59 連れ去られた先
こういう時にこそ気絶できればいいのに、無駄に強靭な精神力は、意識を手放すことを許してくれなかった。
布に包まれたまま馬車か何かに詰め込まれて運ばれ、再度誰かに担がれて──ドアを開閉する音の後、私はどさりと投げ出された。
「あまり乱暴に扱うな、せっかく捕らえたというのに傷物になったらどうしてくれる」
「それは…申し訳ありません」
落ちた先は何やら弾力がありつつも柔らかい感触で、痛くも何ともない。身体が痺れて痛覚も麻痺しているだけかも知れないという可能性は頭から排除しておく。
それよりも、先ほどから居丈高に周囲の者に命令している男の声が気になる。
若い男声。しかも、どう考えたって聞き覚えがある。
この夏まで毎日のように聞いていた声──と言うととても親しい相手のように思えるが、そんなことは全くなく、できれば金輪際、顔も見たくないし声も聞きたくなかった相手だ。
その予想は、私の望まない形で証明された。
「──なんだ、起きていたのか」
顔部分を覆っていた布が左右に開かれ、至近距離で男と目が合った。昏い色を宿した瞳に、背中がぞくりとする。
「…デイヴィッド・ロフナー…」
領主館に勤めていた元文官で、狩人の45番だった男。夏の事件で狩人を除名され、いつの間にか領主館も辞めていたロフナー子爵家の子息。
私を狙っていたのはミュラー子爵のはずなのに、何故こいつがここにいるのか。
私はその名を呟き──口が動くことに気付いた。
まだ痺れは残っているが、動けないほどではない。そして、両腕は後ろ手に縛られているが、足は拘束されていない。魔封じの腕輪のせいで魔力は動かせないので身体強化魔法は使えないものの、走ることはできる。
表情を動かさないまま自分の状態を確認していたら、デイヴィッドの目がすっと細くなり、乱暴に顎を掴まれた。
「久しぶりだな、セラフィナ・アッカルド。元気そうで何よりだ」
歪んだ笑みと共に、皮肉と嘲笑が降ってくる。私はあえて口の端を上げて応じた。
「おかげさまで。まさかこんな状況で再会するとは思わなかったけど」
デイヴィッドの背後には、石造りの壁と板張りの天井が見える。どちらも、当然だが見知らぬ内装だ。
窓は天井付近に明かり取りの細長いものがあるだけで、室内の明るさは、どうやら魔法道具のランプに頼っているらしい。
全体的に古臭く、ほこりとカビの臭いがする。私が転がされているマットレスのようなものも、本来は白かったのだろうが、黄色や茶色、黒などのまだら模様になっていた。
──その汚れが元々どんな色だったのかは、正直考えたくない。
視界に入る限りでは、デイヴィッドの他には壁際に佇む男が2人。うち一人は、私に最初に声を掛けてきたあの男だ。今も隠蔽魔法を解いていないらしく、相変わらず人相はよく分からないが。
そこまでざっと確認したところで、デイヴィッドが舌打ちした。
「口の減らない女だ。怯えるなり何なりすれば、多少は可愛げがあるものを」
いや、お前みたいな奴に「可愛げがある」とか思われたくないし──という感想は胸中に留めておく。
何しろ状況が悪すぎる。自分だけ魔法が使えない状態で、多勢に無勢、しかも相手の中に明らかに対人戦慣れしている人間がいる。
不意を突けば何とかなるかもしれないが──いやそれも先ほどの対応を見る限り、望み薄か。時間を稼いで、異変に気付いた誰かが騎士団にでも通報してくれるのを願うしかない。
──ルーカス。
一瞬脳裏に浮かんだ名前は、口を引き結んで奥へと押し込めておく。
私が黙っていると、デイヴィッドは私を鼻で笑い、不意に横へと視線を投げた。
「ミュラー子爵。こいつ、好きにしていいんですよね?」
声に含まれる仄暗い響きに、全身が総毛立った。
デイヴィッドの視線の先に何とか顔を向けると、ブルドッグのなり損ないと言ったらブルドッグに失礼になりそうな恰幅のいい男が、やたら派手な椅子に座ってワイングラスを傾けていた。
その椅子だけ、明らかにこの部屋の雰囲気から浮いている。まさかわざわざ運び込んだのだろうか。
椅子の両隣には、見覚えのある男女が侍っていた。私の親を騙っていた2人だ。その目には、拘束されている私を嘲るような色があった。
椅子で踏ん反り返るグリムワルド・ミュラーと同じように。
「構わんが、目立つ傷は残すなよ。こういう女にも引き合いはある──いや、お前が手に入れたいのだったか」
ワインを一口飲み、べろり、唇を舐めて、グリムワルドはにやりと笑った。
「まあいい。曲がりなりにも、名持ちの狩人だ。子どもができても高く売れるだろうよ」
「…!」
人身売買。その単語が頭をよぎり、心底ぞっとする。
同時に思い出した。アッカルド孤児院では、見目の整った子どもばかり優先的に里親に引き取られ──その後の知らせがぱたりと途絶えることが、よくあった。
それは、つまり。
──ようやく理解した。この男にとって、孤児院の子どもは商品でしかなかったのだ。
だから、私が寄付を拒否したことが不快でならなかった。
自分の利にならぬなら、壊してしまえと。そう容易く判断してしまえる程度には、孤児の命やその尊厳は、軽いのだ。この男にとっては。
分かりましたと頷いたデイヴィッドが、こちらに視線を戻す。その目には、隠しようのない昏く湿った愉悦があった。
「──お前が悪いんだぞ。俺はずっと狙ってたのに、ルーカス・ブレットなんか選びやがって」
両腕の拘束は解けそうにない。足で何とかするしかないか。
背中を這い上がってくる言い知れない恐怖を誤魔化しながら全身に力を入れつつ、表情だけは平然と、眉をひそめる。
「なにその理屈。狙ってたって」
「──それくらい分かるだろ!」
私の目の前に、拳が叩きつけられた。マットレスからカビ臭いほこりが舞い、私は思い切り咳き込む。
くそ、そう来たか。
「残業帯に2人きりになれるように仕事を振ってんのに、何で毎回毎回定時で帰るんだよ! お前みたいな孤児が貴族に見初められるのは奇跡なんだぞ!? 尻尾振って喜べよ! 他の人間になびくなよ! お前は! 俺のモノになっていれば! 幸せになれたんだぞ!?」
身体強化魔法を使っているのか、私を簀巻きにしていた布を力任せに引き千切りながら、デイヴィッドが吼える。
その内容はとてもじゃないが理解不能だ。2人きりになるために残業になるように仕事を振る? 見初められたら尻尾振って喜べ?
──冗談じゃない。
「…せめてもの情けだ。俺のモノになるなら、今、この場で、ってのは勘弁してやる」
「…っ」
布をはぎ取って私を仰向けに転がし、デイヴィッドが私の真上からぎらついた視線を向けてくる。
掴まれた両肩が嫌な音を立てて、激痛が走った。
だが──胴体より下がガラ空きだ。
「…っれが、」
ギリ、と奥歯を嚙み締め、私は心の底からの嫌悪感と共に叫んだ。
「手前ェみたいな下衆に従うかあっ!!」
ドゴッ!
「!?」
思い切り両足をデイヴィッドの脇腹に叩きつけると、デイヴィッドはマットレスの横に転がり落ちた。
私はその勢いに任せて立ち上がり、ドアに向かって走る。
身体強化をかけているわけではないから、多分デイヴィッドに大したダメージはない。走るのも遅い。
でも、油断しているのか出入口の方向に見張りはいない。せめて外へ出られれば──いや、壁際に張りついて、大きな音を立てられれば、誰かが異変に気付いてくれるかも知れない。
「!」
「っ!」
その一縷の望みは、叶わなかった。後ろ手に拘束されたままの両腕を掴まれて、首に腕が回されて締め上げられ、足が浮く。
「…ぐ、う…!」
「でかした!」
立ち上がったデイヴィッドが、脂汗を浮かべながら叫んだ。
「…やれやれ、活きがいいな」
背後に密着する痩身の男が、低い声で呟いた。
「大人しくしていれば、じきに終わるんだが」
「よし、そのまま放すなよ…!」
デイヴィッドが私の正面に回り込み、ブラウスの合わせを引き千切る。
鎖骨の下あたりに鋭い痛みが走った。多分、爪でえぐられたんだろう。デイヴィッドの「あっ」という声と、「傷をつけるなと言っただろうに」というグリムワルドの苦々しい呟きが耳に届く。
だがそれよりも、私の恐怖を煽っていたのは──
「動くなよ」
背後から首に回された腕。どうしようもない息苦しさ。耳元で落とされる寒気のする声。そして、
──カチリ。
背中、脇腹あたりで聞こえた、金属の音。
「──!」
脳裏にフラッシュバックしたのは、『セラフィナ』の知らない光景だった。
背後から羽交い絞めにされ、首を絞められる恐怖。
知らない男の体臭と、荒い息遣い。
必死に爪を立てて逃げれば、追って来る足音と怒声。
そして背中に突き立てられる、冷たく鋭い何か。
身体の自由を奪う激痛と灼熱感、転がる視界、ざり、と砂に頬が擦れる感触。
押さえつけられながら、熱いのか痛いのか分からない感覚にのたうったのは、束の間。
悲鳴になり損なった吐息が肺から漏れたのを最後に、『私』は動けなくなった。
──冷たくなっていく全身の感覚と、覆い被さったままの男の気配に、ひどい恐怖と絶望を覚えながら。
「──あ……」
「…?」
プツン、と、頭の中で何かが切れた。
背後で、男が首を傾げる気配がする。
封じられているはずの魔力がうねる。ダムにひびが入ったように、ビシリと何かが砕ける音がする。
そして──
「──ぁああああああっ!!」
視界が、金色に染まった。




