側妃は、命を取り留める
ヴィアの容態は、その後少しずつ回復の兆しを見せた。
幸いな事に激しい感染症も起こらず、翌日には意識の混濁も治まった。
危篤状態を抜けた翌々日、セルティスはアントーレ騎士団の宿舎へと帰っていった。
ヴィアとしても狭い病室にこもりっきりで、ソファに寝泊まりさせているのが可哀そうだったので、宿舎に帰ると聞いて少しほっとした。
時間が薬となると医師に言われた通り、一日一日体が楽になっていくようだ。
腕を僅かに上げる事さえできなかったのが、今は少しずつ手に力が入るようになってきている。
寝返りはまだ自分では打てないが、一昨日より昨日、昨日より今日と、徐々に体が動かせるようになってきた。
アレクがヴィアを訪れたのは、セルティスが帰った日の晩だった。
背中に薄いクッションを当て、僅かだが身を起こしているヴィアを見て、アレクは良かった、と一言呟いた。
そのままヴィアの手を両手で握り、祈るように自分の唇に押し当てたまま、アレクは暫く何も言わなかった。
「お前が死ぬかと思った」
目の下にうっすらついている隈に、ヴィアは自分が、ひどく殿下を心配させた事を知った。
まるで何日も寝ていないように、顔色も悪かった。
大丈夫だと伝えたかったが、熱に倦んだ喉は塞がれているように、掠れた声しか出せない。
それでも懸命に喋ろうとしたら、無理をするなと額に口づけを落とされた。
「元気になってくれ。それだけでいい」
ヴィアの病状は、その後も良くなったり悪くなったりを繰り返し、日中は熱を出して寝込んでいる事も多かった。
それもあってか、アレク殿下となかなかまともに会えない。
目が覚めてから、先ほど顔を覗かされたのですがと伝えられて、じれったい思いをすることもしばしばだ。
三人の侍女は、今回の事情を薄々知っているようだが、確信は持てないらしく、迂闊な事は申せませんと困ったように繰り返すばかりだ。
日中はエベックが扉の所で待機していると聞いて、エベックを呼んで事情を問い質した事もあるのだが、真相は知っているが、自分の口からいう訳にはいかないと、こちらも歯切れ悪く答えてくる。
半月ぶりに顔を見せたセルティスは、ヴィアがそれを訴えるとくすくす笑い始めた。
ヴィアの顔を見て安心したのか、その表情は明るい。
姉上に死なれかけて、アレク兄上は余程堪えたようですねと続けるセルティスの声は、いつの間にか少年の声ではなくなっていて、ヴィアはそちらの方に驚いた。
背も心なしか伸びた気がする。
小っちゃくて可愛い私のセルティスが……と思わず嘆くと、大人になったのだからそこは喜んで下さいと、途端にむくれたように返された。
エイダムは誰と繋がっていたのか、何故、セルティスが殺されかけたのか、重傷を負って寝込んでいたヴィアはすっかり蚊帳の外だ。
貴方は答えてくれるわよねセルティスを睨んでやると、あっさりとセルティスは答えてくれた。
「要は皇后の嫉妬です」
傍迷惑な女ですね、とセルティスは鼻の上に皺を寄せる。
「夫を奪ったツィティー妃への嫉妬と、息子の心を虜にしたその娘への嫉妬で、まともな考えができなくなったのでしょう。
私を部屋で殺しても、事の真相を知れば兄上は公にできない筈だと踏んで、強引に始末しようとしたみたいです」
苦笑交じりにさらりと流すが、それで危うく殺されるところだったのはセルティスだ。ヴィアはとても笑う気になれない。
「私と姉上を守るために、アレク兄上は必死ですよ。皇后陛下の妬心を煽らぬよう、あまりこちらにも来られないのではありませんか?」
元々勘の良い、聡明な弟だ。色々な事が見えているのだろう。
秀麗な面立ちと、やや人見知りのある性格のせいで、セルティスの事を大人しいと思っている人間は多いようだが、母に似て楽天的で、大らかな性格の弟は、ヴィアを前にすると饒舌だ。
いや、そろそろ、騎士団の方でも化けの皮が剥がれ始めているのかもしれないが。
それにしても、殿下が滅多にこちらに来られないのはそういう理由があったのかと、ヴィアは内心大きく頷いた。
「アメリ女官長と息子のエイダム・フォーク、それと娘の…、確かユリアという名だったかな。
陰謀に加担したのはこの三人です。
拘束はしたものの、勝手に処分すれば皇后の猜疑を煽りそうだし、かと言って手元に置く気にもなれないし、兄上はそのまま三人を、皇后陛下に献呈したそうですよ。
皇后との間でどんな話し合いがされたかはわかりませんが、二度と姉上を伽に呼ばない事は約束されたと、アモン副官から聞きました」
ヴィアは目を見張った。
それは何というか、想定外だ。そんな事をされれば、側妃としてのヴィアの面子は大きく潰れ、皇后陛下も大きく溜飲が下がるだろう。
「すごいわ、そんな手を思いつくなんて」
ヴィアは素直に感心したが、セルティスの思いはどうも別のようだった。
「同じ男としては、兄上にちょっと同情しますけれど」
複雑な顔で、セルティスは呟く。
どう見ても、アレク兄上はこの姉にぞっこんだ。自分の好きな女に、今後一切手が出せなくなるのだから、兄にとっては苦渋の決断だろう。
「まあ、これで、ある程度の安全は保障されます。
皇后陛下は恐ろしい方ですよ、姉上。
兄上が献呈した例の三人ですがね、二日後に郊外の川で浮いていたそうです。物取りの仕業という事で片付けられたようですけれど」
「何て事を」
ヴィアは痛ましそうに眉根を寄せた。
女官長は決して悪い人間ではなかった。きびきびと立ち動き、側妃として慣れぬヴィアを何かと気遣ってくれていた。
あの陰謀に加担したのは、皇后によってそうせざるを得ない立場に追い込まれたからだろう。
「姉上は取りあえず、早く体を治される事です」
最後にセルティスはそう言って立ち上がった。
「兄上がなかなか来られなくて寂しいかもしれませんが、まあ、こういう事情ですから責めないで差し上げて下さいね」
セルティスの言葉通り、ヴィアの容態がある程度回復しても、アレクがヴィアを訪れる事はしばらくなかった。
容体も安定したから、わざわざ来る必要がなくなったと言えばそれまでだが、ヴィアを取り巻く環境だけが、アレクの指示によって変わっていった。
まず、以前、妃殿下付として仕えてくれていた水晶宮の侍女たちが、ヴィアの元に帰ってきた。
セイラとルーナは、しばらく紫玉宮から借り受けるという形でヴィアの元に留まり、それまで筆頭侍女だったバラク夫人が新しい女官長に、そして空いた筆頭侍女の席に、エイミが着任した。
着替えや侍医の診察時は、事情を知るエイミら三人の侍女が同席し、他の侍女は下げられる。ヴィアは病気で寝ついていたという話になっているのだから、当然だ。
護衛のエベックは相変わらず扉の外に詰めており、退屈なヴィアは、そのうち時々エベックを、部屋に招くようになった。
ヴィアの命が今あるのは、エベックと、セルティス付きの護衛二人が、あの時すぐにエイダムを取り押さえてくれたからだ。
労をねぎらうと、結局は守り切れなかったのですからと、エベックは苦い口調で言った。
高貴な方の事情に踏み込むべきではないとじっと我慢していたエベックだが、何回目かに呼ばれた後、とうとう意を決したように、ヴィアに当時の事を聞いてきた。
「何故、妃殿下はあの時、セルティス殿下が危ないと思われたのですか?」
エベックはあの事件の際、ヴィアがたまたまセルティス殿下に用があって部屋を訪れたのではなく、あの惨事を予期して駆け戻ったという事を知る、唯一の人間だ。
「あのあと真夜中に、靴をこっそり回収しに行ったのは私なのですが、それに免じて教えていただく訳にはいきませんか?」
回廊に脱ぎ捨てた靴の事を、ヴィアはすっかり忘れていた。
「誰にも見つからなかった?というか、誰にも言ってない?」
表沙汰になると、あれはちょっとまずい。
心配そうにエベックを見つめると、大丈夫です、と妙に得意そうに返された。そして、返答を期待するようにヴィアを仰ぐ。
何だかご褒美を待っているワンちゃんみたいね、とヴィアは思った。しっぽがあるなら、きっとぶんぶん振っているだろう。
「仕方ないわね」
エベックにはいろいろ、まずい事を知られているのだ。いっそある程度話しておいた方が、ヴィアの貴婦人らしからぬ行動に、これからも目を瞑ってくれることだろう。
「わたくしね、時々変な夢を見るの」
「変な夢とは?」
「わたくしは変わっているのよ。三、四か月先の事が、まるで体験した事のように、夢の中に現れる事が時々あるの」
ヴィアは軽く肩を竦めた。
「普段はとても、くだらない夢よ。
若い男の子が道を歩いていたら、水たまりの水を馬車に引っ掛けられたりとか、太った中年の女性がリンゴの袋を抱えて歩いていたら、袋が破けてそこら中に散らばったりだとか……。
見も知らぬ人が夢の中に現れて気の毒な目に遭って、ご愁傷さまだとは思うけど、ただそれだけ。
でもたまに、ほうっておけない夢を見ることがあるのよ」
荒唐無稽な話だと自分でも思うから、口調は自然早口になる。
「ちょっと前に、セルティスが殺される夢を見たの。
そういう時は普通の夢と違って、細かい部分まではっきり覚えているわ。まるで自分が、その場で体験したみたいに。
その時セルティスがどんな服を着ていたか、相手の男がどんな顔をしていただとか、男が着ていた服だとか。
その夢を見た後、アレク殿下の側妃になったの。殿下の庇護を得たから、セルティスはもう大丈夫だと信じ込んでいた。
夢の事も忘れかけていたのだけど、あの時夢で見たのと同じ男が、夢と同じ服装で、セルティスのいる方へ向かっていた。
だから、慌てて引き返したのよ」
それから、目を丸くして自分を見ているエベックに気付くと、困ったように笑った。
「信じて欲しい訳じゃないの。このまま笑って、忘れてくれていいわ。
でも、わたくしにとっての真実を言ったのだから、これ以上は聞いては駄目よ」
エベックは、あの日のヴィア妃の言葉をはっきりと覚えていた。
濃紺のジャケットに、星二褒章………。ヴィア妃はそう呟いてから、何かに気付いたように顔を強張らせた。
靴を脱ぎ捨て、必死に回廊を駆け戻り、躊躇いもなく弟君のいる部屋に駆け込んだのだ。
「他にどんな夢を?」
聞くと、「たわいもない夢よ、言ったでしょう」と、ヴィアは笑った。
「でも、いいこと。決してほかの人には喋らないでね。こういうのが噂になれば、殺されるような気がするの」
「喋りません」
慌てて、エベックは言った。
「というか、私にも話すべきではなかったでしょう。人に喋っては駄目ですよ!危険すぎます!」
「そうね」とヴィアは微笑んだ。
「アレク殿下からもこの能力については絶対に口外するなと言われているわ。わたくしもそうするべきだと思う。こういう力を欲しがる人間は多いから。
アンシェーゼでこの力の事を知っているのは、アレク殿下と三人の側近の方だけ。これ以上人に言う気はなかったけれど、エベックには言ってもいいかなと思ったの」
ヴィアは言葉を切り、真っ直ぐにエベックを見た。
「エベックは殿下に忠節を誓っているから。あの事件の全容をすべて知って、殿下のために口を噤んでいる。だから信じられるわ」
エベックは神妙な顔でヴィアを見つめ、そして頷いた。
エベックはあの晩、エイダムの拷問にも立ち会い、全ての事情を知った数少ない人間の一人だった。
拷問をしたのは、あの時セルティスの護衛についていたアントーレの騎士で、得られた事実は全て、アントーレ副官によって握り潰された。
他に真相を知っているのは、殿下の側近のグルーク・モルガンとルイタス・ラダス、そして水晶宮の侍従長くらいではないだろうか。
「お辛くはないのですか?」
ふと、声を落としてエベックは聞いた。
「勿論、今回の事件は公にすべきではありません。けれど…」
弟君を殺されかけた事も、命に係わる重傷をヴィア妃が負わされた事も、全てなかった事にされ、並行するように皇子の訪れも側妃殿下から遠ざかった。
妃殿下を守るためには、おそらくそれが一番いい方法だろうとエベックも思ったが、皇子の寵が側妃から遠のいたことは、すでに周知の事実として水晶宮で囁かれ始めている。
仕えている者達にそんな目で見られ、ヴィア妃が快い筈がない。
「わたくしやセルティスが今生きていられるのも、殿下が庇護して下さっているからよ」
ヴィアは真っ直ぐにエベックを見つめ、きっぱりと言った。
自分が殿下から打ち捨てられ、日陰のまま朽ちていく事が、皇后の望みだ。
そして、皇帝陛下も無視できない力を持つ皇后の存在は、今の殿下にとって何より必要なものだ。
だから自分は、この立場に甘んじる。
「それに今、一番辛い思いをなさっているのは、多分わたくしではないわ」