外伝 カラブローネの侍女 後編
「何て事を……!」
最初に金切り声を上げたのは妹のジェーンだった。
静寂が破られた事でようやく我に返ったのか、両親や弟夫婦達が口々にリンデを責めてくる。
「献金しただと? あの金すべてをか!」
「何て愚かな事を!」
「ああ、嘘だと言ってちょうだい……」
唾を撒き散らせて喚く家族達を、リンデは冷めた目で見渡した。
「何を怒っておられるのでしょうか。元々、あのお金はわたくしの持参金として用立てるためのものでした。
それをわたくしの好きなように使って何が悪いのです」
「……っ! 今からその教会に行って、お金を取り戻して来い!」
隣に座るアルマンが血走った目で命令してきて、リンデは眉根を潜めた。
およそ姉に対する言葉遣いではない。
アルマンの中でリンデはすでに、自分が搾取して当たり前の人間であったという事なのだろうか。
「それはできませんわ」
リンデはきっぱりと否定した。
「わたくしは奉仕者として神に仕える事を望んでいます。持てる財の全てを教会に捧げるのは当たり前の事ですわ」
「奉仕者だと?」
リンデを使用人として扱うつもりだったダナン卿は、椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がった。
「私に黙って何を勝手な事! お前の行く末については家長たる私が決める!」
「婚姻についてはそうでしょう。けれど、教会に属する場合は、個人の意思が優先される筈です」
「帰る家もあるのに、教会に入る必要などない!」
父の言葉に家族が口々に同意してきて、リンデは頭を抱えたくなった。
どう言えばわかってもらえるだろうかとリンデが考えていると、今日会ったばかりのアルマンの妻イサベラが不意にリンデに話し掛けてきた。
「どうか考え直していただけないかしら。
お義姉様が教会で幸せになれるとは思わないわ」
「わたくしの幸せを貴女に心配していてだかなくても結構よ」
リンデはややそっけなく答えた。
「自分の幸せは自分で見つけますから」
するとイサベラは、さもリンデが悪いと言わんばかりに責めてきた。
「ご自身だけ満足ならそれでいいとおっしゃるの?
お義姉様。わたくし達にはお義姉様が必要なんです。
ダナン家は決して裕福な家ではないとご存じでしょう? 借財だってまだ残っていますし、困った時にこそ助け合うのが家族ではなくて?」
身勝手な言い分に、さすがにリンデは不快を覚えた。
どれほど残酷な事をリンデに強いようとしているのか、この義妹は本当にわかっているのだろうか。
「わたくしにこだわらずとも、貴女には娘がいるではありませんか。
わたくしのように、十一になれば侍女見習いに出して、得た給金の半分を家に入れさせてはいかがです?
行き遅れとなるまで働かせ、その子が得た退職金も貯蓄も全部奪って、その後は一生使用人として家で飼い殺しにするんです。
そうすれば、家計も潤う事でしょう」
「わたくしの子どもに向かって何てひどい事を!」
鬼のような形相で言い返してきた義妹に、リンデは軽い溜め息をついた。
「貴女がわたくしにしようとした事をそのまま口にしただけです。ひどいと思われるなら、同じ事をわたくしに求めるのはお止め下さい」
イサベラは悔しそうに押し黙り、そんなイサベラに代わって母のダナン卿夫人が口を開いた。
「お金を家に入れさせた事を貴女は恨んでいるのかもしれないけれど、わたくし達だって貴女のせいで随分嫌な思いをしてきたのよ」
「一体何の話でしょうか」
「貴女が離宮で誰に仕えていたか、この辺りの貴族は皆知っているの。
貴女が平民などに頭を下げていたせいで、ダナン家はよく当てこすられたものだわ。
わたくし達に肩身の狭い思いをさせた事を、少しは悪いと思わないの?」
「……それを貴女がおっしゃるのですか」
リンデは疲れたように首を振った。
「わたくしを離宮に推薦するよう、当時働いていた家の奥様にお願いされたのはお母様ですよね。
わたくしは気が進まず、その話をずっとお断りし続けておりました。そうしたら、今度はお父様がわたくしに文を寄越されて、家がどんなに困窮しているかを切々と訴えて来られましたわ」
貴族家で侍女として働くよりも、離宮でいただける給金の方が格段に多かった。
リンデは給金の半分近くをずっと家に入れていたから、両親はリンデにできるだけ給金の高い職場に行って欲しかったのだろう。
無理やり離宮に行かされた事を当時は恨んでいたが、今は全くその気持ちはない。
だからそのまま流しても良かったのだが、敬愛する主を貶められた事については言い返さずにはいられなかった。
「わたくしに対しては何をおっしゃっても構いません。
けれど、わたくしが仕えていた主を悪くおっしゃるのはお止め下さいませ。主であったカラブローネ様は、シーズに降嫁された皇女殿下のお母君であらせられるのですよ」
リンデがそう言うと、「わかったわかった」とダナン卿は煩そうに手を振った。
「社交の場で口さがなく言われる事も多かったから、つい愚痴が出ただけだ。
貴族社会はそういう事に敏感だからな」
「当てこすられた事がそんなに不愉快なら、わたくしが離宮から仕送りしていたお金を全部教会に寄付なさったらいかがでしょう。
そうすれば、社交の場で嫌味を言われる事も少なくなると思いますけれど」
「馬鹿を言うな!」
ダナン卿はかっとなって言い返し、感情的になってしまった事をごまかすように軽く咳払いした。
「お前が平民に仕えたせいで散々皮肉を言われたが、この程度の嫌味の応酬は貴族の世界ではよくある事だ。
そんな些細な事で財を手放すなど、まっとうな貴族ならばせぬ。
お前は社交界に出ていないから、そんな当たり前の事もわからぬのだろう」
こんな世間知らずに育ったのも私達のせいかもしれないなと、ダナン卿は大げさな溜め息をついてみせた。
「まあ、それはどうでもいい。
とにかく我が家には金が必要なんだ。それくらいお前にもわかるだろう?
一時の気の迷いだったと教会に頭を下げて来なさい。全額は無理でも、半分くらいは返してもらえる可能性がある」
「無理ですわ」とリンデは首を振った。
「わたくしはすでに、奉仕者となる請願を済ませましたもの」
「請願を済ませた、だと……」
ダナン卿は痰が喉に絡んだような声を出した。
「私達に相談もせず、早まった事を……!
いや、まだ間に合う。奉仕者であれば、世俗に戻る事が許されている筈だ」
「勝手な事をおっしゃらないで下さいませ。わたくしにその意思はありません」
「煩い! その生意気な口を閉じろ!」
とうとう我慢できなくなったダナン卿は拳でばんと強くテーブルを叩いだ。
「お前は家に戻って来るんだ! お前が何を言おうと、これはダナン家の総意だ。
教会などには行かせるつもりはない!」
「ではどうするおつもりですか。わたくしをこのまま家に閉じ込めると?」
「そうされても仕方あるまい。子どもが誤った道に行こうとしているのだ。それを正すのが家長たる私の役目だ」
尤もらしい事を口にしているが、要はリンデを死ぬまで家で働かせようという事なのだろう。
「……止めた方がよろしいと思います」
リンデは怯む事なくダナン卿を見上げた。
「わたくしはすでに請願を済ませ、司祭様はわたくしの帰りを待っておられます。
勿論、請願を済ませた後に怖気づく者もおりますから、普通ならばあまり問題にされないかも知れません。
けれどわたくしの場合は違うのです」
「……何が違うというのだ」
「奉仕者になる件について、わたくしはある司祭様にずっと相談に乗っていただいておりました。
その方はわたくしの事を我が子のように案じて下さっており、異なる教会で仕える事を決めた後も、文を交わす許しをいただいております。
わたくしが急に音信不通になったら、その方はわたくしの無事を確かめるために、この教区の司祭様を必ずダナン家に遣わせるでしょう。
奉仕者の請願を済ませた娘を、教会に行かせないために監禁していた事実が明らかになれば、下手をすればダナン家は教会から破門されるのでは?」
「はったりだわ!」
ダナン卿夫人はリンデの言葉を否定するように、大きく首を振った。
「ずっと離宮にいた貴女にそんな親しい司祭様が都合よくいる訳がないもの。貴女は作り話をしているのよ」
「作り話ではありません」
リンデは真っ直ぐにダナン卿夫人の目を見た。
「その司祭様は、わたくしが仕えていたカラブローネ様のお父君です。
死を前に告解を望まれたあの方のために、わたくし達はお父君を離宮にお呼び致しました。
あの方の最期に間に合う事ができた司祭様は大層感謝して下さり、何か困難な事が起こった際には必ず力になろうと約束して下さったのです」
その話が真実だとわかったのだろう。
話を聞いていた家族達は、絶望的な表情を浮かべた。
リンデの金を家に入れさせ、体が弱るまで使用人として働かせようとしていた目論見が無に帰したとわかったからだ。
「……何が何でも家には戻って来ぬつもりか」
食い縛った歯の間からそう言ってきたダナン卿に、リンデは「はい」と頷いた。
「わたくしは奉仕者となります。それがわたくしの願いです」
「ならばお前との縁を切る!」
ダナン卿は吠えるように叫んだ。
「ダナン家の貴族令嬢としての身分を失ったら、お前はただの平民だ!
それもこれもお前が家に従順でなかったせいだ。自業自得だと思い知るがいい!」
家に都合のいい娘でなくなったらその途端に切り捨てられるのだと、リンデは思わず笑いたくなった。
二十年近く家に仕送りを続け、感謝くらいはされているのだろうと思っていた。けれど彼らにとって、リンデはあくまで使い勝手のいい駒で、家族だと思われていたかどうかも怪しいものだ。
リンデはふと、今日出された昼餐の内容を思った。
テーブルに着いた時、並べられた料理の質素さに驚き、ここまで家計が苦しいのかと案じられた。
けれどよくよく考えれば、アルマンが結婚披露宴を行った時は、貴族家にふさわしい豪勢な料理がこのテーブルには並んでいた筈なのだ。
十数年ぶりに家に帰ったリンデのためにご馳走を用意する必要はないと彼らは思った。ただそれだけの事だったのだ。
何のためにこの家に顔を見せに帰ったのだろうと、リンデは虚しさを覚えて視線を伏せた。
けれどすぐに思い直す。
見えていなかった現実が明らかになっただけでも、こちらに足を運んだ甲斐はあったのかもしれない。
その後リンデは、離籍届への記入を求められ、従順に従った。
父のダナン卿もこれ見よがしにその場で書類に署名をして、当主の印を押す。
「これでお前は平民になる。本当にこれを提出されてもいいのだな?」
「どうぞそうなさって下さい」
リンデはそう答え、それからふと思いついて言葉を続けた。
「きちんと縁を切っておいた方がこちらの家にとってはよろしいと思いますわ。
教会に身を置いたわたくしと縁続きだと知られたら、こちらの司祭様が今まで以上の喜捨を求めに来られるかもしれませんから」
その可能性に思い至ったのだろう。
ダナン卿は顔を強張らせ、「早急に手続きをするからそのつもりでいろ!」とリンデに向かって吐き捨てた。
「では、わたしはこれで」
食事の間を出ていこうとするリンデを、家族の誰も見送ろうとしなかった。
先ほどの執事に案内されて、リンデは静かにエントランスへと向かう。
家族とはこれで永遠に縁が切れた。
この先二度と会う事もないだろう。
エントランスホールでコートと自分のトランクを渡されたリンデは、そう言えばお土産を渡せていなかったと今更ながらに気が付いた。
まあ、今更お土産を渡すのも間が抜けているし、これらはこのまま持って帰る事にしよう。
教会で使ってもらってもいいし、要らなければ売ってお金に変えてもらうのもいい。
見上げると空は抜けるように青く晴れ渡っていて、その日差しの温かさに気持ちが救われる気がした。
リンデにはもう家族はいないが、帰る場所がある。
この先に続く献身の日々を思い、リンデは心が弾む事を止められなかった。
その後リンデは奉仕者としての務めを黙々とこなし、それから五年後、救護院に何度も献金に来ていた若い商人と縁を繋ぐ事になった。
その男は一代で財を築き上げたたたき上げの商人で、大店の主人や貴族らと渡り合うために、貴族階級の常識や付き合い方を知りたがっていた。
困っていたその男性にリンデは自分が知り得る知識を惜しみなく教え、そのうち、リンデの身の上やその心映えの美しさを知ったその男性から、熱烈に求愛されるようになった。
リンデはすでに三十半ばとなっていて、持参金といえる持参金も持っていない。不釣り合いな縁だからとリンデは何度も固辞したが、男の気持ちは変わらず、知り合ってから半年後、リンデは身一つでその男性に嫁ぐ事になった。
使用人が複数人いる大きな商家の奥方となったリンデは、恋愛面ではやや不器用な夫君から一途な愛情を傾けられ、一男一女にも恵まれて何不自由ない人生を送るようになるのだが、それはまた別の話である。
お読み下さってありがとうございました。
リンデは結局、家族に温かく迎え入れてもらう事は叶いませんでした。ただ、死ぬまで家族から搾取され続けるという未来からは逃れる事ができました。リンデが心を込めてカラブローネに仕え、その父との縁を繋いだ事で、リンデもまた新しい未来を掴み取ったのだと思います。
セディアがその事を知ったら、きっと嬉しく思う事でしょう。