無計画ですが、何か?
「……まずは王都を出るか」
そう言ったものの、俺はすぐに足を止めた。
ーー問題があるのだ。それはそれは大きな問題が。
俺は、今この瞬間、家出を決意したばかりの十二歳児である。
当然、旅支度などしていない。
金もない。
食料もない。
着替えもない。
地図もない。
ついでに言えば、王都の外を歩いた経験もほとんどない。
あるのは、儀式用のやたら上等な服と、隣にいる白銀神狼だけ。
……いや、戦力だけなら過剰なくらいあるな。
神殿の扉の向こうでは、まだ騒ぎが続いているようだった。
父の声。
兄たちの声。
貴族たちのざわめき。
神官たちがそれを押しとどめる声。
どうやら神官長が壁になってくれているらしい。
あの老人には、あとで礼を言うべきかもしれない。
……いや、まあ、もうここに戻る気はないのだけれど。
時間はあまりない。
父が本気で俺を連れ戻すつもりなら、すぐにアズラエル家の騎士を動かすだろう。
神官長が庇ってくれている間に、この場を離れなければならない。
「急ぐぞ、ハク」
俺はハクの背に手をかけた。
「お前の背中に乗せてくれ」
俺がそういうと、ハクはすぐに身体を低くした。
俺はハクの背にまたがった。
白銀の毛が、冬の風から俺を守るように包み込む。
とても温かい。
この温もりだけが、今の俺にとって確かなものだった。
その姿を見て、周囲の貴族たちがざわめいた。
神獣が人に従っている。
しかも、その相手は落ちこぼれと笑われていた俺だ。
彼らの俺を見る目が変わっていくのがわかった。
もしこれが前世なら、即座に動画を撮られて拡散されていただろうな。
この世界にスマートフォンがなくてよかった。
「レオン様!」
背後から若い神官が走ってきた。
俺は振り返る。
先ほど神官長の後ろに控えていた青年だ。
息を切らしながら、青年は小さな布袋を差し出してくる。
「神官長より、これを預かっております」
「これは?」
「聖印と、通行証です。これは、神殿の保護下にある従魔契約者であることを示すものです。これさえあれば、少なくとも、他の街でいきなり拘束されることはありません」
俺は布袋を受け取った。
「それと、神官長から伝言です」
「はい。何でしょう」
「“神獣に選ばれた意味を、旅の中で考えなさい”とのことです」
「……わかりました。神官長にお礼を伝えてください」
青年神官は目を丸くした。
そんなに驚くことか?
いや、俺が礼を言うのはそんなに珍しいのか。
……珍しいのだろうな。
俺は神官にもらった通行証を握りしめながら、王都の大通りへ出た。
***
ーーさて。
まずは王都を出る。
その方針は変わらない。
だが、問題はその後だ。
金がない。荷物がない。食料がない。着替えもない。
家を出るには勢いが必要だが、生きていくには準備が必要である。
ハクが地面を強く蹴った。
「うわっ」
俺は思わず情けない声が出る。
「神獣だ!」
「白い狼!」
「子どもが乗っているぞ!」
「どこの貴族だ!?」
「ハク、待て! このまま王都を突っ切る気か!」
<わふっ!>
「返事だけはいいな、おまえ!」
ハクは嬉しそうだった。
明らかに速度がおかしいけれど、完全に散歩のつもりなのだろう。
馬車が慌てて道を空ける。
露店の布が風で舞い上がる。
俺はハクの首元の毛を必死につかんだ。
まずい、これは目立つ。
いや、今さらだが、目立ちすぎる。
とりあえず、人気のない路地に入り、俺はハクの背から降りた。
「ハク」
<わふ>
「おまえ、小さくなれないか?」
ハクは首をかしげた。
「その姿のままだと目立ちすぎる」
<わふ?>
「……いや、だからさ、さっきの仔犬の姿になって欲しいんだよ。できるだろう?できないのか?」
俺は両手で、縮むような仕草をした。
「こうだ、こう!」
ハクは数秒ほど俺を見つめ、それから理解したように、得意げに鼻を鳴らした。
次の瞬間、白銀の光がハクの体を包む。
雪の粒が舞うような輝きの中で、巨大な狼の姿がするすると縮んでいった。
あれほど威圧感のあった体は、見る間に小さくなり、やがて俺の膝ほどの高さになる。
そこにいたのは、最初に召喚陣から飛び出してきた時と同じ、白くて丸い仔犬のような姿のハクだった。
ふわふわの毛。短い足。ぴんと立った耳。額の聖月紋だけが、淡く光っている。
「……便利だな、おまえ」
<わふっ>
「……というか、まずは金だよな」
<わふ>
「なあ、ハク……。お前、金持ってたりするか?」
ハクは首を傾げた。
「だよな」
<わふっ>
「元気よく返事するな。余計に虚しくなる」
その時、路地の先に一軒の店が見えた。
古びた木の看板。天秤と金貨の絵。
質屋か、古物商だろう。
俺は胸元のアズラエル家の紋章入りのブローチに触れた。
儀式用の装飾品だから、そこそこの値はつくはずだ。
「……もう必要ないしな」
俺は店の扉を押し開けた。
からん、と鈴が鳴る。
店内は薄暗く、革と金属と古い木材の匂いがした。
棚には燭台、剣の柄、古い指輪、宝石箱らしきものが並んでいる。
奥のカウンターにいたガタイのいい男が、こちらを見た。
「坊ちゃん、迷子かい?」
「いいえ。商談に来ました」
男の眉が動いた。
「商談だと?」
俺はブローチを外し、カウンターに置いた。
「これを買い取ってほしいんです」
男の目つきが変わった。
さっきまで子どもを見る目だったのが、一瞬で商人の目になる。
男はブローチを手に取り、裏側の刻印を確認した。
「……これは」
「余計な詮索はなしでお願いします」
「いやいや、そうはいかない。だって、これはアズラエル公爵家の――」
「盗品ではありません。俺の物です」
「……なんだって?……坊ちゃん、名前は?」
「レオン」
「家名は?」
「アズラエルですが、その名前は、今捨ててきたところです」
男は黙って、俺の足元にいるハクを見た。
ハクは愛想よく尻尾を振っている。
男はしばらく考えたあと、ブローチをカウンターに置いた。
「……金貨八枚」
「話になりません」
「この銀細工は、王都でも指折りの細工師が施した一級品です。最低で銀貨三十枚にはなるはず。もし、本当に金貨八枚というのなら、あなたは今すぐ店を畳んだほうがいい」
男が、ぽかんと俺を見た。
「……坊ちゃん、本当に子供か?」
「失礼ですね。見ての通りの子供ですよ」
前世での年齢を足せば五十歳になるのだが、そこは黙っておく。
男はふっと笑った。
「よし、金貨十五でどうだ?」
「金貨三十枚です」
「……二十!外套と地図付きでどうだ!」
「金貨三十」
「……坊ちゃん……よし、わかった。二十五!外套と地図付き!」
「いいでしょう。取引成立です」
店主の男から金貨二十五枚と外套と地図を受け取り、俺はブローチを渡した。
俺は礼服の上から外套を羽織る。
これで少しは貴族らしさが隠れただろう。
「では、これで失礼します」
店主の男は、少し疲れたような表情で、「きぃつけてな」と送り出してくれた。
***
俺とハクが店を出たちょうどその時、遠くで鐘が鳴った。
神殿の鐘だ。
そして、背後から騒がしい声が響いてきた。
「黒髪の少年と白い大きな獣を探せ!!」
思ったよりずっと早いな。
そう思った時、兵士の一人と目が合った。
「おい!そこの少年ーー」
俺は一瞬だけ考えた。
言い逃れは難しいだろうし、王都の門まで走り抜けるには距離がある。
ーーなら、答えは一つだ。
「ハク、大きくなってくれ!さっきみたいに、散歩しよう!」
”散歩”という単語に、ハクの目が、ぱっと輝いた。
ーーしまった。
こいつ、待ってましたと言わんばかりの顔をしている。
次の瞬間、白銀の光が弾けた。
俺の足元にいた白い仔犬が、一瞬で巨大な神狼へと変わる。
俺の抗議もむなしく、ハクは俺の襟首を軽く咥え、そのまま自分の背に乗せた。
「おい、ハク!もう少し丁寧に頼むよ……」
<わふっ!>
ハクが地面を強く蹴り、風が爆ぜる。
兵士たちの声が近づく。
「いたぞ!」
「神獣だ!」
「止めろ!」
散歩が大好きなハクを、止められるはずがない。
しかも、こんなに大きいのだから。
ハクは裏通りを抜け、門へ向かって一直線に駆けた。
俺は必死に首元の毛を掴む。
王都の門が見えてきた。
門の前は、商人の荷馬車や旅人で混み合っている。
門番たちがこちらを見て、目を見開いた。
それも当然だ。
白銀の神狼に乗った少年が、路地から飛び出してきたのだからーー。
「……お、おい!そこの大きな狼と少年ーー止まれ!!」
門番が槍を構える。
だが、ハクは止まらない。
散歩中の興奮状態である。
白銀の光が足元に集まる。
次の瞬間、ハクがこれまでになく強く地面を蹴った。
体が宙に浮く。
門番も、荷馬車も、通行人も、石畳もーーすべてが下に見えた。
「……おいおいおいおい!」
ハクが門で人々を飛び越えた後も、背後では騒ぎ聲が聞こえていたが、もはや追いつける距離ではない。
王都の門がどんどん遠ざかっていく。
ハクの脚の速さに全てが置き去りにされていく。
腹が鳴る。
そういえば、朝から何も食べていない。
俺は一度だけ振り返った。
なんだか胸がすっと軽くなった。
俺はハクの背中で、知らず笑っていた。
なぜだろうな。
計画性のかけらもなく、こんなに無茶苦茶なことをしているはずなのに、なぜかーー無性に清々しくて笑えてくる。
前世の俺がこの状況を見たら、きっと鼻で笑っただろう。
こうして俺とハクの、無計画すぎる異世界放浪生活が始まったのだった。




