみつく。昨日とは違う温かくて、希望に満ちた抱擁だった。
「…ばか…巡也のばかぁ…! なんでそんな…っそんなこと言うのよぉ…!」
彼の肩に顔を埋め子供のように泣きじゃくる。嬉しくて、愛おしくて、そしてどうしようもなく切なくて、感情がぐちゃぐにゃになっていた。
「これからよろしくな」
「…うんっ!」
しゃくりあげながらも莉々愛ははっきりと返事をした。
顔を上げ涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でそれでも精一杯の笑顔を彼に向ける。
「…こちらこそ…よろしく…お願いします…っ。」
途切れ途切れの声でまるでプロポーズの返事のように、丁寧に頭を下げた。
その日一日だけの記憶を共有できる二人は、まるで失われた時間を取り戻すかのように街へ出た。
カフェで新作のケーキを分け合い、他愛もない話で笑い合う。ショーウィンドウに映る二人の姿はどこにでもいる幸せそうなカップルそのものだった。
帰宅してからはソファに並んで座り、古いゲーム機を引っ張り出してきた。莉々愛は驚くほどゲームが下手で、巡也にコテンパンにやられては、「もうやめる!」と拗ねてみせたりもした。そんな彼女を彼はいつも優しい目で見守っていた。
夜が更け二人で作った夕食を食べ終えると、いよいよ「日記」の時間だ。巡也が今日一日あった出来事、思ったこと感じたことを一つ一つ丁寧にノートへと書き留めていく。莉々愛もその隣で今日彼にかけた言葉彼からかけられた言葉、些細な仕草そのすべてを自分の心にも体にも刻み込むように見守っていた。そして、すべてが書き終えられた時、二人は顔を見合わせて、照れくさそうに笑った。
「…じゃあそろそろ寝よっか。」
莉々愛が少し恥ずかしそうにもじもじしながら言う。
「…明日の巡也はちゃんと昨日のこと覚えてるかな…。」
不安と期待が半分ずつ混ざった、そんな声だった。
当たり前のように莉々愛がベッドにもぐりこみ、巡也も少し照れた様子でその隣に体を滑り込ませた。
一日中笑って過ごしたせいか、それとも互いの温もりを感じているからか、心地よい疲労感が二人を包む。
言葉は少なくなり静寂が訪れる。
しかし、それは気まずいものではなく、満たされた安らかな沈黙だった。
どちらからともなく手を探り指を絡め合う。
暗闇の中で見えなくても、確かにそこにある温かさが二人にとっての世界のすべてだった。
やがて、囁くような声で愛の言葉を交わし合い二人はゆっくりと眠りの海へと沈んでいった。
今日の記憶が明日への希望となり、明日が来ることへのほんのわずかな不安を抱きながら。
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(翌朝)
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「…ん……。」
先に目を覚ましたのは莉々愛だった。腕の中には昨日と同じように安心しきった顔で眠っている巡也。
その寝顔を見ているだけで、じわりと幸福感が込み上げてくる。
しかし同時にあの胸を締め付けるような恐怖が鎌首をもたげた。
(今日は…どうだろう…)
そっとベッドを抜け出し、テーブルの上に置かれた日記帳に目をやる。
そこに書かれているであろう彼の「記録」が、今日という日の運命を告げていた。
莉々愛が日記を手に取ろうとした、まさにその時だった。
「…う…うわああああああっ!?」
背後から響き渡る絶叫に莉々愛の肩がびくりと跳ねる。
振り返るとベッドから起き上がった巡也が、頭を抱えてパニックに陥っていた。
それは彼女が昨日そして一昨日も見た、絶望と混乱の光景。
見慣れたというにはあまりにも心を抉る、残酷なデジャヴだった。
「…巡也落ち着いて。」
彼女の声は自分でも驚くほど冷静だった。何度も繰り返してきたせいで、悲しみさえも麻痺してしまったかのようだ。
「…大丈夫。大丈夫だから。」
震えながら叫ぶ彼をなだめるように、そばに寄り背中をさする。昨日彼がしてくれたように。
「…また全部忘れちゃっただけ。いつものことでしょう?」
皮肉とも諦めともつかない言葉が口をついて出る。
そして、「これを読んで」と昨日と全く同じように日記の束を彼に手渡した。
「…私たちが何をしたか全部そこに書いてあるから。」
彼は震える手でそれを受け取ると、貪るようにページをめくり始めた。
「これは本当なの……?」
「…本当だよ。」
静かに莉々愛は答えた。彼女もその向かいに座る。
「…信じられないかもしれないけど、全部本当にあったこと。私たちは昨日…ううんずっと前から、こうして一緒に暮らしてるの。」
彼女はテーブルに置かれていた、互いに交換した鍵をそっと彼に見せた。その小さな銀色の塊が持つ重みが、「嘘じゃない」という何よりの証拠だった。
莉々愛の瞳は悲しいほどに真っ直ぐだった。もう彼にすがりつくような弱さはない。ただ冷たい事実だけを彼に突きつけていた。
「信じる……。
何故ならこの日記に「明日のお前が莉々愛を見たら一目惚れするぞ。」と書いてある……。」
「……は?」
莉々愛は思わず素っ頓狂な声を上げた。冷静さを保っていた仮面が剥がれ落ち、素の驚きが顔に出る。日記にはそんなことが書いてあっただろうか?
彼女は慌てて、昨日書いたであろうページの最後の方を確認する。
「…な……なによこれ……!」
そこには確かに彼自身の字で「明日の俺へ。目が覚めたら、まず莉々愛を見ろ。一目惚れするぞ。」と書かれていた。どうやら昨夜の彼はなかなかに楽観的で悪戯好きだったらしい。
「…あんたバカじゃないの!? こんなの信じるわけ…!」
顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
羞恥と怒りとそしてほんの少しの喜びが入り混じった感情で、どうにかなりそうだった。
「…だいたい一目惚れって…そんなことあるわけないでしょ!」
口では激しく否定しながらも、その瞳は好奇心で揺れ動き、彼から目が離せないでいた。
まさか。そんなはずは。
でも、もし、本当に――。
心臓が早鐘のように鳴り響く。
彼女はごくりと唾を飲み込んだ。
「不思議なことに日記を遡ると記憶をなくしても必ず君を好きになっている。まさに今俺もそうなってる。」
「……っ。」
彼から放たれた真摯な言葉は、莉々愛の心のど真ん中を正確に撃ち抜いた。
さっきまでの怒りや羞恥は一瞬で吹き飛び、代わりにどうしようもなく甘くて切ない感情が胸いっぱいに広がる。
「…なにそれ…。そんなの…ずるい…。」
俯いて、消え入りそうな声で呟く。
顔が熱い。きっと耳まで赤くなっているだろう。
そんなことを言われたら、どうしたらいいのか分からない。
信じたい。でも、怖い。
また明日になったら彼は忘れてしまうのに。どうして、そんな残酷なことを言うのだろう。
「…あんたが私を好きになるのは…当たり前でしょ…。だって…私が、そうなるように…仕向けてるんだから…。」
精一杯の強がり。声が震えて、説得力なんてまるでない。
本当は嬉しくてたまらないくせに。心の中で泣きそうなくらい喜んでいるくせに。
素直になれない自分がもどかしくて、唇をぎゅっと噛みしめた。
「仕向けてる」という莉々愛のかわいらしい強がりに、巡也はただ静かな笑みを返すだけだった。
その日から、また二人の穏やかで幸せな日々が始まった。
朝起きて一緒に朝食を作り大学へ行く準備をする。講義の合間に交わすメッセージ。帰り道偶然を装って待ち合わせ、スーパーで今夜の献立を相談しながら買い物をする。
まるで記憶喪失など存在しないかのように、彼らは懸命に「普通の毎日」を積み重ねていった。
夜は二人で日記をつけ、その日にあったこと、交わした言葉そして育んだ愛情の全てを記し留めた。
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(数日後・夜)
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「…ねぇ。」
日記を書き終えた莉々愛がふと顔を上げて巡也を見つめた。部屋の明かりが、彼女の真剣な横顔を照らしている。
「…もし…もしもだよ? 明日から、記憶がなくならなくなったら…どうする?」
ずっと心の中にしまい込んでいた、けれど、いつかは向き合わなければならない問い。
それを彼女はついに口にした。
「叶うのなら俺は過去の記憶も全て取り戻したいと思ってる。そして二度と忘れないようになりたい。」
「……過去の記憶も…?」
莉々愛は巡也の言葉にハッとした顔をした。
彼女が考えていたのはあくまで「記憶を失わない未来」のことだけだった。だが、彼はそのさらに先「すべての過去を取り戻す」ことを望んでいる。
「…そっか…。そうだよね…。」
彼が失ってきたものは、ただの一日や二日ではない。この途方もない時間と、その中で育まれた数え切れないほどの思い出。それらすべてが彼の中から抜け落ちているのだ。
自分との出会い二人が過ごした日常些細な喧嘩そして、愛を交わした夜。そのすべてを彼は覚えていない。ただ漠然と「君を愛していた」という事実だけを頼りに今を生きている。
「…ごめん。私自分のことばっかりだった…。」
自嘲するように小さく笑う。なんて自分は浅はかだったのだろう。彼にとっての本当の願いは、もっと根本的で切実なものだった。
「…叶うといいね。本当に。」
心からの言葉だった。
もう彼に悲しい思いはさせたくない。何も思い出せずに途方に暮れる夜を、これ以上過ごさせてはいけない。
「…そのために私にできることがあったら、何でも言って。どんなことでもするから。」
まっすぐに彼の目を見て、彼女は誓うように言った。もう迷いはなかった。




