第九章 白日の下に
登場人物紹介
エレオノール・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ公爵家の令嬢。
マリー
エレオノール付きの侍女。
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
サヴォイア公国の公世子。
ルグラン・マルリーニ
サヴォイア公国の西側国境警備隊長。
ロレンツォ・ディ・サティ
サヴォイア公国の宰相。
サン・ジェルヴェという村の名前が頭から離れなくなったのは、あの乗馬の日からだった。天秤の紋章を掲げた荷馬車。西棟の地図に打たれた朱色の印。あの村の名を口にした途端、殿下の言葉を遮るように鳴り響いた角笛。偶然と呼ぶには、あまりにも符合が多すぎた。
「お嬢様、今日も刺繍の手が止まっていらっしゃいますよ。」
マリーの声に、私は針を持つ手を止めていることに気づいた。窓の外では、朝方に降った雪が庭の薔薇の根元に薄く積もっている。
「……よく気づくわね。少し…考え事をしていたの。」
それ以上を問われる前に私は話を切り上げ、届いたばかりの手紙に手を伸ばした。父からのものだった。
表向きは、他愛のない近況を尋ねるだけの文面だった。だが末尾に記された数行に、私は思わず息を呑んだ。
「先だって案じていたフランシュ・コンテとサン・ジェルヴェの件、ルシアンにも伝えておいた。案の定というべきか、サヴォイア側の警備隊長ルグラン・マルリーニという者より、フランシュ・コンテでこちらへの密偵と思しき者を捕らえたとの報せが届いている。……もっとも、手際が良すぎるようにも見える。念のため、心に留め置くように。」
フランシュ・コンテ、サン・ジェルヴェを警戒するようにと、私が先だって言付けたことへの返事だった。だが返ってきた答えは、思っていたよりもずっと不穏な形をしていた。密偵を捕らえたはずの警備隊長の名は、私がこの宮殿の中で既に耳にしたことのある名だった。
その手紙をしまい込んだ数日後、市場の外れで、私はいつもの相手と行き合った。行商人に扮した父の遣いの男である。
「先だっての品、こちらでよろしいでしょうか。」
差し出された小さな包みの中には、フランシュ・コンテとサン・ジェルヴェを行き来する商人たちの名が記されていた。その一つに、メルシエ家という天秤の紋章を持つ一族の名があり、傍らには小さく「マルリーニ殿とも懇意」と書き添えられている。父の遣いがこれだけの繋がりを掴むまでに、いったいどれほどの手間をかけたのだろうかと、私は包みを見つめながら思った。
「……ありがとう。父にもよろしく伝えてちょうだい。」
短くそれだけを告げ、私は何事もなかったように、次の露店へと歩みを進めた。
警備隊長ルグラン・マルリーニ、メルシエ家、フランシュ・コンテ、そしてサン・ジェルヴェ。点と点が繋がるという感覚が確かにあった。
数日後、宮殿の庭園で、以前西棟で出会い、庭園へ案内してくれた文官と行き合った。
「エレオノール様。またお会いできて光栄です。殿下からおしゃべりと聞いていたので、またお話できるのを楽しみにしていました。」
「そんな。先日は、道案内をしていただきありがとうございました。……あの、一つ伺ってもよろしいでしょうか。西棟の地図に、フランシュ・コンテとサン・ジェルヴェの印が随分と多かったように見えましたが。」
文官は一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙した。
「……あれは、宰相閣下の指示です。特にサン・ジェルヴェ方面の警備を、他のどこよりも厚くするようにと。もっとも、実際に捕らえられた不審者というのが、どうにも素人同然のような……。」
文官はそこで、はっと我に返ったように口をつぐんだ。
「……失礼しました。お忘れください。」
深く一礼して立ち去る背中を見送りながら、私は今しがた聞いた言葉を胸の奥に静かに刻みつけた。素人同然の囮のような者たち――父の手紙にあった「手際が良すぎる」という一言と、今の言葉とが静かに重なった。
――
その夜、私は殿下の私室を訪ねた。
「殿下、夜分に申し訳ございません。……少しお時間をいただけますか。」
「もちろんです。……何か、あったのですか。」
その声には、いつもと変わらぬ穏やかさがあった。
燭台の灯りに照らされた執務室で、殿下は書類を脇へ寄せ真っ直ぐに私と向き合った。私は、荷馬車の紋章のこと、西棟の地図のこと、そして先ほど文官から聞いた話を、順を追って伝えた。父の手紙のことも含め、すべてを話し終える頃には、殿下の表情はこれまで見たことのないほど硬くなっていた。
「……フランシュ・コンテ、サン・ジェルヴェの警備を、誰よりも強く主張していたのは、宰相自身だ。」
殿下は、自らに言い聞かせるように呟いた。
「もし、あなたの言う通りだとすれば……あの警備の増強そのものが、目くらましだったということになる。囮の密偵を捕らえさせ、自らの忠誠を示す一方で、その裏で本物の道を作っていたと。」
「よく、話してくれました。……ここから先は、私が調べます。あなたを、これ以上危険に晒すわけにはいかない。」
殿下の声には、静かな怒りが滲んでいた。それは私にではなく、これまで信を置いてきた者への、深い失望から来るものだった。
それから数日、宮殿の空気はどこか張り詰めていた。殿下は側近の一部だけを伴い、夜遅くまで執務室に籠ることが増えた。私はその間、努めて普段と変わらぬ日々を過ごしながらも、胸の奥では、事態がどう転ぶのかを息を潜めて見守っていた。
ある晩、殿下から密かに呼び出しを受けた。
「エレオノール、待たせてしまった。先日やっと全ての証拠が揃った。不備はないと思うが、君にも同席してほしい。」
そして案内された先には、既に宰相が着席していた。
「宰相、今宵はゆっくりと語り合いたい。」
殿下の声は、いつもと変わらぬ穏やかさを装っていた。部屋の隅には側近が二人、身じろぎもせず控え、窓には厚い帳が下ろされている。私は静かに宰相を見つめていた。
「ところで宰相。フランシュ・コンテとサン・ジェルヴェに敵の密偵が出たと報告し、誰よりも熱心に増援を送り込んだのは、貴公だったな。」
「そうでございますが、それが何かいたしましたか?」
「……あの警備網こそが、我が国の目を盗んで、ブルゴーニュへ人を流し込むための抜け穴だな。」
「なっ!そ、それは……我が国の、防衛のために警備を増援しただけで…。」
殿下は静かに、1枚の紙を机の上に置いた。それは、ルグランからメルシエ家への送金記録だった。
「ではなぜ、金を払えば禁制品であろうと人であろうと運ぶことで知られているメルシエ家と繋がっている。」
「っ!……防衛網を作るためには……商人の手が必要でしたので……。」
「ルグランからメルシエ家に、防衛費という名の巨額の金が渡っている件は?」
「……そ……それ…は……。」
殿下は次に、密書と思われるものを取り出した。
「これはフランシュ・コンテを通ったあと、ブルゴーニュのスロンジェで押収されたものだ。貴公の密書はフランシュ・コンテを経由し、誰に渡っていた。」
言葉を失った宰相の沈黙に堪りかね、殿下は怒りを抑えながら詰め寄る。
「……フランシュ・コンテだけではない。サン・ジェルヴェでも、同じ手口を使いマコンでも密書が見つかった。」
「…貴公はフランス反勢力と示し合わせ、フランシュ・コンテとサン・ジェルヴェ、二方向から密偵をブルゴーニュへ送り、挟撃のように内と外の両側から、両国の和平を崩そうとしていたのだな。」
「そこまで……。」
「目的はなんだ。」
「……。」
「先兵として密偵を送り込み、フランスとの戦端を開かせる。そうなれば、宰相である貴公の権力は、もはや揺るがぬものとなる。……そういうことだろう。」
「…………。」
宰相は答えなかった。 だが、その沈黙こそが事実を物語っていた。
宰相から警備隊長へ、警備隊長からメルシエ家へ、そしてフランスの反勢力へ――幾重にも人の手を渡ってきた密謀の経路が、ようやく一本の線として繋がった瞬間だった。
「宰相。貴公は、私がエレオノール嬢との婚約に際して結んだ両国の和平を踏みにじった。この婚約は、ブルゴーニュとサヴォイア、双方の安全を保証するための約定でもある。……その罪、決して軽くはない。」
殿下の声には、もはや情け容赦のかけらもなかった。
「連れて行け。……正式な裁きは追って下す。二度と、この宮殿で政務に携わることはできないと思え。」
衛兵たちに両脇を抱えられ、宰相が連れ出されていく。もはや言葉を発する力も歩く力も残っていないようにみえた。扉が静かに閉まると、部屋には重い沈黙だけが残った。
「……エレオノール嬢。あなたが気づいてくれなければ、この国は、知らぬ間に内側から食い荒らされていたかもしれません。」
「殿下は、間違ったことをなさったわけではありません。……ただ、信じていた方に裏切られたことが、お辛いのでしょう。」
その横顔には、これまで見せてくれた朗らかさの欠片もなかった。それでも、こうして真っ直ぐに国と私との約束を守ろうとする姿に、私はこれまでとは違う重みで、この人を見つめ直していた。
この人を裏切りたくはない――そんな思いが、静かに胸の奥に芽生えていた。それが、これから自分が背負うことになる秘密と、どれほど矛盾したものであるかも、私はよく分かっていた。
「……そうかもしれません。あなたのおかげで、これ以上の被害を防ぐことができた。心から感謝します。」
その言葉に、私はどう応じればよいのか分からず、ただ小さく頭を下げた。これで、私がこの地に送り込まれた本当の理由が果たされたことになる。だが、それを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、自分でもまだ分からずにいた。
—
「エレオノール嬢。……少し、庭を歩きませんか。頭を冷やしたいのです。」
夜更けの庭園は、月明かりに照らされ、雪を薄く被った薔薇の枝が静かな陰影を作っていた。並んで歩きながら、殿下はしばらく口を開かなかった。
「……幼い頃から、あの人には随分と目をかけてもらいました。父が病で臥せっていた時期も、政務の多くを任せていたのは、あの人でした。」
「それは、殿下にとって、辛いことでしょうね。」
「ええ。……ですが、これで良かったのだと、自分に言い聞かせています。この国と、あなたの国との約束を守るためにも、公世子として見て見ぬふりはできません。」
その横顔には、公世子としての覚悟と、一人の人間としての痛みとが、同時に浮かんでいるように見えた。
庭の外れまで歩くと、殿下はふと足を止め、私の方へ向き直した。そして、優しく腰に手を回した。
「こんな夜に、あなたを付き合わせてしまって、すまない。……それでもあなたが隣にいてくれることが、今の私には何よりの救いです。」
その率直な言葉と行動に、私は思わず頬を染めた。信じていた者に裏切られたばかりだというのに、それでもなお、こうして私を気遣う余裕を失わない人なのだと、改めて思い知らされた。
「殿下のお力になれたのなら、何よりです。」
「エレオノール。……これからも、どうか私の隣にいてください。」
その言葉に、私は素直に頷くことができなかった。喜びと、それに勝るとも劣らない重さとが、同時に胸に押し寄せてきたからだった。この人の隣にいる資格が、果たして自分にあるのだろうか。そんな問いが、答えの出ないまま胸の奥に沈んでいった。
―
自室に戻ってからも、しばらく寝つくことができなかった。殿下の誠実さは疑いようのないものだ。それだけに、その誠実さに応えるためにも、私はこれからもう一つの真実を、この人に隠し続けなければならない。そのことが、これまで感じたことのないほど重く、胸にのしかかってきた。
「お嬢様、まだお休みになりませんか。」
控えていたマリーが、静かに声をかけてきた。
「……ええ、もう少しだけ。今夜のことを、うまく頭の中で整理できなくて。マリーには分からないだろうけど。」
「えぇ、わかろうとも思いません。しかし、宰相様のことは、私も廊下で噂を耳にいたしました。……お嬢様が、何かご存知だったのですか。」
「……噂は聞いたのね。…でも今は詳しく話せないの。ごめんなさい。」
マリーはそれ以上を問わず、ただ静かに頷いた。誰にも打ち明けられない事情を抱えながら生きることが、これほど心細いものだとは、これまで知らずにいた。
それでも、こうして誰かがそっと寄り添ってくれることの温かさを、私は今夜改めて噛みしめていた。
机の引き出しから、あの指輪をそっと取り出す。アメジストの輝きは、月明かりを受けて煌びやかに輝いていた。殿下への感謝と敬意、これまで背負ってきた秘密、そして遠いブルゴーニュで自分の帰りを待つ人への、まだ形にならない想い――そのすべてが、静かに重なり合っていた。
窓の外では、山の稜線に月が静かにかかり、遠くの街灯りがいつまでも揺れ続けていた。指輪をそっと箱へ戻し、私は静かに目を閉じた。
私にはまだ、果たすべき役目がこの胸の内に残っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
物語は中盤に差し掛かりました。少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
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