第一皇子と側妃は、久々の逢瀬をする
今日は気分が良かったので、四阿にあるテラス席までエベックに連れて行ってもらった。
ほんの四半刻なら、外の風に吹かれてもいいと侍医の許しが出たので、こうしてぼんやりと庭園の花々を眺めている。
少し一人になりたいと言うと、侍女は少し離れたところで待機してくれた。
辛くないかと聞いてきたエベックの言葉が蘇る。
その時は笑って否定できたのに、時間が経つにつれ、だんだんと澱のようなものが溜まっていき、胸が蓋がれるような気分になった。
仕方のない事だと、ヴィアは心に呟く。
皇后のしたことは許しがたいが、そうした行為に走った心情はヴィアにも理解できるからだ。
ただ、愚かだとは思う。自分だけが一方的な被害者で、ツィティー妃こそが不幸の元凶なのだと未だ信じ込んでいる浅はかさには、笑えてしまう。
憎むならば、夫である皇帝を憎むべきだ。すべての原因はあの男が作ったというのに。
どうしようもない運命への憤りや口惜しさが、胸の内から噴き出てくる。幼い頃、母に諭されて以来なかった事だ。
恨みを心に溜めそうになり、必死に母の言葉を思い出そうとした。
憎んではダメよ、ヴィア。
憎しみは何も生み出さない。
幸せにおなりなさい。幸せになる事が、父と母の願いなのだから。
どうやって幸せになるのだっただろう。
ヴィアはふと心に呟き、そう考えた途端、涙が止まらなくなった。
いつも楽しい事を見つけて笑っていた筈なのに、何故今は、こんなに切ないのだろう。
何かが満たされなくて、苦しくて、辛くて、哀しくて、心が悲鳴を上げている。
何をそんなに欲しがっているのだろう。今でも十分に幸せの筈だ。多くの侍女にかしずかれて、何不自由なく生活できて…。
「ヴィア」
覚えのある優しい声が、不意にヴィアを呼んだ。
「どうした。何があった」
焦りの滲む声が近付いてきて、ヴィアは声の方を振り向く。
王宮での会合の帰りなのだろう。すらりとした体躯に正装用のジャケットを纏ったアレクが足早に歩いてくる。
「どこか痛むのか?」
躊躇うように指が伸ばされ、形の良い指がヴィアの涙をゆっくりと拭う。
優しい風がアレクの前髪を乱し、琥珀の瞳が心配そうに細められていた。
久しぶりに見るその精悍な姿に、孤独に苛まれていた胸が震えた。
何故、こんなに長い間自分を放っておいたのだと、不意に声を荒らげて詰りたくなった。けれど、言ってはいけない言葉だと、わかっていた。
そういう立ち位置にはいないし、殿下の立場も理解している。
「ヴィア」
何もかもが思い通りにいかない。
堪え切れずに、喉の奥が鳴った。見る間に視界がぼやけ、ヴィアはしゃくりあげるように肩を震わせる。
「体に障るから、泣くな。頼むから」
ヴィアの体に負担を掛けないよう、細心の注意を払いながら、アレクの手がヴィアの体を抱き寄せる。
正装用の衣装が汚れるのも構わず、石畳に片膝をつき、腫物を抱くように両腕の中に囲い込んだ。
広い胸にヴィアの頭を抱き、子供をあやすように髪を優しく梳いていく。
流れ落ちる涙が、アレクのジャケットを濡らした。
瞳を閉じて体を預けると、服越しに殿下の力強い胸の鼓動が聞こえる。
父を殺された日の夢を見て魘された日も、こうやって胸に抱き込んでくれた。
あやすように言葉をかけ、眠るまで髪を撫でてくれ、ずっとヴィアの心に寄り添ってくれたのだ。
先までの理由もない苛立ちや、心を蝕む憤りが、嘘のように引いていくのを、ヴィアは感じた。
冷え切った心に血が通い始め、いつもの穏やかさが心に満ちてくる。
ヴィアが泣き止んだことが分かったのか、ほっとしたようにアレクが体の力を抜いた。
そっと体を離し、顔を覗きこんでくる。
「何があった。体が辛いのではないか」
案じるように言葉を落とされて、ヴィアはいいえと首を振った。
「何もかもが急につらくなって。
申し訳ありません、殿下。ここのところずっと寝ついてましたから、気分が塞いでいたのかもしれません」
思ったより明るい声が出せて、ヴィアはほっとした。
それでもまだアレクは安心できないのか、ヴィアの肩に手を添えたまま、心配そうに表情を追っている。
「よろしければ、お座りになりませんか?時間があれば、ですけど」
傍らの椅子を手で指すと、アレクは素直に腰を下ろし、またヴィアの手を握ってきた。
アレクの手はひんやりと冷たかった。眼差しはヴィアから逸れる事はなく、どこかひどく辛そうに見えた。
「済まない」
何の脈絡もなく謝られて、ヴィアは戸惑う。
「何を謝られるのです?」
「セルティスが殺されかけ、お前が傷を負った件だ。
皇后が、私の母が全て画策した」
「知っています」
ヴィアは首肯した。
「事実を私が握り潰した。自分の保身のために、皇后の罪を暴かなかった」
今、一番つらい思いをなさっているのは、多分わたくしではない。
さっきエベックに言った言葉が、今度は確かな思いとしてヴィアの心に満ちる。
ヴィアは、アレクの手を握り返した。
「当たり前でしょう?もし殿下が失脚なさったら、誰がわたくしたち姉弟を守って下さるの?」
「お前が生死の縁を彷徨っていた時に、傍にいてやることもできず、お前の弟を殺そうとした相手の宴に招かれて笑っていた」
顔を歪ませてアレクは吐き捨てる。
ああ、そうか、とヴィアは今更ながらに思い出した。
そう言えば、わたくしは皇后の宴に招かれていたのだ。
わたくしとセルティスは欠席できても、殿下の立場で宴に出ない訳にはいかない。
怒りに押し潰されそうになりながら、この方は意味のない話に興味深そうに相槌を打ち、楽しそうに笑ってきたのだ。
どれ程の忍耐が必要であったか、母の姿を間近で見てきたヴィアにはよくわかる。
だから、わざと明るく言葉を返した。
「そこは得意そうに言うところですわ」
虚を突かれたように顔を上げたアレクに、ヴィアは微笑み掛ける。
「苦しい時に平気なふりをして笑っているのは、とても辛い事ですもの。
わたくしの傍にずっとついていたセルティスより、おそらく殿下の方がよほど苦しかった筈です。
わたくしたちを守るためにして下さった事です。むしろ、お礼を申し上げなければなりませんわ」
「ヴィア」
アレクは言葉を続けようとしたが、何も言えずに唇を震わせた。切なそうにヴィアを見つめ、迷うようにその頬に手を伸ばす。
以前のアレクにはなかった躊躇いだった。
「口づけてもいいか」
急にそんな事を聞かれ、ヴィアは驚いた。
「何故そのような事を聞かれるのです?」
怪我をするまでは、当たり前のように毎日寝所に呼ばれていた。
今更確認される意味が分からない。
「私の母が、お前の大切な弟を殺そうとし、お前も死にかけたのだ。私を恨んで当然だろう」
ヴィアは眉宇を顰めた。
躊躇いの意味がようやく分かった。殿下は、罪悪感に押し潰されそうになっているのだ。
「恨まれているのが怖いから、口づけはしないと?」
「違う!」
アレクは思わず声を荒らげた。
「お前が嫌なら、しない。お前が大切だから、お前が嫌がる事は一切したくないんだ」
そして、激情を垣間見せた事を恥じるように、そっと瞳を伏せた。
「どうしたらいい…。お前を愛している。
けれど、お前を殺しかけた皇后と決裂できるだけの力は、今の私にはない。
私はお前に何もしてやれない。誰よりも大切にしてやりたいのに、お前を愛した分だけ、お前を傷つけてしまう」
ヴィアは言葉もなく、アレクを見つめた。
愛情を吐露されたのは、これが初めてだった。殿下の夜を独占し、寵妃だと周囲から騒がれても、一度も愛を囁かれた事はなかった。
そして自分は、その事にどこか安堵もしていた。
いつか去る身だと分かっていたから、お互いの感情に気付かないふりをして、ただ温もりだけを分かち合っていれば良かったのだ。
そうしてヴィアは思い出す。
自分の母親でもある皇后が犯した罪について、殿下は深い葛藤に苛まれている。
けれど、隠された真実はもっと惨いものだ。
殿下はいつか知るだろう。
自分の父親がどんな恐ろしい罪を犯したのか。その取り返しのつかない罪を知る時、おそらく自分は殿下の傍にはいない。
「殿下。
わたくしの知る殿下は、とても孤独な方でした。わたくしには、母や弟がいたけれど、殿下には父も母もいなかった。
あの二人はただ自分可愛さに生きているだけで、殿下は愛される事なく一人で生きてこられた」
だから、伝えておきたい言葉は、今言っておかなければならない。
道が分かたれる事をヴィアは知っていたし、そしてそれはおそらく遠い未来ではない。
「皇后のした事で自分を恨んでいるかと、貴方はお尋ねになりました。
ですからはっきりと申し上げます。
貴方の親が何をしたとしても、例えばもし、わたくしの家族を死に追いやったとしても、それは貴方の罪ではありません。
わたくしが貴方を恨む事は決してありません」
「恨んでいないから、私がお前を欲しても許せるか?」
苦しそうにそう質された。
愛される事を諦めるような寂しげな眼差しが、ヴィアの心を衝いた。
「さっきわたくしがどうして泣いていたのか、まだお分かりになりませんか?」
寂しさのあまり、心の闇に呑みこまれそうになっていた。こんなにも殿下を欲していた。
誰が傍にいても満たされなかった。この方が傍にいなかったからだ。
「貴方が来て下さらなかったからです。
殿下にお会いしたかったのに、顔も見せて下さらない。会いたくて、会いたくて、心が千切れそうだった。
わたくしはとても寂しかった」
アレクは瞠目し、感極まったようにヴィア、と一言囁いた。
我慢できなくなったのだろう。そのまま覆い被さるように体を傾け、ゆっくりと唇を合わせてきた。
唇を啄むように二度、三度。ヴィアの体を気遣い、深い口づけは仕掛けてこない。
そのまま両手で頬を包み込み、祈るように額を合わせた。
触れそうで触れない唇に、焦らされるような気分で薄く目を開けると、最後にもう一度優しい口づけを落として、アレクの唇は離れていった。
それでも、弱っていた体には、感情の高ぶりが負担となった。
頭の奥が急に白くかすみ、ヴィアはアレクの胸に顔を埋め、そのままぐったりと凭れかかった。
崩れかけたヴィアの体を、アレクが焦ったように抱き留める。
「ヴィア」
心配そうに顔を覗き込んだアレクは、ヴィアの顔の白さに驚き、そのままヴィアの体を抱き上げた。
「妃殿下!」
気付いた侍女がわらわらと寄ってくる。
アレクはヴィアを抱き上げたまま、寝所へと急ぎ、侍女が整えた寝台の上に、慎重な手つきでヴィアを横たえた。
眩しそうに瞳を眇めたヴィアに気付いたのか、侍女が日の光を遮るためにカーテンの方へと向かう。
その隙に、アレクに囁いた。
「大丈夫ですから、もう行ってください」
ヴィアから声を掛けないと、アレクは立ち去り難いだろう。念の為、言葉をつけ足した。
「しばらくこちらへ渡ってはなりませんよ」
言われたアレクは眉をへの字にし、何とも情けない顔でヴィアを見た。
「会いたいといったのは、嘘か?」
何だかかわいらしくて、ため息が出た。
一生懸命ヴィアの言葉を待っている姿は、とても大国の皇子とは思えない。
「なかなかお会いできなくても、わたくしは我慢をしますから」
そして、侍女が枕辺に戻って来る前に、最後の言葉を囁いた。
「わたくしも貴方を愛していますわ」




