第1話 三年目の五分間
結婚して三年、夫が私の部屋にいた時間を合計すると、十五分になる。
年に五分。結婚記念日の午後に。
今日、三年目の五分が終わった。
「顔色が、いいな」
と、夫は言った。
良い、という言葉を、あんなに困った声で言う人を、私は他に知らない。
ベルヴュー伯爵フェリクスは、寝台の足元に立ったまま、私の顔を見た。見た、というより、確認した。三年前と同じ場所に、三年前と同じ物があるかどうかを。
「ありがとうございます」
「無理は、しないように」
「はい」
「何か、要る物は」
「ありません」
これで、四分。
彼は懐中時計を見なかった。見なくても、彼の五分は正確だ。この人は、人前で何かを測っている顔をしない。測っているのに。
「ルグラン先生には、来週も来てもらう」
「はい」
「では」
五分。
扉が閉まり、廊下を歩く靴の音が遠ざかった。私は、枕に頭を戻した。天井の染みが、三年前より、少し広がっている。染みは、この部屋で、私より速く育っている物の一つだ。
六歳の熱以来、私は病弱だということになっている。
ということになっている、という言い方を、私は口に出したことがない。頭の中でだけ、そう言う。口に出せば、誰かが困る。母が、医者が、家政婦が、夫が。私の病弱で、皆が困らないように暮らしている。私が病弱でなくなると、皆が困る。それは、たぶん、本当のことだ。
ルグラン医師は、月に一度来る。
今日は、記念日なので、夫の五分の後に来た。彼は寝台の横の椅子に座り、家政婦のジャクリーヌに向かって訊いた。
「食は」
「粥を、朝夕に。パンを少し」
「眠りは」
「よく眠っておられます」
「顔色が、良いようだが」
「ええ。困ったものです」
ジャクリーヌは、そう言った。
言ってから、自分の言葉を聞いた顔をしなかった。この家では、私の顔色が良いことは、困ったことなのだ。それを口に出しても、誰も驚かない。私も、驚かなかった。三年、聞いている。
医師は、私の手首を取った。三秒。それで診察は終わった。
「安静を。強壮酒を、夕に一杯」
「はい」
私は、はい、と言った。三年、それしか言っていない気がする。はい、と、ありがとうございます。病人の語彙は、この二つで足りる。
夕方、下で馬車の音がした。
私の部屋の窓からは、車寄せが見える。夫が、黒い外套で乗り込むのが見えた。八時。歌劇の始まる時刻だ。
夫は、音楽が嫌いだ。結婚前の一度だけの茶会で、彼は「歌劇は長すぎる。三幕で済むものを五幕にする」と言った。私はそれを覚えている。三年間、覚えることしかすることがなかったから。
だから、夫の馬車が、週に三度、歌劇の時刻に出ていく理由を、私は知っている。
行き先は、歌劇場ではない。
シャンボール未亡人の家だ。ディアーヌ・ド・シャンボール。三十四歳。夫の慈善の会の会計係。未亡人になって五年、伯爵の馬車が通い始めて二年。私はそれを、この窓と、床下から聞こえる声で知った。
病人は、夫の外出に文句を言わない。
それが、私の規則だ。
病人は階段を下りない。病人は文句を言わない。病人は訊かない。病人は、要る物を言わない。病人は、ありがとうございますと言う。
全部、誰かに言われたことだ。母に、医者に、ジャクリーヌに、夫に。三年と、その前の十四年。私は言われたことを、全部、守ってきた。守ると、静かだった。静かなことは、良いことだと、教えられた。
夜、九時。
ジャクリーヌが、強壮酒を持ってきた。赤い、甘い、少し苦い酒。私は飲むふりをして、寝台の下の鉢植えに注いだ。この習慣は、二年になる。酒を飲むと、朝まで頭が重い。頭が重いと、考えられない。考えられないと、静かだ。
鉢植えの蔦は、この二年で、窓枠まで伸びた。強壮酒は、植物には、効くらしい。
十時。家が静かになった。
ジャクリーヌは、一階の奥の部屋で寝る。彼女の鼾は、床を通って聞こえる。ポーレットは、私付きの侍女で、廊下の突き当たりの小部屋にいる。あの人は、静かに寝る。従僕は、玄関の脇の椅子で寝る。夫は、三時に帰る。
私は、寝台から出た。
理由は、ない。
三年目の五分が終わって、天井の染みを見ていたら、突然、階段のことを考えた。この部屋を出て、廊下を左に行くと、階段がある。玄関ホールへ下りる階段だ。三年前、私はそれを、上った。運ばれて、ではない。上った。婚礼の日の夜、自分の脚で。それから一度も、下りていない。
病人は、階段を下りない。
誰に言われたのだったか。
思い出そうとして、思い出せなかった。母ではない。母は、この家に来ていない。ジャクリーヌでもない。彼女は「奥様は静養なさるのです」とは言ったが、階段とは言っていない。夫でもない。夫は、五分しかいない。
思い出せない禁止は、たぶん、私が作ったものだ。
廊下は、暗かった。
私は、壁に手をつけて歩いた。素足に、床板が冷たい。三年、この廊下を歩いたのは、部屋と、隣の居間と、湯殿の間だけだ。左へ曲がったことがない。曲がった。
階段は、あった。
暗い中に、手すりが、下へ向かって伸びている。私は、段を数えた。目で。十四。
一段目に、足を置いた。
何も起きなかった。
膝が、少し震えた。震えたが、崩れなかった。私は、その一段に、腰を下ろした。冷たい。木の匂いがした。この家の木の匂いを、私は、この位置で初めて嗅いだ。
玄関ホールが、下に広がっていた。
大きい。私の部屋の、たぶん、五つ分。天井が高い。窓から、月の光が床に落ちている。従僕の椅子が見える。従僕は、いない。厨房で何か食べているのだろう。
私は、そこに、しばらく座っていた。数えた。呼吸を。百まで数えて、まだ、死んでいなかった。
死ぬ、というのは、たぶん、こういうふうには来ない。
六歳の熱のとき、私は死にかけた。あのときの感じを、身体が覚えている。喉が焼けて、光が痛くて、母の声が遠かった。今は、違う。喉は焼けていない。光は、月だ。母の声は、遠いどころか、三年、聞いていない。
一段。
私は立ち上がった。膝は、もう震えていなかった。震えるのは、最初だけらしい。それも、誰も教えてくれなかったことだ。
部屋に戻り、寝台に入った。
足の裏が、まだ、木の冷たさを覚えていた。私は、その冷たさを、なくならないように、両足を擦り合わせずにいた。
三時、馬車の音がした。夫が帰ってきた。
私は、眠っていなかった。強壮酒は、蔦が飲んだ。
夫の靴音が、階段を上がってくる。十四段。私は、目で数えた。彼は、私の部屋の前を通らない。彼の部屋は、階段を上がって右だ。私は、左。三年、この配置だ。
靴音が、消えた。
私は、天井の染みを見た。
一段。死ななかった。
明日は、二段。
病人は階段を下りない、という規則は、今夜、一段分、削れた。誰に言われたか思い出せない規則は、削っても、誰も困らない。
困るとしたら、私だけだ。
私が困るのは、三年で、初めてだった。




