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毎日夜9時更新です。
話途中で、三人称視点からヒロイン視点に変わります。
王都の端、蔦が絡まり半分眠ったような小さな邸宅。その古びた門を、場違いなほど豪奢な身なりの男が潜った。
白銀の髪は北の大地の冷たさを宿し、薄紫の瞳は薄雲の朝焼けのように淡い焦がれの色を湛えている。男の名は、ヴィオレル・フォン・シュネーベルク。北の峻険な嶺を背負い、隣国への盾となるこの国の守護要ーー辺境伯その人である。
手入れの行き届かない邸宅とは別に、庭には春の訪れを謳歌する花々が奔放に咲き乱れ、一匹の白山羊が楽しげに新芽を食んでいた。そこへ、緩やかな蜂蜜色の髪を結い上げたエプロン姿の少女が姿を現す。庭に咲き乱れる花々にも負けない、混じりっけのない天真爛漫な笑顔を浮かべて…。
ヴィオレルの胸が、かつてないほど激しく高鳴った。
「……約束通り、迎えに来た」
歓喜の震えが混じる低い声が、庭の静寂を破った。対する少女は、ヘーゼルの瞳をぱちくりとさせ、抱えていた鶏をそっと地面に降ろす。
「まあ、ご苦労様です。……ええと、失礼ですが、どなた様でしょうか」
その瞬間、ヴィオレルの時が止まった。
端正な鼻筋、鋭くも怜悧な切れ長の瞳、そして形の良い薄い唇…皆に恐れられるほどの荘厳な美貌も、漆黒の軍服に輝く数々の勲章も、今の彼には何の役にも立たなかった。
西日の差し込む客間には、時が止まったような緊張感が漂っていた。
古びた二脚のソファーが向き合い、片方にはヴィオレルが深く腰を下ろしている。その背後には、老いてもなお鷹のように鋭い眼光を放つ従者、バルトが一分の隙もなく控えていた。
もう片方のソファーには、緊張に身を縮めるリンドホルム伯爵夫妻。その後ろには、長男のレナードが硬い表情で立っている。
かつては名門と謳われたリンドホルム家だが、度重なる天災への復興に私財を投じ、今や国王に領地を返納して救済を待つ身だ。社交界のドレス一着すら用意できないほどに困窮した彼らにとって、このシュネーベルク辺境伯の訪問は、国家存亡の危機にも等しい圧を感じさせていた。
使用人もいないこの家で、エプロン姿から剥ぎ継ぎだらけのワンピース姿に変えた末娘のロゼリッタは、自ら縁の欠けたカップに薄い紅茶を淹れる。
「……お口に合えばよろしいのですが」
おずおずと彼女の手から差し出された一杯を、ヴィオレルは至高の宝物を受け取るように、大きな両手で恭しく包み込んだ。
北の領地で最高級の茶葉を飲み慣れているはずの彼が、一口喉に含ませると、まるで天上の雫を味わったかのような満面の笑みを浮かべる。
「……ロゼリッタ殿、ありがとう。美味しいよ」
そのあまりに甘やかな微笑みに、レナードが「ひっ」と短く息を呑んだ。
冷や汗を拭いながら、伯爵が震える声で尋ねる。
「……卿。本日は、どのようなご用件で……?」
「結婚の申し込みに来た。我が妻として、ロゼリッタ殿を迎えたい……ゴホッ……」
地響きのような低い声がわずかにうわずり、彼は恥じ入るように拳で口元を覆った。
「え……っ!?!? 何かの間違いでは……」
驚愕に目を見開く夫妻をよそに、従者のバルトが懐から一通の古い羊皮紙を取り出した。そこには十年前、先代同士が交わした固い盟約の署名があった。
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数日と経たぬうちに、リンドホルム家の門前には王宮の儀礼用かと見紛う豪華な馬車が横付けされた。車体に刻まれているのは、雪山を背景に咆哮する白狼の紋章。シュネーベルク辺境伯家の象徴だ。
「さあ、ロゼリッタ。私の手を使ってくれ」
ヴィオレル様が、壊れ物を扱うような手つきで手を差し伸べる。私は、この手を拒むことはできない。心配そうに見送る父様と母様。兄様は怒って、見送りにさえ来てくれない。住み慣れた我が家を振り返ると、もうここには帰ってくることはないんだと…絶望で目の前が暗くなった。
十年前の約束。そして、没落寸前の我が家に提示された、負債の全額肩代わりという条件。誰もが羨むはずの美しい辺境伯との婚姻。けれど今の私には、身分や育ちの違い、そして未知の北の大地がただただ怖かった。
揺れる馬車の中で、私の意識はふらふらと混濁していく。慣れない長旅に加え、密閉された車内にこもる高級な革と芳香の匂いが、胃を容赦なく掻き回した。
「うっ……、気持ちが、優れなくて……」
「どうした! ロゼリッタ、顔色が悪い」
心配そうに覗き込むヴィオレル様の整いすぎた美貌さえ、今の私には毒でしかない。結局、何度も馬車を止めてもらうことになった。
道端で、あろうことか彼の目の前で胃の中のものをすべて吐き出すと、羞恥と屈辱で涙がにじんだ。ヴィオレル様は過保護に私の背中をさすり続け、「一人にしてほしい」という願いは最後まで聞き届けてくれなかった。
再び走り出した馬車の隅で、私は弱々しく息を吐く。車窓から去り行くのどかな風景を見る。いつの間にか、王都から随分遠くまで来てしまったようだ。
「すまない、私の配慮が足りなかった。……さあ、私の胸で休むがいい」
彼はぐいと距離を詰め、私の肩を抱き寄せた。痩せた指先を熱烈に掬い上げ、手の甲にゆっくりと口づけを落とす。私は、身体を強張らせながらも、彼に従うしかなかった。
「……あの……どうして、私なのですか? 私なんて、社交界にも出られない貧しい家で、美しくもなければ特技もありませんわ……」
震える声で問いかけると、ヴィオレル様は陶酔したように薄紫の瞳を細めた。
「私は君に何度も会いに行ったよ。皇太子殿下の剣術指南で王立学園を訪れるたび、必ず君の教室を遠巻きに眺めていた」
私は、卒業したばかりの学園生活を思い返した。貴族の子弟は、十歳から六年間を学園で過ごす。目の前の勉強だけに必死だったその歳月のどこかで、彼に会っていたというのか。
「……申し訳ございません、全く存じ上げませんでしたわ」
その言葉に、彼は石になったかのように固まり、悲しげに視線を落とした。
「……そうか。あの頃から、君があまりに細いので心配していたのだが……まさか、これほどまでに困窮していたとは。気づけなかった自分を恥じるばかりだ」
御者台との小窓から、バルトが深い溜息をつきながら小言を投げた。
「ですから、教室の窓から覗き見などせず、正々堂々とお宅へ伺えと申し上げたのです。不審者扱いされるのが関の山だと」
「バ、バルト! 余計なことを言うな! 私はただ、彼女の学ぶ姿を邪魔したくなかっただけだ……!」
耳まで真っ赤にして狼狽するヴィオレル様を見て、私は驚きよりも戸惑いの方が大きかった。
(……この方、何年も前から私を覗いていたの??)
「辺境は凍えるようだが、暖炉よりも熱い私の体温で君を包もう。片時も離さず、一生だ」
「……っ……」
肩に回された彼の手が、さらに強く私を抱き寄せる。息ができない…重く重く、鎖は私を縛り付ける。
絶望に震える私を乗せて、馬車は無慈悲にも、白銀の北嶺へとひた走るのだった。
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