第0話 すべてが始まった日
春。
桜の花びらが風に舞い、街を淡いピンク色に染めていた。
神崎千秋は、いつものように少し早い時間に家を出た。
「千秋、忘れ物はない?」
玄関で母の夏美が声をかける。
「大丈夫! いってきます!」
「気をつけてね」
「はーい!」
千秋は笑顔で手を振り、家を後にした。
高校生活にも慣れ、毎日が少しずつ楽しくなってきた頃だった。
特別なことなんてなくていい。
友達と話して、授業を受けて、家に帰って家族とご飯を食べる。
そんな何気ない日常が、千秋は好きだった。
この日も、いつもと変わらない一日になるはずだった。
「……あれ?」
通学路の途中、千秋は足を止めた。
歩道の端に、一人の男子が立っていた。
制服姿の彼は、どこか困ったような顔でスマートフォンを見つめている。
千秋は一度通り過ぎかけたものの、気になって声をかけた。
「ねえ、大丈夫?」
男子は顔を上げた。
「……俺?」
「うん。なんか困ってるみたいだったから」
「いや、別に。道が分からなくなっただけ」
「それ、困ってるって言うんじゃないの?」
千秋が思わず笑うと、男子は少しだけ目を丸くした。
それから、照れくさそうに視線をそらした。
「……そうかもな」
「どこに行きたいの?」
千秋は彼の行き先を聞くと、同じ方向だったこともあり、途中まで案内することにした。
歩きながら、二人は簡単な自己紹介をした。
彼の名前は、零。
千秋と同じ高校に通う生徒だった。
「同じ学校だったんだ!」
「みたいだな」
「じゃあ、明日から迷わないね!」
「毎日迷うわけじゃないだろ」
「ふふっ、確かに!」
千秋の笑い声が、春の通学路に響いた。
零はその横顔を見つめながら、なぜか目を離せずにいた。
初めて会ったはずなのに、不思議と居心地がよかった。
「じゃあ、またね、零!」
学校に着くと、二人はそれぞれの教室へ向かった。
「……ああ。またな」
たったそれだけの会話。
それなのに、零の胸には、千秋の笑顔がいつまでも残っていた。
その日の放課後。
千秋が昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声がした。
「神崎」
振り返ると、零が立っていた。
「零? どうしたの?」
「……朝のお礼」
零は小さな袋を差し出した。
中には、千秋が好きだと言っていた購買のパンが入っていた。
正確には、道案内の途中で千秋が「これ、おいしいんだよ」と話していただけだった。
「えっ、覚えててくれたの?」
「まあ……話してたから」
「ありがとう! うれしい!」
千秋が満面の笑みを浮かべる。
その瞬間、零は自分の胸が少しだけ熱くなるのを感じた。
それが何なのか、彼にはまだ分からなかった。
ただ、もう一度この笑顔を見たいと思った。
明日も、その次の日も。
それから二人は、少しずつ一緒に過ごすようになった。
朝、校門で会えば挨拶をする。
休み時間には、くだらない話で笑い合う。
帰り道が同じ日は、並んで歩いた。
最初はただのクラスメイトでも、友達でもない関係だった。
けれど、気づけば千秋にとって零は、自然と隣にいてほしい人になっていた。
そして零にとって千秋は、気がつくと目で追ってしまう人になっていた。
ある日の帰り道。
夕焼けに染まった公園のベンチに座り、千秋は空を見上げた。
「ねえ、零」
「ん?」
「私たち、これからもずっと友達でいられるかな?」
零は少し驚いた顔をした。
「……急にどうしたんだよ」
「なんとなく! 今が楽しいから、これからもこんな毎日が続いたらいいなって思って」
千秋は照れくさそうに笑った。
零はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……続ければいいだろ」
「え?」
「これからも一緒にいればいい。そうしたら、きっと続く」
千秋は目を丸くしたあと、うれしそうに笑った。
「うん! 約束ね!」
千秋が小指を差し出す。
零は少し戸惑いながらも、その小指に自分の小指を絡めた。
「……約束」
その約束が、いつか二人にとってどれほど大切なものになるのか。
このときの二人は、まだ知らなかった。
帰宅した千秋は、夕食の席で楽しそうに話した。
「今日ね、零と一緒に帰ったんだ!」
妹の冬美が、にやりと笑う。
「へえー。お姉ちゃん、最近その人の話ばっかりだね?」
「そ、そんなことないよ!」
「本当に?」
「本当!」
夏美は二人のやり取りを見て、優しく微笑んだ。
「楽しそうでよかったわね、千秋」
「……うん!」
千秋は少し頬を赤くしながら、うなずいた。
その夜、ベッドに入った千秋は、今日の出来事を思い返していた。
零の声。
零の表情。
そして、帰り道に交わした小さな約束。
「……明日も会えるかな」
小さくつぶやき、千秋は目を閉じた。
窓の外では、春の風が静かに吹いていた。
何も変わらない毎日。
大切な家族。
そして、少しずつ特別になっていく人。
千秋はまだ知らない。
この何気ない日々が、いつか大きな試練に変わることを。
それでも、この日の出会いがあったからこそ、二人の物語は始まった。
これは、すべてが始まる前の物語。
そして翌日もまた、千秋の日常は続いていく。




