第八章 山の宮殿にて
登場人物紹介
エレオノール・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ公爵家の令嬢。
マリー
エレオノール付きの侍女。
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
サヴォイア公国の公世子。
ルグラン・マルリーニ
サヴォイア公国の西側国境警備隊長。
ロレンツォ・ディ・サティ
サヴォイア公国の宰相。
イラスト:AI使用
サヴォイアの宮殿は、ブルゴーニュの屋敷とはまるで違う色彩を纏っていた。石造りの壁は白く、窓という窓から山々の稜線が見渡せる。朝の光が差し込むたびに、壁に掛けられた織物の金糸が細かく瞬くのを、私は自室の椅子に腰掛けたまま、しばらく見入っていた。
「お嬢様、こちらの宮殿の暮らしにも、少しずつ慣れてきましたか。」
荷解きを手伝いながら、マリーが尋ねてきた。
「ええ。……まだ、廊下を一人で歩くと迷ってしまうわ。マリーほどじゃないけど。」
「お嬢様に言われたくありません。でも、ブルゴーニュのお屋敷の三倍はありそうな広さですものね。」
マリーの言葉に私は小さく笑った。窓の外では、雪を残した山肌が朝日を受けて淡く色づいている。あの日国境で目にした景色が、今はもう日常の一部になろうとしていた。
朝の身支度を終えると、まず案内されたのは宮殿の東に面した小さな礼拝堂だった。ステンドグラスから差し込む光が、石床に色とりどりの模様を落としている。侍女長はこれから覚えるべき宮廷の作法を、一つ一つ丁寧に説明してくれたが、その多くは耳慣れない言い回しで私は何度も同じ質問を繰り返す羽目になった。
「公世子妃となられる方は、毎朝この礼拝堂にて祈りを捧げるのが習わしでございます。エレオノール様も、将来の公世子妃となられるお方なので、お見知りおきを。」
「畏まりました。……覚えることが多くて、少し目が回りそうです。」
「どなたも、最初はそう仰います。ですが、エレオノール様は、他国からいらした方の中でも、随分と早くこの地に馴染んでいらっしゃると評判ですよ。」
その言葉に、私は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。見知らぬ土地で、見知らぬ作法に囲まれて暮らすことへの不安はまだ完全には消えていなかったが、周囲の気遣いがその重さを少しずつ和らげてくれていた。
――
サヴォイアの宮殿に身を寄せてから数日が過ぎた頃、ヴィットーリオ殿下は毎朝のように私の部屋を訪ねてくるようになった。正式な婚礼はまだ先のことだったが、両国の縁を早くに深めたいという殿下たっての願いから、私はこうして一足先に、この宮殿での暮らしを始めさせてもらっていた。
「今日は、少し遠くまで馬を走らせてみませんか。約束していたでしょう、乗馬道のことを。」
その提案に、私は素直に頷いた。用意された栗毛の馬は、ブルゴーニュで乗り慣れていたものよりも一回り大きく、最初は手綱を握る手に力が入った。だが、隣を並んで走る殿下の様子を見ているうちに、次第に肩の力が抜けていった。
「殿下は、本当に、お上手ですね。」
「幼い頃から、この山道を駆けて、育ちましたので。……あなたも、じきに慣れます。私が、隣で見ていますから。」
その一言に、思いのほか安心して、私は手綱を握る手を少しだけ緩めた。風を切って進む馬上から見下ろす谷は、ブルゴーニュの平坦な田園とはまるで違う表情をしていた。切り立った岩肌の合間に、小さな村の屋根が点々と覗いている。
ふと村に目を凝らすと、村の中を進む荷馬車に天秤の紋章が見えた。私は進む足を緩め、その村について殿下に尋ねた。
「あちらに見える村は、何という名の村ですか。」
「サン・ジェルヴェという小さな村です。羊毛と、それから山向こうから来る荷が集まる場所で――」
殿下がそこまで言いかけたところで、遠くから角笛のような音が短く響いた。護衛の一人が馬を寄せ、殿下に何事かを耳打ちする。殿下は小さく頷くと、私の方へ向き直り、いつもより幾分か静かな声で言った。
「……すまない。国境警備の者から、少し報告がありましてね。今は詳しくお話しできませんが、あなたを不安にさせるようなことではありません。」
「殿下がそう仰るなら、心配は致しません。ただ、お役目が大変そうで……。」
「これも、あなたと安心して暮らせる国を守るための務めです。……さあ、宮殿へ戻りましょう。少し風が出てきたようだ。」
その言葉に、私は素直に頷いた。国境の警備を厳しくしているのも、こうして真剣な顔を見せるのも、すべてはこの地を、そしてこれから共に築く暮らしを守るためなのだろう。そう思うと、先ほどの角笛の音も、殿下の誠実さの証のように感じられた。
宮殿へ戻る道すがら、殿下は何事もなかったかのように、幼い頃に落馬して泣いた話や、飼っていた老犬の話を語って聞かせてくれた。その屈託のない声を聞きながら、私は先ほどの緊張した横顔と、今の朗らかな笑顔との間にある、殿下なりの気遣いの形を、静かに胸に留めた。
――
宮殿での日々は、驚くほど穏やかに流れていった。図書室で殿下と本を読み、庭園を散策し、時には共に楽団の演奏を聴く。殿下の気遣いは、ブルゴーニュにいた頃には知らなかった種類の温かさを持っていた。
図書室の窓辺には、山から吹き下ろす風が時折入り込み、開いた本のページを静かに揺らした。殿下は時折、私の横顔を覗き込むようにして、何かを確かめるような視線を向けてくることがあった。
「そのように見つめられると、落ち着きません。」
「失礼。……あなたが本を読む横顔が、あまりに穏やかで、つい見入ってしまいました。」
窓の外をながめると、庭師が冬の寒さから守るように、花壇の土へ丁寧に藁を敷き詰めている姿が見えた。
「あちらの花壇も、春には見事に咲くのでしょうか。」
「ええ。母が特に大切にしていたもので、ラナンキュラスといいます。まるで薔薇のように幾重にも花びらを重ねた、色とりどりの花が咲くのです。……その頃には、あなたと共に眺められることを楽しみにしています。」
殿下はそう言って、愛しむように私の顔を見つめていた。
—―
「これを、あなたに。」
ある午後、殿下が差し出したのは、ラナンキュラスをあしらった、硝子細工の髪飾りだった。赤い炎をそのまま閉じ込めたような、情熱的な赤色をしている。
「あまりに美しくて……。私には、勿体ないくらいです。」
「そんなことはない。あなたによく似合うと思って選んだのですから。」
鏡の前でそれを髪に留めてもらいながら、私は自分の頬が自然と緩むのを感じていた。ルシアンとの日々にも、こうした穏やかな時間はあったはずだった。だが、この人と過ごす時間には、あの頃とは違った安らぎがある。それが何によるものなのか、私はまだ、うまく言葉にできずにいた。
「エレオノール嬢は、故郷が恋しくはありませんか。」
「……正直に申し上げれば、少し。ですが、殿下がこうして気にかけてくださるおかげで、思っていたよりずっと早く、この地に馴染めている気がします。」
「それは、良かった。……あなたが笑ってくれることが、私にとって何より嬉しいのです。」
その言葉に嘘の色はなかった。少なくとも、この宮殿で交わされる言葉の中で、殿下のそれだけは、いつも真っ直ぐに私の胸へ届いた。
その言葉に私は素直に頷いた。誰かと未来の約束を交わすことに、これほど穏やかな心地を覚えたのはいつ以来だろうか。
――
宮殿の西棟には、外交や財務を司る文官たちの執務室が並んでいる。本来、公世子の婚約者になったばかりの私が立ち入るような場所ではなかったが、ある日の午後、迷い込むようにその回廊をゆっくりと歩いたことがあった。壁に掛けられた地図――サヴォイア公国と他国との西側の国境線が描かれたそれを、私はしばらく立ち止まって見つめていた。
「エレオノール様、こちらは……。」
通りかかった文官の一人に声をかけられ、私は慌てて微笑みを作った。
「申し訳ございません、庭園に行くところで迷ってしまって。宮殿はまだ、覚えきれないところが多くて。」
「それは失礼いたしました。庭園でしたら、こちらの階段を下りて……。」
案内される背中を追いながら、私は先ほど目にした地図の、フランシュ・コンテとサン・ジェルヴェの一角に朱色の印がいくつも打たれていたことを、静かに記憶の奥へ仕舞い込んだ。ただ、天秤の紋章を背負った荷馬車のことが、頭の片隅から離れずにいたのは確かだった。
その晩、夕食の席で殿下に西棟のことを軽く尋ねてみた。
「先ほど、西棟の方まで迷い込んでしまいました。……随分と、立派な地図が飾られているのですね。」
「ああ、あれは国境警備のための地図です。近頃、あの一帯の治安が思わしくないもので、文官たちが頭を悩ませているのですよ。」
「治安が……。何か、危険なことでも。」
「詳しくは私もまだ調べさせている最中でしてね。宰相と警備隊長が中心となって対応を進めてくれているので、私も報告を待っているところです。……あなたが心配するようなことにはなりません。私が、必ずこの国を守りますから。」
その言葉には、迷いのない誠実さがあった。殿下自身、あの地図の異変を案じ、事態の解明を宰相に託していることが伝わってくる。私はそれ以上を尋ねず、ただ黙って給仕された皿に視線を落としていた。
――
夜会の席では、サヴォイアの貴族たちに一人ずつ紹介された。中でも、宰相を務めるロレンツォ・ディ・サティという初老の男は、他の誰よりも柔らかな物腰で私に近づいてきた。
「エレオノール様、この度はご婚約、誠におめでとうございます。殿下も、これで随分と穏やかなお顔をされるようになりました。」
「恐れ入ります。……こちらこそ、皆様に温かく迎えていただき、感謝しております。」
「何かご不便がございましたら、いつでもお申し付けください。フランシュ・コンテ方面の商人とも、私は多少の縁がございますので、故郷の品を取り寄せることもできましょう。」
その言葉に、私は柔らかく礼を返しながらも、内心では小さな引っ掛かりを覚えていた。フランシュ・コンテの商人という言葉が、なぜかあの荷馬車に描かれていた紋章と、静かに重なって聞こえたからだった。
「それは、心強いお申し出です。……ぜひ、また折を見て伺わせてください。」
当たり障りのない返答をしながら、私は宰相の目の奥をほんの一瞬だけ見つめた。そこには柔和な目に隠れて、なにかを探るような光が入り混じっていた。
「エレオノール様、宰相閣下とは何かお話でも。」
近くにいた年若い侍女が、興味深そうに尋ねてきた。
「……いいえ、ただの世間話です。とても物腰の柔らかい方ね。」
「ええ、宮廷の誰もが認める、如才のないお方です。殿下からの信頼も厚くていらっしゃいます。」
その評判を聞きながら、私はふと、あの柔らかな笑みの奥にあるものをもう少し見極めてみたいという衝動に駆られた。それが何のためなのか、自分でもまだはっきりとした答えを持っていなかった。
――
その夜、机の上には殿下から贈られた硝子の髪飾りが、燭台の光を受けて静かに輝いていた。 日記帳を開く気にはなれず、代わりに私は白紙の便箋を一枚取り出した。
書き始めたのは、他愛のない近況を伝える、父への手紙だった。宮殿の暮らしのこと、殿下の優しさのこと。そして最後に、便箋の隅にフランシュ・コンテとサン・ジェルヴェという地名を書き記していた。
しばらくその文字を見つめた後、私はそっとペンを置いた。窓の外では山の稜線に月がかかり、遠くの街灯りがいつまでも静かに瞬き続けていた。
書き終えた手紙を封筒に収めながら、私はふと、自分がこの数日でどれほど多くのことを、無意識のうちに目に留め、記憶に留めてきたかに気づいた。しかし、ただ殿下の誠実さだけは疑う余地のないものとして、確かに私の中にあった。
――
封をした手紙を手に、私は寝支度を整えに来たマリーへそれを託した。
「明日の早馬で、父上へ届くように頼めるかしら。なるべく早く。」
「かしこまりました。……お嬢様、この頃、夜遅くまで起きていらっしゃること、増えましたね。」
その指摘に、私は一瞬だけ言葉に詰まった。マリーの声には咎める色はなかったが、それだけに、かえって胸の奥を静かに突かれたような心地がした。
「……そうかしら。宮殿の暮らしにまだ慣れないだけよ。マリーは?」
「私の方はもう大丈夫ですけど。でも無理をなさらないでくださいね。お嬢様がお倒れになっては、殿下も悲しまれます。」
マリーの言葉に、私は素直に頷いた。だが、寝台に横になってからも、頭の中では、あの地図に打たれた朱色の印と宰相の柔らかな声とが、いつまでも交互に浮かんでは消えていった。殿下の誠実な横顔だけが、その間で揺るぎない光のように静かに残り続けていた。
窓の外では、山を渡る風が微かに戸を鳴らしていた。その音に耳を澄ませながら、私はいつしか浅い眠りへと落ちていった。しかし夢の中でさえ、あの天秤の紋章が何度も脳裏をよぎっていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
物語は中盤に差し掛かりました。少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
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